王国警察の到着は次の授業の半分が終わったころであった。担当の者が事情聴取を行い、それに校長や国史の教師などが応じた。事件は教職員の間で解決するらしく、生徒であるナムレやアテーマングが関与することはなかった。
ただ、それでナムレが納得いったわけではない。いくわけがない。ラーセマングが姿を消しているというのはさっきから変わらない。いくらすべてを教師や王国警察に任せたからと言って、そこはナムレは非常に気になるものである。
ナムレは放課後にテルテナルに話しかけた。
「ああ、君たちは無事だったのか」
何もなかったかのようにテルテナルが気さくに応答した。
「え?別に何もなかったよ?」
「そうか、ならいいけど……でも、今日先生が来るの遅くなかった?」
「ああ、なんか問題があるって言ってたね、でもまあ大丈夫じゃないかな?会議が長引いたとかで遅くなっているとか、なんかいろいろあるんじゃない」
どうもテルテナルはあまりにもいつも通り過ぎる。それとも、ナムレの方が心配のしすぎなのだろうか……いや、それよりも二人が消えたことの方が深刻だろう。ラズィミエは完全に豹変してしまい、ラーセマングは姿を消した――いや、拉致されてしまった。彼女がどこに行ってしまって、どうなってしまうのか、分からない。彼女をどうにかして安全を確保したいが、どうすればいいのか分からない。そして、家に帰れば誰かいるのだろうか?いや誰もいない。両親は家に……両親?
「そういえばラーセマングの両親って見たことないような」
「あ?いきなりお前何言ってんだ。結婚の約束でもしてるのか?親と話をしてついに決断したのか」
「黙れ。俺は単に気になっているだけなんだ」
「じゃあ口に出すなよ……ほら、部活そろそろ行くぞ」
「いや……ラーセマングがいないんじゃあ行っても仕方ない。俺今日ちょっと調子悪いから先に帰るよ」
「んー、そうか、分かった。お大事にな」
あっさり帰らせてもらった。いそいそとテルテナルは教室を出ようとする。ナムレは空席になったラーセマングの机をラズィミエの机を交互に見ながら、静かに教室を出た。その扉を出る直後に、女子と鉢合わせになり、危うくぶつかりそうになった。
「わわっ!近い近い!」
「ああ、ごめんって……」
「え?あ、わわ、」
「なんだ、アテーマングか……」
「なんだって何よ!こちらこそ、ごめんね。これから帰るの?部活は?」
「いや、今日はちょっと調子が悪いから……」
するとアテーマングは分かりやすく頬を緩めた。
「じゃあサボるの?だったらこの後遊びに行こうよ!途中で寄り道して買い物に行こう!」
「寄り道って、君と俺じゃあ家が正反対だし、」
「ええー、そうだけれども、まあいいじゃない!思いっきり遊んじゃおう!」
周りに誰もいないからか、普段の謙虚で無表情な彼女とは思えないほどのはっちゃけぶりだ。
「まあ、いいけれど」
もしかしたら気分転換にはなるかもしれない。ナムレはアテーマングの話に乗ることにした。
電車に乗ってどこまで行くのかと尋ねると、大都会までとしか答えが返ってこない。ネステルに行こうと思えば空を飛ぶ必要があり、ここから近い発展した都市と言えば、テリーン市中央の商店街が一番近いだろうが、スケニウやネステルにはやはり劣る。少し離れたスリャーザであればそんなことはないかもしれないが。
「今日は夜ご飯も一緒に食べようね。いい食事屋さんを見つけてあるんだー」
アテーマングのテンションが完全にフィルター解除をしている。ナムレは嫌な予感がした。面倒なことになる。そもそもこんなに長い時間電車に乗っているということだけでも、心配になる。なによりラーセマングが心配するのではと思うと――
「でも俺はラーセマングを放っておいてこんなところで遊ぶなんてできないぞ」
ナムレがそうアテーマングに言うと、席に並んで座る彼女の動きが止まった。目に光がなくなり、口も半開きのまま。肩が震えだして、数秒後にようやくしゃべりだしたと思ったら、ものすごい気迫を持っていた。
「あの女は…今夜は気にしなくても大丈夫よ……?」
さっきまで車窓を見つめながら話していたのに、急に首をナムレの方に向いてずっとナムレの目を見ながら、言い始めた。
「え……?ちょ、どうしたんだアテーマング?ねえ、スリャーザさん?」
「あの女は警察に任せたんでしょう?あなたが事件に巻き込まれたら、迷惑をかけるのはラーセマングとかいう女だけではないのよ?」
「まあ、そうだが……なんだかんだであいつのことは大切にしなきゃいけないし、少しくらいは気にしたって…」
電車が止まった。するとアテーマングは何の駅に着いたかどうかを確認するまでもなく、ナムレの腕をつかんで立ち上がった。急に動かれたナムレは強制的に連れていかれるように一緒に駅を降りた。
「え、ちょ、どういうことだ?ここはどこだ?」
「スリャーザ駅よ、予約したお食事屋さんはここにあるの」
