ある少女の占い_第五話

第5話「あなたのためなら、どこまでも」

声にもならないような掠れた声を校長は発した。何とかナムレは聞き取れた。
「はい……そうです」
「君には、今から何が起ころうとしているのか、分かるのか?」
「皆目見当もつきません。ラーセマングは僕の養子先の娘さんで、何かと世話を焼いてくれる大事な人ですし、ラズィミエは入学当初からの友人です」
 校長は今の体勢がきつかったのか、傷を抑えながら壁側へ移動しそこにもたれかかった。彼の傷は足に受けた銃弾一発だけに見えた。だが敵を見失っては、さすがの彼も対処できない。
「俺はこれからどうすれば……」
「こんな大切な事態を学生である君に全面委任するわけがない、荷が重すぎるだろう。すぐに王国警察を」
 彼の言葉はここで止まった。すると彼は急に頭を押さえ初め、呼吸困難にでも落ちっているかのような聞き苦しいうなり声をあげて、また再び倒れこんだ。
「え、校長先生!校長先生!」
 なにもされていないはずなのにいきなり倒れたなんて様子を見ては、落ち着いてみてはいられない。ナムレは彼に声をかけながら応答があるかどうか伺うが、やはり目をつむったまま起きようとしない。もうとっくに昼休みも終わり、次の授業が始まるという時間だ。いまだに誰も来ないことを心配したのか、ほどなくして一人の生徒が職員室に降りてきた――アテーマング=スリャーザだ。隣のクラスの代表として職員室の様子をうかがいに来たのだろうか。
「あ、アテーマングか」
「ん?そ、そこにいるのはナムレ君…!?なぜここに、っていうか、こ、校長先生!いったい何があったんですか?それに、このあたりに散乱している血はいったい……どういうことなの?」
 予想通り、質問があまりにも多くて落ち着いていない様子がうかがえる。
「あ、アテーマング、落ち着くんだ!いいか?」
「あ、え、ええ……」
 ナムレがアテーマングの両肩を持ちながらその顔を覗き込む。
「さっきまで起きたことを話すぞ。ラズィミエ=ラーオスツァンという男子生徒を知っているか?」
「え、ええ、あなたの大親友で、あなたがここに入学した当初からの付き合いを持っていて、通学路は途中まで同じだからよく話し相手になったとか」
「なんでよく話し相手になったとかまで知っているんだていうかそれを今言わなくても……まあいい、そのラズィミエが突然ここを襲ったんだ。そこで気を失っている校長もさっきあいつにやられてしまって、なかではほとんどの先生がやられて」
「そ、そんなことが……」
「信じられないかもしれないが、それが今起きたことだ……あそこにゼジュイバナル先生の頭が転がっているだろう……」
 さきほど身体を分離させられた男性の教師だ。アテーマングはそれを一瞬だけ見た後にさらに不安げな表情を深めて何も言わずにうなずいた。
「べ、別に大丈夫。私はあなたのことを信じるから、だから」
「だから?」
「あの、その……いや、な、なんでもないから!」
「おやおや、君は」
 誰もいないはずの後方から誰かの声が聞こえてきた、ついさっきも聞いたような気がする声色だ。はっと振り返り確認する。二人は異様な光景を見た。さっき倒れていた校長がさっき受けた傷をもろともせずに起き上がって話しかけてきたのである。
「え?」
「あれ?校長先生?」
「ん?そうだけど、どうかしたか?」
「あ、私はアテーマング=スリャーザです……それよりさっきの傷は大丈夫なんですか?」
「ん?特に痛いところは…ていうか私はなぜここにいるんだ?」
 どこか校長の行動は挙動不審だ。まるでさっきまで起きたことを覚えていないかのように。覚えていないかのように?
「もしかして……先生!放送で僕を呼びましたか?」
「え、うーん、どうだったか、私は放送の担当ではないからなあ」
 聞く内容が悪かった。ナムレは質問を変えた。
「ああ…でしたら、さっきラズィミエ=ラーオスツァンという生徒が来ましたか?あるいは会いましたか?」
「いや会っていない……そんな明らかに正義っぽい名前の生徒が呼ばれていたら私もさすがに覚えているはずだな」
 これは困った。こんな状況で職員室の中でも見られたらどうしてくれようか。彼らからしたら何もなかったのに突然窓ガラスが割れたり銃弾が散らばっていたりしているということだ。血痕だって大量に残っているはずなのに。
