鋼の筋肉がぶおっと風を切る。一撃をもろに顎に食らい、そのドワーフはおよそ十メートルはぶっ飛ばされた。冗談のようにドン、ドン、と
ドワーフの肉体が石畳の上を跳ね、跳ねた部分に小さな亀裂が走る。
見守っていたポニーテールの女給『マリア』はもう駄目だ、と思った。『グレゴリー』は既に十発以上を連続で食らい、ずっと相手のドワーフ
に一撃も与えられていない。
このままではなぶり殺されてしまう。なんとかして止めなければ。
大きな声で応援を送ったり、野次を飛ばしたりする人だかりの中、腕を組んで、静かに戦闘の状況を観察する男がいた。マリアは彼に視線で
訴えかける。
――グレゴリーを助けて、『クルス』お兄ちゃん!
クルスは微動だにしない。ただ難しい本でも読むような顔で戦闘の成り行きを見守る。
――――話は少しだけ遡る
酒場『ヴァニッシュ』は小さいがそれなりに繁盛している酒場で、夫を戦争で亡くしたという経緯を持つ“親父”が娘たちと切り盛りしてい
る。“彼”は、元々は女性だった。しかし帝国が開発したとある技術によって「親父」として転生したという。
ちなみに、その技術はまだ実用化はされておらず、実験協力のために彼が志願したらしい。まだ研究は中途半端だったらしく、親父の容姿は
かなり中性的である。
今日もオネエ言葉で本物のオネエと間違えられながら、新入りの客を口説いている。
「相変わらずですね。親父さんは」
グレゴリーはそう言って、苦笑いした。そして正面のドワーフに向き直る。横には相変わらず墓石のように無口な『クルス・ガンドッグ』が
座っている。
しかしクルスが喋らないのは、それが口出しすべきでないことだと理解しているからである。これはドワーフ同士の問題だった。周りの席
も、各々の会話を中断して、その席の様子を示し合せたように窺っている。
少し前までは客のほとんどが人間だったが、しかし、とある出来事がきっかけで、現在は人間とドワーフの数が均衡していた。
「サ、サンドウィッチです。ど、どど……どうぞ、召し上がってくださいまへえ!」
女給のマリアがサンドウィッチの皿を震える手で置いていく。グレゴリーは心中で苦笑する。彼女はクルスにべた惚れで、こうしていつも
サンドウィッチをサービスしてくれる。こんなときでさえ。
彼女は他でもない。グレゴリーとクルスが出会った切っ掛けでもある、あのときのいじめられていた少女だった。
グレゴリーはよく空気を読みふたりきりにしたりしているのだが、そこに薔薇色ムードは皆無で、ただただ葬式会場のような陰鬱な沈黙が漂
っているばかりだ。
無口と初心の会話は、鞭を振らない御者と鞭を待つだけの馬のようにいつまでも発車しない。
髭をなぞりながら、グレゴリーの前に座るドワーフが口を開いた。
「グレゴリー、オメエが例の計画を持ちかけたとき、オレがなんつったか覚えてるか?」
「はい」グレゴリーが姿勢を正す「『オメエがしたいようにやれ』ですよね、リーダー?」
「そうだ。オメエが上手くやったみたいで『クラフター』の連中はみんな無料馬車に乗るみてぇにオメエの考えに次々と賛同している。やっぱ
頭の良いヤツは違うのお。次のリーダーはオメエで決まりだ」
「そんな……勿体ないお言葉でございます」
グレゴリーはそう言ってクラフターのリーダーである男、『ヨセフ・アルバトーレ』を見つめた。老年のドワーフであり、赤の三日月戦争で
も一肌脱いだ、過去の英雄である。
確かに視力と聴力が少し衰えているものの、まだ引退には早い。グレゴリーはまだまだ彼を当てにしていた。両親を失った自分の親代わりと
なってくれた存在でもある。究極的にはグレゴリーは彼に頭が上がらなく、今回の件でも少しだけ後ろめたさを感じていた。
あのあと、クルスとの出会いで腹を決めたグレゴリーは、クラフターの仲間たちに協力を仰いだ。意外なことに反発は少なかった。どころ
か、協力派がほとんどだった。
どうやら『カルロス』は他のドワーフにも頼んでいたらしい。抜け目ない男だ。本当に頭の良い男とは、彼のことである。思えば人間たちを
扇動したのも彼だった。
