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花のお江戸の繁盛しぐさ
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江戸っ子たちは粋なしぐさで、思いやりに満ちた共同体を築いていた。
国際派日本人養成講座
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogindex.htm
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1.「ちょっとした思いやり」にあふれた江戸社会
ある中学生がこんな作文を書いている。[1,p17]
その日小雨の降る中、僕は父と一緒に狭い道を歩いていた。すると向こうから来た人がすれ違う時、僕たちが通りやすいように傘を横に傾けてくれたのである。その人にお礼を言った後、父は、江戸しぐさがまだ残っているんだねと嬉しそうにつぶやいた。僕はこの「江戸しぐさ」ということばに興味を覚え、家に着くまでに父に教えて貰うことにした。
傘を横に傾けて相手に雨の滴がかからないように気を配る「傘かしげ」、狭い道ですれ違う時に右肩を引いてぶつからないようにする「肩引き」など、「江戸しぐさ」にはいろいろなことばがある。要するに、お互いが気持ちよく過ごすためのちょっとした思いやりのある行動が江戸しぐさと呼ばれるものだろう。
僕の住む町、墨田区にはまだその精神が生きている。例えば、家の玄関先や通りを掃く時、両隣の分もきれいに掃いたり、体の不自由な人がいれば荷物を家まで持っていってあげたりというように。ただ残念なことに、これらの行動をとっているのはお年寄りの方だけになりつつあるという気がする----
こんな「ちょっとした思いやり」にあふれた社会なら、人々はどんなに気持ちよく過ごせるだろう。花のお江戸はそういう都会だった。
2.世界最大の都市
江戸は西南に鈴ヶ森、東北に飛鳥の森と、二大森林地帯に挟まれ、運河や堀をめぐらした緑と水の美しい町であった。最盛期には人口100万人に達し、60万人のロンドン、70万人のパリを凌ぐ世界最大の都市であった。
100万人の内訳は武士と町人が半々だったが、武士は参勤交代で入れ替わる。町人50万人が江戸の定住人口だった。その大部分は、小売商、食べ物屋、風呂屋、大工などの商売人だった。諸国から人が集まる大都市の中で、毎日、多くの見知らぬ人々と行き交い、商売をする。そういう中で、いかに互いに気持ちよく生きていくか、という智慧が発達した。
幕府には江戸町奉行はいるが、江戸の施政には直接手を下さず、江戸町人の総代表として3人の町年寄りが自治を行っていた。町衆は町内の治安を守るために、自身番の制度を置き、防犯や防火に努めていた。こうした自治と自由の精神が、江戸町民の生き方を支えていた。
3.「束の間付き合い」と「世辞」
江戸では毎日、多くの見知らぬ人と行き交う。そこに「束の間付き合い」というしぐさが発達した。たとえば船着き場で渡し船を待っていたら、もう一人、客がやって来た。先客は和やかに軽く会釈をし、「こぶし腰浮かせ」と言って、こぶしをついて腰を浮かせて席をつめて、新来の客が座れるようにする。
現代では、電車の中で立っている人がいるのに、2人分くらいのスペースをとってゆったりと座っている人がいる。そんな所に「すみません」と声をかけて座っても、無言のまま、席も詰めない無神経な人が少なくない。そんな殺伐とした光景とは大違いの和やかな付き合いが江戸にはあった。
会話が始まっても、差し障りのない天気の話題などを選んで、職業や名前、年齢などを聞いたりしないのが決まりだった。「束の間付き合い」を楽しみつつも、お互いのプライバシーを尊重して、気持ちよく過ごそうという考えである。
江戸仕草の研究家・越川禮子氏は、こんな体験を紹介している。[1,p19]
小春日和のある日、JRのプラットホームに、つつましい感じのお母さんと4歳くらいの男の子がいました。男の子はヤクルトを飲んでいて、「おいちい、おいちい」と言っています。
その言い方が可愛らしかったので、私から「おいしい?」と声をかけました。男の子は笑顔で頷きます。お母さんが男の子に「こんにちは?」と促しました。すると男の子は「こんにちは」と挨拶し、それから空をぐるりと見渡しているのです。何をしているのかしら、と不思議に思っていると、空から私に目を転じてこう言いました。
「きょうは、いいおてんきですね」
驚きました。これは立派な江戸しぐさです。
「こんにちは」などの挨拶の後に、「今日はよいお天気ですね」とか「寒くなってきましたね」などと「世辞」をいうのが、江戸しぐさである。「世辞」とは今で言う「お世辞」ではなく、人付き合いを円滑にする応対の言葉であった。
4.対等の付き合いが原則