 ナムレはその経過を見ていないのだが、それでも今まで起きたことぐらい、さっきそこに落ちていた男性教師の頭が――ない。
「ないぞ」
「え?あ、あれ?」
 アテーマングは首をかしげる。やはり彼女の目にもなくなってしまったかのように見えるらしい。いや、本当にないはずだ。
「え?どうしたんだい?そこに何かあるのか?」
「いえ、確かにある。いや、あったといった正しいんでしょうか」
 あまりにも摩訶不思議な出来事だ。まるで手品でも披露されたかのように、ナムレが予想している状況とは正反対。
 じゃあ職員室の中はどうなっているのかと、本当は何も起きていないなんてことはやめてほしい。ナムレは、さっき教室にいた時からずっとここからと思わしき異様な音を聞いてきたのだ。ここを疑わないわけがない。ラーセマングが姿を消したこともラズィミエがいないことも明らかに怪しい。それなのに彼ら教師はどうだろうか。見る見るうちにさっきの傷などなかったかのように起き上がっては近くにいた教師たちで安全を確認しながら、そして普通に割れた窓に驚いていくではないか。
「な……俺が寝ている間に何があったんだ?」
「いや、そもそもなぜ俺はここで寝ていたんだ?」
 本当に彼らは何も起きていなかったかのように目を覚まし始めた。いつもの平和な世界から突然殺伐とした世界に引きずり込まれたように、唐突に目の前に広がる異様な光景に驚いていく。
「とりあえず通報するぞ!誰か連絡を取れ!」
「僕がとります!」
 そう切り出したのは国史の先生だ。すると誰もが彼に連絡を任せ、あとの先生たちは窓の様子をみんなで伺いに来た。
「誰かが侵入した形跡と言ったらこれくらいしかないな…!」
 ある一人の教師が唐突に驚いた。
「なぜここに銃弾が大量に落ちているんだ?打たれた形跡は……ないが」
 なおさら彼らは状況が分からなくなっていく。校長も職員室に入っていったが大体同じような反応をしている。
「みんな、落ち着いて聞いてください。えー、まずは全員の安全の確認です。我々教職員は全員無事でしょうか」
 すると先生たちは一列に並び横から番号を言い始めて人数を確認した。
「本日の欠席の連絡と照らし合わせても教職員は全員無事ということで」
「そうみたいです」
「ラルカス先生が通報してくれたので警察の到着を待つしかないですが、誰か犯人と思わしき人物を見たという人は?」
 やはり先生たちは誰も証言しようとしない。まるで見ていないかのように。
「地震でもあったんじゃないですか?」
「いや……いろいろと装置を確認してみたが何もなかったです」
 一時的に職員室から離れてさまざまな装置を見てきた教師がそう言い放った。ますます彼らの頭を悩ませる。
「あ、そうだ、生徒は無事か?さっきそこの廊下で生徒二人が一緒にいたみたいだが」
 自分たちのことだと気が付いたアテーマングは応答した。
「教室の方には何も問題はありません。まだ担当の先生が来られないので私が見に来ただけです」
「じゃあ、君はどうしてここにいるんだ?」
「ああ、僕は放送でここに来いって呼ばれてきました」
 校長は二人の話を聞いて、確認を取らせた。
「ここにいる全員がさっきまで眠っていたみたいだな、私のそうだった。では、彼を呼んだ人はここにいますか?」
 校長は自分の手を挙げながら、該当者に手を挙げるように促した。そして彼らを見渡すが、誰も手を上げない。誰も放送した覚えはないということだ。
「奇妙だな……さっきまでみんなが眠っていたのに彼が呼び出されるというのは……放送部がやったのか、それとも誰かのいたずらか」
 ナムレがここに来たのは聞き間違いかと思われる流れに傾いてきた。それでも彼らの間には不可解な現状がある。
「では我々はどうして眠っていたんでしょうか?しかも全員ですよ」
「そこがわからない…とにかく、今日はこの後平常通り授業を行ってください。警察は手配してあるので、あとは彼らに任せましょう。では解散してください」
 するとアテーマングも切り出した。
「私たちも教室に戻りましょう?」
「……そうだな、今日のところは」
 一斉に職員室を出る教師たちに紛れながら、二人もいそいそと教室に向かった。