その後、グレゴリーの尽力でほとんどのドワーフを味方に引き入れた。
しかし、最後までリーダーであるヨセフは、反発はしないものの賛成もしないという、どっちつかずの曖昧な立場だった。一見すると三度の
食事より血を見る方が好きなようにも思えるが、彼はかなりの穏健派なのである。
ヨセフは今まで、多くのドワーフたちが街に出ていく中、ずっと坑道の奥にいた。
「グレゴリー。オレらクラフターは知っての通り、鉱石マナを掘り出して、それを加工したりして生計を立ててる……どっかじゃあ、オレらの
ことを荒くれ者が集まったヤクザみてえに勘違いしているが、そんなもんじゃねえ。ただの技術集団だぁ」
ヨセフが改まってそう言った。クルスは黙って聞いている。
グレゴリーは、ヨセフがなにを言いたいのか理解していた。あくまでもクラフターは技術集団だ。闘うための目的で作られたわけではない。
本質を見誤るな、とヨセフの瞳がそう言っている。
「ええ」グレゴリー「しかし、我々がどれだけ尽力しようと、レヌリアは着々と坑道を蝕んでいます。このまま坑道まで奪われれば、ワタシた
ちドワーフの行き場がなくなることもまた事実。ワタシたちはレヌリアに対し、完全な独立をしなければなりません。
ヨセフさん……いえ、リーダー。あなたの部下の命、ワタシに預けてください!」
それだけは必ず言葉で示してもらわなければならない。死者がひとりも出ないことは決してないだろう。それでも、それだから、グレゴリー
は命をくださいと言葉にするのだ。
ヨセフは釜戸に炎を灯すように瞳を光らせ、静かに立ち上がった。グレゴリーも彼の意思を理解して立ち上がる。
どこかの席で誰かが呟いた――決闘だ
――――時間は戻り、そして
「どうしたぁ? もうお終りかぁ?」
ヨセフは手繰り寄せるように訊ねた。しかしグレゴリーにはもう言い返す気力すらない。ただ割れた石畳に蹲り、血反吐を吐きながら、彼を
見上げることしかできない。
「グレゴリー。オレはなぁ、ダテに今までクラフターを背負ってきたわけじゃねえんだぞ。オメエがどれほどの覚悟を持ってるか知らんがなぁ
アイツラぁ、全員、オレの子供同然なんだよ。命を預けてほしいだぁ?――ふざけんなあっ!!」
ヨセフが振り下ろした拳が石畳を粉砕する。マリアが悲鳴を上げた。その拳はグレゴリーの顔を僅かに掠めていた。
グレゴリーにはわかる。彼の仲間思いのことを。自分がどれだけ残酷な決断をさせようとしているかを。それでも、それだから、グレゴリー
は命をくださいと言葉にするのだ。
「リーダ、命を、……ワタシに、預けて、ください……」
ヨセフが再び拳を振り上げる。マリアが飛び出す。見物人の多くがそれに続く。クルスは冷静にグレゴリーを見る。グレゴリーは――
――グレゴリーはゆっくり立ち上がろうとする。それは十倍の重力を感じているかのような動きだった。飛び出した見物人たちの動きが止ま
り、ヨセフが身体を固める。グレゴリーが動くっ
「リーダー……いや、親父! 兄弟たちの、命を、ワタシに、くださいっ…………」
グレゴリーが頭を下げた。それが彼の最後の抵抗だった。
「……人間たちは信じられるんだな」ヨセフが拳を下ろす。
グレゴリーが頷く。やがてヨセフがぶるっと髭を振るわせ、鉄を打つような力強い声で答えた。
「オメエの考えは理解した。わかった。息子たちの命を預ける。……しかし、ガキどもが気張っている間にオレだけが呑気に茶を啜ってるわけ
にゃいかねえ……
だからグレゴリー、愛すべき息子よ……オレの命も預かっちゃくれねえか?」
割れんばかりの喝采が場を包み込んだ。どこからか現れた酒場の親父がぶちまけるような勢いですべての客たちに酒を振る舞う。
グレゴリーは笑って返事をした。それからヨセフに杯を渡し、誓いの契りをする。それを皮切りに場はいよいよ、人間もドワーフもどちらも
が入り混じり、揺さ振られ、振り回されるような混沌に支配された。
しかし、クルスだけは最後まで、混沌から切り抜かれた影のような静謐さを保ち続けて、杯を進めていた。
――――『青の三日月事件』から七日前の出来事。
最終更新:2011年07月21日 10:35