信仰は気高き彼女達とともに ◆CxB4Q1Bk8I
空は色を変化させる。
永く、変わらぬ日々をすごしてきた彼女には、それは目まぐるしく変化する異常にも思えた。
今はもう、一周回って、元通りになろうとしている。闇から始まり、闇へと回帰する。
それでも、流れた時間は、戻る筈も無い。
その間にあった全ては、何一つ還らず、
流し去ったものは、二度と、その手には戻らない。
瓶詰めの白い錠剤薬と、白湯を注いだ湯呑みを木製の盆に載せ、古明地さとりは永遠亭の一室を後にした。
庭に面する縁側に出ると、僅かな冷たい風を感じて少し身を縮こまらせた。
外は、部屋に入った頃はまだ陽の光も感じられたものだが、今は完全に陽が竹林の向こう側に落ちている。
そして、陽の落ちた地上は、地底よりも暗く、不気味だと、さとりは思った。
竹が波打つように揺れ、言葉無き風の声を伝えようとする、
そのさざめきはまるで、人々の溢れ出る感情、雑駁な人間のこころを映し伝えるかのよう。
今、それ自体は無機質で意味の無いものであることを当然に理解している。
しかしさとりは足を止め、その意志なき声に耳を傾けていた。
彼女は少し困惑していた。
こんなにも、こころ無き世界は、寒々しいのかと。
心を閉じたあの子の見る世界は――と。
再び、歩を進める。
木造の廊下が、ぎしぎしと音を立てていた。
慣れない者を拒むかのように軋み、足音を過剰に響かせている。
ただ、かなり年季の入った建物だというのに、老朽という言葉とは無縁のようで、床は誰も歩いたことの無いかのように保たれていた。
風邪薬、という余りに漫然とした要求に、ここの部屋は正しく答えを導いてくれたように思う。
恐らく、ここは薬師の個室であり、薬剤室、保管室を兼ねてもいたのだろう。
ここを管理していた薬師は随分と几帳面だったようで、用途・用法・用量の簡潔かつ的確なメモをそれぞれの薬剤の瓶に記していた。
膨大な種類の薬類の中から、迷うことなくそれを選ぶ事ができたことを、薬師に感謝しなければならない。
薬が錠剤である事も、薬が薬師の手を離れてからも、問題なく使われるためにそうした、のだろう。
――行き届いた気遣いがそこから見えてきて、さとりは奇妙な違和感を覚えたのである。
さとりは、ふと、過去を思い出していた。
――その相手は土蜘蛛だった。
病気を操る程度の能力を持ち、されどその力を無闇に振りかざすことのない、明るく楽しい妖怪。
自分の性格とは正反対だと、会った時からさとりは感じていた。だが確かに嫌な感情を彼女には抱いたことは無かったように思う。
この世界で既に亡き者となってはしまっているが――。
いつだったか。何かの宴会の誘いに来た彼女と、話をする機会があった。
その頃には既に私が覚りであることなど地底でも周知の事実であり、地底という環境ですらそれが他者を遠ざけるに十分な能力であると知っていたから、
さとりは宴会など書面での形式的な誘いを断るのが常であったのだが、その日彼女は直接屋敷にまでやって来たのだった。
彼女に自分が覚りであることを知らないのか問うたところ、知ったうえで興味があるから、と彼女は笑って言った。
忌み嫌われた能力のために地底に追いやられた種族としての僅かながらの仲間意識と、今後の地底生活の安寧のためという打算もこころには見え隠れしたが、
その齟齬を指摘したところで彼女は堪えないだろうと思って黙っておくことにした。
ただ、その上で誘おうというのなら、とさとりは彼女に問うたのだ。
貴女はこの能力を忌みはしないのですか、と。
さとりの前で、上辺だけの言葉では通用しない。
やはり自身の能力に対して何らかの負の感情を抱いているとするならば、それを理由にし、誘いを断るつもりでいたのだ。
その問いに、彼女はなんともあっけらかんと言い切ったのだ。
“なんだい、気にしてるのかい?
私の能力も、あんたのその能力も、みーんな同じことじゃんか。
使う側と受け取る側次第で、善くも悪くもなるってことさ。
――ああ、私の能力はさ、病原菌操って病気を流行らせちゃう能力なんだけど。
なんていうかね、私の能力は他人を苦しませる、毒をばら撒くような能力さ。そりゃ嫌われちゃうよ。
でも考えてみりゃ、毒ってのは薬と同義なわけ。
毒とか、ウィルスってさ、上手く使えば他人を助けることの出来る能力だよ。
逆も然り、薬も僅かな誤りで毒となる。その差は紙一重さ。
結局、能力をどう扱うかって、使う側次第だろう?
私なんざ、他者のために能力使おうなんてこれっぽっちも思わなかったけどさ。あはは。
だからまぁ、逆にさ、たとえば薬師なんてのは、知識を他者のために使っているだろ? そりゃ報酬目当てとはいえ、ね。
私にとっては、ま、天敵かもしれないけどさ、ある意味尊敬してるよ。薬師とか、そういうやつはね。
特に――、ああいや、地上に有名な薬師がいるって聞いたんだけどさ、噂だけだけど、ありゃ尋常じゃないね。
彼女に治せない病気は無いってね。天才ってのかね? 私は敵いやしないわ。
ああ――話逸れちゃったよ。なんだっけ? ああ、能力の話ね。
ま、あれだよ。別にあんた、能力を悪いことに使おうって腹じゃないだろう?
