東北大SF研 読書部会
「三体」 劉慈欣

作者紹介

 劉慈欣 (りゅう じきん Cixin Liu)
 1963年生まれ。
 1999年からSF小説の創作に活躍して、2006年から「三体」が雑誌に連載し始めた。2010年に「三体3」を発表した後、童話や評論をいくつか発表したが、現状新しいSF小説の創作が全く進んでいないようである。これまでに執筆したSF作品は長編と短編合わせて30編くらい(未発表の作品や短編からアレンジした長編作品もあるので、具体的な数は言えない。)あるが、日本語に訳されたのは多分「神様の介護係」、「さまよえる地球」など四編くらいしかないようだ。ケン・リュウの『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』には「三体」第17章の抄訳である「円」という小説が収録されている。僕は実際には読んでいないものの、「三体」のティーザーとして読んでもいいだろうと思う。
 劉慈欣の本職は山奥にある国営火力発電所のエンジニア。普段は発電所のステータスをモニターしながらこっそり職場のパソコンで小説を書いていたらしい。2010年頃に発電所が閉鎖されて、劉慈欣も一時的に無職になってしまった。幸いこの時『三体』シリーズがようやく全部出版され、一般大衆にも認識され始めたので、本の印税やイベントの出演料でやっと生計を立てることが出来たようだ。ここから中国のSF作家たちの生きづらさがうかがえる。ちなみに、劉慈欣は2015年にヒューゴー賞を受賞して一躍有名になったため、その後中国で発売したほとんどのSFに劉慈欣がレビューを寄せるのはもはやお約束になっている。最近では、彼は自分の作品の映画化やアニメ化に専念しており、小説以外の中国SFの発展に力を入れている。その成果のひとつとして挙げられるのが、中国国内で映画史上興行収入ランキング2位に入った『流浪地球』(邦題:流転の地球)という自分の同名小説が原作の映画である。
 劉慈欣の特徴として、大きなスケールを描くのが得意であるということが挙げられる。ここで言うスケールとは、空間的なスケールだけでなく、時間的なスケール、およびメタナラティヴなどの側面も含めたものである。
 もう一つの特徴として、中国の時代性をよく反映しているということが挙げられる。それゆえ、彼の作品はいつも読者の心に強く響き、普段SFを読まない読者にも共感を寄せられる。それこそ、この作品がヒューゴー賞を受賞*1しただけに留まらず、前代未聞の商業的な成功も収めた原因だと思う。
 劉慈欣はもちろん自分の思想を持っているが、小説に書いたことは必ずしも自分が支持していると限らない。あるインタビューで、彼は自分が面白いと思うことを書いてるだけだと語った。最近では、劉慈欣は政府が運営している国営マスコミにも宣伝されたのだが、実は劉慈欣は結構審査に引っかかることが多い作者なのである。「三体」も審査の問題で各章の順番を変えたり、すぐ単行本で出すのが無理だから、まず雑誌に連載したりした経緯がある。そもそも審査を通過する見込みがないので最初から出版を放棄して、ネットに無料で公開した作品すらあったほどだ。
 最後に。劉慈欣の作品では共通のネタや構図、キャラクターが使われることが多い。例えば、丁儀は「三体」以外にも6編くらいの小説に登場して、もはや劉慈欣作品のスタンダードになった。「三体」にも、このような他の作品と共通するネタやキャラクターがあった。その中でも特に語るべきなのは我々劉慈欣ファン界隈で「三体」の前日譚と目されている軍事SF「球電」(英題:Ball lightning)という小説である。「三体」には“球電兵器”や“マクロ原子”などのわけわからない言葉がいきなり登場したが、それらは全部「球電」に出てきたネタである。これらの文が削られなかったことから見ると、「球電」もいずれ早川書房から邦訳が刊行されるだろう*2。「三体」は劉慈欣の他の作品と共通するネタや構図が多いとはいえ、ただ繰り返しているのではなく、むしろ以前の作品に練習した手法や構図を「三体」で更に練り上げ、この集大成的な作品を完成させるに至ったのだ。