――

 王国警察の到着は次の授業の半分が終わったころであった。担当の者が事情聴取を行い、それに校長や国史の教師などが応じた。事件は教職員の間で解決するらしく、生徒であるナムレやアテーマングが関与することはなかった。
 ただ、それでナムレが納得いったわけではない。いくわけがない。ラーセマングが姿を消しているというのはさっきから変わらない。いくらすべてを教師や王国警察に任せたからと言って、そこはナムレは非常に気になるものである。
 ナムレは放課後にテルテナルに話しかけた。
「ああ、君たちは無事だったのか」
 何もなかったかのようにテルテナルが気さくに応答した。
「え?別に何もなかったよ?」
「そうか、ならいいけど……でも、今日先生が来るの遅くなかった?」
「ああ、なんか問題があるって言ってたね、でもまあ大丈夫じゃないかな?会議が長引いたとかで遅くなっているとか、なんかいろいろあるんじゃない」
 どうもテルテナルはあまりにもいつも通り過ぎる。それとも、ナムレの方が心配のしすぎなのだろうか……いや、それよりも二人が消えたことの方が深刻だろう。ラズィミエは完全に豹変してしまい、ラーセマングは姿を消した――いや、拉致されてしまった。彼女がどこに行ってしまって、どうなってしまうのか、分からない。彼女をどうにかして安全を確保したいが、どうすればいいのか分からない。そして、家に帰れば誰かいるのだろうか?いや誰もいない。両親は家に……両親?
「そういえばラーセマングの両親って見たことないような」
「あ?いきなりお前何言ってんだ。結婚の約束でもしてるのか?親と話をしてついに決断したのか」
「黙れ。俺は単に気になっているだけなんだ」
「じゃあ口に出すなよ……ほら、部活そろそろ行くぞ」
「いや……ラーセマングがいないんじゃあ行っても仕方ない。俺今日ちょっと調子悪いから先に帰るよ」
「んー、そうか、分かった。お大事にな」
 あっさり帰らせてもらった。いそいそとテルテナルは教室を出ようとする。ナムレは空席になったラーセマングの机をラズィミエの机を交互に見ながら、静かに教室を出た。その扉を出る直後に、女子と鉢合わせになり、危うくぶつかりそうになった。
「わわっ!近い近い!」
「ああ、ごめんって……」
「え?あ、わわ、」
「なんだ、アテーマングか……」
「なんだって何よ!こちらこそ、ごめんね。これから帰るの?部活は?」
「いや、今日はちょっと調子が悪いから……」
 するとアテーマングは分かりやすく頬を緩めた。
「じゃあサボるの?だったらこの後遊びに行こうよ!途中で寄り道して買い物に行こう!」
「寄り道って、君と俺じゃあ家が正反対だし、」
「ええー、そうだけれども、まあいいじゃない!思いっきり遊んじゃおう!」
周りに誰もいないからか、普段の謙虚で無表情な彼女とは思えないほどのはっちゃけぶりだ。
「まあ、いいけれど」
 もしかしたら気分転換にはなるかもしれない。ナムレはアテーマングの話に乗ることにした。

 二人さえもいなくなり、一人の女子が誰もいないその教室の電気を消しに行った。
「私の敵が他にもいたとは……兄上は渡さないわ」
 すっと伸びた長い金髪を背中に回しながら、ネクタイを自然な位置に調節する。しまっていた帽子を再びかぶり、歩き出した。その速さはだんだんと速くなり、しまいにはもはや走る、いやそれどころか空を飛んでいた。非常に急いでいる様子で。
「見失ったらまずいわ……駆け落ちなんてさせないわ」

