Stage3.楽園(Ⅱ)

◆Ok1sMSayUQ





 窓辺から差す陽光で、私はゆっくりと目を覚ました。
 頭がぼんやりとしている。肌が荒れてる。寝癖がついてる。ひどい倦怠感がある。
 内容こそ思い出せなかったが、とにかく酷い夢を見ていたのだろうという確信が私にはあった。
 机に突っ伏したまま眠っていたらしい。昨晩取り組んでいたと思われる新聞記事の草稿は、真っ白なままだ。
 何だろう。事件があった気がする。それを記事にするために一晩唸っていた……はずなのだが。

「思い出せない……」

 再び突っ伏す。頭が痛い。この症状は二日酔いに似ている。
 そこでぼんやりと記憶が浮上する。昨晩は飲み会だったような覚えがある。
 確か烏天狗の連中同士で飲みに行こうとかそんな感じだったと思う。
 どうして飲みに行くことになったのかは……覚えてない。きっと下らない理由だったんだろう。
 烏天狗に限らず天狗は酒好きだからかとにかく酒盛りをしたがる。無論私もその一人で、なんだかんだと潰れるまで飲んだ。
 ああ、そうだ。確か酒樽を何杯も空にして、そのあたりで何か事件の一報を聞いて、記事にしようと思い立って……

「なんだっけ」

 肝心の事件の内容は綺麗サッパリなくなっていた。
 手元にある手記を確認したものの、なんだかわけのわからない言葉で埋まっていた。
 酔っ払いの言葉が信じられないのは自分にも当てはまるらしい。
 不覚である。失態である。速さと面白おかしさが売りであるはずの《文々。新聞》の名折れというものである。
 参った。これでは取材のし直し、というかそもそも何の事件があったのかという段階から調べなおさなければなるまい。
 完全な出遅れ。今回ばかりは仲間の天狗からも笑われるだろう。
 そして射命丸文の酔い潰れ記念とか称してまた酒盛りが始まるような気がした。多分私もそこにいる。
 永遠亭にでも出向いて効果的な酔い止めを購入せねば。

「……まあ、それよりも」

 机の上にある小さな立て鏡に映る私の姿は、お世辞にも人様に見せられるようなものではなかったので。
 まずは身を清めることにした。

     +     +     +

 身なりを整えてとりあえず人里までやって来る。幻想郷の中にあってほぼ唯一の安全地帯であるためか、人間達の表情はいつも明るい。
 こうして妖怪である私がうろちょろとしていても気にしないどころか中には会釈まで返してくる者までいる。
 そんな人里の唯一にして最大の欠点、というか、幻想郷という場所が持つ欠点でもあるのだが、とにかく住民は娯楽に飢えている。
 衣食住が満ち足りていればこんなものなのだろうが、とかく何かあれば我先にと食いつく彼らは私達からしてもありがたい。
 お陰で私達烏天狗も新聞作りなどという娯楽に精を出していられるのだ。感謝感謝。
 ……あれ、なんで人間なんかに感謝してるんだろう。何かあったかしら。
 酒気が残ったままの頭には靄が残っており、違和感の正体を突き止めることができなかったが気にしないことにした。
 まあ、幸せに感じるのはいいことだろう。
 小走りで、私は里にある洋風喫茶へと足を運ぶ。
 天狗の新聞はカフェテラスでお茶を楽しみつつ片手間に読むのがアンニュイな午後を過ごすのに最適とされている。
 完全に娯楽と認識されている証拠だったが、平和な幻想郷においては瑣末な事柄なのである。
 果たして辿り着いてみると、やはり事件は起こっていたらしく、屋外の椅子とテーブルについて新聞を広げている者がいる。
 出遅れたこと、確定。まあ別に速報であるだけが烏天狗の新聞ではない。
 情報を早く伝えようとするのもあれば、じっくりと考察して記者の展望を書き起こす者もいる。
 私はどちらかと言えば前者だったが、今回は後者になってみても良かろう。
 そんなことを考えていると、時間つぶしを終えたのか、客の一人が新聞を畳んで立ち上がろうとしたので、すかさず私は尋ねてみる。

「あの、すみません」

 記者モードでもないのに、なぜか私は丁寧語で話しかけていた。
 あれ? と思いはしたものの、今更態度を変えても不審がられるだろうし、別に嫌な気分でもないのでこのまま続けることにする。

「その新聞、もう必要ありませんでしたら譲っていただいて構いませんか?」
「あ、ああ。別に構いやしないが……」

 客は、私の姿に目を通しているようだった。天狗の服装は結構分かりやすい。
 取材でもないのに下手に出た私に、訝る目を向けてくるのはある意味当然ではあった。

「……いや、こちらこそ不躾でした。どうぞ、受け取ってください」

 やがて、そんな自分を恥じたのだろうか、客の方も丁寧な物腰になって私に新聞を差し出してきた。
 どことなくぎこちない所作。へりくだる仕草。慣れていないことが分かった。

「ありがとうございます」

 私は、最後まで丁寧に応じた。
 新聞を渡してそそくさと立ち去る客に、どうしてこんなことをしてしまったんだろうと私は思う。
 妖怪と人間の関係などこんなものだったはずだ。一見友好的な関係に見えても、その実、力関係は絶対に存在している。
 笑顔の裏にはたくらみがある。差し出した手の袖口には何かが仕込まれている。
 分かっていたはずなのに。それなのに、私は無表情を続けられず顔を歪めた後に大きく溜息をついた。
 どうも調子が狂う。しこりが私の中に残っていて、そのせいで私は対応できずにいる。
 一体何だというのか。いつも通りの日常で、いつも通りの生活に、不満を感じる点などあっただろうか。

「……ああ、もう」

 考えても仕方がない。理由もなくナイーヴになる日だってあるはずだと無理矢理自分を納得させ、私は新聞を広げる。
 昨日の事件なら、恐らく一面に掲載されているはずだ――そう考え、一面に目を通した私は、事件の内容……
 いや、撮影したと思われる写真に目を疑った。

「妖精……が、妖怪を殺害……?」

 思わず声に出してしまうほど、内容は衝撃的だったと言っていい。
 何よりも驚いたのが、写真にいる一匹の妖精が私の顔見知りだったことだ。
 サニーミルク。恐らく、現場を撮影できなかったので以前撮影したものを使ったのだろう、
 それは妖精らしく稚気のある笑顔を見せ、他の妖精二匹とつるんで行動している写真だった。