「束の間付き合い」や初対面の人に対して、名前や職業、年齢などを聞かないのを「三脱の教え」という。それは都会的に他人と距離を置く、という意味ではない。
「人間はすべて仏の化身」と考え、身分や職業、年齢に関わらず、互いに対等の付き合いをすることが原則だからだ。そういう外的なものよりも、人間としての品格の方が江戸社会では大切にされた。だから、自分が大店の旦那で、相手が小僧風情だからといって、偉ぶって威張った口をきいたり、自分をひけらかすような自慢をするのは、下品なこととされた。小僧風情の相手が「おはようございます」と挨拶すれば、旦那も「おはようございます」と対等に応えるのが、江戸しぐさだった。
相手の身分によって態度を変えるのは、はしたない振る舞いだった。初対面の時に対等な口をきいた後で相手が身分の高い人だったと分かって「そんなに偉い人とは知らず、失礼しました」などというのは、禁句である。それでは偉くない人には失礼にしてもいいということになってしまう。
そして相手と会うのも、今生でこれっきりかもしれない、という「一期一会」の気持ちで、人と接する。相手との生涯に一度の、しかも一瞬のつきあいを、いかに美しいものにするか、そこから「束の間付き合い」というマナーが発達した。
5.往来しぐさ
花のお江戸は路上で行き交う人も多い。その往来を気持ちよくするために、様々な江戸しぐさが生まれた。道路は「江戸城に続く廊下」と考えられ、ゴミを捨てたり、唾を吐いたりするのは、とんでもない行為とされた。歩きながらタバコを吸うこともなかった。混んだ道を早く走ることは危険なので「韋駄天しぐさ」と言って禁じられた。韋駄天とは、仏教での足の速い守護神である。
横に並んで話しながら歩く「とうせんぼしぐさ」や、往来の中で「仁王立ち」して、他人の邪魔をするのは御法度。「七三の道」と言って、自分は道路の片側3分を歩く。こうすれば、急ぎの人も、また怪我人を戸板に載せて運ぶ(今の救急車と同じ)際も、追い抜いていける。
冒頭の作文で紹介されたように、狭い路地を歩いていて、向こうから人が来た場合には、互いに体を斜めにしてすれ違う「肩引き」をする。雨の日には「傘かしげ」で、しずくが相手にかからないようにする。
こうしたすれ違いの際には、互いに目でちょっと挨拶し合う「会釈のまなざし」で、心が和む。雑踏の中で人に足を踏まれた場合、踏んだ方は当然謝るが、踏まれた方も「こちらこそ、うっかりいたしまして」と「うかつあやまり」をする。
すれ違いの際にも、「袖擦り合うも多少の縁」という気持ちからの思いやりによって、心和む付き合いができるのである。
6.粋(いき)な江戸っ子
江戸っ子は「粋(いき)」の良さを尊んだ。船着き場で人が来たら「こぶし腰浮かせ」で席を詰め、「お暑うございます」などと世辞を言う。そんなしぐさがさりげなく出来るのが、粋な江戸っ子である。
江戸っ子は「粋(いき)」の良さを尊んだ。船着き場で人が来たら「こぶし腰浮かせ」で席を詰め、「お暑うございます」などと世辞を言う。そんなしぐさがさりげなく出来るのが、粋な江戸っ子である。
粋の反対が「野暮」だ。往来で他人の迷惑を考えずに「とうせんぼしぐさ」や「仁王立ち」するのは野暮な人間のすることである。
「粋(いき)」は「息」でもある。二人以上の間では「息が合う」のが大切だ。狭い道では互いにすっと「肩引き」してすれ違い、軽く「会釈のまなざし」をする。そんな息のあったすれ違いは、なんとも粋である。
さらに「粋」は「生き」「活き」「意気」にも通ずる。「いきが良い」というのは、威勢のよい江戸っ子への賛辞だが、不機嫌や体調不良などを表に見せて他人を不愉快にするのは「野暮」の骨頂。年をとっても「耳順(60代)のしぐさ」と言って「己は気息奄々(きそくえんえん)、息絶え絶えのありさまでも他人を勇気づけよ」「若衆(若者)を笑わせるよう心掛けよ」と、やせ我慢でも元気はつらつ、かつユーモアを忘れずに生き生きと振る舞うのが、意気のいい江戸っ子ぶりであった。
こうして日常生活のマナーが、美的な感性にまで高められたのが「粋な」江戸しぐさであった。
7.自治と自由の場
自治都市として、町民たちが寄り合い、何が問題か、どうすれば良いかを議論する場が「講」であった。今で言う町内会のようなものだろう。また、この場で、手とり、足取り、口移しで江戸しぐさを教えた。「講」は江戸を支える話し合いの場であり、教育の場であった。
講ではメンバーが円をなして座る。これが「講座」である。その際に尻に敷くのが「座布団」。そこで「講師」が「講義」をする。そのための建物が「講堂」であった。
講は原則として、月に2回開かれた。その日は商売はお休みである。準備は明け六つ(午前6時)から、茶碗を熱湯で四半刻(約30分)ほど、煮沸消毒する事から始まる。風邪などが流行らないようにするための用心である。子ども達は、そこで茶碗の洗い方、畳の掃き方、廊下の雑巾がけなどを、見よう見まねで習い覚える。