「いや、俺の話を聞いて……」
アテーマングは数秒ナムレに応答せずにいたが、少し歩くといったん止まって振り返った。
「さっきはごめんね、急に怒っちゃって。でも……」
「でも?」
ナムレが言葉の先を催促するが、どうもアテーマングは言いづらそうな感じだ。珍しくナムレが切り出した。
「とりあえず、今日はラーセマングのことは考えないでお前の相手をするから、早くその店に行こう」
アテーマングはぱあっと分かりやすい変化を示して、頬を緩めた。その様子はやはり、普段の寡黙で謙虚で物静かな彼女の第一印象を容赦なく木端微塵にしていくような可愛げがある。
「うん、ありがとう!お店はこっちだよ」
アテーマングはナムレの手を緩めた。彼を連れて行く気がなくなったのではなく、そんなことをしなくても彼はついてきてくれると思ったのである。まさにその通りとなりナムレはアテーマングに同行した。二人はビルの中に入っていく。
この
ハタ王国は、いくつか代表的な大都市がある。ネステルとスケニウもそれに該当するのだが、ここスリャーザも王国随一の大都会である。王国中の品物が取り揃えられ、連邦影響圏の諸国のさまざまな食品、伝統品、さらには
ウェールフープ可能化剤まで売ってあるという噂まである。基本的にウェールフープは、一般人が自由に放っていいわけではないので、こんなに大きいビルで堂々と販売なんてしないだろうが。
予約している時間はまだ先なので、それまで下の階で輸入品コーナーを見て回ったりすることになる。不思議な文字が書かれた看板を見てアテーマングが立ち止まってそこに入ろうとした。ナムレはそれをすぐに発見した。
「なんだなんだ? 何を見ようとしているんだ?」
「あれだよ、あれ!」
アテーマングがさしたのは看板か。それも確かに含まれているかもしれないが、それが掲げている棚には目新しい物品がたくさん売られている。
ユエスレオネ産らしいが、リパラオネというよりもラネーメという感じがする品々だ。その隣に見られるのはパイグ将棋だろうか。アテーマングがさした不思議な文字とは、これを見る限りリパーシェのことだろうか。
「ナムレ君って頭いいよね、
リパライン語どれくらいできるの?」
「すごくアバウトな質問だな……テストのリパライン語ならある程度は」
「やっぱりすごいなー、私もリパライン語を流暢に話せるようになったら、ユエスレオネとかに観光に行きたいって思っているのよ」
この国の青年たちはほとんどが王国の伝統的な文化を継承して、スカルタンを常にまとい米を食べて神を信仰して
スカルムレイを慕って生活している。だが、その一方で外国の文化も積極的に取り入れているのだ。リパライン語は重要な外国語として重視され、また彼らはアロアジェードや正面でボタンを留めてズボンやスカートを別にはくユエスレオネの軍服だって知っている。彼らの文化にユエスレオネ、もっと広く言えばペーセ人の文化や、アイル人の文化、パイグ人の文化、彼らの歴史でさえもこの国には混在している。これがグローバリゼーションであり、今のスカルムレイが言う国の発展だという。
そんな感じでここには、しばらく彼らが忘れていた、あるいはあまり触れることがなかった外の世界の文化が感じられるのだ。かつての世界を知る世代は高齢化したかあるいはすでにいなくなろうとしている。敏感な青年達にはこういった外来の文化は目新しいものだ。それはナムレもアテーマングにも例外ではないだろう。
はたしてラーセマングはどう思うだろうか。ナムレはそう考えていた。パイグ将棋を見れば、ただ木片を動かしているだけだとか言いそうだし、ユエスレオネ式軍服は動きづらそうだと文句をつけるのかもしれない。リパライン語も彼女は一番苦手としている。
一通り見てから、二人はエレベーターに乗り一気に上の階へ上がっていった。レストランは上の階に集中しているのだ。
巨大なイルキスのエンネが展望室から見えるほど高くまでビルを昇ると、アテーマングが言った。
「きれいな夜景ね」
普段の彼女はそんな思ったことを率直に言っていくような人物ではないが、この時はやはり雰囲気が違った。ナムレもアテーマングのことをよく知っているわけではないので、こんな一面があるとは意外に思っている。
「あの、食事は?」
「ん? ああ、行きましょうか。ユエスレオネ風料理を予約してあるの」
ユエスレオネ風。なかなか食べる機会がない料理だ。この国にも小麦粉を使った料理は存在するが、ファイクレオネではそれが主食であるということは、この国ではよく知られていることだ。
店に到着して席に着くまでのプロセスはものすごく短い。予約情報はやはり向こうで管理されているらしく、スムーズに席までたどり着いた。人はかなり多く、確かに予約していないとすぐには食べられないって感じだ。
「なんでこんな店を知っているんだ?」
「調べたら出てきたのよ、ちょっとだけ遠出するにはちょうどいいと思って」