「馬鹿な、あり得ない……!」

 意外なほどの大声を張り上げた私自身に驚く一方で、私はなぜこの妖精を知っているのかと疑問も抱いていた。
 知っている? 私は、彼女を知っている? 取材は幻想郷の至るところでやってきた私だが、妖精相手の取材はあまりなかったはずなのに。
 それも、記事の見出しを見ただけで、彼女がこんなことをするなんて信じられないと思うほどには知っている。
 どこで? どうやって? 疑問は膨れ上がるばかりだが、考えても埒が明かないと考えた私は記事に目を通す。
 事件の内容はこうだ。
 未明、魔法の森をうろついていた野良妖怪が罠にかかり、打ち所が悪かったのかそのまま亡くなった。
 罠を作ったのは妖精、サニーミルク。悪戯目的で作ったと思われる。
 妖精が悪戯を行うのはいつものことだが今回は悪質と言わざるを得ず、場合によっては退治に至る可能性も……

「何よこれ、証拠も証言もないじゃない……こんなの記事でもなんでも……」

 憶測と偏見に塗れた文章。明らかな悪意こそないものの、真剣さの欠片もない、それこそ時間潰しの片手間に書いたような意図さえ窺える。
 気がつけば、新聞を力いっぱい握り締めていた。適当に綴られた新聞が許せないのではない。
 適当さに付き合わされたサニーミルクのことを考えもしていないことが許せなかった。

「……私、妖精ごときを心配してるっての?」

 妖怪に比べれば取るに足らないはずの妖精を、私が?
 困惑する。知り合い……みたいだとはいえ、そこまでしてやる義理なんてあっただろうか?
 けれど、しかし、私の内から生じるこの気持ちは、確かにサニーミルク……サニーを、心配している。
 無事だろうか。怒っているだろうか。いやそれならまだマシだ。
 理不尽な目にあわされ、しかし妖怪と妖精力量の差で何もできずに泣き寝入りはしていないだろうか。

「そうよ、妖精なんかが妖怪を殺せるわけない。裏があるはずよ、きっと裏が……」

 真実を確かめようと、今度は現場の方に向かおうとした、はずだった。

「裏……そう、だ、私」

 向かうまでもないことに、気付いた。思い出した。
 私はこの事件を知っている。昨晩の時点で、知っていた。

「サニーは、犯人なんかじゃ、なくて」

 思い出す。なぜ酔いつぶれていたのか。なぜ手記に何も記さなかったのか。
 思い出す。思い出さないように深酒し、忘れようと手記の内容を消去した。
 だって、そう。犯人は……身内の、天狗、だったから。

「……そうか、私は」

 知らぬ間に人里は無人になっていた。のろのろと動き、喫茶店の椅子に腰掛けて、自嘲の笑みを浮かべる。
 昨晩、事件が発生してから、私達烏天狗は上司の天狗達に呼び出された。
 私一人ではなく、報道班である烏天狗の殆どは招集されていたと言ってもいい。
 呼び出された理由はただひとつ。『身内の恥を外部に漏らすな』。
 要は、この件に関しては一切真実に触れるなという通達だった。
 恥、というからには恐らくは、つまらない理由で殺しあったのだろう。
 上司の口からは何も語られなかった。或いは、上司でさえ正確な真実は知らないのかもしれない。
 誰も逆らうことはない。上からの命令を忠実に遂行するのが組織に属する者の責務。
 その中で、私はただ一人反抗した。代わりに妖精に全てを押し付けろという卑劣極まりない手段に断固として反対した。
 命令であればどんな汚いことでもしたり、隠したり、押し付けたりすることが嫌だったのだ。
 こんなみっともないことをするために、私達は生まれてきたのか、と。
 誰も取り合うことはなかった。誰もが目を逸らした。それがまた、私には腹立たしかった。
 本当は分かっているのに。誇りや矜持などない、ただ世過ぎのための命令遂行でしかないということを。
 逆らったら上からどうされるか分からない。同僚からどんな目で見られるか分からない。
 だから逆らわない。仲間内でさえ、互いに恐怖で恐怖を縛り上げている。
 そして狂った歯車は、排斥されるのが常だった。
 私は新聞記者の地位を剥奪された。それどころか近々妖怪の山を追い出されるかもしれない。
 昨晩の深酒はそれが原因だった。加えて組織から追い出され、何の庇護もなくやっていけるのかという不安から、全てを忘れようとしたのかもしれない。

『それが今の幻想郷だ。君がただ一人強くなって戻ったところで、所詮全体を変えられるわけがない』

 かもしれない。
 これが、恐らくは、私の未来だ。

『呪われているんだよ。どこもかしこも、隙間なく。自分で自分を騙し、ゆえに他者と他者で傷つけあう論理が蔓延っている』

 たとえ、仮に私のような例外が発生したとしてもそれは例外でしかない。
 祈りは呪詛に侵される。結局、私がそうだったように、誰もが弱く在ることしかできないのだから。
 強くなれというのは強者の論理だ。立派な正しさを、皆が皆遂行できるわけではない。

『こんな世界なんていらないとは思わないか?』

 あまりにも愚かで、醜いばかりの世界。
 生まれる可能性すら自らの手で潰してゆくばかりの世界。
 先などたかが知れている。こんな弱さがある限り、仮に正しくなったとしてもいつかは間違う。
 何も成長などしないまま時間だけが過ぎ、いつかは緩やかに滅亡を迎え、そこにあった意味さえ失ってゆくのだろう。

「……でも。それでも……心を折ってしまったら、そこまでなんです」

 私は椅子から立ち上がり、穏やかな笑みを浮かべた。
 この言葉は、私をもう少しだけ踏ん張らせてくれる。大切な友人の言葉だ。
 負けるわけにはいかないと思わせてくれるから。諦めてしまった自分に立ち向かう活力を与えてくれるから。

「逃げて、うずくまって、その先で救われても、それはただ可哀想なだけなんですよ。哀れまれる幸せは、祈りも呪いも生み出さない」

 だから私は、この呪いばかりの世界で生きてみる。
 上手くいかない、分かり合えない、助け合わない。
 敵はあまりにも強大だ。けれど、そういうものこそ私は、やっつけたい。
 万が一もしも、そんなものを倒す夢物語ができるなら、それは最高の新聞記事になるじゃないか。

 私は歩き出す。
 さあ、まずは小さな紙を用意しよう。
 ペンでも鉛筆でもいい、書けるものを用意しよう。
 見つかるまで探そう。なければ作ってみよう。私の考えたことをやれるだけやってみよう。

