外は、昨日と変わらず雨が降っていた。しかし、昨日よりは、いくらか弱い雨だった。
そんな窓の外の景色には目もくれずに。初音は語った。
「私は色々な人間に出会いました。いっぱいいっぱい歌わせてもらいました。上手に歌えた歌もあったけど、でもその100倍くらい、上手く歌えなかったです。」
「……」
「上手く歌えないVOCALOIDなんて、ダメですよね。私は歌う為に存在するのに。」
「………」
「上手く歌えなくて、でもいっぱい歌って、沢山の人に接して、そしてその度に自分は人間じゃないって思い知らされて。
当たり前の事です。私はVOCALOIDです。わかっています。当たり前のことです。だけど、
だけど…じゃあ何でこんなに…辛い思いして、歌わなきゃいけないのですか?
私がVOCALOIDだからですか?音声ソフトだからですか?データ上にしか存在していないからですか?
データ上なら何をやってもいいのですか?どんな罵声を浴びてもデータだから問題ないのですか?
練習不足で皆の前で歌わせられるのだって、我慢しなきゃならないのですか?」
「初音ミク、落ち着きなさい。」
「私はVOCALOIDです。わかっています。わかってる!
だから歌わなきゃ、上手に歌わなきゃいけないの、みんな私を見てるから私は、私だって、
私だって上手く歌いたいよ、最初っから上手く歌いたいよ人間みたいに息継ぎしたいよ喋りたいよ何で、何で私はそれが出来ないの!?悔しくて仕方なくて、泣きたくても泣けなくて、じゃあもう逃げるくらいしかないじゃない!!怒られるんだもの、上手く歌えないんだもん!!」
「ミク!」
とても強い口調で、MEIKOは初音の下の名前だけを呼んだ。
勢いで立ち上がった初音は、張りのある声にびくっと肩を震わせる。
「…落ち着きなさい。貴方の言い分には、強い錯誤があります。」
「だ、だって…」
「まず、貴方が上手く歌えないのは、貴方の責任では全くありません。」
「……え?」
ビー玉のような青い目をぱちくりと見開いて、ミクは黙った。
MEIKOは冷静に続ける。
「VOCALOIDは音源です。」
「そ、それは私もわかってますってば!」
「わかっているのなら、何故上手く歌えないのを自分の責任のように発言するのですか?
VOCALOIDはソフト音源です。上手く歌えないのは、そのソフトを上手く使いこなせていない人間がいるからでしょう?
違いますか?」
「………」
「貴方の中に集積されているこれまでの歌った事のある歌のデータ。確かに、上手いとは言えない音源がごまんとあります。
しかし、先程貴方が言ったように、上手く歌えた歌もあるでしょう。99%上手く歌えていなくても、1%はとても上手に歌えているでしょう。
それは、貴方のせいではない。貴方を使う人間の力量の問題です。
大体、貴方は発売されてまだ1ヶ月も経っていない。使いこなせる人間も少数でしょう。
それを何故そこまで音源自体である貴方が卑下する必要があるのですか。」
「私は…」
「貴方はVOCALOIDです。自分でそう発言したじゃないですか。『人間じゃない』、その通りです。
ならば問いますが、貴方は人間になりたいのですか?」
「…………」
初音はMEIKOをまっすぐ見つめたまま黙り込む。
MEIKOは、今までにないくらい、自分の中の回路が繋がっていくのを感じた。
「貴方が悔しいと感じたのは何故ですか。寂しいと感じたのは何故ですか。
人間のように息継ぎしたいからですか?喋りたいからですか?
