第8話「公務執行妨害だぞ!」
倒れこむナムレ。それを見て二人だけでなく場にいる全員が取り乱しかけていた。
「なっ……なんてこった、こんなこと予想外にもほどがある! ラズィミエはなぜ彼を取り押さえていなかったんだ!?」
スリャーザは怒鳴りたてた。ラズィミエも大声で答える。
「いや俺はちゃんと奴を捕えていた! なのにものすごい力で引き離された。油断していた隙にな!」
チッと舌打ちし、ナムレのもとに駆け寄る。スリャーザは彼の体を仰向けに起こし傷口を確認、ナイフを引き抜いてこれからどうするかを考えていた。損傷は最悪、もしかしたら心臓を貫かれていた可能性もある。だが、彼は考えた。ここで彼を亡くすわけにはいかない。
「私にもやりたいことがあるというのに……おい、ツェッケナル、こいつは助かりそうか?」
「出血の量からして、あと数分のうちに死ぬだろう。
ウェールフープで体を修復するしかないでしょうねえ……しかし今この場にそんなことができそうな技術者はいない。近くの病院に連れ込まねえと」
脳への損傷がないか、それも不安だ。小声でつぶやき、何とか処置を取ろうと頭をひねる。ひねるが、それをしていたのは彼だけだった。次に何か物音がしたかと思えばラーセマングがスモイの顔に一撃決め込んでいるところだった。
「す、スモイ!」
再びスモイは吹き飛ばされ、玄関のドアに強く打ちつけられて地に伏した。すぐに起き上がった彼女の顔は、若干怒りが薄れているように見えた。
いや、怒りが薄れたというのは的確ではない。むしろ彼女には罪悪感、後悔、自らが刃で突き立てたナムレという恩人へ恩をあだで返したという感覚が込み上げてきたのだろう。彼の血に染められた鮮血のナイフは殴られた衝撃と共に手から離された。
「許さない……! 私のナムレに! 私の跡取りに! 私の理想によくも……手を出してくれたわね!」
「う、うるさいわイルキス娘が……彼は私のものよ、何をしようと…」
立ち上がるスモイは金髪を勢い良く後ろに振り上げ、落としたナイフをラーセマングに向けた。
「――勝手じゃない!」
「きゃあ!」
危機を察知して右に身をかわしたラーセマングだったが、左腕が体の移動に追いつくことができず、切り傷を入れられた。
「はあ……あなたの大好きなナムレの血で身を抉られるなんて……ちょっとうらやましいわねぇ!!」
「そ、そんなこと思ってなんか――」
「待ってくれ」
ナムレの弱き声が二人の無意味な争いを止めた。
「今、ナムレが……」
「よかった、生きてた……」
ナムレは起き上がることは無く、スリャーザの治療の手を止めながら言葉をつづけた。スリャーザは手をどけようとするが、その力だけは彼の精神力に支えられどけられなかった。
「スリャーザ、お前がスモイと結託してラーセマングとの縁を断ち切ろうとしていたこと、なんの縁があるのかは知らないが、ようやく知ることができた。ラーセマングも、何かがあって俺をここまで連れ出したんだな」
「違う!あなたは――」
「ホラ女の言うことは信じちゃダメ!」
「俺は……正直言って何が起きているのか分からない。俺はただラーセマングの住んでいる家で勉強をしていて、お前らと一緒に学校生活を送っている。それくらいにしか思っていなかった……スモイと言ったか、あんたが俺に感謝してくれるのはありがたいのだが、なんて悲しいことか、俺には記憶が一切ないんでな……!」
やはり、というべきか。スリャーザとスモイはそう言い漏らしていた。ラーセマングは依然として沈黙を続けている。沈黙を続けて、ただただ守秘義務を守っているのだ。さすがに誰もこれを怪しまないだろうか?