「だから、戻りますよ私は。私はあの幻想郷が、問答無用に大好きなんです。だって、あそこには」

 一呼吸、置いて。
 いっぱいに手を伸ばした。

「出会えたことに感謝したい友達がいるから!」

     *     *     *

 目が覚めて、きっと誰もいない。
 音のない部屋を嫌って外に飛び出しても、敵ばかり。
 いくら私だっていつでも能天気なわけじゃない。悪いことを想像できるくらいの頭はある。
 だから、あの人間の男の話を聞いた瞬間、戻ってしまっていいのか、という気持ちが芽生えてしまったのかもしれない。
 それは恐らくほんの少しでしかなかったのだと思う。些細な不安である程度の、しかしそんな気持ちを鋭く見抜かれた。
 私がここにいるのはそういうことなのだろうと思う。
 住んでいた家。私が、私達だったころの名残には今は誰もいない。
 寂しい。悲しい。この気持ちでさえ序の口でしかなく、先にはもっと辛いことだってあるのかもしれない。
 もちろんそんなままでいたくないと思う。少しでも良くなるように、私だって何かをしたいと思う。

 私は妖精だ。非力で馬鹿で、一番弱い。
 ひとりで全部ができればとは言わない。文に言ったように、好きになったみんなと助け合えればというのは本心だ。
 でも、ひょっとすると私は誰かにくっついていなければ何もできないのかもしれない。
 助けを求めるばかりで自分からは何もできない。だったらいてもいなくても――そう、思ってしまう。
 戦いでも逃げることしかできなかった。逃げてばかりだった。
 光を屈折させる私の能力はその程度の役にしか立たないのだ。分かってる。
 じゃあ何ができるかって考えなければいけないことも分かってる。
 でも……思いつかない。考えたって、みんな、に対してできることなんてすぐに思いつけない。
 悪戯することばかり考えてきたことのツケというならそうなのかもしれない。

「でも、気付いちゃったら仕方ないじゃない……ずっと怖かった。ルナもスターもいなくて、私はいじめられるだけなんじゃないかって」

 私は妖精だ。同じ妖精のことならともかく、人間や妖怪のことが完全に分かるはずもない。
 あのレミリアほどではないとはいえ、私にも仲間を、ほんの少しだけれど疑う心があった。
 間違っていると私は言った。でもそう言った私も、どこかで間違えていたのかもしれない。
 完全に正しいものなんてない。そんな場所で私ができることは、あるのだろうか。

「そんなことはないと思うけどな」
「そうそう、思い出してみれば分かるんじゃないかしら」
「……えっ!?」

 不意に後ろから聞こえた声。幻覚なんじゃないかと思ってしまうほどに、私にとっては懐かしい音色だった。
 忘れたくても忘れられるはずがない。殺し合いの中でも一番長く過ごし、死に別れたひとの姿が、目の前にあった。

「にとり……? それに、レティも……」

 出会ったときと全く同じ格好のまま、ふたりは静かに笑っていた。
 幻覚と私は咄嗟に言葉を出したが、実際そうなのかもしれない。生き返るなんてあり得ない。
 でも喜ばしい気持ちがどこかにあるのも確かだった。別れたくなんてなかった。助けたかったのに、何もできなかったから。

「何もできなかったってことはないだろ?」
「確かに、私達は死んでしまったけど、過程は違った」
「……そうだったっけ」

 思い出せない。いや、思い出したくないのか。たぶん、悲しさが過程をも塗り潰してしまっているから。

「つらい?」
「……当たり前じゃない!」

 疑っているのに、好き。戻ってこないと分かっているのに戻って欲しいと願っている。
 矛盾している。心が迷っている。決断なんかできない。だから何もできないのかもしれない。
 私は、こんなにも弱い。

「つらいなら、ずっとここにいてもいいと思うわ。やり直せるという選択肢だってあるもの」
「そうだね。まあ、多分、私らは生まれもいる場所も違うからもう会えないと思うけど……死にはしないかな」
「……でも、生きててくれるのよね」

 私の問いに、ふたりはゆっくりと頷いた。
 あくまでも判断は私に。死んだふたりと生きている私とで、権利の差があるのかもしれない。
 決めたくない。あまりに酷い選択肢だと思った。
 私がここにいることを選べば、ふたりは生きていられる。出会えた記憶も、出会える可能性も消し去って。
 私が首を振れば――死ぬ。代わりに残るのは、こんなにも小さな私だけだ。役に立つかどうかも分からない私が。
 今度こそ逃げられない。逃げられたとして、どこまでも残酷な選択は追ってくる。恐怖なんだ、これは。
 だから神様に身を委ねて、恐怖のない場所に行くというのは……正しく、思えた。

 …………でも。

「私…………忘れるの、やだよ…………」

 思い出したくなくても。
 記憶にははっきりと残っている。
 飴玉を舐めていたとき、みんなは笑ってた。
 一緒に並んで歩いて、他愛もない話をしていたときが輝いてた。
 いいことだってたくさんあって、だから私もいいことをしようと思うようになったのに。

「ごめんなさい……ごめん……許してもらえないと分かってる……」

 私がふたりの立場だったら、きっと説得していただろうと思う。もしやり直せるなら。あまりにも魅力的だ。
 でもふたりは私の言葉をずっと待ってくれた。どっちを選んでもそれは私が決めたことだって信じてくれる、本当の信頼があった。
 疑っていたのに。だから、その優しさにだけは私の心の奥底からの答えで応えなきゃと思った。
 たとえそれが、ふたりを踏みにじることになったとしても。

「そんなことないわ、サニー。だってあなたは……私の呪われた世界をやっつけてくれたじゃない」

 泣きじゃくるだけの私に、レティがそう言ってくれる。
 私が、やっつけた?