三体と中国現代史

 先述の通り、『三体』をはじめとする劉慈欣の作品は、中国の時代性をよく反映していた。『三体』は、文化大革命が始まった1967年から、2000年までの中国現代歴史と強く関わっている。中国の歴史について詳しくない者も十分楽しめるように、ここで一応関連な歴史を紹介しつつ、『三体』についての解説も並行して行う。
 1949年10月、中華人民共和国が成立。
 1958年、毛沢東は人工衛星、原爆、水爆及びミサイル(中国語:二弾一星)の研究を始めようと呼びかけた。この時期の中国はやっと初級的な工業と軍事産業を手にしたころ。その時代にあって、小銃から戦車、さらに原爆までの研究と生産を始めることになった。
 1960年、中国独自開発のミサイルの発射実験に成功。
 1964年、中国初の原爆の起爆実験に成功。中ソ関係の悪化によってソヴィエトからの支援が絶たれたにもかかわらず、世界有数の速さでミサイルと原爆の研究を成功した中国は、有人宇宙飛行の計画「曙光一号」を本格的に進めることになる。その目標は70年代に有人宇宙飛行を成功させることであった。この計画は技術力の不足と国民経済の悪化によって70年代に取り消され、中国初の有人宇宙飛行が実現したのはもう30年後の2003年の話だった。しかし、この時代の中国は軍事技術の飛躍的な進歩で大きな自信を得、冷戦時代特有の狂気的な軍事研究や建設計画を本格的に推進しており、「曙光一号」は一例に過ぎなかった*3。「三体」と「球電」は、この時代の軍事研究の想像力と狂気をよく反映していると思う。
 1966年5月16日、党中央政治局拡大会議は「中国共産党中央委員会通知」(五一六通知)を支持した。党史によると、この日が文化大革命(無産階級文化大革命、通称「文革」)の始まりである。
 1966年6月13日、党中央と国務院は、高等教育機関の入試方法について“資産階級のテスト制度から離脱していない”“徹底的に改革しなければならない”という旨の通知を発表し、1966年の大学入試を半年遅らせた。1ヶ月後の新たな通知で、“今年から大学入試のテストを廃除し、推薦と選抜の方式で入試を行う”“高等教育機関の入試は、政治第一の原則を守らなければならない”という旨が通知されたが、当時すぐには実行されなかった。
 文革の数年間を除いて、中国の大学入試は全国普通高等学校招生入学考試(略称:高考)の一発勝負で判定されるのがほとんどである。高考の廃除の影響で、大学に入るのを断念した学生、或いは大学に入る資格を失った学生が少なくなかった。
 1966年6月18日、北京大学で40名あまりの共産党と青年団の幹部、教師、学生の間に乱闘が起こった。
 1966年8月、中国共産党第八期中央委員会第十一回全体会議(略称:第8期11中全会)は、『無産階級文化大革命に関する決定』を通過させ、以後十年を渡る文化大革命が全面的に始まった。文化大革命は北京と上海のような大都市から全国に広がり、その激しさも次々とエスカレートしていった。紅衛兵もこの時期から、本格的に編成され始めた。
 1967年、『三体』の物語がここから始まった。同年、中国初の水爆の起爆実験も成功。
 1968年12月、大学に入学できず、就職もできない数百万の無職青年が毛沢東の「若者たちは貧しい農民から再教育を受ける必要がある」という指示に従い、農村部の人民公社に行き、農業生産に参加し始めた。この運動は「上山下郷運動」と呼ばれた。上山下郷運動自体は既に50年代から始まっていたが、1968年からその規模が一気に拡大した。この運動の影響を受けた青年は1000万人を超えたともいわれている。まだ7億人しかいなかった60年代の中国において、この運動は社会全体に膨大な影響を与えた。「傷痕文学*4」という「文革のトラウマ」を描く文学ジャンルも、この運動なしには生まれなかっただろう。
 また、上山下郷運動といえば、社会主義と環境保護の話が想起されるのが自然である。上山下郷運動を参加した多くの若者は林を伐採に行ったり、新たな農地を開拓したり、水利事業を建設したりしていた。水利事業の方は割といい成果を上げたが、その他の農業活動はかえって環境を破壊してしまった。「三体」にも、この歴史を反映されている。
