澄んだ風が鼻孔を通じて肺まで突き抜けていく感覚は、人間だった頃のものと何ら変わらない。
 だが、それもあくまで記憶という不確かな情報を頼りにして下している不鮮明な薄靄だ。
 ……人は、忘れる生き物である。人は、毎日何十、何百という思い出を、生きた証を忘却しながら生きている。
 仮に自分では覚えているつもりだったとしても、その脳細胞に打ち立てた標識が、元通りの形をしているとは限らない。
 そんな哲学者めいた思考に浸りながら聖杯戦争初日の朝を過ごす少女の名を、アンヌ・ポートマンといった。
 アンヌが人間という生物の枠を外れ、血に縛られた吸血種の一体となったのはこの冬木市に召喚されるよりも前の事だ。
 自分の頭の中にある思い出は、果たして本当に正しい形をしているのか。
 人間だった頃に吸った空気は、本当にこんな味や匂いをしていたろうか。
 解らない。確かな事など何一つ、アンヌには解らなかった。彼女にあるのは――ただ、生きたい。生きてあの街に戻りたい、そんな願いだけ。

 幸福な一日を予感させる爽やかな朝であったが、正直なところ気分は極めて暗澹としている。
 何もそれは、彼女が人並み外れて臆病だからではない。寧ろ平常通りに過ごせる方が異常なのだと断言出来る。
 アンヌの心を曇らせているのは、ひとえに昨夜の"通達"だった。蒼眼のルーラーが初めて明かした聖杯戦争の新たなルール、それが返しの付いた針みたいに心に食い付いて離れない。

 曰く、この聖杯戦争は三日間の刻限を持って強制終了する。
 空から墜ちてくる人面の月。それが、身も蓋もない物理的な破壊力で冬木の全てを破壊し尽くすというのだ。
 舞台も、マスターも、サーヴァントも。一つの例外もなく押し潰して、此処までの戦いを一から十まで無為にする。
 なんでそんな大事なことをもっと早く言ってくれなかったのかと問い質したくなったアンヌを、誰も責められまい。……問い質せたとして、どうするのか、という話ではあるが。
 兎角、聖杯戦争はこれで絶対に長引かない事が確約された。誰もが早期決着に向けて努力を見せるだろうし、仮にそうならずとも強制的に早期決着させられるのだから意味がない。
 アンヌのような、戦いに比較的消極的なマスターにとってはまさに最悪の展開と言って良かった。
 彼女がどれだけ優しく常識的な娘で、聖杯戦争に抵抗を抱いていたとしても、世界は彼女に合わせてはくれない。大いなるルールと誰かの都合の下、いつだって世界は機械的だ。
 アンヌ・ポートマンという人間が生まれ育ち、縛血者(ブラインド)へと生まれ変わったフォギィボトムという鎖輪(ディアスポラ)も、結局は背後で大きな力によって糸引かれていた。それと本質は同じだ。アンヌという少女の存在など、聖杯戦争の全体像で見ればごくごくちっぽけなもの。予選を勝ち抜き生き残った二十弱のマスターの内の一人という役でしかない。

 自分は、褒められたマスターではない。間違いなくその逆、落第点の駄目マスターだ。
 アンヌには、その確信があった。何故ならこれまで、アンヌは一度も戦場に立っていない。
 身を守る戦いも全てバーサーカーの好意に甘え、まるで普通の学生のように安穏とした日常を過ごしてきた。
 仮にこの聖杯戦争に観客のような存在が居たなら、無能の謗りを免れ得まい。救いようがあるとすれば、アンヌ自身、自分の落ち度をきちんと自覚している事だろうか。

“このままじゃ、ダメだよね……”

 無人の校庭で樹に凭れ掛かりながら、吸血種の少女は唇を噛む。
 自分は確かに、自分自身の意思で生きたいと願った。なのに此処まで、何も出来ていない。そう、何も。
 前線に出ても足手まといになるだけなんて言い訳はもちろん通じない。戦えなくたって、出来る事はある筈なのだ。
 自分などの召喚に応じ、滅ぼされかけていたところを救ってくれた優しい鬼面――彼の役に立てる、何かが。