「『強いからって何してもいいわけじゃないでしょ! そんなことしてたら、みんなひとりになっちゃうよ』……ってね」

 呆然とする私に、今度はにとりが近づいてきて、あるものを手渡してくれる。
 手に収まったのは、いつかみんなで舐めた飴玉の入った缶だった。

「忘れ物。失くすんじゃないよ。今度は甘いものしか入ってないからね。美味いぞ」

 にとりの手には抜き取ったのだろう、白いハッカ飴が積まれていた。
 口にこそ出さなかったが、これが私の呪われた世界をやっつけてくれたんだと言っているように感じた。

「……わたし……」
「悩んでるってことは思考停止じゃないわ。だから、サニーがどんなことを選んでもいいんじゃないって思う」
「……うん」

 ドロップ缶を握り締めて、私はふたりに背を向けた。
 いいとも、悪いとも言わなかった。それを決めるのは結局私でしかない。
 でも、ふたりは私の選択を尊んでくれた。だから、私は悪い選択だなんて思わない。
 やっつけてやる。私なりの方法で、自分に恥じない方法で。
 ドアノブを回し、扉を開けて外に出た瞬間、カラッとした晴天の青が私を迎え入れてくれた。

     *     *     *

 さて。
 行けども行けども、我が進路楽にならざり。
 気がつけば私、東風谷早苗は迷宮の中らしきところを彷徨っていたようだ。
 あの男性が言っていた、あるべき場所、とはどうしても思えないのだけれど。
 きっと閉じ込められただけと思うことにしよう。でなければ納得できないので。

「まあ、迷宮と言っても迷路じゃないんですよね」

 壁がない。果てがない。お先真っ暗の混じりけなしの広大な空間。
 足元に点々と床を照らす明かりが見える以外は一切のものが存在しない。
 歩いても歩いてもスタート地点に戻されるような感覚にうんざりしてきたので、私は思索にふけることにしたのだった。
 飛ばされただけなら、きっと脱出の方法はあるはずなのだから。
 床に座って、広々としていて、それでいて寒々しい空間を見つめていると、私って小さいんだな、という変な感想が生まれてくる。
 こうも物がないと、だんだんと自分が縮んでゆくような気さえしてくる。そして暇である。

「最果てとはそういうものよ」

 どうしようかな、と考えていた矢先、後ろから出し抜けにかけられた声に、私は二重の驚きを覚えた。
 単純にビックリしたというのが一つ。そしてもう一つが、絶対に聞くことのできない妖怪からの声だったから。

「ゆ、紫さん!?」
「ごきげんよう、東風谷早苗」

 ひらひらと手を振り、曖昧な笑顔を振りまいた紫さんに、私は目をしばたかせるばかりだった。
 だって、その、ここに紫さんがいるってことは、その。

「ま、まさか本当に死後の世界」
「だと思うの?」
「……違うんですか」
「純粋ねえ、あなた」

 小馬鹿にしたような態度に、私はムッとして紫さんを小突いてやろうかという気になったが、その間に紫さんは距離を取っていた。
 逃げられた。というより、避けられた? どこかほんの少しだけ違う。

「もしやあなた、紫さんではありませんね」
「どうかしらねぇ」
「では私の目を見てもう一度」
「そんなもの、証明にならないわ」

 やっぱり、と私は少しだけ落胆した気分になった。
 のらりくらりとかわす一連の言動は、出会ったころの紫さんならともかく、今の紫さんならあり得ない。
 同時に、怒りのような感情が浮かんでくる。そんな紫さんを模した、『彼女』を送り込んできた幻想郷の創造主は悪辣極まりない。
 些細なことで照れるし、悲しむし、笑ったりもする、そんな紫さんを私は知っているのに。

「慌てないで。確かに私はあなたの知っている紫ではないわ。そうね、敢えて言うなら、私はあなたの心の中にある妖怪像とも言える」
「……妖怪像?」
「そう。人間に害を為すもの。心を閉ざしたもの。臆病で、己しか信仰していないもの」

 大仰な仕草は、紫さんとは似ても似つかない。
 しかし偽物だという感覚はない。言葉自体はまさに紫さんの選びそうなものだったからだ。
 妖怪という存在の集合体。妖怪そのもの。かれらの一般的な思考を集めたものが、私の目の前にいる。

「そんな私達が辿り着くのがここよ」
「……最果て」
「ええ。誰もいない。ただ広い。先が見えない。縮んで消滅してゆくばかりの世界」

 だとするなら。歩いても歩いてもキリのない感覚も、自分が縮むような感覚も、全て妖怪の気分を味わってもらうための仕掛けだったということか。
 よく練られた仕掛けだと思う。なるほど、これは、確かに孤独、だ。

「あなたは信仰が心を結びつけると言う。けれど、他者の心は見えないのよ」

 だから私達は歩み寄って……そう言おうとして、口を閉ざしてしまう。
 どこに近づけばいい。どこに歩いてゆけばいい。見えないものをどう信じろというのか。

「人間なんて分からない。妖精なんて分からない。神なんて分からない。あなたは心の存在を証明できるの?」

 幻想郷は、あらゆる幻想的存在が目に見える形で集まっている。
 妖怪に限らず、神、霊、超自然的存在でも、目に見えるものとして存在している。
 であるからこそ。はっきりと目で捉えることが出来るからこそ。目に見えないものへの信仰は、幻想郷では衰退してしまったのだ。
 なんて、皮肉――

「歩いても誰かがいるとは限らない。いたとしても、対話ができるとは限らない。ひとりでいる以上の孤独を突きつけられるかもしれない恐怖がある」

 本当は、そこにいるのかもしれない。
 私が気付いたように、心から欲しいと願うものはすぐ近くに転がっていて、なんてこともなく手にできるものなのかもしれない。
 だけど、それは可能性という曖昧なものでしかない。絶対にできるという保障なんてないし、一度上手くいって次も上手くいくとは限らない。
 目に見えないもの。不確実なもの。心は、幻想郷で信仰することが一番難しいものだった。

「妖怪は何も知らないから。彼らに心があることさえ、理解できない」

 触れ合わせても繋がっていることさえ分からない。
 信仰している私達でさえ、幻想郷からしてみればあまりにも小さい。

「……なくなった方がいいとは、思わない?」

 ならばやり直せばいい。希望など殆ど残されていないのなら、スタート地点まで戻ってしまえばいい。
 その方が皆が幸せになれる道が見つかるのだろう。今の苦痛ばかりの道などではなく、幸せだけを得られる道がきっとある。
 私は紫さん、いや、妖怪の顔を見た。
 疲れきっている。失望している。もういいだろうという、痩せ衰えた笑顔だけがある。苦しませないでくれ、という願いがある。
 私は、手を伸ばしてきた妖怪に近づき――

「それでも」

 ――素通りして、前へと進んだ。

「私は知ってるんです。本当の紫さんを。心に確かに触れた紫さんを。きっと信仰は生まれたんです」

 ほんの小さな、たった一つの例であるだけなのかもしれない。
 でもそれは確かに、私に刻まれた確かな真実であるはずなのだから。
 伝えたいと思う。時間がかかるなら書き起こせばいい。全てが伝わらなくとも少しでも分かれば新しい可能性が生まれる。
 僅かな可能性に縋るのではなく、自分達で生み出していけばいい。
 私は、自分を信じる。自分が信じる自分だけじゃなく、皆が信じてくれた自分を信じる。
 この先にはきっと、全てを捨ててやり直すだけでは決して辿り着けない幸せがあるのだと。