講では、武士の悪口であろうと、役人の批判であろうと、何でも自由に言えた。それが江戸っ子の批判精神を育てた。
また、男は先に着いても、玄関で履き物を脱ぐときに、1、2列分開けた。後からくる女性のためである。男は足を広げて跨げるが、女性はそれができないからだ。江戸時代の初期は男の出稼ぎが多く、女性が少なかったので、大切にされた。
8.「世辞が言えたら一人前」
子どもたちの教育は主として寺子屋で行われた。親は商売人のため、子供を教える時間がない。そこでお金を出し合って、寺子屋の師匠に子供たちを預けた。お金の不自由な家の子は、師匠が面倒を見た。子供のない人も、子供が立派に育つことは江戸のためになることと、いくばくかのお金を出したという。
必要最低限の読み、書き、算盤をマスターした後、子供たちは、9歳までには「さようでございます」「お暑うございます」などの大人言葉を学ぶのが必須だった。「世辞が言えたら一人前」とされた。
入門してきた子供たちに、師匠はこんなふうに語ったという。
私たちが生まれ、育ち、住まわせて貰っているこの大江戸は、日本一、世界一の町です。何が一番かというと、しっかりした「講」があるということです。
講は、人と人とが手を取り合って、住み良い暮らしを考えるおおもとです。講がしっかりしていれば、人間は安心して住むことができます。
また、講はおつき合いの場です。人間がおつき合いしている世の中を「世間」といいます。だから、講は世間ということができるでしょう。
皆さんもこの寺子屋で、人と人とがしっかりと手を取り合ったおつき合いができる人間となるよう勉強してください。そして、日本一のお江戸で、人の心がわかる商人を目指してください。
講や寺子屋、広くは江戸全体で目指していたのは、金儲けや立身出世ではなく、「人の心がわかる」人間であり、そのような人々が「しっかりと手を取り合ったおつき合い」をしている「世間」だった。そうした社会なればこそ、「花のお江戸」というほどに経済も繁盛したのだろう。江戸しぐさは、繁盛しぐさとして、全国の商人に広がっていった。
9.「なぜ僕らにこの美しいしぐさを教えなかったのですか」
埼玉県の教育委員会で江戸しぐさのビデオを作成したことがあった。それを観た中学2年生の男子生徒が感想文に「なぜ大人たちは僕らにこの美しいしぐさを教えなかったのですか」と書いた、という。
東京都台東区の忍岡中学校では、平成16年から道徳の時間に「傘かしげ」や「肩引き」を取り入れた寸劇を先生たちが披露するなど、江戸しぐさを教えてきた。その劇は生徒たちの喝采を浴びているそうだ。
同校では「あいさつ運動」も実施している。上級生から下級生に「おはよう」と積極的に声をかけると、下級生も真似して挨拶するようになる。「挨拶するとやっぱ気持ちがいい!」地域の住民からも「道を広がって歩く子が減った」「挨拶する子が増えた」という声が聞こえるようになった。
江戸しぐさは企業の社員研修でも取り入れられている。ディズニーランドでは、社内に「江戸しぐさ研究会」を設置して、数百人がセミナーを受講した。「こんなすばらしいものが日本にあったなんて知らなかった」「これさえきちんと身につけていれば、自分に自信がもてる」「ここに来られたお客様に、私たちのしていることをお持ち帰りいただければ最高」などという感想が寄せられている。
美しい国への道は、ご先祖様がすでに示されているのである。
(文責:伊勢雅臣)
リンク
- a. JOG(030) 江戸日本はボランティア教育大国
ボランティアのお師匠さんたちの貢献で、世界でも群を抜く教育水準を実現した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog030.html
参考
1.越川禮子、林田明大『「江戸しぐさ」完全理解―「思いやり」に、こんにちは』、三五館、H18
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4883203751/japanontheg01-22%22
2. 越川禮子『江戸の繁盛しぐさ』、日本経済新聞社、H18
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4532193575/japanontheg01-22%22
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4883203751/japanontheg01-22%22
2. 越川禮子『江戸の繁盛しぐさ』、日本経済新聞社、H18
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4532193575/japanontheg01-22%22