 冷戦時代の社会主義陣営において、環境保護という概念はなかった*5。社会主義理論によると、主本主義社会における資本の無制限の増殖と拡張は、必ず自然環境の破壊とバイオシステムの災難を招くとされる。一方、社会主義は資本の増殖と拡張の連鎖反応を打ち切り、自然環境が破壊されるという必然的な終焉を防ぐとする。しかし、ソ連をはじめとする官僚主義的歪曲によって、人間と自然環境の関係はマルクスが強調した共生共存の関係から、互い支配権を争い、闘争し合う関係になってしまった。その結果、皆さんもご存知、干上がったアラル海のような凄まじい傷跡が地球に残ってしまった。政治運動による環境破壊というモチーフは、「三体2」では更に大きなスケールで改めて登場することになる。
 1976年の冬、一連の権力闘争*6がやっと終わり、秩序も戻り、文革が終結した。
 1977年の秋、長く廃止された高考がこの年で再開された。
 1978年から、中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議(第11期3中全会)の後、経済と政治の改革が始まり、計画経済*7から社会主義市場経済への転換が始まった。
 1990年代から、市場経済への転換が加速し、採算の取れていない国有企業や工場が次々と解体されたり、私有化されたりした。この時期の中国でも、東欧諸国と同様、経済体制転換に伴う大量の失業者が現れた。作者である劉慈欣が働いていた国営発電所もこの影響を受け、大量の従業員が次々と首を切られた。ファンの間では、発電所の重苦しい雰囲気も彼の作品に大きな影響を与えたとするのが定説となっている。
 1991年のクリスマスにソ連が崩壊した。中国が最後の主要な社会主義国家となり、アメリカの次の一手を恐怖とともに待っていた。
 1996年、大陸側(中華人民共和国)は台湾を武力による統一を試みるため、台湾海峡で未曾有の大規模軍事演習を行った。もし好機があったら、このまま戦争になってもおかしくはない状況にあった。しかしアメリカはその後すぐ空母艦隊を出動させ、事件は軍事演習のままで終わった。この事件は「台湾海峡危機」と呼ばれた。朝鮮戦争から今まで、このときが中米が戦争に最も近かったときだろう。
 1999年、同じ社会主義国だったユーゴスラヴィアが内乱に陥り、中国の人々はユーゴスラヴィアを同情しながら注目していた。そして同年から始まったコソヴォ紛争で、NATOが爆撃の時に中国の大使館も爆撃し、全中国の米国に対する怒りを招いた。劉慈欣も「混沌蝴蝶」というNATOの爆撃をテーマにして、セルビア人の愛国者が秘密兵器でNATOと対抗しようとした小説を書いた。
 2001年、南シナ海で、中国の戦闘機が米軍の哨戒機と接触する事故が発生し、中米の関係が更に悪化した。しかし9.11の影響を受け、米国は中国との些末な摩擦を無視し、中東の対テロ戦争に注力した。
 これで中国はようやく米国の転覆ないし米国との戦争の恐怖から逃れた。2000年前後、中国社会に漂った戦争の恐怖の影響で、中米、露米戦争をテーマにした軍事小説が非常に流行っていた。劉慈欣も「貧弱な途上国vs米国」という構図の軍事SFを「混沌蝴蝶」の他にも何篇も書いた。先述の「球電」もそのひとつであり、小説に、中米が台湾海峡で革新的な軍事技術で戦いを繰り広げた。「三体」では、このような「弱小vs強敵」という構図があまり展開しなかったが、小説後半の圧迫感と無力感は2000年の軍事SFと共通しているのではないかと思う。
 2006年5月、「三体」の連載が「科幻世界」という中国最大にして当時唯一のSF雑誌ではじまった。「SFマガジン」とは異なり、「科幻世界」に掲載される作品はほとんど全て読切の中編と短編であり、長編が連載されることはめったにない。翌年発売された「三体」単行本の前書きによると、無理やりに「三体」を雑誌に連載した理由として、2006年(連載開始年)が文革40周年であり、単行本として発売するのが困難であったことを挙げている。
 「三体」の物語も2000年代に終わって、その後に展開したのは「三体2」の物語である。