だからいいのさ。自分のこころ隠したい奴じゃなければ、あんたが悪い奴じゃない以上、あんたを恐れる必要ないからね。
たとえば喋れない動物とかさ、あんたに結構懐いてるでしょ。そういうのがあるじゃないか。
あと私なんてさ、上辺を取り繕うのが苦手でねぇ。普段から本心は駄々漏れだからさ。今更隠すもんないよ。
大妖怪みたいなのはみんなそういうの上手いけど、私みたいな木っ端妖怪はそんなこと気にしなくていいから楽だね。
泣きたきゃ泣いて、笑いたきゃ笑う。そうでなきゃこころが腐っちまいそうでさ。
――ああ、また話逸れたわ。ま、そんなことで、宴会はよろしくね。
ああ、そう。そんな駄々漏れな私だけどさ、病原菌だけは漏らさないよう気をつけているから、安心おし”
土蜘蛛はそう言ってげらげら笑っていた。
さとりは笑いもせずに、しかし彼女が全く嘘を言っていないことに安堵していた記憶がある。
そうして結局、彼女の押しに屈し、その後の宴会には出席した筈だ。
他愛も無い話を彼女として、幾らか笑い、まぁ楽しかったと、言えるだろう。
――それはともかく、である。
彼女の言ったように、地上の薬師は、人里などからの評判もよく、その噂を頻繁に聞いた。
過去も正体も謎に包まれてはいるが、悪い噂などほぼ聞かず、あったとしても、ありがちな凶科学者めいた非現実的妄想の産物であった。
他者を助けることを第一の仕事とする存在など、嫌われ者の住処である地下には存在しない。彼女はそうやって多くに慕われた。
それは志高くなければ勤まらない事なのだろう。
守ること。救うこと。助けること。自分達の知らぬ気高き行為は、ここの薬師の日常だったのだろうか。
高い見識と優れた才能を持ち、それを他者に有益となるように用いることのできる、そんな女性。
地底でも時折耳に入った、この屋敷の主たる月の姫君とその従者、こうしてこの場に立ち、彼女の空間に触れて感じる、天才と呼ばれる薬師の日常。
人妖を捕らえ集め、惨劇の開幕を告げ、慈悲の無い表情と口調の、今なお暗躍するであろう主催者の姿。
それが、奇妙なまでにかみ合わない。
記憶の中の、八意永琳の輪郭が霞んでいる。
――次第に歪んでいき、男の姿へと変わる、そんなイメージが脳内で展開された。あの、惨劇の幕開けに見た“こころ”だ。
はぁと嘆息し、さとりはもう一度、竹林に目を遣る。
彼らのざわめきは、既に止んでいた。
奥まった角の一室。屋敷の中では比較的広い部類の部屋に、他の二人はいる筈だった。
さとりが襖を開けると、その部屋の隅、眠る早苗の頭を膝に乗せ、目を細めなにやら物憂げにその髪を撫でている八雲紫がいた。
さとりは、部屋中へと進む足を、思わず、止めた。
それが、親子か、姉妹か、何故か強く心を揺さぶられる、家族の一瞬の風景に思えた。
そのまま写真か絵に残せば、数多の人妖の心を惹くものになるのではないかとさえ、さとりは思った。
同時に抱いた、さとりと彼女の愛する家族達の過去の風景が、心を締め付けるようで、
それを振り切るように、さとりは一歩踏み出し、部屋の中へと入っていった。
「あら、おかえり。ご苦労様」
さとりに気付くと、何事も無いかのように八雲紫は早苗を撫で付けていた手を離し、代わりに自分の髪を撫で付けた。
仕草だけは、いたずらを見咎められた子どものようだと、さとりは思った。
その表情は、取り繕ったように、胡散臭い笑みを浮かべていたけれど。
膝の上の早苗が、なにやら楽しい夢を見ているのか、にへらにへらと締まらない顔をしているのは、見て見ぬ振りした。
「結構時間がかかったようだけど、何か手間取ったのかしら?」
「いえ、薬を探すのは、さほど苦労ということもありませんでした。
整理整頓が行き届いておりまして、色々と丁寧でわかりやすくて。
ここの薬師には感謝しなければなりませんね」
さとりは、紫と早苗の傍に盆を置き、その脇に腰を下ろした。
紫の視線が、その仕草を追う。
「“薬師”にねぇ」
八雲紫が呟くように言う。
おそらく、八雲紫もまた、主催者として以外の八意永琳の姿を知っているのだろう。
彼女の明晰で歪な頭脳は、何をその言葉に込めているのだろうか。
「“薬師”としての八意永琳は、随分と優秀だったようですね。天才という噂も、頷けます」
本当に噂どおりの者なのか――それは気にはなっているが、今何を言っても仕方ない。
さとりは率直な感想を述べるに留めた。
「その天才に、こんな場所に押し込まれて、殺し合いをさせられているのだけれどね」
その言葉に対し、表情も口調も変えないまま、八雲紫は露骨に不機嫌そうな台詞を吐いた。
「ですがこれが果たして、本当に彼女の仕業なのか――」
男の輪郭を思い返しながら、さとりは滲ませるように言う。
言いながら、彼女ならば当然、“その可能性”を十二分に検討しているのだろうと考えていた。
と、そこで、八雲紫が、スキマ袋から一冊の本を取り出した。
よく見れば日記か何かのような綴りである。
「そういえば、八意永琳の残していたレポートが、手元にあるのよ。貴女も読んでおきなさい」
何か別な事を、例えば過去を思い返しているような、そんな表情で、それを投げるようにさとりに渡した。
「私と、霖之助さんは読んだわ。貴女ほどの妖怪ならば、読めば意味するところがわかると思うけど」
貴女ほどの、という評価をこの妖怪から受けるとは思わなかったが、それ以上に、霖之助、というその名前が引っかかった。
「……森近霖之助、ですか」
「そう。彼とは一時期行動を共にしたのよ。既に亡き存在だけど」
さとりは、唯一の男性の参加者である彼について、今まで抱いていた警戒心を、紫に伝えるべきか否か、迷った。
少なくとも八雲紫は、今は亡き彼を、仲間であったと認識していると思って間違いないのだろうが――。
「あの」
「話は、レポートを読んだ後にしましょう。余程大事な話で無ければ」