いや、怪しむのである。
急な乱入者が入ってきた。予期せぬドアの音に一堂がおどろく。
スカルムレイ研究会のメンバーも知らない、当然ナムレも知らない、スモイですら知らない。しかし、ラーセマングがただその人物に恐怖していた。あるいは危機を察知した。入ってきたのは、王国警察の服装をした背の高い女である。
「鍵すらかけられていない……さすがは『裏の仕事人』だね。ビルテ=カリーファテリーン」
「当然、人を計略にはめることで私はここまでやってきたのだからな」
ほう、と笑う女性。自然となされた会話であるが、ラーセマングは拍動が急速に高まっていくのを感じていた。汗もかいていることだろう。焦りも感じていることだろう。
「久しぶりだねえ、ラーセマング。情報ならすでに行きわたっているよ。あんたの持っているイルキスに中途半端に放棄されていたウェールフープを搭載した怪しい装置、小難しいことが書かれている科学雑誌に専門書。これほど執念深いハイテクトイター教徒は、正直言って歴代初かもね……!」
「どういうことだ…?」
ツェッケナルが言う。
「おや、ビルテの仲間は知らないのかい?」
「そうだ、こいつらはターゲットと距離を置いていない。念には念を入れて事情を一部しか話していない」
「そっか……じゃあ、話しても大丈夫かな?」
「構わん」
「ふうん、じゃあラーセマング、私は君に用があって来た」
「分かってるわよ。あなたは私に母殺しの嫌疑をかけて、不信仰の密告を私のものにすげ替えて、私の使命を打ち砕いて……!!」
「声を荒立てるんじゃない。それをやったのは君のお姉さんたちだ。私は彼女らの命令に従っただけ。同情はするがね。でも、今はなおさらひどい状況だ。カリーファテリーン氏の家を出てから、一体何をするかと案じていたら――まさか、ネステルに住む孤児の男子を拉致って再教育を施して後継者にしようとは。一体どんな非道な悪魔がそれを思いつくというんだい?」
彼女はすべてを話した。スカートのポケットに手を突っ込みながら、呆れた顔をラーセマングに見せる。しっかりと話を聞いていたナムレは、最も驚いていた人物であろう。
自分は、今の今まで彼女に洗脳されることで過ごしてきた。
自分の今までの人生に一切記憶がないということも、考えてみれば当然だ。そもそも考えたこともなかった。
スモイという少女が現れて私を取り戻すという事情も、頷けないこともない。それこそ記憶を失う前は、彼女と過ごしていたことになる。
そんな自分が、ある日突然この少女に連れて行かれ、教育されていたのだ。スモイは、かつて同居していた恩人――信頼ある人間を失い、黙っていられるはずがなかったのだろう。
記憶を失い、そして永遠にそれが自分のところに戻ってこないとあっても、自分はこのことを受け入れて、スモイに同情し、ラーセマングを悪であると見做せる。ラーセマングに反対できる。ラーセマングの呪縛から逃れ、目覚めることができる。
――かもしれない。できたら、それでよかったのかもしれない。そうなるためには、彼の中では何かとても大事な『実体』が欠けていて、それを実行できない。
「そ、それは……」
確かに困惑するラーセマング。スモイは怒りの表情を変えない。
「あんたの前で改めて自己紹介するのは初めてかもしれないなあ、ラーセマング姉さん」
「……あなたやはり」
「いやあ、気づいたのはついさっきのようだが? まあ、あの家の女子はみんなそうなのさ。自分が家の実権を握ることしか考えていない。弟の顔と名前なんてほとんど一致しないだろうなあ。本当の
シャスティの役目というものを完全に母親から受け継げていない。そういう意味で俺とあんたが最も最適なあの家の後継者だったのさ」
スリャーザは王国警察の女の肩を叩きながら、話を続ける。
「そこで俺はやり方を変えた。あんたは家を出て対抗する策を取ったが、俺は家にいたまま、憎き姉たちに忠実であり続けたのさ。そのために奴らの下駄の紐を常に指で押さえておく役目だって買ってやったものさ。俺の身を護るために、あいつらに媚びを売り続け、そしてやがて来るときに、俺は真の
トイター教のシャスティを謳うのさ」
静かに彼は野望を語る。使命を語る。ナムレは腹を抑えながら、何とか立ち上がろうとした。いつもならラーセマングの身を案じようとしていたところだが、義理に厚い彼は簡単にラーセマングの味方になろうとは思えなかった。彼女もまた罪人であり、救いようにも救えない難しい存在なのだ。そう、今までの生活があるからこそ、ここまできてもやはり『難しい』のだ。
そして王国警察の女は拳銃を取り出した。