「三体」に隠された構図;宇宙文明の関係、物理の真実、そして現代性に対する批判と超越

 訳者の後書きにもあったように、「三体」は所詮三部作における序章に過ぎない。文量においても、「三体」は全シリーズの1/5しかないのを強調しておきたい。「三体2」と「三体3」を読んだかどうかは、「三体」という作品に対する評価が大きく変わるだろう。特に友人*8から評価を聞くと、「三体」には“センス・オブ・ワンダー”が足りないと思われたらしい。ここで、次作のネタバレをしないように、「三体」に充分展開しなかった全シリーズの構図を取り上げ、「三体」の野心と魅力を伝えてみようと思う。

宇宙文明の関係

 宇宙文明を考察するにあたって、まず「フェルミのパラドックス」のことを考えなければならない。「フェルミのパラドックス」というのは、宇宙に無数の恒星が存在し、宇宙の寿命も何百億年に達したにもかかわらず、地球とコンタクトしたり、地球に観測されたりした宇宙文明は今まで一つもなかったという矛盾である。このパラドックスに対して、多くの理論や仮説が提出されたが、人類が宇宙人と出会っていない以上、これらの理論や仮説が全部検証不可能な状態になっている。
 しかし、「三体」によって、人類が三体文明という人類以外最初のサンプルを手に入れることが出来、宇宙文明の実態を推察することができるようになった。ここで、まず人類とコンタクトできる宇宙文明の数を推測するために考案されたドレイクの方程式を紹介する。
 方程式は以下の通り。
N=Ns×R×fp×ne×fl×fi×fc×L÷Lg
N=銀河系内で電波で交信する文明を持つ惑星の数
Ns=銀河系の恒星の数
R=文明を持つ生命を生み出す条件を満たす恒星の割合
fp=その恒星が惑星系を持つ割合
ne=その惑星系で生命を生む環境がある惑星の数
fl=その惑星上で生命が誕生する確率
fi=生命を持つ惑星の中で知的生命が誕生する割合
fc=知的生命が宇宙に強い電波を出すようになる確率
L=その文明が存続する期間(つまり文明の寿命)
Lg=銀河系の寿命

 そしてドレイクが代入した値は
Ns=(観測量)、R=10、fp=0.5、ne=2、fl=1、fi=0.01、fc=0.01、L=10、Lg=(観測量)
 その結果、銀河系にコンタクトできそうな文明は10個しかないとされた。
 しかし、三体人を知ることによって、方程式に代入すべき値が大きく変わるはずだ。例えば、fiとfc、この2つ変数に代入した値は、小さすぎたと考えられる。三体人は無数の災難を乗り越え、三恒星直列で全惑星の生態圏を滅ぶ大断裂のような災難すら乗り越え、200回にも及ぶ滅亡の末に、恒星間航行可能な技術をもつほどにまで進化した。ここから、我々は生命が誕生するならば、必ず生命は母星引力圏から脱出できるほど高度な文明を作れると考えるべきである。さらに、三体人の母星のある恒星系には3つの恒星が存在しているのににもかかわらず、三体星が恒星系に何十億年も存在し続け、そしてこの惑星に高度な生命が誕生したことから、我々は変数fpとneも現実的にはより大きな値であると考えるべきである*9。これらの修正を考えると、銀河系に存在している先進文明の数がドレイクの推定よりもはるかに多いはずだ。宇宙は、まさに小説に書いたように「生命に満ちている」のだ。
 しかし、このような賑やかな宇宙の中にも、葉文潔と1379号監視員とのコンタクトができた前に何も起こらなかった。それはなぜなのか。これについて詳しく解説したのは「三体2」であり、しかも「三体2」の冒頭の4000字さえ読めば、絶対感電するほど衝撃を受け、「ああフェルミのパラドックスはこう解決されるのか」と納得できるようになると思う。実は、「三体」にも、いくつかそれを示唆する伏線が入れられている。
 例えば、紅岸(三)では、中国の宇宙人観測計画では、宇宙人の力を借りて技術跳躍を起こし、世界革命を実現することを意図していたことが明かされる。しかし、187ページでは、「メッセージは、学際的な厳しい審査を経て、天の川銀河における地球の相対座標を明らかにするような情報が一切含まれていないこと確認する……太陽系が正確に特定される可能性を低くする」とある。革命的な宇宙人がセイバートロニアンのように地球にやってきて、圧倒的な軍事力で世界革命を手伝うなら一番楽なのに、どうしてここで敢えて地球の座標を隠すことを強調したのでしょう*10。さらに、地球のメッセージを受けたとたん、三体人が全滅のリスクを負っても宇宙艦隊の出兵をすぐ決めたことから見ると、宇宙はやはり人類が思ったより何倍も危険なところだと推測される。しかも、地球のようなこれほど炭素生命体にとって恵まれた惑星というのは、全銀河から見ても珍しく、人類のような頭がお花畑の文明よりも、三体人のように牙を磨きながら、次の獲物が現れるまでに我慢強く待ち、そして好機が来たらすぐ襲い掛かる貪婪な文明の方が、圧倒的な主流的なのではないか。
 「三体」だけの情報に基づいて、我々は宇宙がいかに危険で、“まっくらな”場所であるかを理解することが出来た。それをもっと簡潔にまとめたのが「三体2」の冒頭の4000字であり、そしてこのような宇宙に生存している宇宙文明が、どのような関係を人類と築くのか、そして三体人と人類の運命にどのような影響を与えるのかを語ったのが、「三体2」と「三体3」の物語である。