何かに触れられたくないかのように、紫は言葉を遮る。そして、傍に置いたままの薬を手に取った。
「この子の薬は私が呑ませておくから。それ以外にも何かあるなら言って頂戴」
「はぁ」
思わず間の抜けた返事をしてしまい、それからさとりは紫の言葉の意味を考え、それが奇妙だと気づく。
「何故そこまで?」
抱いた疑問を、そのまま紫にぶつけた。
道案内を頼んだ。
薬を探す間、早苗を任せた。
自分の知る情報を伝えた。
確かに、傍目、協力関係にあるのかもしれない。
しかし、彼女が今までに得た情報については、ここまでの道中でさえ殆ど語らず、彼女から自分達に協力する意志など全くといっていいほど無かった筈だ。
持ちつ持たれつの関係ではない。彼女は自分達と距離を置いている。いや、置いていた。
それなのに今は、紫は自分に情報を与えようとし、同行者だった者について語り、挙句には人間に薬を呑ませようとするなど、
とても彼女という存在を知るものからすれば想像し難いほどの、協力的な姿勢を見せている。
「……何か企んでいるのですか。いえ、企みごとをしていると疑っているわけでは無いのですが、余りに不自然に思えたので」
問い質すように話しかける。
こころを読んでしまえば良いのかもしれないが、余程の事が無い限り、この大賢者のこころを覚るなどは控えたほうがいいに決まっている。
「そういうところ、誤魔化さないのね。普通は、オブラートに包むものでしょう?」
紫は全く気に掛けていない様子でそう返す。
「真意を無闇に包み隠す癖がついてないだけですよ」
貴女とは違うんです、と言うのを堪えた。紫は苦笑していたので、恐らく真意には気づいているのだろう。
「言うわね。でも、別に企みがあるわけじゃないわ。気紛れよ、私のお得意の」
思わず、さとりは笑いそうになった。
紫の心は読めない。されど霧の奥深くに隠されたその真意は、決してそれだけの形ではないだろう。
気紛れは、他者には理解できない思考の流れの結果であるはずなのだ。
「本当の理由を伺いたいところです。これは個人的興味に類されるでしょうが」
「理由ねぇ? 覚りの妖怪って、そんなに、見えざるものが見えていないと不安なのかしら?」
じとりと湿った視線を紫に送る。
こちらを見つめ返してきたその瞳は、ひどく濁った色でその奥を覗かせまいとしていた。
穿った見方をするならば、彼女が大妖怪しての威厳を保つために、決してこころを覚られてはいけないと思っているのかもしれない。
さとりは肩をすくめた。無理に聞き出して彼女との仲を険悪にすることもあるまい。
「……わかりました。失礼なことをしましたね。
早苗さんには、錠剤を二つ、噛まずに白湯と共に飲み込ませてください。それだけで、半日もすれば体調が戻るようですから」
さとりの言葉に紫は頷き、湯呑みを手に取る。
治りかけとはいえ、爛れた掌には些かその熱は毒だったようで、慌てた仕草で元の盆に戻した。
「このままじゃ、飲めないわね……」
そう呟いて、ふぅふぅと白湯に息をかける紫の姿を、さとりは奇妙な心地で少しだけ眺めた。
視線に気づいた紫が見返してきたので、さとりは紫に手渡されたレポートに目を落とす。
この分では、確かに、彼女に早苗を任せても大丈夫だろうと、思った。
表紙を捲る。紙の擦れる音が、やけに大きく響いた、気がした。
――
――
目が覚めたとき、早苗は誰かの膝に頭を乗せていた。
温かく、柔らかく、殺し合いの場であることを忘れそうなほどに早苗を安心させる場所。
何も悩まず、何も怖れなかった頃の甘い香りすら漂ってくるかのよう。
最初は母親、次いで神奈子、諏訪子と想起する。
いずれも、もう手に入らない温もりなのかもしれない。
夢から覚めれば、冷たい現実だ。
わかっていても、否、わかっているからこそ、早苗は、強引にでも、目を開けた。
まず目に入ったのは、金色の髪。
一瞬抱いた諏訪子の幻想は、しかし、その次の一瞬で否定される。
早苗を覗き込んでいたのは、旧き幻想郷の賢者の顔であった。
八雲紫。幻想郷の創始者の一人であり、神出鬼没の大賢者。
早苗も顔は知っているし、話もしたことはある。
しかし、彼女は他人であり、また近づき難い存在であった。
余程、今日会ったばかりのさとりの方が、早苗にとっては親しいとも言えた。
紫は、少し驚いたような表情で、早苗を見ていた。
少し目を見開き、口を閉じ切れていない。少し呆けたような驚きを、その表情は示していた。
それは、早苗の抱く八雲紫の印象からは、すこしずれたような――。
「あっ、ご、ごめんなさいっ」
ぼうっとする頭ではあったけれど、自身の頭が彼女の膝の上にあるという事実を、言い難い違和感と共に認識した。
「お目覚めかしら、眠り姫様?」
思わず身を離した早苗に、八雲紫はぶっきらぼうに言った。言葉は軽いが、どことなく不機嫌そうだった。
その手には、錠剤を二つ載せた瓶の蓋と、薄緑色の湯呑みが握られていた。
「紫さん、薬と白湯を早苗さんに渡してください」
傍にいたさとりが、手にした綴りから視線を上げ、八雲紫に言った。
八雲紫にずっと視線を向けていた早苗は、その時ようやくさとりの存在に気づいた。
さとりの口調も表情も、どこか穏やかだった。警戒を抱いている様子でもない。
それで、ようやく、さとりが紫を仲間と認め、行動を共にし始めたのだろうと、理解した。
「え、っと、あの、私に薬を、飲ませてくれようと?」
紫に渡された白湯と薬を手に取り、早苗がおずおずと紫に問う。
白湯は人肌程度に冷まされていた。
「そういうこと。起きたならさっさと飲みなさい」
紫は、早苗と目をあわせようともしない。
「ありがとうございます」
ほんの少し笑いかけたけれど、紫は反応を見せず、早苗はすこし寂しい気持ちになる。
「薬は二錠、噛まずに飲んでください。八意永琳の製薬ですから、効果は期待できると思います」
レポートを見たままのさとりの言葉に頷いて、早苗は薬を口に含んだ。
