クレセント 『3話』

ライザール王国 酒場『ヴァニッシュ』裏手

『マリア・ライクデビル』は自分の名前が大嫌いで、また自分の名前を言うことも大嫌いだった。同い年の子供たちにからかわれるのが我慢
出来なかった。しかし普通に暮らしていれば、秘密は鉄が腐っていくように自然と剥がれてしまうものである。

 友達はいない。ひとりもである。いじめっ子たちの遊び道具にされ、おかげで外に出て散歩することもままならく、無期引き籠りの刑を言い
つけられたように、ほとんどを家の中で過ごした。
 その日も、酒場を経営している母からドワーフの客に忘れ物を届けろ、と言いつけられなければ、絶対に外には出なかったろう。早くもいじ
めっ子たちに囲まれたマリアは家を出たことを後悔し、母を呪った。
 しかし、運命の神がそこに颯爽と、黒い疾風のように舞い降りたのだ。

 ――『クルス・ガンドッグ』と彼は名乗った。素敵な名前だ。しかもイケメンだ。ちょっと影があるところがまたいい。海藻みたいに揺れる
黒い長髪もチャーミング。
 名乗るのは嫌いだったはずだった。しかし、気がついたら自分の名前を声高らかに叫んでいた。恥ずかしいことに、マリアは彼に一目ぼれし
てしまったのだ。

 マリア・ライクデビルという名の“少年”の初恋だった。

「あー!! またクルスお兄ちゃんと目が合っちゃった。ふふ、今日はついてるかもっ」
 マリアが酒場の裏でひとり呟く。女給の仕事はあくまでお手伝いの部類に入るので、こうしてサボっていても構わないのだ。クルスが用事と
かで、『グレゴリー』を残して先に帰ってしまったので、マリアも仕事を終えた。
 グレゴリーと『ヨセフ』の親子喧嘩(?)以来、客もますます増えた。酒場の息子としては喜ぶべきなのだろうが、クルスやグレゴリーと喋
る機会も自然と減ってしまう。複雑だ。
 クルスとグレゴリーはよく酒場にきてくれる。クルスとは相変わらずだが、グレゴリーとはすっかり友達になっていた。彼も積極的に話しか
けて来て、またクルスとのことも全部承知しているのか、空気を読んでくれる。良いドワーフだ、とマリアは思った。

 ライザールに住むドワーフたちは多くない。あまり顔を合わせることもなかった。
 こうして友達ができるまで、ドワーフという種族はマリアの中では、未知の存在だった。同じ街に住んでいても、その間にはどこか身体的な
特徴とか髭の有無とか親しくなるために邪魔な検問所のような物があった気がしたのだ。

 それが取り壊されたのは、丁度、クルスと出会ったときからだったとマリアは思っている。クルスとグレゴリーが頑張って検問所をぶっ壊し
てくれたのだ。そのことも手伝い、もはやクルスはマリアの中で神格化されている。
 もうすぐ革命が起きるかもしれないということは知っている。死者も出るだろう。しかしそれはライザールを開放するためであり、マリアは
その日が来るのを今か今かと楽しみにしていた。
 ――革命が終わったら、僕は、クルスお兄ちゃんに……

 マリアは父親を戦争で亡くしていた。赤の三日月戦争ではなく、その後のレヌリアの骸で作られた覇道に組み込まれたのである。母親がマリア
を身ごもっている間だったので、顔を合わせたことはない。三人の姉に言われて作られたあやふやな父親像が存在するだけだ。それでもレヌリア
に恨みがないとは言えない。

 しかし、もっと恨んでいるのは母親(または親父)の方だ。夫の死で頭がいかれてしまったのか、怪しげな技術で「親父」となり、自分の息
子にマリアなどという女々しい名前をつけ、挙句の果てに、女として育てるという非道をしてのけたのだ。
 おかげでそれがすっかり板に着いてしまった。今でも街のほとんど(グレゴリーも含め)がマリアを少女だと勘違いしている。

 女でも男でもない、神話に出てくる天使のようだ、と姉は言う。
 とんでもない。天使どころかデビルではないか。マリアは自分の「マリア」という名前が大嫌いだった。こんな風に育てた母親も面白がって
いる姉たちも大嫌いだった。
 しかし、クルスと出会い、始めてそんな自分とそれを作り上げた周囲の悪意を、素直に愛することができるようになった。アイ・ラブ・マリア

 クルスがいない酒場で働くのはただの労働でしかない。マリアは今日の女給はもう辞めにしようかとエプロンを脱いだ。どうせなので、久々
の散歩と洒落こもう。
 クルスにこっぴどくやられて以来、懲りてしまったのか、いじめっ子たちはもうマリアに顔も合わせなくなった。反応しても、遠くから嫌味
を言うくらいである。女装しているというだけでここまで嫌われるとは……マリアはもう友達関係については諦めていた。
 代わりに、猛勉強して都会の学校に行きそこで友達を作ろうとか考えていたりした。