ちょっとだけ遠出のつもりでスリャーザに来たというのか。
「でも、どうして今日だってわかったの? いつの間に予約したの?」
予約する以上、あらかじめ予定を知っていなければならない。ナムレでさえ、まさか今日部活を休んで帰っていいとは思っていなかったはずである。
「あ、ああー、あなたのところの部長さんが教えてくれたのよ。こっそりね」
「なんだと?」
「私が初めてあの女に会ったことがあったでしょう? あの後彼が、この日を空けて送って予告してくれたのよ。この日だけは参加を任意にするって」
あの部長が、そんな遊びのために部活を休ませる、そんなことがあるとは。スリャーザと言えば、常にまじめな人格の持ち主だ。何があっても冷静な人物で敬虔なトイムルクテイ。思慮深いと言った方がいいのだろうか、成績は常に優秀で非の打ち所がないといったところだ。
そんな彼が、やすやすと部活を休ませることがあるのかと、ナムレは意外に思った。
「まあ、この話は今度学校ででもしましょう。何を食べる?」
「そうだなー」
話の流れを一気に変えて、テーブルの端に立て掛けてあったメニューを取り出した。リパーシェと有字で二言語表記が為されている。ユーゲ人にはリパーシェやヴェフィス文字を読むことはそこまで困難ではない。それよりも旧有字やパイグ文字の方が読みづらい。
「そうだね、ナムレ君優柔不断だから、私が決めてあげるよ」
「俺そんなに優柔不断じゃねえよ」
「そう? まあいいよ、ゆっくり決めてね」
ナムレもメニュー表を見る。実のところ彼が特に食べたいと思うメニューは具体的には考えていなかった。ただ、言ってしまった以上はなにかを頼んでみないといけないという、謎の衝動に駆られた。自分で作ってしまった状況だというのに。
メニューを見渡していると、あるものが目に留まった。二人ともあまりユエスレオネの文化には明るくないが、そこにあるのはパンが複数並べられそこにおいしそうな色をしたスープのようなものがいくつか並べられているさまである。メニュー名を二人は読み上げた。
「パンと……チーズ…なあ、アテーマング、辞書持ってるか?」
「チーズと牛乳のスープ?さっぱりどんな料理なのか私は分からないわ」
うーん、と二人は行き詰った。語彙がわかっても果たしてそれがいったい何を意味するのか、ユーゲ人の彼らにはイマイチ伝わらないらしい。
「あ、でも聞いたことがあるかもしれない。リパラオネ料理とかなんとかでチーズと牛乳が」
「すごく抽象的な記憶だな……これはおいしいのか?」
「そんなまずい料理は出そうとはしないでしょ。ユーゲ人の口にも合うはずよ。口コミで書いてあった」
情報機器を使いこなしているという感じだろうか。
「とりあえずこれでも頼もうか」
二人は一瞬自分の声で店員を呼ぼうとしたが、ほぼ同時に呼び出しボタンがあることに気が付いて、アテーマングがそれを押した。
「私の勝ちね」
「何の話だよ」
トイレへの道は分かりやすく看板が知らせていた。リパーシェで書かれたリパライン語表記の上にはトイレを表す見慣れたマークが描かれている。その先に小さな入り口があり、そこははたしてトイレだった。
壁に取り付けられているタイプの便器を無視して個室に入り、便器の前に立つ。違和感を覚えた。鍵を閉めようと思ったら、すでに鍵が閉まっている。さすがに怪しいと思って、一旦開けてみようと手をかける。すると、声が聞こえた。聞いたことのある声だ。
「この後はどこまでやろうと思っているの?」
「は?」
仮にも相手の姿が見えないとしても、ここまでストレートに聞いてくるとさすがに素の反応だってしたくなる。
「てっきりあなたに興味があるのはラーセマング=カリーファテリーンだけかと思ってた…でも、そうでもないみたいね」
「人聞きの悪いな」
「あなたは家族思いの人。姉妹兄弟の面倒を常に見ていて、自分だけが得することを良しとしない。あなたの反応がそれでも、内心すごく優しいんだから、一人ぐらいは注目してくるはずよね」
「そういうものか、自分ではよくわからん」
「まあ、あの女の子とは後から考える。それよりも、ラーセマングの行方が分からなくなったみたいね。警察もラーセマングのことを探そうとしているみたいだけれど、手掛かりは見つからないとか」
「何が言いたい、俺に殺させるはずじゃなかったのか、やはりお前がどこかへやったのか」
声の主はしばらく間を置いた。
だが、その間はどこからか聞こえてくる足音と連動しているかのようだった。声に注目する傍ら、足音にも注意を払っていると、足音は自分に非常に近いところで止まり扉を開けてしまった。鍵はいつの間にか外れている。
「そんなあなたに提案があるの。あなたがどうしても私の依頼を引き受けてくれないというのなら……」
その姿はまさに、あの時見た
特別警察姿の金髪の少女である。
「今夜私の家に来ない? もし来てくれれば、あなたも少しは変わるはずよ」