――苦い。錠剤ではあるけれど、舌に触れると甘党の早苗には痺れるほどに感じた。
思わず顔をしかめる。
薬が粉末でなくてよかったと思いながら、白湯で一気に流し込んだ。
「……ふぅ。ああ、苦かったあ」
「良薬口に苦し、ですね」
さとりが顔を上げ、早苗の顔を見て、微笑んだ。
「それ、お母さんによく言われました」
早苗も、それにあわせて、くすりと笑った。
「……さて。道案内のついでの“仕事”も終わったし、私はもう行くわ。手間賃は結構よ」
早口でそう言うと、紫が腰を上げる。
早苗もさとりも、笑うのを止めた。
「……そうですか」
さとりは紫に目をやり、それだけ口にする。
端から、この紫の行動を予測していたかのように、落ち着いていた。
「あ、あの。えっと……」
早苗が紫とさとりを戸惑いながら交互に見て、立ち上がる。
「ありがとう、ございました。出来れば、あの、力を合わせられたら、って、思うんですけれど」
早苗の、まだハッキリしない頭で搾り出した、共に歩もうと模索するための言葉。
彼女の理想を信じるがための、言葉。
「興味ないわ」
それを、紫は全く意にも介さぬように、遮った。
早苗のほうを、見ようともしない。
「……そう、ですか」
早苗は悲しそうな顔をする。
目指すものは同じだと、早苗は思っている。その手段の違いは、もしかしたら相容れない程度に大きいのかもしれない。
それでも、だ。早苗は理想を信じ、それを追う。
出て行こうとする紫の前に、捻じ込むように体を滑らせた。
「でも。お願いです。紫さんの力が、私達には……」
言葉は最後まで続かなかった。
全ての時間を止めたかのように。
死者を告げる放送が、はじまった。
――
――
長い静寂だった。そして、脆い静寂だった。
物音一つ、その静寂を破る事は無かった。
場の空気は、その前と全てが入れ替わってしまったかのよう。
何も、動かない。時は、放送が終わってなお、動き出すことを拒否していた。
「家族を、ただ一人の妹を、失った――ようです」
ぽつりと、さとりが口にした。
その言葉で、時間は動き出す。静寂は破られた。
和紙に水滴を落としたときのように、その一言が真白な空気に重さを滲ませていく。
「早苗さん、貴女もこのような思いに耐えていたのですね」
早苗の名を呼びながら、彼女の視線は早苗に向くことなく、宙の一点を見つめていた。
天井――その先に、声を掛けるべき誰かがいるように。
表情は動かない。笑いもせず、泣きもしていない。
「切り裂かれるような――痛みに似た何か……身を抱えて倒れこんでしまいそうな――」
実際にそういう仕草をするわけでもなく、さとりの視線は揺れない。
唇だけが声を発し、それ以外の身体は活動を停止しているかのような。
「私が――あなたにかけた言葉の、なんと空虚だった事か。
皮肉なものですね。こう、――身を以って、同じ思いを味わうことなど、想像すら、できていなかった」
早苗にちらりと視線を移す。さとりは、こころを覚る時と同じように、片眼を閉じていた。
「伝えたい事も、聞きたい事も、――謝りたい事も、みな、既に叶わぬ願いと消えたのですね。
未来、永劫、何一つ――届かない、ということですね」
淡々と、さとりはその想いを言葉に変えていく。
苦しみ、悲しみながら感情の中から生み出したというよりは、それが溢れるままに任せているような。
「このような想いは――そう、ええと。
言葉にするのが難しいですね。喪失感というやつでしょうか?
ただ苦しいのです。どう苦しい、という説明が出来ません。
自分の知る風景に、不自然な空白が出来てしまった、というような。
本来あるべき何かが、そこになくなった、そんな感覚。
その空白が、違和感が、恐ろしいくらいに私を、苦しめているのです」
延々と喋り続けるさとりに、早苗は不安げな表情を送る。
家族を亡くしたのは早苗も同じ。そして八雲紫もだ。
しかし早苗はそれを見届ける事が出来たし、飲み込む時間も与えてくれた。
八雲紫はわからないが、今決して取り乱してなどおらず、表情から何も読み取ることは出来ない。
だが――今のさとりは、少なくとも早苗の知るさとりとは、今は全く違うように見えてしまう。
どう、感情を表現していいのか、わからない、檻の中の少女のように。
後悔、心痛、全てが思う侭に、言葉として漏れていく。言葉が、場に漂い、空気を重くする。
淡々とした口調、台詞を読み上げるだけのようなテンポで、虚ろな言葉を紡ぐ。
それは、理路整然とし、無駄な会話を好まない、以前のさとりとは、まるで別の存在であるかのよう。
「――ああ、失礼しました。このような事を聞かせるつもりは無かったのですが。
お恥ずかしいことです。見苦しかったでしょうか。申し訳ありません。
過ぎたことです。後悔はあります。納得も、できていません。
ですが、今さら、覆すことは出来ません。ええ、わかっています。もちろん。
こいしは死にました。お燐もです。残念です」
さとりが、眼を閉じて首をゆっくりと横に振った。
「行きましょう。こうしていても仕方ありません。
あまり、私達には時間が無いですからね」
さとりが、おもむろに立ち上がる。
開いたままのレポートが、その膝の上から、落ちた。
それを、目を遣ることもなく、さとりは拾い上げた。
「ありがとうございました。もう結構です」
さとりは入り口近くに立ったままだった紫に、押し付けるようにそれを手渡した。
紫は、何も言わず、それを受け取る。
紫の表情は未だ変化無く、どちらかといえば醒めた視線を、さとりに向けていた。
早苗が目を覚ました時に感じた母親の影は、既に読み取れない。
思わず、早苗はさとりに駆け寄ろうとした。
駆け寄ってどうするのか、というのは全く考えていなかった。さとりをこのままにしておく訳にはいかないという感情が先行した。
だが、下がりきっていない熱が、視界を歪ませる。早苗は頭を抱えると、そのまま座り込んでしまった。
