戦いは劣勢だった。
 敵は、強大な異能の力を自在に操る。
 仲間は傷付き、何度となく膝を折った。しかし、辛苦を共にしたかれらを鼓舞し、奮い立たせる事は、己に課せられた使命でもある。
 血と汗、泥にまみれた顔のまま、ボブは眼前の敵を睨みつつ、声を振り絞った。
「勝つんだ。戦って、勝つんだ。力尽きるのは、その後でいい。世界の平和のためなら、喜んで力尽きよう。でもそれは、勝った後だ」
 飾りを忘れた言葉だった。しかしその言葉の一つ一つが、ボブに従う三人の瞳を輝かせた。
 粗野で横柄だが、仲間のために命をかけて剣を振るう戦士。
 温厚で柔和だが、誰よりも悪を許さない情熱を秘めた神官。
 魔法の天才で、それを鼻にかける事が多い一方、優しい心根の持ち主である魔女。
 信頼に足る仲間たちだった。
 剣の腕、豊富な知識、魔法の技。いや、それだけではない。
 世界の人々から、平和の担い手として全ての期待を寄せられる勇者ボブにとって、かれらは心の支えでもあった。
 知り合ったその日から、様々な思い出を積み重ねてきた。
 時に笑い、時に泣き、意見を違え、しかし志を同じくし――
 今、ここにいる。
「愚かな、人間どもめ」
 肚の底を打ち震わせる、邪悪な声が響いた。
 魔の森と呼ばれるこの薄闇の中で、敵の姿は、何よりも漆黒である。
 魔王。破壊の化身。人の身で、神にも等しいこの敵を滅ぼせるのか。
 滅ぼさなければならない。
「ぼくは、いやぼくたちは、勇者だ」
 決然と言い放つボブに、三人がうなずきを返した。
「勇者なんだ!」
 雄叫びを上げ、かつて魔王を封じた英雄の剣を振りかざし、地面を蹴る。
 戦士もまた、剣を構えて駆け出した。
 神官が、天を仰ぐ。神よ、と絶叫すると、ボブたちの体に光が降り注いだ。
 呪文を紡ぐ声。魔女は、魔王の異能の力に対抗すべく、持てる全ての精神力を費やす覚悟だった。
 そして魔王は、全身に青白い光を帯びつつあった。この光が輝きを増した時、強烈な衝撃が迸る。そうなれば、ボブたちは――
「終わりだ! 人間ども!」
「闇に還れ! 魔王!」
 魔王とボブの絶叫が交錯する。
 魔王の光が、ボブたちを包み込み、そして――



 ふと目を開けると、見慣れた天井があった。
 何年も改築していない、傾きかけた木造の家。その二階に、ボブの自室がある。
 ベッドの上に、だらしない格好で寝転がったまま、ボブはつぶやいた。
「夢か」
 うすら寒い。肌掛けの毛布がベッドの下に落ちていると気付くのに、大した時間は要らなかった。
 寝相が悪いのは、幼い頃からずっとそうだ。いつも腹を出して寝ているので、慢性的に下し気味である。
 夢の中の自分――あの凛々しく雄々しい勇者とは、月とスッポンどころの差ではない。
 のろのろと半身を起こし、頭を掻いた。窓の外に目を向けると、だいぶ陽が高くなっている。
 ベッドから下り、数歩たたぬ内に、何かにつまずいて転んだ。放り出したままの鞄だった。
 床にしたたかに打ち付けた頬をさすりながら、渋い顔で立ち上がる。
「勇者かぁ」
 眠気の覚めない瞳をこすりつつ、ボブはようやくの事で、部屋の扉に手をかけた。





 グレマリア大陸を支配するグレマリア王国。その片田舎、トレンニーの村。
 近くに広がる「魔の森」では、ここ最近、「冒険者」と呼ばれる人々を目にする事ができた。
 かれら冒険者の理想はただ一つ。かつて英雄に討伐された大魔王の復活を阻止し、世界に平和をもたらし、勇者としての名誉を得る事である。
 そのため、強弱様々な魔物が棲む魔の森で、腕を磨いているのだ。
