ある少女の占い_第七話

第7話「許せないわ!」
 シーナリアトン。
 ごくありふれた名前であると言えば、そうかもしれない。発祥はディスナル地方のシャスティ家の分家であり、一般庶民にも見られる姓である。
 だが、これが今のナムレを除く人間たちには非常に重要な名前であった。
「やはり……なんのことかすら分かっていないみたいだぞ」
 運転をしていたツェッケナルが言う。この現状を見て、ぎりぎり聞こえるほどの大きさでスモイが言うのも聞こえた。
「そう、もうそこまで……」
 そこまで、なにがそこまでなのか。
「ラズィミエの推測に間違いはなかった……ということか。スモイが名乗っても動じないのだから、同然のことかもな」
 早く解説がほしいところだが、ラーセマングすらも口を割ろうとしない。それとも彼女も何を言われているのか分からないのか。ナムレとしては、ラーセマングは何も知らないということを事実と認めて、すべてが元に戻ることを祈るばかりであった。
「スモイ、すべてを話せ。その際にどれほどのショックがあるかと言えば……我々の推測が正しければの話だが、今まで数多くのハタ人がこの時のショックで意識を一時的に失ったりする。暴れることもある。脳科学に精通しない素人が行うことなのだから、ある程度の問題は予想されると考えろよ」
「ええ……」
 スモイが何かを語ろうとする。しかし、ラーセマングのその行動がナムレの不安をさらに煽り、またラーセマングがナムレに何かをしているということを身をもって示すことになってしまった。ナムレは、語ろうとするスモイを止めようと懐から棒状の何かを取り出して目にも留まらぬ速さでスモイに襲い掛かった。
「おっとぉ!」
 スモイは全く動いていない。ラズィミエの取り出した剣が彼の暴れる手を牽制した。
「ラズィミエ……」
「親友に忠告するが、暴力とは最終手段だ。まずは彼女の話をすべて聞くといい」
「……クソッ」
 手を下ろしスモイから離れてラーセマングのもとに戻り、しゃがみ込んだ。ラーセマングはうつむいたまま。だが、何かを狙っていることは確かだ。でも人数で考えれば状況を打破するのは難しい。ナムレは戦意を抑えて話を聞いてみることにした。ようやく真相を聞けるのだから、大人しくするしか手段はない。
「私の出身や経歴についてはさっきナムレにも話したしラーセマングにも教えてある。その続きを話すから、それにナムレがどう行動するかで私たちの出す手段は変わってくるわ」
 スモイはラーセマングの方に向き直った。
「それから、あなたにもすべてを話してもらうことになる。心づもりしておきなさいよ」
「それより、一旦中に入らないか?」
 スモイの無機質な家を指さしながら、ツェッケナルは提案した。一行はいったん部屋に入る。

「まあ適当に座りなさい。こんなに狭いんだから誰だって殺せるわよ」
 それでも、テーブルをはさんでカリーファテリーン家とスモイが座り、その横にツェッケナルとラズィミエが座るという形だ。
「まずは私のそのあとの経過から。過去から話していくわよ。流刑にされた後、私はある国に到着するまで必死にサバイバルしながら生きてきた。日々の食糧は乏しかったしいつ病になってもおかしくはないほどの極限状態よ。海にいるとまず食材は手に入らない。いっそ早く死んだ方がいいかと海に飛び込もうと思ったこともあった」
 流刑にされて生き残ろうとするとは、執念深い女である。
「そして私はとある陸地に漂流した。祖国を離れてから何か月たったのか分からないけど、漂着したところは祖国とそんなに変わらない光景だったわ」