「あっ!? クルスお兄ちゃんだ!」
 街からちょっと出たところに、林と森の中間地点のような場所がある。そこにクルスの影を発見した。声をかけるか躊躇っていると、どうや
ら待ち人がいたらしい。女性だった。背が高く狐目、その容姿はどこかアイスピッグの鋭利さを連想させる。
 まさか――マリアが妙な心配をして、木の後ろに隠れながらドキドキと飛び出しそうな心臓の音を抑え、覗き見をした。

「――なるほど、ドワーフたちが要人の人質を取り、街の人間たちがレヌリアの関連施設、とりわけ軍事施設を中心に攻める計画ね。まさか本
当に“夜の内はほとんどの兵員が就寝しているから無防備”という情報を信じるなんて」
「貴様らが捏造した情報だ。喜べ。きちんとカルロスに伝えてやった。どうやらあいつは自分が先導者になっているつもりらしいがな」
「地獄までのね」女が微笑む「クルス。それでいいのよ。あなたはそうやって“裏切り者を務めてドワーフたちを皆殺し”にするの。そうすれ
ばいずれ、夢も叶うんじゃない?」
「夢か」クルスが目を閉じる「随分と遠くなっちまったな」
「うふふ、捨てたほうがこの世界では楽よ。そうすればあたしみたいに、夢想家な新人の馬車に乗せてもらえるからね。
 ま、三日後まで精々、上手くやりなさい。それじゃ、あたしはこれで」
「待て、『スレイ』! 最後にひとつだけ教えてくれ。どうして貴様らレヌリアはこんな計画を立てた? どうしてそこまでドワーフに拘る?」

「クルス。あなたはライザールの採掘場――『フレザーム坑道』の実情を知っている?
 ライザールの人間たちのほとんどは、レヌリアが戦争に勝ったことで鉱山を牛耳ったと考えてる。だけど、それは大きな間違いよ。あなたも
知っているでしょ、赤の三日月戦争以来、ドワーフのほとんどが街から出て行って、鉱山の脇を固めているという話。
 レヌリアがライザールの自治を認めたのがまずかったの。あくまで技術を握っているのはドワーフ……採掘場では戦争に勝ったレヌリアの方
が彼らに頭を下げて、せせこましく鉱物の残りかすを取らせてもらっているのが現状。
 学者連中が密かに調査したんだけど、あの坑道の鉱物マナの採集率は異常な数値よ。とある意見だと鉱物マナを取り過ぎれば坑道が崩れる、
とも。
 あそこは火薬庫なの。上手くやり繰りすれば莫大な財産にもなる。けれど選択を誤れば被害は凄惨。坑道が崩れれば、毒ガスとかの二次被害
も考えられるわ。だから慎重に扱わなければならないの。わかるでしょう?」
「だからドワーフたちを追い出すと?」
「違う。皆殺しにするの。じゃないと、また仕返しに来るかもしれない。禍根を絶つためにもそれは必要よ。採掘技術は二十年でほとんど完璧
に教わった。もうドワーフは用なしよ、用なし。それに……」
「なんだ?」
「上の連中、あの髭が気に食わないんだって」

 会話が終わった。いや、それは報告だった。スレイと呼ばれた女性の顔には見覚えがある――『インペリアルガード』だ。
 スレイが奥の方へ消え、クルスはしばらく空を見上げた。それから急に、笑い出した。それは狼の遠吠えのように力強く、人の涙のように切
ない笑いだった。
 マリアは走った。街の方へ。明確な目的があったわけではない。ただなにか、大きくて黒いなにかが自分を追いかけて来るような気がして、
恐ろしくなったのだ。追いつかれてしまえば、自分の信じていたものが音を立てて崩れていってしまう気がして。

 木々の間を駆ける、草むらを突っ切る――街に着いた、何事かと目を剥く人々をふっ飛ばすつもりで駆ける、鉢植えを踏み潰す、おばさんの
悲鳴が上がる、無視――駆ける、駆ける、駆け抜ける、転ぶ、痛い……背中を踏まれる、睨みつける、誰だっ?
 見覚えのある嫌らしい笑みに囲まれていた。こんな所で、ついていない。いじめっ子たちだ。構ってられない。無視だ。先を急ごうとする。
転ぶ、立つ、転ぶ、蹴られる……

 いじめっ子たちの笑みが、クルスのそれを被る。違う。こんなのとは全然違う。だってクルスは、クルスは……

 しばらくして、痛みの感触もなくなった頃、急にいじめっ子たちが散り散りに逃げていく。見上げるとそこにはドワーフ……グレゴリーが涙
を流して立っていた。どうしてグレゴリーが泣いてるんだろう。マリアは考えた。頬に髭が触れる。
「グレゴリー、……ごめんなさい」
「どうしてマリアが謝るのですか? すみません、守れなくてすみません……マリア? どうして、笑っているんですか? 頭を打ちました
か? 早くお医者様へ……マリア? マリア? ……どうしました、マリア、マリアッ!?」

 ――――『青の三日月事件』から三日前の出来事。

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最終更新:2011年08月12日 10:41
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