――

 電車に乗ってどこまで行くのかと尋ねると、大都会までとしか答えが返ってこない。ネステルに行こうと思えば空を飛ぶ必要があり、ここから近い発展した都市と言えば、テリーン市中央の商店街が一番近いだろうが、スケニウやネステルにはやはり劣る。少し離れたスリャーザであればそんなことはないかもしれないが。
「今日は夜ご飯も一緒に食べようね。いい食事屋さんを見つけてあるんだー」
 アテーマングのテンションが完全にフィルター解除をしている。ナムレは嫌な予感がした。面倒なことになる。そもそもこんなに長い時間電車に乗っているということだけでも、心配になる。なによりラーセマングが心配するのではと思うと――
「でも俺はラーセマングを放っておいてこんなところで遊ぶなんてできないぞ」
 ナムレがそうアテーマングに言うと、席に並んで座る彼女の動きが止まった。目に光がなくなり、口も半開きのまま。肩が震えだして、数秒後にようやくしゃべりだしたと思ったら、ものすごい気迫を持っていた。
「あの女は…今夜は気にしなくても大丈夫よ……?」
 さっきまで車窓を見つめながら話していたのに、急に首をナムレの方に向いてずっとナムレの目を見ながら、言い始めた。
「え……?ちょ、どうしたんだアテーマング?ねえ、スリャーザさん?」
「あの女は警察に任せたんでしょう?あなたが事件に巻き込まれたら、迷惑をかけるのはラーセマングとかいう女だけではないのよ?」
「まあ、そうだが……なんだかんだであいつのことは大切にしなきゃいけないし、少しくらいは気にしたって…」
 電車が止まった。するとアテーマングは何の駅に着いたかどうかを確認するまでもなく、ナムレの腕をつかんで立ち上がった。急に動かれたナムレは強制的に連れていかれるように一緒に駅を降りた。
「え、ちょ、どういうことだ?ここはどこだ?」
「スリャーザ駅よ、予約したお食事屋さんはここにあるの」
「いや、俺の話を聞いて……」
 アテーマングは数秒ナムレに応答せずにいたが、少し歩くといったん止まって振り返った。
「さっきはごめんね、急に怒っちゃって。でも……」
「でも?」
 ナムレが言葉の先を催促するが、どうもアテーマングは言いづらそうな感じだ。珍しくナムレが切り出した。
「とりあえず、今日はラーセマングのことは考えないでお前の相手をするから、早くその店に行こう」
 アテーマングはぱあっと分かりやすい変化を示して、頬を緩めた。その様子はやはり、普段の寡黙で謙虚で物静かな彼女の第一印象を容赦なく木端微塵にしていくような可愛げがある。
「うん、ありがとう!お店はこっちだよ」
 アテーマングはナムレの手を緩めた。彼を連れて行く気がなくなったのではなく、そんなことをしなくても彼はついてきてくれると思ったのである。まさにその通りとなりナムレはアテーマングに同行した。二人はビルの中に入っていく。
 このハタ王国は、いくつか代表的な大都市がある。ネステルとスケニウもそれに該当するのだが、ここスリャーザも王国随一の大都会である。王国中の品物が取り揃えられ、連邦影響圏の諸国のさまざまな食品、伝統品、さらにはウェールフープ可能化剤まで売ってあるという噂まである。基本的にウェールフープは、一般人が自由に放っていいわけではないので、こんなに大きいビルで堂々と販売なんてしないだろうが。
 予約している時間はまだ先なので、それまで下の階で輸入品コーナーを見て回ったりすることになる。不思議な文字が書かれた看板を見てアテーマングが立ち止まってそこに入ろうとした。ナムレはそれをすぐに発見した。
「なんだなんだ? 何を見ようとしているんだ?」
「あれだよ、あれ!」
 アテーマングがさしたのは看板か。それも確かに含まれているかもしれないが、それが掲げている棚には目新しい物品がたくさん売られている。ユエスレオネ産らしいが、リパラオネというよりもラネーメという感じがする品々だ。その隣に見られるのはパイグ将棋だろうか。アテーマングがさした不思議な文字とは、これを見る限りリパーシェのことだろうか。
「ナムレ君って頭いいよね、リパライン語どれくらいできるの?」
「すごくアバウトな質問だな……テストのリパライン語ならある程度は」
「やっぱりすごいなー、私もリパライン語を流暢に話せるようになったら、ユエスレオネとかに観光に行きたいって思っているのよ」
 この国の青年たちはほとんどが王国の伝統的な文化を継承して、スカルタンを常にまとい米を食べて神を信仰してスカルムレイを慕って生活している。だが、その一方で外国の文化も積極的に取り入れているのだ。リパライン語は重要な外国語として重視され、また彼らはアロアジェードや正面でボタンを留めてズボンやスカートを別にはくユエスレオネの軍服だって知っている。彼らの文化にユエスレオネ、もっと広く言えばペーセ人の文化や、アイル人の文化、パイグ人の文化、彼らの歴史でさえもこの国には混在している。これがグローバリゼーションであり、今のスカルムレイが言う国の発展だという。