「どうかしましたか、早苗さん」
さとりが、早苗の方をちらりと見た。
温度のない瞳。
冷ややかな彼女の視線なら、早苗も知っている。冷めたような表情に慣れすぎてしまった彼女の視線ならば。
それでも、今、彼女が見せている表情は、それとは違う。
命の炎の消えたあとのような、寂寥とした荒野のような、凍える寒さを湛えていた。
「いえ……」
耐えられなくなり、目を背ける。
背けてから、自分の行動に困惑した。
仲間であるさとりに対し、何も言葉をかけられない。その事実が、風邪よりもずっと、苦しい。
縋るように、八雲紫に視線を移す。
知識も経験も豊富な賢者なら、さとりの心情に優しく響く言葉を持ちえていると思ったのだ。
されど、彼女の表情は未だに醒めたまま、何の脈動も感じない。
「行きましょう、早苗さん。ここが禁止区域になるそうですから、長居はできません。
そう、さっきの話ですけど、やはり紫さんもご一緒しませんか。
戦力としても、きっと多いほうが――」
さとりは、変わらず、言葉を続ける。
「くだらない。……ああ、見苦しい」
八雲紫が、さとりの言葉を遮る。
吐き捨てるような紫の強い口調に、さとりは僅かにも動かない。
近くで見守っていた早苗が、びくりと震えて紫を見た。
「見苦しい、ですか」
さとりが自嘲的に漏らす。
「醜い、という方が正しいかもしれないわね」
「……そうですか」
些か彼女にしては感情的に過ぎる紫の言葉に、些かも感情の色のないさとりの言葉が返る。
「溢れるばかりに感情が揺らいでいるのが、貴女、自分でわかっているのでしょう。
人間のように感情のまま表現することもできず、妖怪らしくそれを何ということも無いかのように流すことも出来ず、
口調だけは冷静で、表情は取り繕って、それでも精神の動揺を隠しきれていないのは、醜いと言わずに何と言うのかしら。
他者のこころを覚るくせに、自分のこころの整理もつけられず、その場所すら見誤って、
不安定で不完全なこころを晒し出している振る舞いなど、見るに耐えないわ。
それでも名を馳せた妖怪なのかしら、“覚り”?」
紫は、躊躇も言い澱みも無く、一気に指摘する。
おおよそ紫らしくないほどに、彼女はさとりを責め立てるように、詰め寄るように。
さとりは一歩も動かない。ただその表情は色を帯びていく。――見下すような感情が篭る。
「なら、貴女はどうなんですか。
八雲藍は、貴女の式でしょう。八雲姓を授けるほどに信頼した相手でしょう」
紫の言葉を遮るように、少しだけ語気を強め、さとりは言った。
部屋の入り口に立ったままだった紫が、一歩戻ってさとりを睨むように見やる。
「どう、とは何かしら。
何か、納得が出来ないことがあって?」
「紫さん、貴女は悲しくないんですか。
ええ、私は悲しいです。悲しいですよ。さっきから言っている通りです。
妖怪としてこころを覆い隠す術も、貴女ほどは持っていません。
かといって、人間のように取り乱すように喚くことも出来ません。
それゆえにこんな半端な態度を取っていると、見られても仕方ありませんね。
見苦しいと貴女が仰った、その通りだと思います。
――でも貴女はどうなんですか。
貴女こそ、悟ったような表情をしているけれど、随分とこころを覚られる事に怯えているのではないですか?
妖怪が精神的存在ならば、それを覆されることを貴女は、必要以上に怖れている。
八雲藍の死を、真正面から受け止めらていないのではないですか? それが露顕するのが怖いのでしょう?
それでは、貴女の言う私の姿と同じことではないですか。
感情を冷却し、自身を保ちながらそれを捨てるようにどこかへと流しているだけではないですか?
――ああ、貴女の心を覚ってあげましょうか。どんなにか、そのこころは平穏と余裕が保たれているのでしょうね?」
さとりの言葉に、刺々しさが篭る。感情の捌け口が見つかったかのように、表情に愉悦に似た色が浮かぶ。
それは人間ではなく、妖怪の表情だ。
「私は、ないわ。動揺も、悲嘆も。
まぁ優秀な式だったから、藍が死んじゃったのは残念よ。でも貴女のように見苦しい感情を抱くことは無い。
彼女の死は私が看取ったというのもあるけれど、根本的に、私達は家族ではなかったもの。
……そう。貴女は勘違いしているのよ。
そういう感情は、そもそも私に芽生えるはずが無い。そうでしょう」
大妖怪らしくなく、饒舌で、しかし同時に言葉は歯切れが悪かった。表情も、やや余裕の無いものに見える。
覚ることはなくとも、八雲紫の喪ったものの重さは、家族と同じ程度はあったのだと、さとりは考えた。
そして、それ故に、自分だけが、精神の同様というそれ自体を許せず、否定しなければいけないと感じているのだと。
妥協を許されぬ自尊心。
永劫は彼女を育て、自身を創り上げた。
それが瓦解せぬように、虚栄の殻を被る。
孤独であったのは――誰のためだろう。
妖怪は精神的存在であるとするならば、それは自衛の手段であったのか。
さとりは家族を認め、されど妖怪である事を捨てられず、
紫は妖怪である故に、家族を認めることが出来なかったというのか――。
「あの……っ!」
弱々しく、しかしはっきりとした、早苗の声がした。
紫も、さとりも、早苗に向き直る。
様々に巡る思考よりも、早苗の声に身体が反応する。
座り込んだままの早苗の瞳は僅かに潤み、されど視線は水面のようには揺れない。
「お願いです……。
そういうのは……自分の想いを否定するのは、理想を壊すのは、嫌です……」
必死な様子の早苗だが、紫もさとりも、その言葉の真意を測れない。
早苗は立ち上がる。今度はなんとか、座り込むことなく持ちこたえた。
「早苗さ……」
「大丈夫、です」
思わず声を掛けたさとりを制止し、早苗はふらふらと歩く。
立ち止まったままのさとりと紫の前を、早苗は前だけを向いたまま、通り過ぎる。
「お二人、の気持ち、私も、きっと、わかるんです。
