「W.I.Za.R.D.2014/10/23」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
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&sizex(6){&bgcolor(green){☆『666の悪魔?』}}
先週だったか、何気に見る機会があった朝の情報番組で、老人の反抗期なるものを取り上げていました。
突然に怒り出したり暴走する老人たち。
その根底にあるのは、自分が大切にされていない、と感じる寂しさだという解釈がなされていました。そして、その大きな理由となっているのが、急速に進む機械化やメディアの進歩に取り残されているからだという……
まあ、言われてみれば、確かに、そういう解釈も成り立つのですが。
しかし。
だったら、同じような問題が、もっともっと身近に起こっているような気がするのですが、そちらには、この解釈は適用されないのでしょうかね?
その問題とは、子供たちの心。学級崩壊とか不登校とかいじめとか。野球名門校でおこる、度重なるいじめによる活動自粛……こういった問題って、同じように、子供たちが「自分は大切にされていない」と感じているから収集がつかなくなっているとは解釈されないのでしょうか?
まあ、その解釈をとりいれた場合、ネックになるのは大人たちが、俺たちは子供を大切にしている、と反論してくるであろう、ということなのですが。
しかし、人間のすることですし、相手も人間なのですから、十分に愛情を与えているつもりでも、受ける側からしてみれば不十分ということは十二分にありえるわけで。
☆感想は、こちらにどうぞ~^^
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先週だったか、何気に見る機会があった朝の情報番組で、老人の反抗期なるものを取り上げていました。
突然に怒り出したり暴走する老人たち。
その根底にあるのは、自分が大切にされていない、と感じる寂しさだという解釈がなされていました。そして、その大きな理由となっているのが、急速に進む機械化やメディアの進歩に取り残されているからだという……
まあ、言われてみれば、確かに、そういう解釈も成り立つのですが。
しかし。
だったら、同じような問題が、もっともっと身近に起こっているような気がするのですが、そちらには、この解釈は適用されないのでしょうかね?
その問題とは、子供たちの心。学級崩壊とか不登校とかいじめとか。野球名門校でおこる、度重なるいじめによる活動自粛……こういった問題って、同じように、子供たちが「自分は大切にされていない」と感じているから収集がつかなくなっているとは解釈されないのでしょうか?
まあ、その解釈をとりいれた場合、ネックになるのは大人たちが、俺たちは子供を大切にしている、と反論してくるであろう、ということなのですが。
しかし、人間のすることですし、相手も人間なのですから、十分に愛情を与えているつもりでも、受ける側からしてみれば不十分ということは十二分にありえるわけで。
われわれが子供の頃には、漫画やテレビのドラマなどで、家庭を顧みない父親に反抗する子供、というテーマが度々登場していました。で、大概は、目に見える形ではなかったけど、父親は、こんなにもあなた方のことを愛しているんだよ、みたいなことが提示されて「ごめんね、パパ」みたいな結末になっていたわけですが。
私は、この結末に違和感を覚えていました。
私が思うに、やっぱり、思っているだけでは駄目なのではないでしょうか? どんな思いも、態度や言葉にして相手に伝えなければ、相手には伝わらない。伝わっていなければ、相手にしてみれば、存在していないと同じなのではないかと。
勿論、後から事情を知って、許しあうことは出来るのでしょうが。しかし、現在の状況を垣間見るに、結局「自分が愛されていない」と感じた人々による暴走それ自体が、すでに社会の許容範囲を超えてしまっているわけで。後で弁解して済む話ではなくなってはいませんか? 愛情は、今、きちんと相手に伝えなければならないものに、変わっているのではありませんか?
『愛しいと思う』すなわち愛したいと思っている、と、実際に『愛している』との間には、マリアナ海溝ほどの深い溝があると思うのですが……
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