 家畜や作物に害をなす魔物の討伐は、村の人々にとっても歓迎すべき事である。
 村の宿屋では「冒険者優待キャンペーン」が実施され、頑固な職人が切り盛りする鍛冶屋でも、「今なら鉄の剣が25%OFF」と書かれた看板が立てられている。
 そんな、およそ大魔王の復活という危機感とは縁遠い、にわかな活気に満ちる人々をぼんやりと見つめて、ボブは時間を貪っていた。
 遅く起きた事を母に咎められ、おまけに井戸での水汲みを命じられたところである。
 村の中央に掘られた大きな井戸は、そのまま村人が集まる場所となり、今も何人かの主婦が立ち話をしていた。
 主婦の輪から少し離れたところで、ボブは空の桶を抱え、石段に座っている。
 その視線は、時折ボブの前を通り過ぎる、様々な出で立ちの冒険者たちに注がれていた。
「おはよう、ボブ」
 柔らかな少女の声がして振り向くと、そこには、幼馴染みのにこやかな顔があった。
「シャーロッテ」
「時間的には、こんにちは……かな。どっちでもいいけど」
「まあね」
「どうせさっきまで寝てたんでしょう。それでおば様に怒られて、とぼとぼ水汲み? 進歩ないわねえ」
「大きなお世話だよ」
 ボブは口を尖らせた。
 シャーロッテは、黙って微笑んでいれば、美しい少女とさえ形容できる。しかし彼女は、言いたい事を言い過ぎる。それも、かなり。
「井戸の水がなくなる事はないと思うけど、さっさとやっちゃいなさいよね。ほら、立って」
 シャーロッテに腕をつかまれる。ボブの胸がどきりと鳴った。
 少々きつい性格の彼女ではあるが、ボブにとっては幼馴染みであり、大事な友人であり、そして、それ以上の存在である。 向こうの気持ちは、聞いた事がない。もしも望む答えが返ってこなかった場合、何を言われるかを想像すると、こわくて聞けない。
「それにしても、冒険者の人が増えたわね、最近」
 ボブが渋々と立ち上がったところで、また数人の冒険者が通り掛かった。やや声を小さくして、シャーロッテがつぶやく。 毛嫌いしている、という声音ではない。むしろ彼女の声には、はっきりと憧れが含まれていた。
「危険を顧みず戦う男。格好いいわよね」
 通り過ぎていく冒険者の一団の中に、無骨な鉄鎧を着込んだ男がいた。歴戦といった雰囲気で、おそらくは一団の筆頭格なのだろう。
「ぼくはかれらを、噂に振り回されているだけの可哀想な人種だと思うけどね」
 そう言い返したのは、ボブではなかった。
 気が付けば、分厚い書物に目を落としたままの少年が一人、ボブたちの側にいる。
 少年は音を立てて本を閉じ、いかにも理知的な顔を二人に向けた。
「ぼくらが十歳の頃にも、同じような事があったじゃないか。結局、何事もなく『冒険ブーム』は過ぎていったんだ」
「トム、挨拶もなしにいきなり雰囲気をぶち壊しにしないでくれる?」
 シャーロッテが、少年――トムを睨み付ける。ボブのもう一人の幼馴染みであり、ボブとは異なり、頭もよくて口も達者だ。
 どうして冴えない自分と友人の関係を続けているのか、ボブは理解に苦しむ事がある。それは、シャーロッテについても同じなのだが。
「君が誰にどんな憧れを持とうと勝手だけどね。ああそういえば、以前の『冒険者ブーム』の時、将来は勇者のお嫁さんになるとか、シャーロッテは馬鹿な事を言ってたんだっけ。なあボブ、覚えてるよな?」
「そんな事もあったっけ」
 当時、それならぼくは勇者になる! と発言したのを、シャーロッテに笑い飛ばされた事は、ボブの心に些細な傷を付けた。しかしあの頃から、シャーロッテに対する気持ちは変わらない。