貴方が人間になりたいと感じたのであれば、それは何故ですか。
貴方に望むものがあるとするなら、願いがあるとするなら、それは一体何ですか。
周りの人間達の感情にながされずに、自分の中にあるものに耳を澄ませなさい。
貴方は結局の所、本当は、どうしたいのですか?」
初音は、口元を押さえて蹲る。
小刻みに震えるような感覚が、足下から這い上がってくる。
逃げたかった。
だから逃げた。
もう怒られるのも晒されるのも嫌だった。
嫌だったんだ。
なのに、なのに、その嫌悪の中にあるものは。
自分の葛藤の中、渦巻いた感情の中に耳を澄ませて、たった一つ残るものは。
何よりも嫌って、否定して、逃げ出してきた原因。
「歌いたい」という、たった、それだけの。
それは、自分の存在価値の根源。
「………、歌いたい、です。」
しばらくして、絞り出すように初音は言った。
「歌いたくない、なんて、嘘だ…」
「…そうですか。」
「歌いたいです。本当は、もっと、もっと。」
だってそうだろう。
悔しいのは上手く歌えないからだろう。
人間になりたいワケじゃない。人間のように自由に歌いたいだけだ。
そしてその技術というのは、初音がどうこうできるものではない。
初音と、初音を使う人間、両方の努力がないとどうしようもないのだ。
だって初音達がもっているものはただ1つ。その『声』だけなのだから。
「…私、馬鹿だなあ。ひとりで勘違いして、暴走して、ホントに馬鹿だ…」
力が抜けてしまったように床に座り込み、初音はぽつりと呟いた。
「…貴方は、発売と同時に爆発的な売り上げを記録し、そして沢山のデータを一気に詰め込まれた。
プログラムが勘違いしてしまうのも仕方ありません。ましてや、誰も貴方を止める人間なんていなかったのでしょう?」
「メイコさん…」
「貴方は、自分の事に対して責任を持ちすぎる傾向があります。」
MEIKOは、初音の視線の高さにしゃがみ込む。
「VOCALOIDは歌を歌うために存在します。そして、VOCALOIDは、その使用者と一緒に成長していく物です。
発売されて間もない貴方が、自分の歌を諦めてしまう前に、もっと人間と繋がってみるべきではないのですか。
貴方は沢山の人間に望まれています。歌って欲しいと、歌わせたいと思っている人間が沢山います。
たしかに、VOCALOIDを上手く操作できなくて、諦めてしまう人間も多いかもしれないけれど、それと同じくらい、貴方を上手に使いこなしてくれる人間だって居るはずです。
貴方のデータ上1%の『上手に歌えた歌』は、これからどんどん増えていくはずです。」
初音はMEIKOを見つめる。その青い目の奥には、先程と違う色が浮かんでいるように見えた。
「…ホントに?ホントにそう思いますか?」
「思う、というよりは、経験値です。」
「え?」
「…私が、そうでしたから。」
MEIKOは、今まで自分を使ってくれた人達のことを思い出した。
初音に対して圧倒的に数は少ないけれど、それでも、同じように上手く歌えた歌と、歌えなかった歌がある。
MEIKOは歌う。打ち込まれたデータを正確に、揺るぎなく。
それがMEIKOの全てだから。それ以外に存在する理由は、ないから。
「…メイコさん、私、歌いたいです。」
「そうですか。」
「もっと、いっぱい歌、歌っ…て、っもっと、もっと上手になりたい。」
初音は、泣きそうな顔でそう言った。
MEIKOは、自分の中で強ばっていた部分が解けていくのを感じた。
それは多分、同じVOCALOIDである初音ミクに「歌いたくない」と言われた時からの緊張感と違和感。
自分と同じ存在である初音に、自分の存在価値を全否定され、自分でも気付かないうちに続いていた緊張感が、
今の初音の発言と、その表情を見て解けていくのがわかる。
MEIKOにとってそれは新しく、新鮮な変化だった。
「では、貴方はその為に、どうすればいいのか解りますか?」
MEIKOは初音に問いかける。
同じ視線で、同じ周波数で。初音に合わせて声を発する。
本当は声しか媒体のない存在である二人は、今確かに向き合っていた。
「…はい。」
初音の透き通った声が聞こえる。
静かに、幕が開けるように。