「本当に不憫に思うけれど、私も彼と同じ立場、いや、私が彼を救おうとしたのよ。その中で、どうしてもあなたを消さないといけない理由ができた。あなたは、出しゃばりすぎたらしいわね。でも、私たちはかつての希望であったあなたに手を掛けることを躊躇っても拒んではいけない。本当に、残念なことよ」
ラーセマングは悔しがった。自分はここまでか、せっかくの自分の理想を、せっかくの後継者を、せっかくの理想を、ここで手放すなんて。
「ナムレにあんたを殺すように頼んだが、これはただのスモイの要求だ。もともと俺らは、あんたを始末することしか、眼中に――」
スリャーザは言葉を止めた。ラーセマングが、膝から崩れ落ちたからだ。
涙は流さない、ナムレの前で涙を流してはいけないと語ったことがある。ナムレはラーセマングの身を案じるような態度を示した。ラーセマングから感じられたのは脱力感である。またしても邪魔された、そして自分は過去の因縁に負けた。ナムレという勝利の切り札は、やがて持ち主に返還されてしまう。
ここからどうすればいいのか、一体なにが自分を助けるのか、神は無慈悲なものだ――それとも、あの姉たちが正しかったのか。
ラーセマングがいくらそう考えても、彼女の真面目な性根を針金のように捻じ曲げることはできなかった。自分は、使命に裏切られた。そして、やがて成敗される姉たちの『語り継がれる歴史』の一部になったわけだ。使われたわけだ。
そう考えるとラーセマングはあまりにも気が楽になった。決心がついたと言えるのかもしれない。自分は敗北したとはっきり認めよう。ナムレには迷惑をかけた。もう、十分だ。
「人間の終焉というのは、顔にこそ最も顕著に現れるものなんだな――あばよ、ラーセマング姉さん」
軽い銃声はとても正確に心臓を狙っていた。煙は、さながらあまりにも貧弱の彼女の火葬に見えた。
「な、なに?」
次の瞬間、スリャーザもスモイも王国警察の女も驚愕する。
確かに打ち抜いたはずのラーセマングが、あっという間に玄関を通じて薄暗い外へ脱走しようとしている。彼女が自分の意志で逃げ出したのではない。
「な、ナムレ! 何のつもりだ! 公務執行妨害だぞ! 構わん、撃て!」
「駄目よ! またナムレに当たったらあなたたち今度こそ本気で捻り殺してくれる!」
「だからさっきのナイフはあんたの…」
「お黙り! あいつは私が追いかけて、ラーセマングを殺す! それが前のナムレへの私の最後の恩返しよ!」
スモイは飛び出した。
あれから結構時間はたっている。夜の闇は少し薄くなっている気がする。そして夏からかなり気温が下がった秋の王国の夜中は、まるで冬のような寒さだった。
冷えた夜の空気を切り裂きながら、三人は走り出した。
「ナムレ……、そんな、私を」
「お前が俺にしたことは、よく理解できた」
「彼らの言う通り、私はあなたにひどいことをした。あんなことを言われたら、私はあなたをあきらめて大人しく殺されるしかないかと思って……」
「実感が、ないんだ、俺には。でも行動しなきゃいけない。だから、お前を守ることで、俺の意地を見せたいんだ。俺はカリーファテリーンで在ったことを憎むことは無いってことを」
「ナムレ……」
あのままでは自分は自害すら厭わなかった。だが、こんなに馬鹿な弟子が自分に人間の意志を教えてくれるとは。
と、違法な安心感に身をゆだねていた。腹から血が噴き出る彼の体はもう限界だった。
だんだんと視界が暗くなるのを感じたのか、体力が衰えているように感じる。だんだんと走るスピードが落ちていく。
「ナムレ……あなたさっきの傷が」
「スモイ・ザイネン=ダウフェンフリード……」
「ナムレがこの私から逃げられなくなるんだったら、さっきの一刺しも無駄ではなかったのかもね」
ついに追いついたスモイはそう言い、再びナイフを構えた。
「スモイと言ったわね、私はもう奴らに殺される。私の命運はもう尽きている。そう思い知らされた。私を殺すなら殺せばいい、ナムレだって渡す」
スモイは答えなかった。
その理由は、彼女のあまりの執念深さにあったと言える。
「ラーセマング=カリーファテリーン……私がこれまで求めていたのは私を常に気にかけてくれる心優しきナムレ=シーナリアトンなの。決してあなたの跡継ぎのナムレ=カリーファテリーンではない。たんにナムレを取り返すだけなら、私はすでにあなたに直接手を掛けていた。ナムレはすでに聞いていると思うけれど、私はあなたという窃盗犯を突き止めてからひたすらあなたを憎んでいた」
と、スモイは声を荒げて言い放つ。
瞳孔は著しく開いており、左右で一致していない。瞳の輝きもない。
彼女はナイフを放り捨てた。
「最後にナムレ、あなたの答えを聞きたいの」