――

 これは私の冒険、それも終章。スモイ・ザイネン・ダウフェンフリードはある陸地に到着した。
 それは統一国家である。革命が起きたばかりの私の祖国とは対極の存在にいる。とても平和で、人々は活気にあふれていて、平穏な毎日を送っている。
 ほどなくして私は現地の人間に保護された。彼の話す言葉は自分の母語とかけ離れている。はじめは何を言っているのかよく理解できないが、それでも意思疎通を取るために努力を惜しまなかった。自分は生きなければならない。
 海の向こうに流され自分が体験したこと。まるで今は亡き父と同じことをやっているようだ。異国の地を体感する、品を見る。文化を見る。懐かしい父親に似たようなことをやっている。
 目の前にある建物もそうだ。どこか懐かしい。父に見せてもらった写真の建物に近いと言えば近い。これを現地の人間はイルキスと呼んでいた。彼らは自らの言語をユーゴック語と呼んでいる。自分の話す言語の名前を明確に意識したことは無いが、それは確かに彼女にとって外国語である。
 そして私を救ってくれた彼。彼には感謝しなければならない。明らかに場違いな衣装を身にまとい、そしておそらく空腹と健康状態の悪化でとても恐ろしい外見になっていたであろう女を、善く救ってくれたと心から思う。彼こそが慈愛に満ちた人間の理想の形態であり、私は彼に心底から敬意を表した。
 何か月かここで暮らしてきた。私にとっては異世界体験のようなものだ。その生活は終わることがなく、いつも彼と彼の家族と一緒に私は生活を続けていた。いつまでも続くと思っていた。
 だが、そんなことは幻想である、永遠などないと教えられた。この国には次元を隔てた先にある外交関係が存在していて、その中の国際関係に密接にかかわる大国だった。国号を初めてその時に聞いたのだ。「ハタ王国」と。
 新しいものがどんどん世界から入り込んできたハタ王国は、レタジャハルという問題を常に見張っていた。この国の王をスカルムレイと呼ぶ。王は代々女性が務めていた。ウェールフープという、まさに父から聞いたことしかない古代魔法がこの国には残っているということを初めて聞かされた。
 そして私は、恩あるこの国のために命を捧げたいと思うようになった。私を救った彼の母親は、故郷の危機だと言って帰省してから音沙汰がない。父親も政府の仕事で忙しい。どんどん彼の身内が戦いに飲み込まれる現状を、彼女は見てはいられない。
 彼とこの国を私が救いたいと思って、私はレタジャハルと戦い続けた。この国の歴史を私は理解しているわけではない。いつも勉強する、そして彼からも教えてもらう。いつの間にか私は彼のことを兄として慕っていて、私もまた妹として彼に扱われていた。ユーゴック語での名前も名乗るようになった。学校に通うようになった。父はいつも帰るのが遅い。母は行方が分からない。いつしか、家には私と彼の二人しか住んでいないかのような錯覚に陥った。
 彼には恩を感じている。肌や髪の色が違ってもかまわない。

 そして私はこの国に定住するようになった。3年間ほど――

「――これが私の過去。異国で生まれた私がどうして今ここにいるのか、何があったのか。ナムレ、今まで礼なんて言えなかった。あなたはそういうことを言われるのに慣れていないから、いつも私も胸の奥底にしまったまま思いを伝えられなかったけれど、今ならあなたに言える気がする。私にそんなこと言われても、悲しいことに記憶はないんだろうけど」
 今の彼には本当に不思議な感覚が生じている。自分がした覚えのないことに対して深い感謝をささげられている。だが、これを無理に否定させることができないのが彼の性格でもある。良心をいたぶるということはしてはならないのである。
「ナムレ……今まで本当にありがとう。短い時間、生死の境をさまよった私を救ってくれて、本当にありがとう。生き方を教えてくれてありがとう。私は正直、初めてあなたに会ったとき、自分とこんなに違う外見で本当にうまくやっていけるのかと不安に思ったけれど、そんな不安をかき消してくれるほどの寛容さがあなたにはある。たとえ記憶を失っても、そこだけは崩せない。そう思っているから」
「感動シーンのところすまない。本題はそこからだ」
 誰もが、その聞こえてくるはずのない声に驚愕した。ナムレとラーセマングはその姿を見て驚きを隠せない。スモイとツェッケナルとラズィミエは、その登場を意外に思い顔を上げたまま目を見開いた。
 まずはナムレが質問した。
「なぜあんたがここにいるんだ……?」
 そこに立っていたのはスリャーザ、スカルムレイ研究会の部長である。
「それはもちろん、この案件には私もかかわっているからだ。カリーファテリーン姉弟、そしてダウフェンフリード氏。君たちはよくやってくれた。全く計画通りには進まなかったが、今スモイが話してくれたことはとても重要な作戦を私に思いつかせてくれたよ。感謝しよう」
「こんな状況からまだ策があるというの? もう彼は取り返せないわ!」
 右手でスモイを牽制する。靴を脱ごうとはせず、玄関で立ったまま話を続けようとした。
「どこまで話したのかは想像ができるな……ダウフェンフリード氏のことについてだろう?いやなんとも、感動的なお話だ。窮地に立たされたものを救って見せる。いやあ、ぜひとも私の親類にも見習ってほしかった生き方だ」
 含ませながら話を進めてくる。まだ続きがあるらしい。
「まずはその後の経過について、我々が調査済みのことから話して君の反応を見るとする」
「いえ、私が本当のことを話すわ」
 言い出したのはラーセマングだった。今までずっと口を塞いだままだった彼女が、いよいよ口を開き始めた。だが、スリャーザだけは話を聞こうとはしない。その態度を見てラーセマングは説得を始めた。
「十分みんなが何をしたいか、私には伝わった。はじめから仕組まれていたということも彼女の話から十分に理解できた。だからこそいうけれど、『こんなはずじゃなかった』」
 その言葉にナムレは引っかかる。話を聞かされるスリャーザたちを見ていた彼だったが、ラーセマングを見るようになった。