《私はずっと、お前を見てたよ。心のままに進みなさい、我が子よ》

 闇の中へ。最果てへ一歩進んだ瞬間。
 私の中にあった〝理想〟は、私の信仰に、応えてくれた。

     *     *     *

 いつからここにいたのか。
 一体どれくらいここにいたのか。
 判然としない意識の中、私の瞳が最初に捉えたものは、太陽だった。

「黒い……太陽」

 輪郭こそ白いものの、虚無と表現して差し支えない漆黒は、太陽と言えた。
 否応なく思い出させられる。私の中にもある。チルノを殴りつけてしまったときの感情。
 全てなくなってしまえばいい。己さえも消滅させ、ひたすら相手を拒否する、大切なものがあるからこその感情を。
 でも目を逸らすことはしない。友達と、チルノと約束したんだ。おんなじことの繰り返しはもうしないんだって。
 強く見据える。すると、まるでそうすることを待っていたかのように。
 太陽から、何者かが飛び出してきた。
 そこまでは予想していた。誰かが待ち受けているであろうことは。
 でもその正体はあまりにも想像の外すぎて……

「わた……し……?」

 広げれば私の身長ほどもある、地獄烏特有の黒く大きな翼。
 胸元にある、神様の赤い目。
 右足には『融合の足』、左足には『分解の足』、そして腕には『第三の足』。
 唯一違うと言えたのは顔だ。眼球があるはずの場所には何もなく、窪んだ眼窩のみがある。
 開いた口は紅く、それは太陽よりも血液を想像させた。
 虚ろだ、と思った。あれは私のかたちをしているけれど、中身がない。
 ただ目にしたものを消し去ろうと、拒絶衝動のみで向かってきているだけだ。
 《わたし》がゆらりと手を伸ばしてくる。私は、直感で脅威だと判断していた。
 バックステップして大きく身を引いた瞬間、伸ばされた手が『クリーピングサン』を放っていた。
 生み出された火球は急速に降下し、そのまま床と思しき場所に当たって炸裂し、熱風と火炎を撒き散らした。

「自分自身と戦え、って……の!?」

 すかさず反撃の『メガフレア』を撃ち放ったが、《わたし》は大きく旋回して事もなく『メガフレア』を回避する。
 もし能力までが私と全くの同一なら、避ける方法までもを知っているのも頷ける道理だった。
 続いて、《わたし》が咆哮を上げる。獣のような、機械のような、内容さえ理解できない言葉だった。
 上空から次々と弾幕が放たれる。私の知っている弾幕。全部避けられる。避ける方法を知っている。
 これは、果てのない戦いになるのではないか。僅かに生じた予感を振り切る。
 黒い太陽を身に宿した、破壊を目的に動いている《わたし》に負けるわけにはいかない。

 弾幕は難なく避けられる。しかしそれは、私の弾幕が撃っても同じことだろう。
 近づこうとする。接近戦ならと思っての行動だったが、それも読まれていた。いや、本能で理解されているのだろう。
 触れれば熱でダメージを与える『レトロ原子核モデル』を周囲に旋回させ、即座に防壁を築いた《わたし》に近づけず、
 已む無く『地獄波動砲』で射撃を試みたが、同じ『地獄波動砲』で全て相殺されてしまう。
 そうなるだろう、と私も分かっていた。だって、理性がなくとも、あれは私だ。
 一目見た瞬間彼女が虚ろだと理解してしまったように。狂ってしまった私自身だと感ぜられたように。
 お互いに弾幕を撃ち続ける。当たらない。掠りもしない。互いに知っているのにやめようとしない。
 戸惑いはなかった。怒りや憎しみもなかった。ただ、

(悲しい)

 自分で自分を傷つける。分かっているのに止めることができない。
 自殺のような自己愛。きっと、それは、未だに私の中に潜んでいたのだろうと思った。
 《わたし》と戦い抜いた先に、誰もいなかったら。
 私を受け入れてくれるものがなかったとしたら。
 私は、他のみんなと違う。戦うことしか能がないから。
 恐怖は未だに残っていた。克服したつもりだったのに、いつまでも、呪いのように付きまとう。

 だから、きっと。
 私に触れようとしてくる《わたし》は、そう遠くない先の私なのかもしれない。
 帰れる場所は、本当にあるのだろうか。
 おかえり、と、たった一言そう言ってくれる誰かはいるのだろうか。
 信じているのに不安は出てきてしまう。信じているから、奥底に潜んでいるものが顔を出す。
 信じるから辛くなる。絶望は期待の裏返しなのだから。
 ならばどちらも感じなければいい。なくしてしまえば、得られない代わりに失うこともない。
 良くならなくても、悪くはならないのだ。
 目を閉じて、耳を塞ぎ、体温を冷たくして、口を開かず、うずくまれば。
 死なず、苦しまず、エゴだって持つこともなくなる。
 恐怖からは逃げられはしない。希望がある限り、必ず絶望はやってくる。
 理想郷の裏では、静かに一望千里の虚無世界が侵略の足を伸ばしているのだろう。
 そのどちらも見たくなくて、《わたし》は、自らが滅びようとも他者を汚濁で溶かそうとするのだ。
 生きている限り、今は正気を保っている私も他人事ではない。

 もし、さとり様と出会えなかったら。
 もし、お燐が友達ではなかったなら。
 もし、チルノと出会わなかったら。
 もし、メディが素通りしていたら。

 もっと早く、私は《わたし》になっていただろう。
 世界は恐怖に包まれている。どこまで行っても逃げられない。呪われている。
 空想さえできない、未知の感覚ばかりが待っているだけだ。
 そんな場所で、私は心を持ったまま生きなくてはならない。生き続けなくてはならない。

「幻想郷は、世界は残酷なんだ……表裏がある構造も、辛かったり痛かったりする感情も、全てが!」

 弾幕の合間を縫って、《わたし》が再び手を伸ばしてくる。
 狂気さえ孕んだやさしさがある。私からあらゆるものをなくそうとすることで、救いのある場所へと導こうとしている《わたし》は、きっと正しい。
 そう。正しいなんてことは、とうの昔から分かっていた。
 地底に追い出され、不必要な地獄烏でしかなかったときから。
 けれど私は、戦い続けることを選んだ。
 だって。