苦しさも、痛みも、全部、私と、人間と、同じなんです。
それを、上手く表現できないことも――。
だから、お二人より……妖怪のお二人より、
きっと、私の方が――人間の私の方が、
誇りも、精神も、関係なく、思うが侭に在れるから。
これは、きっと――私の役目」
早苗は、庭へと降りる。
かつての屋敷の主が、幻影のような月を毎日見上げていた、風情ある日本庭園。
その、深海のような竹林との境に、早苗は腰を下ろす。
スカートの端が地面につこうが、構う様子も無い。
「何をする気?」
紫が問う。それはひどく余裕の無い声に、さとりには聞こえた。
「墓を……。弔いを……」
早苗は、おぼつかない動作で、何か祈りを捧げているようだ。
「この世界で弔いなど、無意味なものだと、常識的に考えればわかるでしょうに」
常識から外れた存在であると思っていた八雲紫がその言葉を吐いたという事実に、さとりは僅か目を見開いた。
「いいえ……違うんです、紫さん。
この世界では、そんな常識に、囚われてはいけないのですよ」
問いに答えるように振り向いた早苗は、ひどく寂しい笑顔をしていた。
――
――
竹の枝が、地面に刺さる。
早苗は何かを言い訳を言うように、自分に問いかけるように、呟きながら、
ただ土に枝を刺しただけの墓標を作り続ける。
そんな早苗の後姿を、紫とさとりは屋敷の中から眺めていた。
「人間の感情というものは時に尊いものですけど、――我々とは相容れない。
そうでしょう、覚りの。貴女も妖怪ならば」
八雲紫の呆れたような声が、さとりには聞こえた。
が、聞こえないふりをした。
早苗の、手元を、顔を、動きを、じっと見つめている。
「これは、慧音さんの、こいしさんの、お燐さんの……」
一つ、一つと、早苗は、生まれたばかりの子どもに名前をつけるように、それを撫でていく。
現人神とは、こういうものなのだろうか。
呪詛と祝福は紙一重だ。早苗の儀式染みた行為がそのどちらか、さとりは判断が付かなかった。
「八雲藍さんと、橙さん……」
早苗の声に、隣に居る紫が耳を立てていることに、さとりは気づいた。
「それから……他の、もういなくなってしまった、人たちの……」
早苗の言葉は最後まで続かなかった。
さとりと紫に見える、早苗の背中が、震えた。
「えぐっ……」
ひとつだけ、嗚咽が洩れた。
だが、それは悲しくもなく、ただ――
早苗は振り返る。涙の跡は無い。
「お墓は、ここに、置いていかなければなりません。
でも、家族は、理想は、私達のこころの中に、生きています。そうですよね?」
さとりと紫に、そう、笑いかけた。
その声は、まるで、教え諭す聖女のような――
◇
例えば、毎日家族で写真を撮る家族があったとしましょう。
毎朝、玄関前に並んで、笑顔でカメラにポーズをとるのです。
照れくさそうに、堂々と。
時折、寝癖のひどい人がいたり、不機嫌そうな人がいたり、目を閉じてしまったり、そんな程度の変化を繰り返しながら、毎日。
例えば誰かと誰かが喧嘩して、そっぽを向いていたとしても、それはなんと微笑ましい事でしょうか。
次の写真には、きっと、また仲良く肩を組む二人の姿があったりして――
それを見返したとき、なんだかホッとするでしょう?
時の流れを遡り、或いは流れ流れて、時間と共に変わるものはあるけれど、その家族は写真を撮り続けるのです。
それを見るだけで、ああ、こうでなければいけないのだと、再確認しながら家族は続いていったのです。
でも、ある日の朝、写真に、そこにいる筈の、いるべき筈の、誰かが写らなかったとしましょう。
その感覚を、どう表現すればいいんでしょうか?
ぽっかりと空間が空いている、その余りに空虚な感情を、他の家族はどう表せばいいんでしょうか?
その写真を、どんな表情で見ていればいいんでしょうか?
その誰かが、二度と写真に写らなくなったとしたら、その喪失感に、無の空間に、他の家族は耐えられるのでしょうか――?
この放送を境に、私達の家族の写真から、こいしとお燐が、姿を消します。
かわりに心寒い広々とした無の空間が、彼女達が写っている筈の場所に広がるのです。
有から無へ、この変化は、写真に写った私達の姿さえも、歪めてしまうものだと思いました。
私は、こいしに言い残した言葉を、随分と冷静に思い返しました。
もう、永遠に届かない言葉です。
行き場をなくした心のように、相手のいない言葉はただ私を苦しめるのです。
あの時、私から離れていった心を、引き止める事が出来ず、彼女を遠くへと送り出してしまいました。
家族として共に写真に写っても、彼女はずっと、そっぽを向いたまま写っていたのでしょう。
そして、そのまま、笑顔の写真を残さぬまま、彼女は写真から消えたのです。
貴女の「行ってきます」に、私は「行ってらっしゃい」と声をかけました。
私は、貴女が、また、帰ってくると、根拠も無く、信じていたのかもしれません。
帰ってきてと私が言えば、貴女は帰ってきたでしょうか?
私は、それを、躊躇してしまったのです。
たとえ貴女がどんなに離れていても、毎日貴女が共に写真に写るものだから、私は甘えてしまったのです。
明日もまた、一緒に写真に写るから、今度こそ隣で笑って写真を撮ろうと、思っていたのです。
こいし。いつでも帰ってきてよかったのに。
私は、いつだって、あなたを迎えたかったのに。
もう言えないのです。「おかえりなさい」を。
もう聞けないのです。「ただいま」を。
ああ。
お墓を作っていた早苗さんが、こちらを振り向いて寂しい笑顔を見せました。
私がこんな空虚な回想に浸っている間に、早苗さんは、きっと前を見据える覚悟が出来ているのです。
早苗さん、貴女の瞳は、私を不安定にさせるのです。
可笑しい話でしょう?
会った時からずっと、貴女の澄んだ瞳に安心し、ある種の憧れすら抱いていたというのに、今になって、それが怖いのです。
何故でしょうか?