「私はもともと、あるシャスティ家の末っ子として生まれた。姓は『カリーファテリーン』、今私が住んでいるところとは違うところだった。でも、私は三人の姉の手によって『謀略者』の烙印を押された――」

――私は由緒あるシャスティ家の末っ子。血縁の後継者を重んじる我が一族は子宝に恵まれ、四人の女の子を産んだ。私はその四番目。慣例上イルキス主は年長のものから交代していくので、私のが主人になるのはずっと大きくなってからである。母が亡くなれば長女が、長女に問題があれば次女が、といった具合。
 『問題があれば』という条件は非常に重要なものだ。どんなに良い環境に生まれ育ち、どんなに洗練された教育を受けていようと、シャスティの根幹には信仰心が最も重要とされた。疑いを持つ信徒は、信者を一切正しい道に導くことはできない。導けない信徒は、もはやただの税金泥棒である。世論にも厳しい仕打ちを受けることだろう。
 年が離れていたためあまり一緒になることのなかった三人の姉たちだが、やはり素行はいいようで母親の跡取りにはまず長女が選ばれていた。私もそれで納得した。特に重大に考えることもないかなと思った。
 と、いうのは的外れであったことが発覚した。というのも、私は彼女らが不信仰を働いているところを目の当たりにしたのである。金を使って闇の世界につながり、勉学を放棄して不正を働きながら生きていたのだ。彼女らがどうしてこうなったのか、私には分からなかった。
 私は彼女らと話を付けるしかなかった。こんなことは止めてほしいと強く訴えた。彼女らは聞く耳を持たず、私に敵対心を抱き強く当たるようになった。いつの間にか私は本当に姉妹の中で孤立していて、母親が私の話し相手になった。母親はいつも親密に私の話を聞いてくれる。とても尊敬する人であった。
 だが、ある日母親は死んだ。とても病気でなくなるような人ではないが、何らかの事故で急逝してしまった。私はトイターの教えに従って彼女の死を悔やまず、静かに事実を受け入れた。そして母親が亡くなり、三人の姉の中の長女がイルキスを相続した。
 それからであった。私の戦いは。三人の姉妹は結束して、わいろを回してまで自らの青年時代のことを隠蔽した。いや、地位を手に入れてからはなおさら風紀の乱れた行為を見る機会が増えた。我慢ならない。こんな連中がトイター教の権威を名乗るなんて、許せない。私は怒りに燃えた。いつかこんなイルキスを焼き払い、まことに正しいイルキスを再編する。まだ若かった私は復讐も兼ねて、王国警察の力を使って彼女たちに宣戦布告した。
 結果はどうだったか。私は惨敗した。王国警察はまったく私の味方をしなかった。風紀の乱れた行動をしていたのは私ではなく彼女たちのはずなのに、私が一番疑われた。私の叫びはむなしく、また彼女たちの策略にはめられて泣き寝入りせざるを得ない結果になった。そして、かつてあんなにまじめだった私が急にこんな事件を起こしたと噂が立てば、私はここにはいられなくなった。姉たちからも、イルキス追放をすでに勧告されていた。
 数か月のうちに私は故郷を去った。
 寂しい旅だった。
 一族の恥へと仕立て上げられた私は、途方に暮れた。テリーン呪術師の彼女は次の居場所を求めていたすら旅をつづけた。
 ただ漂流するだけの若いシャスティとなった私は、人目を避けてテリーン地方の山奥へたどり着いた。心身ともに限界だった。
 最後の希望がこの建物だ。この廃屋を修繕して、物乞いをしてでも、私は私のやり方を貫く。
 そしてそれが私の生き方だ。同時に彼女らへの復讐だ。母の願いは私が受け継ぐ。
 山奥にある小さいイルキスはこうしてシャスティ出身のある少女の手によって復活した。