物理の真実

 現代物理において礎となっている理論、または信念は、「物理の法則は時空に対して不変性を持つ」ということである。つまり、我々が平成29年のある日に筑波で検証した某理論は、平成29年のある日の筑波だけじゃなく、空間的に宇宙の果てまでも適用できるし、時間的には宇宙の始まりから終わりまで適用できるのだと考えられている。
 理論においても、ニュートンの法則は任意の慣性系に対して常に成り立つし、、また電磁気学のマクスウェル方程式はミンコフスキー時空において常にローレンツ不変である。*11。実験においても、場所Aで発見した理論が場所Bで適用できないような、気の狂ったような現象は報告されていない。しかし逆に言うと、「物理の法則は時空に対して不変性を持つ」という信念もまた、実験によって直接検証されるのが明らかに不可能である。
 では、もしこの信念に反する実験事実が発見されたら、どうなるだろうか。現代物理が崩れてしまうだけでなく、近代的啓蒙以来の実験に基づく唯物的な、実証主義的な現代理学全体が崩壊するのではないだろうか。
 「三体」に智子によって起こられた現象は、まさに先言ったような近代理学全体を破壊する極めて致命的なものなのだ。
 しかも、「三体」で示されたのは、所詮三体人という恒星間航行の能力を手にしたばかりの若い文明による理学の破壊である。もし三体人より発展した文明が存在したら、彼らは果たして他の文明の観測をどれほど邪魔できるのだろうか。さらに言えば、観測だけでなく、現象そのものにすら干渉できるとしたら、どうなるだろうか。これらについて詳しく言及したが『三体』シリーズの後の二作だ.。ここまで考えると、「三体」の宇宙はもはやクトゥルフの宇宙のような人間にとって根本的に認識不可能な宇宙であるということが分かる。この真実を誰よりも先に知り、誰よりも深く知った科学者たちは、SAN値が0になり、自殺でこの恐怖から逃れる以外何もできなかったというわけだ。もちろん、実際の科学者はそれほど過敏ではないと思う。