簡単なことですよね。私が恐れているのは、あなたの瞳に映った今の私の姿なのです。
貴女が二度も経験し、乗り越えてきたその喪失を、今更私は直に感じているのです。
それがひどく私という存在を揺るがすものですから、私は私を見たくなかったのです。
こうして、貴女の手によって、ささやかな墓標が、形を作っていくうちに、私は、こいしや燐の姿を、思い返して、
彼女達が二度と笑顔を見せないのだと、写真に写らないのだと、そういった感情がまた、湧いてきて。
こうやって作られていく小さな墓標が、今まで貴女達の笑顔があった場所に立ち、
私達がどんなに表情を変えても、貴女達は無機質にそこに立っている姿でしか無くなるのだと感じて。
言葉で吐いた感情よりずっと、ずっと、生々しく蠢き揺れるこころに、私はひどく狼狽しておりました。
――でも、貴女の行為を見て、言葉を聞いて、貴女の顔を見て、
不思議と、それを、受け入れるべきじゃないかと、思い始めたのです。
それは、ある種の逃避のような論でした。
受け入れるということは、同時に大事な何かを捨てなければならないということなのです。
その乖離さえも、じわりじわりと私の中で受け入れてられていくのを、感じていました。
それは諦めにも似て、しかし、人間はそうやって乗り越えることを知っていて、
貴女もきっと、そうして乗り越えてきたのでしょうと、私は気づいたのです。
貴女は、こんなにも空っぽの私にすら、それを諭してくれて、
妖怪の私の心にすら、それが強く響いていて――
そうして、私は、人間を見習うことも、大事なのではないかと、思ったのです。
紫さんは今も取り繕った気配すら見せずに堂々たる気構えをしているけれど、
それが彼女の誇りを持った立ち振る舞いで、
私ならばそれは、何事にも沈着で冷淡とも言えることが、私の私たる一種の矜持であったのだけれど、
それはきっと、本当の私を覆い隠すための何かであり、
きっと、必死になって取り繕っているさまは何よりも不恰好で、
言葉だけをどんなに吐き出したところで、こころは軽くなるどころか重くなっていく一方で、
全てを覚ったような表情で、妖怪らしい温度の変わらぬ世界にいることが、
こんなにも不自然に感じられて、
そんなことに、意味は無いのだと、
もっと、前を向くために、必要なことは、隠すことではないのだと、
気づいたのです。
◇
「あっ……」
ぽろりと一滴、零れ落ちたかのように、さとりから、声が漏れた。
自分でも気づかないうちに、屋敷から身を乗り出すように早苗を、その向こうを見ていた。
紫が、ハッとしたような表情でさとりを見る。
「あああっ……!」
一度溢れた感情は、止まることなく次から次へと涙となり声となり、さとりの身から流れ出してくる。
手を伸ばしていた。
掴めないものを掴もうとしていた。
先程まで抑えられていたものが、全て形を持って溢れてくる。
「あ、あ、あぁあぁぁぁぁあぁぁぁっっっ!」
叫んだ。泣いた。そうしなければいけない気さえした。
それが、自分が今抱いている感情の、もっとも相応しい表現だと、疑いなく信じた。
心のどこかで自分を客観的に見つめ、なんて情けなくみっともない姿なんでしょうと自嘲しながら、
しかし自身を覆い隠すことなく、衝動に任せるように、泣き叫んだ。
涙の流れるたびに、先程までこころの中で蠢いていた行き場の無い負の感情が、洗い流されるように消えていく。
曖昧だった喪失感が形を持ち、それが心を圧しているというのに、それがハッキリしていることが心の揺らぎを抑えていく。
いつの間にか早苗が、そんなさとりの傍に寄り添って、その肩を抱いていた。
私はいつの間にかこうも幼くなっていて、人間の彼女はこうも大人びて――
しかしその関係さえ心地のよいものだと、さとりは思った。
永遠に思えた涙もやがて止まり、さとりは袖でそれを拭う。
どうしてだろう。悔しさや悲しさは同じなのに、それでも前を向こうという想いが、今は強くこころを支えている。
先程までは、言葉だけが前を向いていて、こころはひたすらに逃げ隠れていただけだった。
「ありがとうございます、早苗さん。
今度こそ――大丈夫です」
今の精一杯の笑顔で、肩を離した早苗に言う。頬に残る涙の伝った跡も、やがては乾くだろう。
対する早苗も、見る者を安心させるいつもの笑顔でそこにいる。
ああ、やはり。さとりは思うのである。
――やはり彼女の瞳は正しく美しいもので、やはり私を安心させて、
きっと前を向いていけるのだと、私に信じさせてくれるものなのですね。
それが、人間の強さと、いうことなのでしょうか。
私は、感情を言葉にするのを、やめました。
大雑把に一般的な言葉で言えば悲しみや寂しさや後悔や、そんな感情なんでしょうが、
そういったものを覚ったとしても、きっと上手くは言葉にできないものでしょう?
これからの写真に、こいし達は写りません。写真は毎日、撮り続ければならないのに。
でも、私は、写真など見なくても、貴女達の笑顔を思い出せるのです。
貴女達と、一緒に撮った写真は、今も鮮明に、私のこころに仕舞われているのです。
私が辛くなった時、ちょっと眺めた時に、笑いかけてくれれば、それで構わないのです。
そうすれば、これから撮る写真の空白にだって、私は貴女達を思い描くことができる、
それが私の信じる理想だから――。
早苗さんの言葉を借りるならば、
こいしは今、墓という偶像になり、それでも私のこころの中には生きていると、
ただそれだけでは足りなくても――こいしという存在の本質を、
“理想”を信じさえすれば、写真に写る空白に、本物のこいしを見出すことが出来るのかもしれないと、
――信じることに、前向きになれたのです。
「また、随分と人間臭くなったものね、覚りの。
私には真似できないわね」
やれやれといった調子で首を振った八雲紫の皮肉も、今は何故だか微笑ましく思えてしまう。
「そうですね。こういう自分を認めるというのは、簡単ではありませんでしたが、思ったよりも悪くはありません。
――そう言う紫さんだって、本当は泣きたいのではないのですか?」
思わず、そんな言葉が出た。
それを言ったのは、ひどく不躾なことかもしれない。
普段なら何の躊躇も感じず心を読み、何も迷わずそれを口にしただろうけれど、今はそれを推測しただけだ。
彼女の心を推し量る事は難しいのだし、仮にそれが彼女の本心でも、それを指摘したところで何かが得られるわけでもない。