 遠くの方で朝練に勤しむ運動部の掛け声が聞こえる。
 不意に、その声が唐突に遠のくのをアンヌは感じた。
 それを追って体から、一瞬ながら確かに平衡感覚が抜け落ちる。

「っ……!」

 たたらを踏んで樹の幹に手を付きバランスを保つアンヌだったが、その顔には焦燥の色が浮いていた。
 これはそもそも、聖杯戦争以前の問題だ。アンヌが"成った"種族に永遠に付き纏い、誰もが折り合いを付けていく習慣。
 生命活動を続行する上で必要不可欠なとある活動を意図的に避けてきた――これは、そのツケとして齎された不調だ。

 水を飲まず、食べ物を食べなければ、生物は当然弱る。飢えているだけならまだ良いが、いずれは生命を保つ余力すら尽き果てて、痩せ細った屍を晒そう。
 吸血鬼……縛血者もそれは同じ。食べ物と水が、人間の血液という代替物に置き換わっただけに過ぎない。
 縛血者は生命活動の全てを、体内に蓄えた血の残量に依存している。十分な血液さえあれば手の施しようがないような重傷もすぐに癒せるし、権能である賜力(ギフト)の力も増幅される。だが逆に、血が欠乏していれば縛血者は目に見えて弱体化する。今のアンヌは、その弱体状態にあった。
 血を吸う手段は知っている。だが、それを行う度胸がない。人間から化物への一歩を踏み出す勇気が、アンヌにはない。
 その優しさと常識的な価値観こそが、今の現状を招いていた。どれだけ先延ばしにしたところで、いつかは直面しなければならない問題である。そう割り切って縛血者の通例に倣えない辺りがアンヌという少女の美点であり、弱さだった。聖杯戦争の舞台では確実に足を引っ張る事になるだろう、重大な欠陥といってもいい。

 ……あの聡明なバーサーカーの事だ。彼は既に、自分が日を増す毎に弱ってきているのを感知しているに違いない。アンヌは、そう思っていた。
 解っているのに何も言ってこないのは、多分自分を真に慮ってくれているからなのだろう。
 アンヌのバーサーカーは、実に"人類史に名高き英傑らしい"男である。
 揺るがぬ鉄の意思に鋼の武力、人の視点に留まる者では窺い知れない何処かを見通す慧眼。アンヌはこれまで、彼と言葉を交わす度に思わされてきた――"ああ、この人と自分とは、根本からして別な生き物なのだ"、と。
 強く、頼もしい人。アンヌの事をこれまで散々助けてくれた、フォギィボトムの寡黙な縛血者を思わせる安心感。だが、彼に対し憧れの感情を抱いた事は真実一度もない。うまく言えないが、バーサーカーはアンヌにとってそういう存在ではなかった。例えるなら、本の中のキャラクターがそのまま抜け出てきたような……とにかく、現実感に欠けた救世主なのである、バーサーカーは。こんな表現は彼に失礼だと思うので、余りしたくはないのだったが。

 自分が指示したのでは意味がない。
 己で選び、乗り越える。それでこそ、あんたの人生を築く礎になるのさ。
 そんな言葉が脳内で再生された。何とも、あのバーサーカーが言いそうな台詞だ。
 思わず、胸が詰まる。わたしなんかには過ぎたサーヴァントだと、つくづくそう思う。

 生きたい。帰りたい。その思いに誓って偽りはなく、どうしようもなく切に切に、アンヌは帰還を望んでいる。
 おかしなものだった。人間に戻りたいと願うどころか、夜の化物達が変わらず蠢く街に戻りたいだなんて。
 自分でもそう思うが、心は変わらない。そしてその訳は、単に聖杯を巡って殺し合う気になれないからという、月並みなものだけでもないのだ。
 もっと複雑で、余人には理解し難いもの。淡い想いと心の深い部分に今も根付いたままの歪みめいた憧憬が、楔となってアンヌをあの霧都に縛り付けている。
 縛血者のいない平穏な街。洗礼を受けなかった自分という当然の理想を、抱かせないほどに。