現代性の批判と超越

 ブログに書いた記事「三体と中国現代史」で、僕は「三体の歴史や人間性に対する反省は、もはや一般的な傷痕文学を超えて、もっとユニバーサルな、マクロな領域に進化した」と言った。その最も重要な理由として、葉文潔という人物が、文革を経て共産主義体制に対して絶望しただけじゃなく、エヴァンスや無数の地球三体協会の同志たちと同じように、共産主義にせよ、資本主義にせよ、人類が現代に作り上げたすべての体制や社会に絶望し、人類のありとあらゆる未来の可能性を否定したということを挙げる。
 現代性は資本主義の誕生と発展とともに生み出されたものであり、そして資本主義を批判し、超越しようとした共産主義は現代性の極地にあたる。資本主義と共産主義に対する否定は、即ち現代性に対する否定と批判である。この批判と否定は「三体2」と「三体3」でさらに展開され、やがて劉慈欣なりの答えも提示されるにいたった。しかもその答えは極めて独自性の強いものであり、決して虚無の詭弁を繰り返す以外になにもできないポストモダンのようなものではない。
 『モダニティとポストモダン文化 カルチュラル・スタディーズ入門』(ジム・マクヴィガン、彩流社)によると、18世紀の著名なフランス啓蒙学者は以下の10つの概念にすべて同意する。すなわち、理性、経験論、科学、普遍性、進歩、個人主義、寛容、自由、人間の本質の同一性、そして世俗主義である。特に、進歩という概念については、「人間の自然的、かつ社会的状況は、科学と理性を適用することにより改善され、その結果、幸福と福祉は永久に向上し続けるという考え」としている。近代の政治家と思想家も確かにそう信じて、そして一般大衆にこう約束した。しかし、現代性には未完成や矛盾なところが存在している。それが何なのか自分はまだ回答できないでいるし、小説でも明らかに示されていない。一応結果からみると、資本主義という現代性の枢軸は、第一次世界大戦から、不況、戦争、ホロコースト、ファシズム、環境汚染や生態災難の影響で徐々に信頼されなくなった。少なくとも人文学者の間ではそうである。そして現代性の最終形態となるべき共産主義も同じように、粛清、文革、官僚主義、余計な審査、計画経済の死、環境災難やソ連の崩壊によって、学者や一般大衆に対する魅力を失い、信じられなくなった。しかも共産主義が活力を喪失した時期と、モダニティが終焉を迎え、ポストモダンの概念が各領域に拡張していく時期とが一致している*12
 話を再び小説に戻そう。
 劉慈欣はどうしても文革から物語からはじめたかったのだ。しかも文革のシーンを一番頭に置きたかったのだ。中国の作家なら、文革のようなデリケートな話題は避けておく方がいいということなんかなろう系レベルの作家すら知っている。しかし、共産主義の理想、即ち現代性の理想が中国において破綻したことを強烈に印象付ける事物は、文革をおいてほかにないのだ。その破壊性は、新左翼の起こした内ゲバと過激な事件による学生や大衆の共産主義離れよりはるかに強かった。葉文潔を人類に対して絶望させるために、これよりいいシーンがあるわけない。だから審査に引っかかっても必ず書かなければならなかったのだ。しかもできる限り冒頭において、読者、特に中国の読者に最大な衝撃を与えなければならなかったのだ。
 しかし、ここで注意しておきたいのは、劉慈欣は文革や葉文潔の経歴を通じて、共産主義の理想の破綻を示した一方、エヴァンスや『沈黙の春』(レイチェル・カーソン)を通じて資本主義の理想の破綻も多少なりとも示してくれた、ということだ。ここからさらに踏み込んで、理想的な資本主義的民主政治の限界と、ファシズムという資本主義でも共産主義でもない「第三の道路」と名乗った主義の破滅を、強く、詳しく、示してくれるのが、続編となる後の2作である。
 さて、批判の後に、劉慈欣はどのような答えを出したのだろうか。その答えの全体像を知るにはやはり次の2作が必要だが、「三体」にもその答えの一部が提示されている。答えは三体人の社会だと思う。
 三体人の社会をよく見てみよう。彼らは人類と違い、過酷な環境で生き残ったにもかかわらず人類が現代に作られた誇りとしたほぼすべての理念と価値観を持たず、そして人類よりも発展し、ついには人類を征服する為に地球までやってきた。三体人は社会から、寛容、自由、人権、個人主義を排除した。三体文明は何とか進歩してきたとはいえ、この地獄のような惑星にいる以上、いつ突然文明が滅んでしまってもおかしくない。したがって、「三体文明に約束された明るい未来があり、我々を止めるものは何もないだろう」と信じる三体人もさぞ相当少ないことだろうと考えられる。
 つまり、三体人がこんな様でも人類より発達した文明を作りあげたことは、現代性が我々が思うような誇るべきものではない、文明を存続させ発展させるために絶対必要なものではない、という衝撃的なアイデアを提示してくれた。
 さらに、先も言ったように、「三体」の作中における宇宙の全体像は非常に“まっくら”である。このような宇宙で生き残るためには、我々が真理だと信じている現代性・人間性の上に社会を築くよりも、三体人のようにただ生存するということだけに専念する方が効率的かもしれないと劉慈欣は示唆した。
 実際に、中国の読者にも薄々このことを感じた人がおり、「劉慈欣には人間性がない」と批判する人も少なくなかった。しかし、ここで再び強調したいのは、劉慈欣は別に自分が書いている内容を認めているわけでもないということだ。仮に自分の書いた内容を認めているとしても、「三体2」と「三体3」で示された現代性を超えた答えはむしろ非常に明るいものであり、人類の可能性と偉大さをよく示してくれたと思う。
 ちなみに、中国で評判のいい作家は大体ポストモダンやモダニティと関わっている。代表的な例として、2010年にノーベル文学賞を受賞した莫言や、SF作家の韓松が挙げられる。簡単な社会批判をモダニティ全体に対する批判に発展させることによって、作品の思想性を深められるだけでなく、非常に過激な内容でも審査を通れるようになるのがその理由ではないかと僕は考えている。
 ということで、「三体」の禁断症状に苦しい方々は、今すぐ英語版、或いは中国語版を注文しよう。絶対後悔することはないと約束します。