――ラーセマングは再び下を向いた。
 ナムレは隣に座る彼女を見ながら、驚き続けた。
「あのイルキスは、君の先祖のものではない……?」
「そうよ。あれは山奥にあった空き家を私が修繕し、資金を募って復活させたもの。私の出身家とは完全に決別した。そして母親をイルキスの創始者として伝えてある」
 数か月過ごしたイルキスのことを再び考える。ラーセマングの母親が建てたとしてあるが、事実を見てみるとそうではない。
 そしてナムレは彼女の母親に会ったことがない。会えるはずもない。ここに来る前に彼女は死んでいたのだから。

「なるほど、いい誘い文句だった」
 スリャーザは拍手をする。誰も便乗しない。ナムレは不審に思った。
 そしてスモイが立ち上がった。
「なるほどね……でも、ナムレとの出会いが説明されていないようだけれど?」
「!!」
 ラーセマング、明らかに不意を突かれた反応を示した。
 今の話では、彼自身がどこにも関与してこない。
 じゃあ、なぜ彼はここにいるのか。そして、スモイとの過去の話は何なのか。どっちが真実なのか?
 いつの間にか彼の記憶はあやふやになった。なぜあの家に自分は居たんだ? あまりにも当然のように思い込んでいて、さっきのスモイの過去の話も本当であるかのように聞こえる。だが、一番に嘘だとうかがえるのは、スモイの話である。
 でもどちらも嘘をついている様子がない。自分の知らない自分の側面を指摘されているようだ。まるで、自分はスモイとの思い出の後に、まるっきりリセットされたかのように。
――リセットされたかのように?