「……帰ろうかな」

 穂群原学園高等部、その校舎を見上げて、ぽつりと少女はそう零した。
 まだ授業どころかHRも始まっていない時間であるにも関わらず、だ。
 アンヌは日本などという国とは縁もゆかりもない生まれだが、この世界では留学生のロールを与えられている。
 とてもじゃないが、今は授業なんて受けていられる気分ではなかった。
 明確になった死の刻限、山積みの問題、そして無力で無価値な己への自己嫌悪。
 積もり積もった何もかもが、ついこの間まで日だまりの住人だった只人を攻め立てていた。

 足元に置いた鞄を拾い上げ、そのまま踵を返す。
 ――と、その時だった。アンヌを呼び止める、老いた男の声が響いたのは。

「いかんなあ」

 自分の現状を咎められたような気がして、思わずアンヌはびくりと体を反応させる。
 慌てて声の方向に視線を向けると、そこに立っていたのはいかにも人の良さそうな、腰の曲がった老爺であった。
 髪も髭も老いて真っ白。人生の酸いも甘いも噛み分けてきた事が一目で窺える。
 その顔に、アンヌは覚えがあった。目を白黒させる彼女の姿を見て、老爺はおかしそうに笑う。

「いかんぞ、ポートマンくん。こんな朝っぱらから早くも学生の本分を放棄するようでは」
「理事長先生――」

 ポートマンと、老爺……穂群原学園の理事長を務めるその男は、アンヌをそう呼んだ。
 驚くべき事にこの男は、一度も面と向かって話した事のない生徒の名を記憶していたらしい。
 アンヌが留学生という学園にとって特殊な身の上である事を鑑みればそう不思議な話でもないが、やはり驚きは少なからずある。

「ご、ごめんなさい」

 アンヌはぺこりと頭を下げながら、記憶の中の"穂群原学園理事長"のデータを掘り起こす。
 名前は、確か――天願。天願、和夫。聖杯によって最低限生活に必要な知識が与えられているとはいえ、まだ日本人の名前を覚えるのは難しいアンヌだったが、テンガン、という響きが独特だったから偶然彼の名については記憶していた。
 問題なのは、彼が近くに居た事に話しかけられるまで全く気付かなかったという事である。
 前後不覚もいいところ。相手が理事長ではなく聖杯戦争の参加者だったならと考えると、背筋が冷える思いだった。
 そんなアンヌをよそに、天願は相変わらず人の良さそうな微笑みを浮かべている。学校を今まさにサボろうとしていた生徒に対し声を荒げもしない辺り、かなり温厚で、お硬い思考とは無縁の人物であるようだ。

「しかし、君のような模範生が珍しい。明日は雨が降るやもしれんな」
「わ、わたしの話……そんなに先生方の間でされてるんですか?」
「ある程度は、な。ポートマン君は気恥ずかしいじゃろうが、学校にとって留学生とは希少な存在よ。
 生徒も教師も等しく、君のような留学生には注目しておる。ふ、そんな顔をせんでもよい。此処で見た事は、ちゃんと内密にしておくとも」
「あはは……ありがとうございます」

 言われてみれば確かにそうだ。海外からわざわざ地方の、聞こえは悪いが、余り有名ではない地方の学校に転入してきた留学生なんて存在が、周囲の注目を浴びない筈がない。
 そう考えると急に不安になってくる。今まで自分は、何か迂闊な真似をしてこなかったろうか? ……考え始めると何もかもが迂闊だったように思えてきて、陰鬱さが余計加速した。

 そこでふと、アンヌは気付いた。
 目の前の老人が、じっと自分の眼を見つめている事に。
 年長者独特の気迫に、思わず少女は気圧され一歩後退りをする。
 そんなアンヌに対し、天願は全てを見透かしたように、ゆっくりと口を開いた。