推薦書目

「三体2(黒暗森林)」、「三体3(死神永生)」、「球電(Ball lighting)」劉慈欣

 「三体2」は2020年に出されるそうだから、まず英語版で和訳される可能性の低い「球電」を英語版で読んでみる方がいいかもしれません。

「ブラインド・サイト」ピーター・ワッツ

 この小説も人類が誇りであると、もしくは人類文明のキーストーンであると考えていた何かを粉砕して見せた非常に衝撃的なSF小説である。最近、これほどハードなSFはほとんどないので、ハードSFお好きな方はお見逃しなく。

「ハイペリオン」ダン・シモンズ

 「ハイペリオン」はシリーズものとはいえ、最初の2作だけにのみ読む価値がある。ダン・シモンズの筆力がシリーズの展開とともに著しく落ちてしまい、最後の「エンディミオンの覚醒」は乙女同人ラブラブ小説ともいわれた。しかし「ハイペリオン」この本自体は非常に優れたSF小説、いや、もはやSF叙事詩とも言えるだろう。大きなスケールと構図が大好きな読者にオススメ、何せよ長門有希のお墨付きだから、絶対読むべき。

「百億の昼と千億の夜」光瀬龍

 日本のSFで、大きなスケール、歴史SFなどのキーワードを考えるとき、この「百億の昼と千億の夜」は避けられない。僕は最後のおちがあまり好きじゃないけど*13、小説自体が非常に新しい視点で宗教とその歴史を見直したので、非常に面白いと思う。

「最初の接触」マレイ・ラインスター、「ソラリス」スタニスワフ・レム

 「三体」シリーズはファーストコンタクトものではないが、やはり「三体」のファーストコンタクト色が極めて強いことは否定できない。そこで、ファーストコンタクトと関連する2作をオススメします。
 「最初の接触」は1945年に書かれたファーストコンタクトものの原点である。この小説は、宇宙に到達できる人工物がナチスのV2ロケットしかなかった時代に、人類と異星人が物理的な接触した場合の考察*14を行った作品として書かれた。古典SFとして非常に素晴らしい作品である。
 僕は「ソラリス」を実際に読んだことはないのだが、ファーストコンタクトものの極地*15であるとして薦められた。これから一緒に読んでみませんか。


梁、下村
最終更新:2020年06月04日 18:03

*1 劉慈欣「三体」のヒューゴー賞受賞には複雑な経緯が存在する。部会ではそれに触れたいと思う。(下村)

*2 「三体」日本語版は中文版原文に基づいている、というだけである。英語版では、ケン・リュウの判断か出版社の判断かは分からないが、他の作品と関連する部分が大きく削除されている。(下村)