「気が付いたようだね」
 はっ、と思ったころにはスリャーザが玄関から上がり込んですぐ近くに立ち、ナムレを見下ろしていた。
「スモイの話とラーセマングの話の間に何が起きたか……気になるかい? 気になるよなあ??」
「ナムレ君……私の話が真実よ! あなたはもともと――」
「ホラ吹き女は黙ってなさい! 本当のことを教えるわ。あなたが私を助けて一緒に生活していた矢先に、このラーセマング=カリーファテリーンという女が現れた!」
「うるさい……ホラ吹きはあなたの方よ!」
 ラーセマングがどこからかメシェーラを取り出してスモイを吹き飛ばそうとした。スモイは吹き飛ばされ、コンクリートの壁に打ち付けられた。
「スモイ!」
 意外と荒っぽい性格だ。唐突に始まる争いに、ナムレはついていけない。
 ラズィミエも臨戦態勢を取ろうとするが、彼の手をスモイが抑えた。
「よくも……よくも……手を出したわね……今あなたは私に手を出したわね! 二度も! 許せないわ! ナムレを捕えなさい! ラーセマング=カリーファテリーンは私が黙らせる。その我儘な胸を斬り落としてくれるわ!」
 テーブルを踏み台にしてラーセマングに襲い掛かる。ナイフを手に持っており、避けようがない。
「何っ」
「スカルタンに穴をあけてやるわ、この泥棒が!」
 激しくラーセマングは横に体を動かした。引き金はひかれ、軽い爆裂音とともに左腕から血がとんだ。左腕を抑える暇もなく、ラーセマングはメシェーラを持ち直し、ウェールフープ体制に移る。
「あなたの殺るのに、古代魔法は必要ないわ。ここでケリをつける。かかってきなさい」
「意外と荒っぽい人……さっきの話を聞いていなかったみたいだからもう一度教えてあげる。私は、あの三人の姉と戦ったのよ。不信仰な態度に一切の罪悪感のない、シャスティとして最低な女たちよ! 私は陰謀と戦った、過去と戦った。そしてイルキスを作るためにトイター教と戦った! 殴れば勝手に潰れてくれるレタジャハルみたいな連中と一緒にしないでよね!」
 これまでにナムレが聞いたこともないような、ラーセマングの罵声である。
 あまりにもそれが衝撃的だった。彼女は平時とは違う。
「傲慢な女…、必ずぶちのめしてやるわ!」
 ナイフを前に突き出す。メシェーラを敵に向ける。
 もう逃げも隠れもしない。スモイとラーセマングは、恩人を奪い合う戦いを始めた。
 ナムレは事情を呑み込もうとしていた。
 つまりどういうことだ。自分は本当はスモイとここに住んでいた。しかし、何らかのきっかけでラーセマングの家に来た。その間に何があったのか。そして、どちらが悪いのか。
 たしかなことは、自分は今はカリーファテリーン家の跡取りであるということ。その前はスモイと暮らす青年だ。ラーセマングは自分に何を唆したんだ。だが、そのことがとても昔のことであるかのように、何も思い出せない。なんて違和感だ。自分の存在に矛盾があるなんて、なんて違和感だろう!
 ナムレは悩み続けた。目の前で二人が争う理由も、そしてかつての友人がここにいる理由も、一連の話が終わったところでやっぱり分からない。
 では自分は何を信じれば状況を打破できるのか。ナムレ=カリーファテリーンとナムレ=シーナリアトンはそもそも同一人物なのだろうか?
 「きゃっ!」
 さっきから聞こえていたはずなのに唐突に耳に飛び込んできた空を切る音。彼はそれに反応して対峙する二人を再び見つめなおした。ラーセマングが右手を斬りつけられメシェーラを落としていた。カラン、と軽い音を立て机に着地するメシェーラをラーセマングは見た。
 スモイは笑った。
 ナムレはかつてない危機感を感じた。ラーセマングが危ない。救わなくてはならない。何とかしなければならない!
 気が付いたらナムレの脚は急に動き出し、立ち上がってた思いきや、ラズィミエを突き飛ばす。
 今度はナムレはラーセマングをかばおうと後ろから抱き着いていた。
 速度を帯びておりすぐにラーセマングを玄関に持っていき、ナムレはラーセマングとそのまま場所を交替する形になった。
「危ない!」
「え」
 空を切る音が響いた。だがその音が途切れることがわかる。滴る血がわかる。だが、意外と血はそんなに吹き出ないものだ。
 スモイはナイフを横水平に差し出し、ラーセマングの肋骨をくぐり抜けて彼女の心臓を一発で射貫くように調節していた。サバイバルナイフほどの長さがあれば、心臓にも達するはずだ。これほどの至近距離、避けるのは至難の業だ。
 加えてラーセマングは、先程自分が机の方に落としたメシェーラを見送ろうとしていた。よそ見をしていた。首をこっちに向けるよりも先に心臓を刺されているうえ、それなら訳も分からず動いた方が早い。しかし、それが彼女にはできなかったのである。
 しかし、彼女の危機を直感したナムレは慌てて飛び出してきた。側にいたラズィミエをはねのけ、急に立ち上がり、いや、立ち上がるというより飛び上がった。ラーセマングの腕をまるごと束ね、胴体を玄関まで押しやる。かつてラーセマングが立ったその場所には、ナムレがさらに無防備な状態でたった。
 しかも刺さり方は最悪だった。肋骨の下のあたりから中へもぐりこむようにナイフは突き刺さり、一体何本の血管をぶち破り、どれほどの脂肪を切り裂いたのか分からない。どの内臓を破ったのか。
 今までここまで深く体を鋭利なものが突き進んだことは無かった。痺れる痛さは少したってからナムレを襲う。彼は声を上げはしなかったが、苦悶の表情を浮かべながら地面に倒れた。そしてそれと同時に鈍い音がした。机の角に頭をぶつけたか、頭からの血もやがて流れ始めた。そのままナムレは意識を失った。
「な、ナムレ!!」
 スモイは彼の名を呼び叫んだ。場の空気は一転した。

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最終更新:2017年05月28日 19:23