「――悩んでいるな、ポートマン君」
「……え?」
「一線を退いたとはいえ、これでも教職者じゃ。思い詰めている生徒はな、目を見れば解る」

 蛇に睨まれた蛙のよう、という比喩がこれほどよく合致した状況はそうあるまい。
 アンヌは顔を強張らせて、動揺を取り繕う事も出来ずに立ち尽くすしかなかった。
 そんな彼女の様子は言うまでもなく無言の肯定に他ならず、天願の"教師の勘"が正解であると暗に示してしまう。

 ――どうしよう。アンヌがこの状況で抱いた感情は、焦りであった。
 適当な事を言ってやり過ごそうとも思ったが、目の前の老人は、とても嘘や誤魔化しが通じる相手とは思えない。
 かと言って自分の抱えている"問題"は、人に話していいものではないのだ。一度話せば最後、その人の平穏を完膚なきまでに破壊してしまう事請け合いの爆弾。
 尤も……どうせ遅かれ早かれ無に帰るまやかしといってしまえば、それまでではあるのだが。

「そう怯えた顔をするな。似合わんぞ、君のような娘には」
「……、……」
「話したくないのであれば、それでも構わんさ。無理には問わぬよ、わしも」

 だが、と天願は続ける。

「先程君を見つけた時、わしはこう思ったのじゃ。"このままでは危険だ"、と」

 そう語る彼の瞳は、アンヌではなく――どこか遠く、もう戻る事のない何かを見つめているようだった。
 天願の正確な年齢は定かではないが、恐らく七十は過ぎているように見える。
 七十年。それは超越者の目線にすればごく短い時間だが、人間にとっては殆ど一生分といってもいい時間だ。
 人間の一生は、山と谷のみでは言い表せない。小さな段差があり、時に穴があり、足を貫く棘がある。
 まして天願は教職者。自分のみならず他人の人生までもを背負い、導いてきた身だ。
 小娘一人の心の翳りも見透かせぬほど、天願は耄碌してはいなかった。

「わしは――道を踏み外す子供、というのを嫌になるほど見てきた。
 ……そう、本当に嫌になる程な。そして、多くのものを失ってきた。
 さっきの君は、彼らと同じような目をしておったよ。取り返しの付かない道へと外れる、その直前の目をしていた」

 アンヌは、何も言えない。
 彼の言葉を、否定出来なかった。
 何故なら彼女はもう、とっくに道を外れている。
 人の体を失い、忌むべき夜の住人の一人と成り果てた。
 そして今は眼前の天願が知らない、命を懸けた戦いに巻き込まれて――
 何か、自分に出来ることを必死になって探していた。探そうとしていた。
 その矢先にこんな言葉を投げ掛けられたのだ、どうして平静を保っていられようか。

「くれぐれも早まらない事だよ、ポートマン君。
 人生というのは、君が思っている以上に広く開けているものだ」
「……わたし――」 

 聖杯戦争の事は、当然ながら話せない。
 話せば彼だけでなく、自分の為に戦ってくれるバーサーカーにも迷惑がかかる。
 そもそも、この場におけるアンヌ・ポートマンが取るべき最適解は天願をやり過ごし、強引にでも彼から離れる事の筈。
 それが出来ない辺り、彼女はやはりマスターとして不適格の未熟者であるのだろう。
 気付けばアンヌは口を開いて、つい数分前まで話した事もなかった老人へ、自分の思いの丈を絞り出していた。

「わたし……何も、出来ていないんです」

 ――無力。アンヌの聖杯戦争は、その一言に尽きる。

「わたしの為に頑張ってくれる人がいて、わたしはその人に縋るしかできなくて――
 ……本当にただ、見てるだけ。わたしが願った事なのに、肝心のわたしは何も出来ないままで」
「難儀な話、じゃな」

 天願は、アンヌがどんな問題に直面しているのか深く問い質そうとはしなかった。
 その辺りはやはり、教育者としてのキャリアが長いだけはある。
 藪をつついて蛇を出し、石橋を叩いて地雷を作動させるのではなく、あくまでも理解し、背中を押すのが教師の務め。
 真に助けの手を伸ばすのは、実際に助けを求められてからでも遅くはない。
 要は、そんな状況になる前に助けられれば良いのだ。放置されたままの火種を見たなら、誰だって靴底で揉み消すだろう。やや乱暴だが、理屈はそれと同じだ。