*3 ソ連の誇る精強な戦車部隊の進軍を阻むため内モンゴルと華北平野に山を建設する計画や、四川の山々を掘ってその中に核戦争に備える工場やシェルターを建設する計画などが挙げられる。

*4 『三体』は文革と上山下郷運動の話を取り上げているとはいえ、傷痕文学と呼ぶのは適切ではないだろう。『三体』はあくまで文革を背景、モチーフとして扱っているだけであり、「三体」一冊を通して、また『三体』シリーズ全体を通して考えると、「三体」における歴史や人間性に対する反省は、もはや一般的な傷痕文学を超えた、もっとユニバーサルな、マクロな領域に到達していると思う。出版社が宣伝のために敢えて『三体』と文革というコンビネーションを強調するのは別にどうでもいいと思うのだが、読者として『三体』と文革というコンビネーションしか見ようとしないのは「戦争と平和」を軍事小説として読むように、甚だしくもったいない行為だと思う。

*5 この原因としてはマルクス主義的な、唯物論的歴史観(唯物史観)の影響が大きい。簡単のためざっくり解説すると、唯物史観においては、誤った社会体系である資本主義社会において生産されたいかなるものもまた誤っていると考える。近代的な科学的知見であっても資本主義社会において得られたものは誤りであるとするのがマルクス主義の面白いところである。要は、間違った資本主義社会では環境問題が起こるけど、正しい社会主義社会では環境問題なんか起こらない、という感じである。代表的なもので言うと、「三体」でも扱われた文革期の中国におけるアインシュタイン批判、ソ連における連続殺人の存在の否定(超有名なシリアル・キラー、アンドレイ・チカチーロの逮捕が遅れた理由のひとつ)、60年代の日本におけるプレートテクトニクス批判などがある。(下村)

*6 党の実権を握っていた劉少奇・トウ小平に対する、毛沢東の復権闘争を指す。毛沢東は大躍進政策の失敗によって失脚しており、復権のため自分を崇拝する(無知蒙昧な)学生を紅衛兵として味方につけ闘争を行った。(下村)

*7 計画経済に関して、詳しくは山形浩生のブログ『山形浩生の「経済のトリセツ」』参照。山形はSF翻訳者として知られているが、本職は野村総研の研究員である。https://cruel.hatenablog.com/entry/2019/03/11/171113(下村)

*8 私のことである。(下村)

*9 この議論は妥当ではない。恒星が惑星系をもつ確率neは観測量であり、観測技術の高精度化によって変更されることはあっても、考察によって変動することはない。一方、惑星で生命が誕生する確率flに関する指摘は間違っていないと考えられる。(下村)

*10 マレイ・ラインスターによるファーストコンタクトものの原点「最初の接触」参照。(ハヤカワ文庫SF『最初の接触』収録)(下村)

*11 電磁気学(というかマクスウェル方程式)は、成立した時点でじつはローレンツ不変であることが知られている。詳しくは『ファインマン物理学2』を参照されたい。(下村)

*12 これがポストモダンで言うところの“大きな物語の終焉”といわれるものである。セカイ系ともつながっているらしい。ポストモダンとセカイ系はゼロ年代に眠っていてほしい。塩でも撒いておこう。(下村)

*13 日本SF屈指の名作がこう言われてしまい、大変遺憾です。(下村)

*14 流石に70年以上も前の作品なので、色々と考察がガバい。ただ、「三体」における異星人観はこの(ガバい)考察に強く影響を受けている。「三体」が大森望、山岸真、柳下毅一郎以下日本のSFファンたちに馬鹿SFと言われている原因その1。なお、あまりにもガバかった本作の考察に対して、ソ連のSF作家イワン・エフレーモフが「宇宙翔けるもの」という短篇を発表して反論したのは有名。以後、異質な知性との接触を描いたファースト・コンタクトものの系譜が後世に脈々と受け継がれていくことになる。(下村)

*15 「三体」が馬鹿SF扱いされている理由その2。「ソラリス」を読んでしまえば、“SF”としてこんなに馬鹿な発想が出来るわけないのである。ぜひ「ソラリス」を読んでほしい。ヤナくんも推薦。(下村)