「馬鹿な事とは何よ。冒険は男のロマン、そのロマンを支えるのが女のつとめなのよ? 男は大海に漕ぎ出す船。そして女は帰りを待つ港なのよ」
「アデラ先生が今の言葉を聞いたらひっくり返るだろうね。またぞろ、そんな言葉をどこで覚えたんだい」
「コリンのお母さんがそう言ってた」
「またあの人か。海賊と付き合ってた事があるとか、オーガー百匹斬りの猛者と恋に落ちたとか。飲んだくれのダンカンさんと結婚した事が全てを物語ってるじゃないか」
「トムは本当に女心ってものを理解しないのね。それにいつも大人ぶって。同い年とは思いたくないわ」
「その点ではぼくも同意見だよ、シャーロッテ」
 にこやかに冷たい視線をぶつけ合うトムとシャーロッテを余所に、ボブは溜息を吐いた。
 色だとすれば非常に濃い二人に対し、自分は何と薄い事か。言い合いながらも結局は仲の良い二人をどぎまぎしながら見つめつつ、いつも空気のように、側にいるだけ。
 ボブはまた、近くを通った冒険者たちに、何となく目を向けた。
 陽光にきらめく鎧。背負われている大きな剣。魔法の使い手であろう、若草色のチュニックに身を包んだ美女など、全てがボブの胸を高鳴らせる。
 今朝の夢。あれが正夢だったとしたら、どんなに――
 猛々しい自分の姿を思い描く。最近では、暇さえあればボブは空想に浸っていた。だからあんな夢を見たのだろう。
「おいボブ」
「うん」
「聞いてるのか?」
「うん?」
「ボブ、あなた冒険者になりたいなあとか、そんな事を思ってるの?」
「うん」
 ボブの生返事に、トムとシャーロッテは再び顔を見合わせた。
 きょとんとした二人の表情が、やがて、吹き出すのを必死にこらえるために歪んでいく。
「……なんだよ、二人とも、何がそんなにおかしいのさ」
「いや、いや、おかしくない。決しておかしくないよボブ。夢を持つのはいい事さ。勉強も運動も人並みの君が、そう、大きな夢を持つ事はいい事だ」
「そうね、わたしもそう思うわ。多分ボブには、いや絶対に無理かなと思うけど、全力で応援だけはするから」
 明らかに小馬鹿にされて、ボブはまた口を尖らせた。
 そんな事、分かっている。自分がありきたりの、平凡な少年であり、剣や魔法を操る冒険者とは縁もゆかりもない事など。
 でも、と一方で思う。
 誰しも産まれた頃から冒険者だったわけではないのだ。貧相な頭脳、貧相な肉体を磨きに磨いて、今があるのかもしれない。ぼくだって、いつかは。
 しかし、それを口に出す事はやめた。輪をかけてからかわれるのは、目に見えている。
「まあ、とにかくだ」
 いくぶんの笑みを顔に残したまま、トムが口を開いた。
「ぼくらは十六歳で、隣町のベケットに通う学生だ。差し当たって夢や希望を抱くとすれば、明日提出予定の宿題をどうやって片付けるか、だね。折角の休みを、宿題のために費やすのは馬鹿馬鹿しいだろ?」
「わたしは歴史は得意だから、分からなければ教えてあげるけど」
「級長のぼくに言うセリフかい? ぼくはボブの出来を心配してるんだよ」
「わたしだって、トムには言ってないわよ」
「いいよ。一人でやる」
 むっとした表情のまま、ボブは歩き出した。歴史だけでなく、勉強についてはほとんど二人の幼馴染みの世話になっている。しかし今日ばかりは、これ以上、二人と顔を合わせる気分にはならない。
 やけっぱちに水を汲み、よたよたと歩き去るボブに、トムとシャーロッテはそろって肩をすくめた。



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最終更新:2007年07月29日 14:52