「あのね。家族の為に涙を流すなんて、この私がするわけないでしょう。
――ああ、そう、藍や橙は家族というわけではないのよ。だから家族なんていないわ、私には。
だから、そうね。貴女の言葉は、誤った推測でしかない」
どこか言い訳じみた台詞を吐いた八雲紫は、それ以上は、何も言わなかった。
さとりはそれに反論などしなかった。
きっと、それでも涙を、弱さを見せてはいけないと、彼女は思っているのだ。
そんな様子をおくびにも出さず、それでこそ大妖怪だと、自分を抑えているのだろう。
それで――態度が少しだけ、硬くなっているだけなのだ。
わかったのだ。理解しあえる。まだ不安定だけれども、同じ方向を向き、同じ道を進む余地はあるのだと。
だから、せめて笑顔で、これだけ言った。早苗の受け売りだけれど、今の彼女は少しでも受け入れてくれるだろうか。
「家族は、私にも、貴女にも、ちゃんといましたよ。
貴女がそう思えば、その人は貴女の家族です。
例え亡くなっても、こころの中で思い浮かべる自分の風景の中に、今も彼女たちが居るならば、やはりそれは家族だと思うんです。
夢物語、かもしれません。永遠に叶わないのかもしれません。
でもそれを――理想を信じれば、それはきっと、“ここにある”って、思うことに、しませんか?」
――
――
「さて――話題を変えましょう。八雲紫さん。今後について話をしましょうか」
あさっての方向を向いたままの紫に、さとりは話しかける。
我ながら唐突な話題転換だと思う。
しかし、前を向くと決めた。次は前に歩くために必要なことをするだけだ。
「少なくとも――この放送で、主催者は、明らかなヒントを私達に与えてしまった。
そうでしょう? 紫さんは、何か考えがおありですか」
紫に話しかけてみる。紫は唇を動かしもしない。
「あの、姫とか、何とかってことですか?」
早苗が口を挟む。もう薬が効いてきたのか、随分と元気そうに見える。
一番不健康であったのは自分であったのかもしれない。そう思った。
「そうです。今回、主催者は明らかに“必要ないことをわざわざ口にした”でしょう。
前と違うということは、違わざるを得ない理由があるはずなのです。
その心当たりを探し――」
「それもブラフの可能性がある、って思わなくて?
あの八意永琳よ。話はそんなに単純ではないでしょう」
紫が、二人を遮るように言った。
彼女は、二人の方に向き直っていた。
反論しようとしたさとりは、彼女の仕草を見て押し留まる。
首輪、口、耳――人差し指を順番に、ゆっくりと押し当てていく。
なるほど。さとりは感心した。
さすがに大賢者は違う、と思うとクスリと笑った。
「え、でも」
早苗が怪訝な表情をしている。
「そうですね。あまり議論しても仕方ありません。
このエリアから、まずは離れたほうがよさそうですね」
さとりはそういうと、早苗に合図のウィンクを送る。
――そんなことはし慣れてなくて、不恰好に片目を瞑っただけになってしまったが。
「そうね。――実は、多人数の移動に丁度いい道具があるのだけど」
紫が言う。
「些か優雅さに欠けるけれど、機能は十分よ。
特に貴女には――興味深いモノかもしれないわね」
早苗に、ほんの少しだけ、笑いかけた。
「えっ、それって」
早苗の瞳が、輝く。
未知のその道具に対しての興味よりも、紫が協力的な態度を見せてくれたことに対する喜びが勝っている。
「一緒に行って、くれるってことですか!?」
「気が変わったのよ。気紛れよ、私のお得意の、ね。
まぁ、貴女じゃ大して役にも立たないだろうけど、死にたく無ければついてきなさい。
弱い人間は、そうするしかないんでしょう? そちらの妖怪も、随分と人間臭くなってしまったことですし」
紫は一人先に歩き出していた。しかし、その背中は二人を待っている、と二人は感じた。
「は、はいっ! ほ、ほら、さとりさんも」
「ええ……そうですね」
慌てて荷物を纏めると、二人も紫の後に続く。
最後に、残された粗末な墓の前で、三人は足を止めた。
地面に刺さった細い竹。その意味を知る者以外には、とても墓標には見えないだろう。
だがそれは――見る者にとっては、愛した者の偶像であり、信じるべき理想の欠片であった。
【F-7・永遠亭 一日目・夜】
【八雲紫】
[状態]正常
[装備]クナイ(8本)
[道具]支給品一式×2、酒29本、不明アイテム(0~2)武器は無かったと思われる
空き瓶1本、信管、月面探査車、八意永琳のレポート、救急箱
色々な煙草(12箱)、ライター、栞付き日記、バードショット
[思考・状況]基本方針:主催者をスキマ送りにする。
1.八意永琳との接触
2.ゲームの破壊
3.幽々子の捜索
4.自分は大妖怪であり続けなければならないと感じていることに疑問
[備考]主催者に何かを感じているようです
ゲーム破壊の手を考えついています
【古明地さとり】
[状態]:健康
[装備]:包丁、魔理沙の箒(二人乗り)
[道具]:基本支給品、にとりの工具箱
[思考・状況] 基本行動方針:殺し合いには乗らない
1.前を向いて進む。
2.
ルーミアを止めるために行動、ただし生存は少々疑問視。出会えたなら何らかの形で罰は必ず与える。
3.空を探したい。
4.工具箱の持ち主であるにとりに会って首輪の解除を試みる。
5.自分は、誰かと分かり合えるのかもしれない…
[備考]
※
ルールをあまりよく聞いていません(早苗や慧音達からの又聞きです)
※主催者の能力を『幻想郷の生物を作り出し、能力を与える程度の能力』ではないかと思い込んでいます。
※主催者(=声の男)に恐怖を覚えています
【東風谷早苗】
[状態]:風邪(治療中)、精神的疲労、両手に少々の切り傷
[装備]:博麗霊夢のお払い棒、霧雨魔理沙の衣服、包丁、魔理沙の箒(二人乗り)
[道具]:基本支給品×2、制限解除装置(少なくとも四回目の定時放送まで使用不可)、
魔理沙の家の布団とタオル、東風谷早苗の衣服(びしょ濡れ)、上海人形
諏訪子の帽子、輝夜宛の手紙、風邪薬の瓶(20錠ほど)
[思考・状況] 基本行動方針:理想を信じて、生き残ってみせる
1.さとりと一緒にルーミアを説得する。説得できなかった場合、戦うことも視野に入れる
2.人間と妖怪の中に潜む悪を退治してみせる
最終更新:2012年12月28日 12:28