 そんな感じでここには、しばらく彼らが忘れていた、あるいはあまり触れることがなかった外の世界の文化が感じられるのだ。かつての世界を知る世代は高齢化したかあるいはすでにいなくなろうとしている。敏感な青年達にはこういった外来の文化は目新しいものだ。それはナムレもアテーマングにも例外ではないだろう。
 はたしてラーセマングはどう思うだろうか。ナムレはそう考えていた。パイグ将棋を見れば、ただ木片を動かしているだけだとか言いそうだし、ユエスレオネ式軍服は動きづらそうだと文句をつけるのかもしれない。リパライン語も彼女は一番苦手としている。
 一通り見てから、二人はエレベーターに乗り一気に上の階へ上がっていった。レストランは上の階に集中しているのだ。
巨大なイルキスのエンネが展望室から見えるほど高くまでビルを昇ると、アテーマングが言った。
「きれいな夜景ね」
 普段の彼女はそんな思ったことを率直に言っていくような人物ではないが、この時はやはり雰囲気が違った。ナムレもアテーマングのことをよく知っているわけではないので、こんな一面があるとは意外に思っている。
「あの、食事は?」
「ん? ああ、行きましょうか。ユエスレオネ風料理を予約してあるの」
 ユエスレオネ風。なかなか食べる機会がない料理だ。この国にも小麦粉を使った料理は存在するが、ファイクレオネではそれが主食であるということは、この国ではよく知られていることだ。
 店に到着して席に着くまでのプロセスはものすごく短い。予約情報はやはり向こうで管理されているらしく、スムーズに席までたどり着いた。人はかなり多く、確かに予約していないとすぐには食べられないって感じだ。
「なんでこんな店を知っているんだ?」
「調べたら出てきたのよ、ちょっとだけ遠出するにはちょうどいいと思って」
 ちょっとだけ遠出のつもりでスリャーザに来たというのか。
「でも、どうして今日だってわかったの? いつの間に予約したの?」
 予約する以上、あらかじめ予定を知っていなければならない。ナムレでさえ、まさか今日部活を休んで帰っていいとは思っていなかったはずである。
「あ、ああー、あなたのところの部長さんが教えてくれたのよ。こっそりね」
「なんだと?」
「私が初めてあの女に会ったことがあったでしょう? あの後彼が、この日を空けて送って予告してくれたのよ。この日だけは参加を任意にするって」
 あの部長が、そんな遊びのために部活を休ませる、そんなことがあるとは。スリャーザと言えば、常にまじめな人格の持ち主だ。何があっても冷静な人物で敬虔なトイムルクテイ。思慮深いと言った方がいいのだろうか、成績は常に優秀で非の打ち所がないといったところだ。
 そんな彼が、やすやすと部活を休ませることがあるのかと、ナムレは意外に思った。
「まあ、この話は今度学校ででもしましょう。何を食べる?」
「そうだなー」
 話の流れを一気に変えて、テーブルの端に立て掛けてあったメニューを取り出した。リパーシェと有字で二言語表記が為されている。ユーゲ人にはリパーシェやヴェフィス文字を読むことはそこまで困難ではない。それよりも旧有字やパイグ文字の方が読みづらい。
「そうだね、ナムレ君優柔不断だから、私が決めてあげるよ」
「俺そんなに優柔不断じゃねえよ」
「そう? まあいいよ、ゆっくり決めてね」
 ナムレもメニュー表を見る。実のところ彼が特に食べたいと思うメニューは具体的には考えていなかった。ただ、言ってしまった以上はなにかを頼んでみないといけないという、謎の衝動に駆られた。自分で作ってしまった状況だというのに。
 メニューを見渡していると、あるものが目に留まった。二人ともあまりユエスレオネの文化には明るくないが、そこにあるのはパンが複数並べられそこにおいしそうな色をしたスープのようなものがいくつか並べられているさまである。メニュー名を二人は読み上げた。
「パンと……チーズ…なあ、アテーマング、辞書持ってるか?」
「チーズと牛乳のスープ?さっぱりどんな料理なのか私は分からないわ」
 うーん、と二人は行き詰った。語彙がわかっても果たしてそれがいったい何を意味するのか、ユーゲ人の彼らにはイマイチ伝わらないらしい。
「あ、でも聞いたことがあるかもしれない。リパラオネ料理とかなんとかでチーズと牛乳が」
「すごく抽象的な記憶だな……これはおいしいのか?」
「そんなまずい料理は出そうとはしないでしょ。ユーゲ人の口にも合うはずよ。口コミで書いてあった」
 情報機器を使いこなしているという感じだろうか。
「とりあえずこれでも頼もうか」
 二人は一瞬自分の声で店員を呼ぼうとしたが、ほぼ同時に呼び出しボタンがあることに気が付いて、アテーマングがそれを押した。
「私の勝ちね」
「何の話だよ」