『それでも、心を捨てちゃダメなんだ!』

 辛くても、苦しくても、想像しただけで心が張り裂けそうなほど悲しくても。
 私は心を捨てずに、居続けようとした相棒の姿を知っているから。

「……チルノ、チルノ! いつだってお前が最強だったんだ!」

 触れようとした腕から逃れ、私は制御棒を真っ直ぐに《わたし》へと向ける。
 それがどんなに愚かな行為かなんてよく分かっているつもりだ。
 私は自分で自分の救いを消す。心を捨てたくないというその一点だけで、あらゆる恐怖が内在する場所に向かおうとしている。
 祈る神もいない。不安で、あまりにも不安だった。
 泣いているほどだ。悩んで、苦しんで、迷って。ようやく下した決断でさえ、救済を放棄しただけの我侭だから。
 私にできることは、心を捨てずに、忘れずにいることだけだった。
 でも、これだけは言える。

「絶対に忘れたりなんかしない! 私の友達はみんな強かったんだって、あらゆる方法で忘れない!」

 残った力を、ありったけ放出して。
 《わたし》を、虚空の彼女を、太陽の業火が飲み尽くした。

     *     *     *

 ふわりとした感覚。暖かい触感。
 今までに味わったことのない優しさがある。
 息を吸う。甘い。よく聞く、日向の匂いというものがこれなのかと思う。

「フラン様、フラン様」

 嗅覚を働かせていたからか、揺さぶられていたことに気付いたのは声をかけられてからだった。
 けれどその呼び名は聞き慣れないもので、どこか微かな違和感があって……

「……もう。しようのない妹様ですね」

 と、私を覆っていた暖かいものがいきなり剥ぎ取られる。
 少し冷たい空気の流れに目が開いたのもつかの間、横から体を持ち上げられ無理矢理起こされるような格好になった。

「わ、わ! ちょっとやめてよ咲夜! ……咲夜?」
「はい。十六夜咲夜です」

 既に畳んだ布団を傍らに置き、いつものメイド服に身を包んだ完全で瀟洒な、紅魔館のメイド長がそこにいた。
 呆然とする。だって、咲夜は、もう……
 何の幻覚だと思い頬をつねってみるが、鋭い痛みが走るばかりで何も変化はなかった。

「残念ですけれどもう朝ですわ」

 言われて、周囲を見回す。
 西洋の家具で調えられた清潔感のある部屋。
 開いた窓からは清涼な風が吹き込み、咲夜の短い髪を靡かせている。
 日光が入らないような間取りなのか、床は殆ど照らされていない。
 紅魔館だ、と私は思った。けれどここは私のよく知っている場所ではない。
 私は地下に幽閉されていて、お屋敷の中ですら滅多なことでは歩き回れないはずで。
 それより何より、私は、魔理沙達と創造主に立ち向かっていたはずなのだ。

「現実です」
「現実……」

 冗談めかして言った咲夜の態度が、逆に真実味を帯びているように思えた。
 信じられず、のろのろと起き上がり、ぺたぺたとその辺りをうろうろしてみる。
 肌身に感じる空気も、音も、確かに現実のようには思える。
 では先ほどまでは一体何だったのか? そちらこそが夢? 幻?
 いや夢だと一言で片付けるには、起こってきたことはあまりにも凄惨すぎた。

「ということなので、お嬢様がお待ちですので夢遊病患者の真似などなさらず食卓の方へお越し下さいな」

 にこやかに告げて去ってゆこうとする咲夜に、私は「あの!」と呼び止めていた。
 あまりにも真剣な声色だったからだろうか。「はい?」と小首を傾げつつも、咲夜の顔は真面目だった。

「お嬢様、って、お姉様よね……?」

 すると、咲夜は。
 一瞬呆気に取られ、次にはふふっと笑い、
 そしてすたすたとやってきて私の頭を小突いた。

「寝ぼけてないでさっさと『レミリア』お嬢様のおところまでいらして下さいね」

 そして今度こそ部屋を後にする。
 音もなく扉が閉められた後、私がひとり残された。
 どういう、ことなのだろう。お姉様は、いや紅魔館のみんなはもう、死んで、しまったはずなのに。
 或いはこの状況こそが、私達が勝利した結果だというのだろうか。
 ……分からない。なら、まずは自分の足で確かめてみるしかない。
 よし、と意気込んでまずはお姉様のところまで行ってみることにした。

 扉を開け、廊下へと踏み出す。やはり紅魔館を管理しているのは咲夜であるらしく、日中であっても陽光が入らぬよう手が行き届いている。
 なんてことのない、いつもの風景に逆に戸惑う。夢か現か、判断が覚束ない。
 しずしずと歩いていると、廊下の向こう側で騒ぐ声が聞こえ、続いて妖精メイドがどたどたとモップ掛けをしているのが見えた。
 そのまま行ってしまったかと思えば戻ってきて手を振られる。あまりにも気さくな態度なものだから、つい私も振りかえしてしまっていた。
 地下に閉じ込められていたころの私は、畏怖の対象だったというのに。
 まるで受け入れられているような感覚。肯定されているような感覚に、私は戸惑いつつも悪くはない気分が芽生えているのが分かった。
 幽閉されていたとはいえ、一応紅魔館の間取りは把握してあるので、お姉様が待っているであろう食卓の間に辿り着くのは早かった。
 殆ど会った事もなく会話した記憶さえ薄いお姉様が、扉の向こうにいる。二度と会えないと思っていたのに。
 結局他者にしかなれなかったと考えていたお姉様が、いる。
 意を決して扉を開く。緊張感からか力が入らず、我知らず恐る恐るといった調子で部屋に入っていた。

「……あら、今日は遅いのね、フラン」
「お姉、様……」
「私もいるわよ、忘れないで」
「……パチュリー」

 テーブルについていたのは二人。お姉様とパチュリー。
 私が来るまでの間談笑でもしていたのか、二人の手元には紅茶のカップとお茶請けのクッキーがあった。
 咲夜の姿は見えず、席を外しているのだろうと分かった。

「どうしたの、夢でも見たような顔をして。ほらこっちに来なさい」
「ちゃんと貴女の分のお茶とクッキーは残してあるから。レミィがちゃんと取っておいてくれたのよ」
「違う、ダイエット中だと言ったろうパチェ」
「昨日たくさんケーキ食べてたくせに……」
「じゃあ今日からダイエットを始めたって設定で」
「設定って何よ」
「……ああもう、ほら、さっさとこっちに来る! 私の隣!」

 いつまでたっても来ない私に業を煮やしたのか、お姉様が手招きしてくる。
 私の席があって、私の紅茶と、お茶菓子がある。居場所が、あった。
 何も言えず、しずしずとお姉様の隣に座る。