「わしは君の抱える事情や、見据える未来がどんなものなのかは全く知らんがの。君のその感情がどんな風に成長していくかは、解るぞ」
「……それは?」
「"絶望"だ」

 絶望。月並みな単語である筈なのに、その二文字がアンヌの心に重く、重く沈み込んだ。
 それと同時に、深く納得させられる。ああ――この消えない不快感は、そういうものであったのかと。

「絶望という感情は恐ろしいぞ、ポートマン君」

 天願の声に、これまでと違う感情が介在している事に、アンヌはついぞ気付かなかった。
 この場に彼女のサーヴァントや人心に精通した者が立ち会っていたなら、その事を目敏く見抜いてみせたろう。 
 其処には0と1から成る無機質なプログラムでは有り得ない、本物の情念が籠もっていた。
 天願は知識として知っている事を語り聞かせているのではなく、その目で見、その手で触れてきたモノについて語っている。
 その意味する所に、悩める少女は辿り着けない。老獪な希望の使徒が見せた極小の隙を、まんまと見過ごしてしまう。

「決して希望を捨てぬ事だ。心に光を抱いて歩めば、いずれ道はきっと開けるとも」

 アンヌの肩に、そっと天願の手が置かれた。
 服越しにも解る皺の感触が、歩んで来た年月の違いを窺わせる。

「君は若い。まだ何にでもなれて、何でも出来る――そうした可能性、希望に満ちているのだからな」
「本当に……本当に、そうでしょうか。わたしでも何か、出来るでしょうか」
「出来るとも。わしが言うのだ、信じてみたまえ」

 呵々と笑う穂群原学園理事長の瞳には眩い意志の光が宿っており、それは英気に溢れた若者のものにも決して劣っていない。
 アンヌの抱える不安や鬱屈としたものは、たった数分の対話で霧散するほど小さなものではなかったが……然し、確かに得たものはあった。
 希望を、捨てない。心に光を抱いて歩めば、いずれ道はきっと開ける。
 言ってしまえば根拠のない精神論。にも関わらず、天願が掛けてくれた言葉を反芻すると心を覆い隠していた雲の天蓋に一筋の亀裂が入るのを感じる。
 或いはこれこそが、彼の言うところの希望というものなのか。思わず顔を上げた時には、天願理事長は既に踵を返して歩き始めていた。後は君次第だと、そう言わんばかりに。

「あ……あの――理事長先生!」

 その背中に、思わず声を張り上げる。

 老人の足が止まったのを確認してから、アンヌは勢いよく頭を下げた。

「ありがとう、ございました。わたし……頑張ってみますね」
「うむ。事情は解らんが、わしも陰ながら応援しておるよ。もし何か困った事があれば、いつでも訪ねてきなさい」

 天願はそう返したが、彼は一度としてアンヌの方を振り向かなかった。
 故に縛血者の少女は、気付けない。
 自分を激励してくれた筈の好々爺の口許に、歪んだ笑みが浮かんでいる事に。
 服の袖口から覗く右手に、形状こそ違えど見覚えのある、血のように紅い三画の刻印が存在する事に。

 何も知らぬまま、何も気付けぬまま、アンヌ・ポートマンは植え付けられた希望の灯りを寄る辺に少しだけ前を向く。
 自分が早くも狡猾な蜘蛛の糸を結ばれてしまったとは露知らず、彼女は彼女の聖杯戦争に向かって、生きてゆく。


  ◆  ◆


 穂群原学園、その近辺にて。

 憚ることもなく姿を露出させ、一人佇む鬼面のサーヴァントの姿があった。
 昔話の鬼をより無機的に歪めたような容姿は剣呑の一言に尽き、誰が見ても警戒心を抱く事請け合いである。
 彼こそはバーサーカー。アンヌ・ポートマンというマスターに召喚され、命と未来を託された硬骨漢。
 ……少なくとも、アンヌからはそう思われている存在。彼は今、自身の気配を敢えて四方に放出し、敵の到来を待つ構えを取っていた。
 聖杯戦争では珍しくない釣りじみた戦法だが、言わずもがなこれは、英霊としての実力に自信のある者でなければ単なる自殺行為に終わる危険な策だ。
 にも関わらず、バーサーカーにまるで臆した様子はない。民間人の目に付く可能性にすら、頓着していないようだった。