早朝の薄暗い路地をかすかに照らす大通りの街灯の光は、ナムレの表情を少しだけ明るくしていた。見える表情は、やはりスモイに対する恐怖心であった。安心していた彼の表情は一転して、スモイを見たと同時に恐怖していた。
少なくとも、スモイにはそう見える。そう映っている。一割は分かり切っている事実を、あえて問うのは、彼女の本性の中に含まれた一割にも満たない希望であろう。
「あなたの、フルネームは、何?」
――
急いで次の策を考える三人。ナムレたちがどこに向かったのかは分からない。
「いいな? ラーセマングを見たら殺せ、スモイを見たら脚を撃て、ナムレを見たら病院に連れて行くんだ」
「了解」
スリャーザの言葉に、王国警察の女、ラズィミエが頷いた。ツェッケナルが質問した。
「だが、高確率で三人は一緒にいるぜ。そうでなくともラーセマングとナムレは確実に一緒にいる」
スリャーザは即答した。
「構わん、ラーセマングを殺しナムレを病院に連れていけ」
「そんなこと、できますかい?」
「ええい、やかましい奴だ。自分が無能でどうしてもできないというのなら二人とも殺せばいい」
「はいはい、結構その辺適当なんだな」
靴を履いて玄関を飛び出した。ラズィミエはさっさと走ってどこかに行ったが、王国警察の女とスリャーザ、ツェッケナルは少しくすぶった。
「適当なのではない、適切なのだ。生かしたところでナムレはどうせラーセマングのことが好きなんだからな」
「もっともだ」
ツェッケナルは車まで走り、エンジンをかけた。ラズィミエと王国警察の女のみが残った。
「本当にいいのか、それで」
「いいとは言えんな。我々はラーセマングを殺さねばならない以上、ナムレとスモイの間の軋轢は仕方のないものだ……いや、本当に仕方がないのは姉たちなのだがな」
「全くだ。『正義のための闘争』といっても、やはり限界がある。個人が正義を提唱する時代はやはり終わりを告げたんだろう」
王国警察の女はふうっとため息をついた。
そう、ここには正義が二つあった。
一つは姉たちの正義、もう一つはラーセマングの正義。だが、ラーセマングの正義はもう勝ち残らないだろう。カリーファテリーン家を巻き込むこの一件は、姉三人の勝利に終わり、ラーセマングは反逆者として殺される。
彼女の敗因は、一言では語り切れない。だが、知恵の使い方が間違っていたことは言える。スリャーザはそう自負した。彼女はただ愚かだった。それだけだ。
「仕事を終えたら電話をかければいい。我々も探しに行くとするか」
ラーセマングたちを探しに、スリャーザは東へ、王国警察の女は西へ走り去った。
――
夜、賑やかなデパート内を一人歩いていた。彼女の名はアテーマング。
友人と食事中、その友人を拉致られ、途方に暮れている少女である。アテーマングは必死に抵抗したが、拉致を実行した女性があまりにも強かったせいか、取り戻すことはできなかった。
友人の分の代金も支払い、彼女は店を出た。これからしぶしぶ帰ってもいいのだろうが、どうも自分にはそんなことしたくない。あの友人がどこに行ったのか、それを知るまでは。
彼女はひとまず建物を降り、駅へ向かうべく入り口を探すことにした。やがて駅に到着したのだが、その時公衆電話を見つけた。まだ連れて行かれてから数時間も経っていない。すぐに警察に連絡を取り、事態の収拾を試みた。
十数分後、現れたのは二人の男女の警官である。
「君が通報してくれた人だね、連れて行った人の外見は分かるかい?」
「えー、服装はまるでファイクレオネの
特別警察のようでした」
「特別警察?」
「明らかに服装がスカルタンではなくファイクレオネのそれだったんです」
「なるほど、性別と髪の色は何だ?」
「犯人は女性でした。髪色は黄色……というか金?」
「なるほど金か……金?? クウル・サドポトスってことかい?」
「はいそうです」
男性の方が女性の方を見て言った。
「黄金の毛色だってよ……まるでペーセ人の神話に出てきそうなやつだ。心当たりある?」
男性の警官は女性に質問した。
「バート人はたしかそういう遺伝的特徴があるらしいですが……犯人はバート人?」
「でも話していたのはユーゴック語でした」
男性の警官は頭をさらに悩ませる。
「うーん、
ハタ王国に住んで長いのかもしれない。現時点ではそういう特徴を持っているということしか分からないな。とにかく、君がさっき教えてくれたことを追加で捜索班に伝えてみる。君、家はどこだ? 我々が連れて行こう。なに、安心すればいい。何かあればまた君連絡する。必ず君の友人を見つけ出すからね」
「はい……任せます」
任せます……任せます……男性はしばし動作を停止した。
「行きますよ、警部」