「本当にどうしたの、フラン。悪い夢でも見てた?」

 そして、さりげなくでありながらも、心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
 家族として扱われているのが分かる。気の触れた危険な妹などではなく、ただの妹を見る目がある。

「……お姉様、やさしいね」

 どうして、と尋ねるつもりで言ってみたのだが、お姉様にとっては刺激的な言葉であったらしい。
 ぶっ、と吹き出しごほごほと大袈裟に咳き込んだ後、顔を真っ赤にして私を睨んだ。不意打ちは卑怯だといわんばかりに。

「何をたわけたことを、紅魔館の主として親族の身を案じるのは当たり前のことで……」
「妹が心配だって素直に言いなさいよ。仲直りしてからいっつも仲良しなくせに」
「パチェ!」
「私にはそう見えるだけよ。全く、異変の後で急に『妹は自由に出歩かせる』とか言い出して……霊夢や魔理沙に何言われたか知らないけど」
「企業秘密よ」
「どうせ下らない姉妹喧嘩なんてやめろ子供じゃあるまいしとか言われたんでしょ」
「……今日はこの程度にしといてあげるわ。私の寛大な心に感謝するんだな」
「はいはい。我が友人の度量に感謝」

 仲直り。軽口を叩き合う中で出された、私とお姉様の関係性を示す答え。
 記憶ではそんなことなんてなかったはずなのに。異変の後も、お姉様は無言で、私は地下でお姉様の活躍だけをたまに耳にして……
 でも、確かに、ここで話している二人はお姉様とパチュリーで、私がここにいるのが当たり前だと思っていて……

 理想が、ここにある。

 本当はこうしたかった。ずっとこうしたかった。
 もしお姉様が生きていたなら、こうなるためにどんな努力でもするつもりだった。
 嫌いになんてなれるわけがなかった。何百年閉じ込められていても、仲良くなれるならその過去でさえ全部肯定できるほどに。
 家族だからという理由だけじゃない。どんなときでも凛々しく、気高く、自分自身を誇ってきたお姉様は本当に尊敬していた。
 たとえ噂から耳にしたものだったとしても、噂になるほどのカリスマ性があり、そして畏れられていた。
 立派な館と頼れる部下を持ち、本当の強者というものを体現してきたお姉様に近づきたかった。知りたかった。触れたかったのだ。
 昔から、好きかどうかは分からなくても敬愛していた。だから好きにもなろうとした。なりたかった、ずっと。
 お姉様ひとりだけではなく、咲夜も、パチュリーも、恐らくは門番の美鈴も。私はきっと好きになりたかった。

「つまりそういうことよ。私は偉大だからな。優しくしてやるから慕うがいいわ」
「……うん。ありがとう」

 そういうお姉様だって、いたのだ。
 暖かい、と思う。こんな場所でいつまでも暮らせたら。
 いや実際、もう暮らしているのだろう。あの辛い日々は全て夢で、これからは穏やかな幸せだけがある。

「さて、三人揃ったし出かけましょうか」
「ええ。まさか、『部下達へ労いの贈り物をしてやろう』なんて言い出すとは思わなかったけど」
「感謝と感激でひれ伏す咲夜や美鈴の姿を見たいだけだ、ふふふ」
「丸くなったわねぇ」
「お前もな」

 肩を竦めて、パチュリーは先に外へと出てゆく。
 お姉様も続いて椅子から立って外に向かおうとしたが、私は座ったままだった。

「フラン、行くよ。咲夜達にバレないうちに事を済ませなければね」
「…………お姉様」

 その言葉を絞り出すのには、尋常でないほどの逡巡と覚悟が必要だった。
 躊躇い。葛藤。それだけがあり、それが正しいのか正しくないのかはもう関係がなくなっていた。
 立ち上がる。怪訝な顔をしていたお姉様に振り向く。私を、大好きでいてくれているであろうお姉様。

「私は…………行かない。戻らなきゃ」

 この世界の、どこも嫌いなわけではなかった。
 絶対に私も好きになっていただろうと思う。
 ここはいいところだ、是非おいでと胸を張って言えるくらいには。

「……そう」

 私とお姉様の距離は、手を伸ばして届くか届かないか。一歩を踏み出せば、胸に飛び込めるだろう。
 風が吹き、開いた窓から私達の間を駆け抜けてゆく。
 お姉様は、分かっていたというような表情だった。

「ここには全てがあるのよ、フラン。私はお前をいじめたりなんかしない」
「分かってる。優しい王様だもん」
「私だけじゃない、みんな親切だ。気楽で、暢気で、ぬるま湯のようだけれど、真っ直ぐだ」
「うん。ちょっとの間しかいなかったけれど、みんな幸せそう」
「私の運命が言っている。ここよりいい場所なんてないだろう、とね」
「知ってるよ。お姉様は、私がどこから来たかも能力で分かって、でも受け入れてくれた」
「それでも行くの?」
「それでも行くよ」
「辛いことがきっと待ってる。報われないかもしれない。呪われているんだ」
「その呪われた世界で、私はたくさんのものと出会ったから。スターに、藍に、てゐに、紫に、魔理沙。お空や文、サニーや早苗も」
「私より大切なのか?」
「……それは、決められないよ。お姉様も、パチュリーも、咲夜や美鈴も、きっと大好きになってた」
「じゃあ、どうしてなのか理由を教えてちょうだい。私にだけ、フランの決意を」
「忘れてしまいたくないから。私があそこで、経験してきたことを」
「悲しいことがたくさんあったのに?」
「だからだよ。閉じ込められてた命の先で、初めてスターと出会った。世界は広いんだってことが分かって、友達になれたかもしれないスターは、私のせいで死んでしまった」
「辛いわね」
「だから本当に守りたい友達ができた。それでね、藍は、誰かといることの楽しさを教えてくれた。最後までお礼はいえなかったけど」
「後悔してる?」
「してるよ。でも、藍は許してくれたって思う。なんだかんだでいい式神だったもの。お姉様ほどじゃないけど、心は広かったよ」
「続けて」
「てゐは、私の初めての、ゼロからの友達。魔理沙は元から知り合いだったけどさ、てゐは違う。ケンカして、考えて、多分仲直りできたよ」
「凄いじゃない」
「ありがと。最後には死に別れちゃったけど、でも、いい友達だった」
「羨ましいわ」
「紫はすごくムカつく。腹が立ってばっかりだった。……でも、私がお姉様以外で初めて尊敬できた奴、かな」
「そうか。私も尊敬してたのね」
「お姉様はかっこいいもの」
「ありがと」
「……みんながいたから、私はここまで来られたんだ。だから、ここまで積み重ねてきたことを戻してしまいたくない。
 自分勝手なんだって分かってる。きっとここではみんな幸せに生きてるから」
「フランは、自分を選んだのね」
「うん。私は、そんな自分を誇りに思う。みんなが生かしてくれた私を、私は認めたい。……みんな好きだけど、そんな自分を尊べる」