 当然だろう。彼はそもそもからしてそういう類の英霊だ。
 武人として名を馳せた訳ではない。只一つ、与えられた異能の力のみで数多の人命を奪った虐殺の反英霊。
 数多の兵器と星を退け、殺戮の限りを尽くして歴史に名を残した、もとい爪痕を刻んだ死の魔星こそが、このバーサーカーなのだから。
 毅然と構え、堂々と敵の襲来を待つ姿は真実超然としたそれであり、その実力の高さを否応なく理解させる。理解させられてしまう。あたかも、それが真実であるかのように。 

「――場所が悪いか、此処らにはシケた連中しか居ないのか。現状では今一つ測りかねるが、何ともつまらねえ展開だ」

 現状、当たりらしいものは皆無。
 サーヴァントの気配は愚か、使い魔の姿すら目に入らない。
 人の体を持っていたなら欠伸の一つも零している所だと、バーサーカーは退屈そうに呟いた。

 そして不意に、その声は虚空へと向く。

「あんたもそう思うだろう。なあ、"アサシン"」


 ――返事はない。だが、バーサーカーを観測している者の姿は確かに彼の近くに存在していた。


“……馬鹿な。あの間合いで、僕を感知したというのか”

 サーヴァント・アサシン。真名を、エミヤ
 中東系のそれを思わせる露出の少ない褐色肌の彼は、急ぎ鬼面のバーサーカーから距離を取る。
 神秘の秘匿になど欠片程の興味もなさそうなかの狂戦士の存在を最初に嗅ぎ付けたのは、他でもないこの男であった。
 アサシンクラスの特性である気配遮断スキルを発動させつつ偵察に向かい、観測し始め十分前後。
 不意にバーサーカーが、此方に声を掛けてきたのだ。これには、さしものエミヤも驚愕した。無理もないだろう――彼の気配遮断のランクはA+、事実上の最高値であるのだから。

“気配感知、或いはそれに類するスキル――その手の代物が有るのなら、厄介だが……”

 距離を更に開けた上でバーサーカーの様子を確認するものの、彼に移動した様子は見られない。
 自分を追うことはせずに、相変わらず待ちの構えを取って他のサーヴァントがやって来るのを待っている。
 ……交戦を望まない敵手に用はないという事なのか、それとも、何か別な策があるのか。
 思案するエミヤの脳裏に主たる男からの念話が響いたのは、まさにそんな時の事だった。

“アサシン、何か変わった事はあるか?”
“……さっきから監視していた、鬼面のサーヴァントに捕捉された可能性がある。
 今のところ仕掛けてくる様子は見えないが、いざとなれば交戦に発展するかもな。
 それで、わざわざ連絡してきたんだ。あんたの方も、何かあったんだろう”
“サーヴァントのマスターと思しき少女と接触した”

 念話越しに飛び込んできたその報告に、エミヤは「そうか」と、想定していたとばかりの淡白な返答で応じる。
 喜びも驚きも滲ませぬ返しに、念話相手のくつくつという苦笑が聞こえてきた。

“少しは驚くものと思ったが、わしもまだまだ甘いか”
“予想はしていた。"穂群原学園の理事長"というあんたのロールは、学生のマスターを感知するのに非常に長けている。
 重要なのは寧ろこれからだろう。あんたは、そのマスターをどうするつもりだ。消すのか、それとも”
“無論、暫く泳がせておくつもりじゃよ”
“らしくもないオブラートに包むなよ、爺。"利用する"だけだろう、あんたは”