 注文を出してからしばらくたって、無事メニューに掲載されていたような外見をした料理が到着した。ナムレはそれをまじまじと見る。
「これは……確かにチーズが使われているって感じがするな」
 アテーマングはカメラ付きの端末を取り出して何枚か写真を撮ってからようやく肉眼で料理を拝見した。

――

 しばらく食事を進めていた。アテーマングはなかなか食べるのが遅い様子で、先にナムレが食器を置いて、合掌をした。
「ごちそうさま」
 パンをかじりながらアテーマングはその合掌された手を見た。
「ええっ、一緒にお話ししていたはずなのに、もう食べ終わっちゃったの?」
「まあ、普段はラーセマングのやつに付き纏われているから、どうしてもゆっくりになっちゃうけれど。普段はこんなもんだよ」
「むう、あの女……そう、じゃあもっと早くした方がいいかな?」
 ナムレはそれを断って水を一口。氷まで降りてこないように慎重に飲んだ後それをテーブルに置いて話の続きを始めた。
「でさあ、俺のことをアテーマングがよく知っているのは分かったけれど――」
 そう言いかけたところでアテーマングが少し反応したそぶりを見せた。持っていたパンから目を話してこっちをちらりと見てきた。何かに反応して顔を上げたのか、それを見てナムレは言葉を弱くした。
「今私のことをなんて……?」
「いやアテーマングだけれど……名字で呼んだらまるでスカルムレイ研究会のあいつみたいだ」
「うーん、まあ確かに紛らわしいわね。ちょっとがっかり……」
「え?」
「いやいや、なんでもないなんでもない」
 パンを置いて首を左右に振る。
 スリャーザと聞いて彼が真っ先に連想されるとは、親密になっても名字で呼んでしまうというのはユーゲ人というかトイター教徒の性だろうか。だがアテーマングという名前については完全に識別のための音素列となり果てている。
「パン、おいしいね」
「なんだよ急に」
 まるでさっきの話を誤魔化したかのような話題の転換だ。
「え、いやだって私まだ食べているんだもん」
「まあ、お前は遅いもんな。うっ」
 ナムレは急に言葉を止めた。アテーマングが急いで席を立とうとした。
「え、大丈夫? やっぱり私が毒見しておくべきだったかしら…くっ、私の失態だわ」
「ああ、あの野郎、グホッ、この俺の食事に毒を盛りやがっt……違う違う、トイレに行きたくなっただけだ」
「ああ、そういうこと? ついていこうか?」
「いやいいや、男女統一主義者ではないんでな」

 トイレへの道は分かりやすく看板が知らせていた。リパーシェで書かれたリパライン語表記の上にはトイレを表す見慣れたマークが描かれている。その先に小さな入り口があり、そこははたしてトイレだった。
 壁に取り付けられているタイプの便器を無視して個室に入り、便器の前に立つ。違和感を覚えた。鍵を閉めようと思ったら、すでに鍵が閉まっている。さすがに怪しいと思って、一旦開けてみようと手をかける。すると、声が聞こえた。聞いたことのある声だ。
「この後はどこまでやろうと思っているの?」
「は?」
 仮にも相手の姿が見えないとしても、ここまでストレートに聞いてくるとさすがに素の反応だってしたくなる。
「てっきりあなたに興味があるのはラーセマング=カリーファテリーンだけかと思ってた…でも、そうでもないみたいね」
「人聞きの悪いな」
「あなたは家族思いの人。姉妹兄弟の面倒を常に見ていて、自分だけが得することを良しとしない。あなたの反応がそれでも、内心すごく優しいんだから、一人ぐらいは注目してくるはずよね」
「そういうものか、自分ではよくわからん」
「まあ、あの女の子とは後から考える。それよりも、ラーセマングの行方が分からなくなったみたいね。警察もラーセマングのことを探そうとしているみたいだけれど、手掛かりは見つからないとか」
「何が言いたい、俺に殺させるはずじゃなかったのか、やはりお前がどこかへやったのか」
 声の主はしばらく間を置いた。
 だが、その間はどこからか聞こえてくる足音と連動しているかのようだった。声に注目する傍ら、足音にも注意を払っていると、足音は自分に非常に近いところで止まり扉を開けてしまった。鍵はいつの間にか外れている。
「そんなあなたに提案があるの。あなたがどうしても私の依頼を引き受けてくれないというのなら……」
 その姿はまさに、あの時見た特別警察姿の金髪の少女である。
「今夜私の家に来ない? もし来てくれれば、あなたも少しは変わるはずよ」

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最終更新:2017年02月07日 19:22