 そして、これが、私が一番言いたかったこと。
 泣きながら、それでも目は閉じず、みっともないほど涙を散らして。
 大きく息を吸い込んで、心のままに私は告げる。

「それが、誰かを好きになるってことでしょ!」

 本当に、どうしようもないほど馬鹿で身勝手な答えだと思う。
 好きだから自分を次にするのではなく、好きでいる自分を大切にする。
 自己愛と殆ど変わらない、最低一歩手前の結論なんだとは分かっていた。
 だから私は自分に注ぎ足してゆく。好きな自分と同じくらい、相手を尊べる道を探して。
 心を失わず、他の心を大切にできることを学べた、そんな呪われた幻想郷で私は生きていきたい。
 私が私になれた、この遙かなる幻想の大地で。

「そう。なるほど、面白い答えね」

 お姉様は一言呟くと、私の横を素通りして、テラスに出る。
 日光が差しているはずなのに、日光はお姉様の肌を焼くことはなかった。

「そんな勇気ある我が妹にひとつお願いするわ。よく聞きなさい、レミリア様の貴重なお願いよ」

 空を見上げ、一歩下がったかと思うと、その手には巨大な槍が握られていた。
 神槍『スピア・ザ・グングニル』。お姉様の必殺技。私が一度も見たことのない技。

「やっつけちゃいなさい。それで、フランが思いっきり笑えるような世界にしなさい!」

 天に向かって投擲される、神殺しの槍。それは遙か彼方まで飛翔し、空の一点に小さな穴を空けた。
 ひびが入り、空が欠片を落とし、崩れ始める。

「……ありがとう、お姉様! 私、お姉様にも負けないような吸血鬼になるから!」

 テラスから飛び出し、私は一直線に空の彼方へと向かって駆けた。
 ほざけ、と笑いながらお姉様がそう言ったのが、私の聞いた最後の言葉になった。

     *     *     *

「――そんな幸せ、お断りだ」

 私は、たった独り、ちっぽけな世界の片隅で涙した。
 それは、やり直した先の世界で待つ、みんなへの謝罪の意味を含んだ涙だった。
 本当に済まないと思っている。しかし、それでも、私は、霧雨魔理沙は……!

「幸せなことをチラつかせれば納得するとでも思ったのか? 空の言う通りだ。お前は他人なんて慮っていない」

 確かに、全てが解決するのだろう。
 けれどそれは、今まで私達がしてきたこと全てを否定し、拒絶した末の結果でしかない。

「自分の理想の世界が実現すれば私達は幸せなんだって思ってる。お前の自己愛に付き合わされるなんて真っ平御免だ」

 どんなに良くなっても、理想が実現しても。私達はこいつに犠牲にされる。
 積み上げてきたものを台無しにされることが分かって、受け入れられるだけの鈍感さなどあるはずがなかった。

「なかったことにしちゃいけない。お前の言うやり直しは、単なるリセットでしかないんだ」

 創造主にとっては、単なるゲームなのかもしれない。
 どうあっても思い通りの終わりにならないのなら、やり直そうとするのは当然の成り行きなのだろう。

「痛みを感じるのも何をするのかも決めるのは私だ。私の命は私で決める」

 私達には、破壊の後の再生なんて存在しない。
 今という結果を積み上げて、先の見えない混迷に足を進めてゆくしかない。

「たとえそれが、滅びにしか通じなかったとしても」

 何よりも――忘れたくない。
 霊夢のことも、紫のことも、ここで起こった全てのことも。
 数億年先、たとえ幻想郷が滅びて、生存しているものが私ひとりでしかなかったとしても。

「あらゆる明日を目指そうとする、愚かで尊い心があるから」

 自我の喪失を、私は最後の最後まで否定する。
 私は自分なりに歩いて、迷いながら、苦悩しながら、私達の歴史を作る。
 皮肉なことに……創造主と話すことで、私は不老不死なんかよりもよほど残酷な『なかったことにしてしまう』ことがあるがあると知った。
 全く無知で、救いようのない馬鹿だと私自身思う。
 だけど……

「哀しいから、哀しいことを忘れてはいけないんだ!」

 創造主を睨んで、私は絶叫した。
 この出来事も、後悔ばかりだ。
 大切なものがたくさん失われた。
 生きてゆくには死んでも死に足りないほどの労苦と時間が必要なのだろう。
 けれど無駄なんかじゃない。ここで起こったことの何一つとして無意味なことなんてなかった。
 私は自分で考えて、自分の方法で手を取り合える道を探すことを決めた。
 大変だと思う。ざっと考えるだけでも、紫の仕事を引き継いだり、色々な妖怪と話し合ったり、挙げればキリがない。
 一大改革の始まりだ。最悪綱渡りのような日々が始まるかもしれない。
 でもそんなことを恐れていて……私達だけの物語なんて作れるか!

「――それが君の答えか」
「私の答えだ」

 ミニ八卦炉を創造主に改めて向ける。
 これは、別れの合図だ。何があろうとも決別し、私達は進んでゆく。
 そして、伝える。何があって、何が起こったのか。記録して、後の幻想郷へ向けて語り継いでゆく。
 誰かの語る正しさ、誰かの語る倫理に疑問を持ち、自らの意志で歩くことを選択し、切り拓いた道を語り伝える物語を。

「いいだろう。行くといい。どこに辿り着くのかも分からない明日へ」

 口の端を僅かに歪ませ、男は横に退いて、道を開けた。
 その先にはいつできたのだろうか、眩い光ばかりがある。
 男の表情は、既に光に飲まれて見えなくなっていた。
 無駄だと嘲り笑ったのか、できるものかという余裕の笑みだったのか、別の意味を含んだ笑いだったのかは定かでない。
 今言えることは、これで私達は創造主の庇護を離れたということなのだろう。
 もう二度とやり直しのきかない明日が、この先にある。

「ああ、行ってやるぜ」

 不思議と穏やかな気分だった。
 恐れも不安もない。
 足掻くだけ足掻いて、一秒でも長く生存してやる。
 高揚感のうちに、私の体も光へと吸い込まれていった。




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最終更新:2012年10月05日 21:45
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