 穂群原学園理事長――天願和夫。アンヌ・ポートマンを激励し、希望の素晴らしさを説いた彼こそが、この赤い暗殺者の主である。
 彼もまた、熾烈な予選を勝ち抜いて今日の日を迎えた猛者。アンヌとは違い、自らの手で敵を蹴落としてきた希望の使徒。
 彼がアンヌに遭遇したのは偶然だが、彼女の抱える物に触れたのは策略だ。疑念を確信に変える為の、いわば詰めの段階。
 前々から天願は、彼女をマスターの可能性が高い内の一人としてマークしていたのだ。

 彼は前以って、自分の手足同然に動かせる私兵を調達していた。
 何も物珍しい手段を使った訳ではない。金を握らせて雇った、ありきたりな即席の諜報員。 
 彼らを学園付近、学園内部に配置して、挙動の不審な生徒や学園関係者をリストアップ。
 天願自身も直々にそれを確認し、その中から更に怪しい人物を絞り込んできた。
 アンヌ以外にも複数名、マスターである可能性の高い生徒は存在する。
 今日は偶々アンヌの姿を見かけたから声を掛けて、疑念を確信に変えただけ。
 ――間違いなく、アンヌ・ポートマンはマスターだ。あれは只のNPCにはない、リアルな感情の揺れ動きを秘めていた。

“……まあ、いい。僕はもう少し、あの鬼面の監視をする”
“解った。ではわしは、暫く理事長室で待機しているとしよう。念の為、交戦する前には念話で一報寄越すようにな”


 アサシンからの念話は返ってこない。つくづく無愛想で、付き合いの悪い男だ。
 天願は苦笑しつつ、今しがた別れたばかりのアンヌの顔を思い浮かべる。

“すまんな、ポートマン君。心の底から、君には申し訳ない事をしたと思っている”

 天願和夫は悪人ではない。少なくとも、無辜の少女を欺いて何も感じない程"絶望"に沈んだ人間ではなかった。
 だがそれは、裏を返せば悪いと思いながら非道を働ける、そうした精神性の持ち主である事の証左でもある。
 彼はアンヌの心を弄んだ事に対するすまないという気持ちを確と懐きながら、同時に、彼女という駒を利用する算段を企てていた。

“だが――わしも止まれんのだ。君には、わしの"希望"の踏み台となって貰うぞ”

 その犠牲は無駄にしない。
 とことんまで傍迷惑な希望の光を胸に、老人は聖杯戦争を操作する。
 巣を張っては蝶を誘き寄せ、死ぬまで藻掻かせた末吸い殺す、鬼蜘蛛か何かのように。


【C-2/穂群原学園・校外/一日目 午前】

【天願和夫@ダンガンロンパ3-The End of 希望ヶ峰学園-未来編】
[状態]:健康
[令呪・聖鉄]:残り三画
[装備]:袖箭
[道具]:なし
[所持金]:潤沢。数千万円単位。
[思考・状況]
基本:聖杯を入手し、"絶望"を根絶する
1:当分は情報収集に徹する
2:アンヌ・ポートマンをマスターであると確信。利用したい。

【アンヌ・ポートマン@Vermilion-Bind of blood-】
[状態]:非吸血による不調、精神疲労(中)、僅かな"希望"
[令呪・聖鉄]:残り三画
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:高校生のお小遣い程度。
[思考・状況]
基本:生きて、元の世界に帰りたい
1:わたしも、何かしたい。


【B-2/マンション・屋上近辺/一日目 午前】

【アサシン(エミヤ)@Fate/Grand Order】
[状態]:健康
[装備]:キャレコM950、『神秘轢断(ファンタズム・パニッシュメント)』
[道具]:トンプソン・コンテンダー、
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本:聖杯を見極め、己の取るべき行動をする
1:バーサーカーの監視を続行。場合によっては交戦、撤退もやむ無し
2:天願の発見したというマスターについても、追々監視を行いたい


【B-2/マンション・屋上近辺/一日目 午前】

【バーサーカー(マルス-No.ε)@シルヴァリオ ヴェンデッタ】
[状態]:健康
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本:享楽のままに、聖杯戦争を楽しむ。
[備考]
※特にアサシン(エミヤ)を感知した訳ではありません。いつもの狂言回しの一環です。

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最終更新:2017年08月06日 03:40