「ん? ああ、ああ、そうだそうだ。では、後は我々に任せよ! 武運を祈る!」
「祈られるのはこっちですよまったく」
「はっはっは、ん? 我々が本当に事件を解決できるのか、みたいな目をしているな? 大丈夫だ、我々に任せなさい」
男は気さくにアテーマングを車で誘導した。
「さて、家の場所を教えてくれたまえ」
「スリャーザ市内です。この近くにあります」
「ほう。これは助かった。ちょっと案内してくれたまえよ」
――
人間に名字が付されるのは、人間に情報をつけるためである。
少なくともこの国ではそうだった。氏族がどこまでさかのぼれるかというのは、万民平等を訴えるトイター社会にはスカルムレイというただ一つの例外を除いて必要なものではなかった。
名字を尋ねること、それは己の立場を表明することに他ならない。異国人であるスモイは、このことをよく理解していた。例え現代になっても、彼女はトイター教徒のそういう風習を知っていた。
ナムレはすぐに答えを口にすることはできなかった。それがなぜなのかというと、他でもない。彼自身は己の立場が分からなかったのだ。迷っていたのだ。自分はラーセマングの味方なのか、それともスモイの味方なのか。己の意識に根差しつつあったラーセマングとの仲間意識は、彼女に見せられた幻想であったと告げられた。それを受け入れようにも、それはまるでこの世界は虚空で嘘であると突然言われ、同じ言葉をもう一度聞き返すことのようなものだ。すぐには自分の思考の材料とすることはできない。
いや、そもそも人間とは思考が得意ではないのだろう。定式化されたただ一つの信念を追い続けるというのはとても分かりやすい。彼女らは、これをし続けているからこそ、立派に見えてくるのだ。そして迷いがなかったのだ。
スモイの心が折れることは無いだろう。しかしラーセマングはどうだろう。平時のラーセマングは今ごろこんなことはしていない。つまり、ラーセマングには罪悪感があるということに他ならない――
「早く、答えて」
感嘆符はつかない、しかし強く心に響く言葉が放たれた。声色もやや低く、しびれを切らした、といったところか。
ナムレは焦った。今の自分にはとても答えを出せそうにない。自分に答えなんていえない。それは、なんだか自分が決めるべきことではない気がする。自分はこの状況を与えられたのだ。
その時、突然にラーセマングは言った。
「彼は、ナムレ、よ」
静まった空気は、彼女の言葉によってのみによるものではない。彼女が示した『無標のナムレ』こそがもっともな原因だった。
「なんですって……?」
スモイは戦慄する。
「私がナムレを私利的に利用していたとしても、ナムレを苦しめたかったわけではない……ナムレがこうして迷っている以上は、彼の良心からか、あなたのことが少しでも気にかかったはずよ」
「何が言いたいのよ……」
ナムレにも何が言いたいのか分からない。ひょっとしてナムレを庇おうとしているのだろうか。彼女は話を続ける。
「あなたが本当に憎むものは何? 私か、それともナムレ自信?」
「うるさいうるさい、うるさい! 質問に質問で返すのは詭弁家のやることよ……ちゃんと答えて――」
「だからナムレは『ナムレ』なのよ」
スモイの話は止められた。
「ナムレの記憶を消して私の後継者にする計画は、確かにあなたたちによって阻止された。私は敗北した。そしてあなたたちも、彼を完全に取り戻すことはできなくなった。それが私のせいだとするのなら、私を殺せばいい」
徐々に声を荒げながら続けた。ラーセマングには余裕などなかった。
「私は認める。あなたのナムレは、確かに私が壊した。あなたたちの目的の真の障壁は、ほかならぬ私だった。『ナムレじゃない』」
「くっ……さっきから何を言いたいのよあなた」
「まだ分からない……? さあ、私を殺してみなさいよ! ナムレは私への義理を感じてそれを阻止してくるかもしれない。それに勝って、私を懲罰してみなさい!」
「馬鹿ねあなた…、ナムレが自分で言わないと意味がないわ!」
ナムレはさらに焦った。自分は、誰の味方なんだろう。
本当に自分は、誰なんだろう。こんな仮設の記憶だけで、自分の存在をどうやって知る?
ナムレは答えを迫られていた。しかし、一つ大事なことに彼は気付けなかった。気づけぬまま、この時を迎える。
小さな銃火器から、弾が発射される。弾は軌道を変えない。真っ直ぐに進み、やがて路地の空間へ、彼らの視界、結界内に入る。
そして後に続く耳をつんざく銃声、その空間にこだまし、不安をあおる。彼らの注目を集める。
銃弾が貫いたのはラーセマングの左胸だった。
最終更新:2017年08月23日 09:37