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1.トラウトマン工作

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1、トラウトマン工作

 昭和十二年十二月十三日、支那事変が勃発してから五ヶ月後、支那(中華民国)の首都南京は、我が軍の総攻撃を受け、遂に陥落した。第二次上海事変(同年八月十三日勃発)から南京占領まで、我が中支那方面軍(上海派遣軍と第十軍)が被った損害は、戦死者二万一千三百人、負傷者五万余人に及んだ。

 我が大本営が中支那方面軍に南京攻略を命じた翌日の十二月二日、中華民国総統の蒋介石は、ドイツ駐支大使トラウトマンと会見、日本を勝者とみなさず、十一月二日に日本政府がドイツ駐日大使ディルクセンからドイツ政府を通じて国民政府に提示した次の対支和平条件(十一月ベルギーで行われたブリュッセル国際会議に期待をかけていた蒋は之を一旦拒絶)
  1. 内蒙古の準独立。
  2. 北支の非武装地帯を平津鉄路以南にまで拡大する。和平成立の場合、北支の行政権はすべて中央政府に属するが、日本は行政長官には親日的人物を希望する。
  3. 上海停戦区域をさらに拡大し、国際警察によって管理する。
  4. 支那は排日抗日を停止する。
  5. 支那は日本製品に対する関税を低減する。
  6. 支那は外国人の在支権利を尊重する。
  7. 日支防共協定の締結。
が変更されないことを確認した後、ドイツを仲介として日本と講和する用意がある旨を伝え、蒋介石はトラウトマンに次の支那側条件を提示した。
  1. 支那は講和交渉の一基礎として日本の要求を受諾す。
  2. 北支の領土保全権、行政権宗主権に変更を加うべからざること。
  3. ドイツは当初より講和交渉の調停者として行動すべきこと。
  4. 支那が第三国との間に締結せられたる条約は、講和交渉により影響を受けざること。

 十二月七日にトラウトマンからディルクセンを通して日本政府に通達された、この蒋介石の対日講和方針について、南京陥落後の我が国政府首脳の反応は冷淡かつ強硬であった。 

陸軍参謀本部第二課(作戦)第一班(戦争指導)の堀場一雄少佐によれば、

「十四日の閣議では広田外務大臣まず発言し、犠牲多く出したる今日、斯くの如き軽易なる条件をもってはこれを容認し難きを述べ、杉山陸軍大臣同趣旨を強調し、近衛総理大臣全然同意を表し、大体敗者としての言辞無礼なりとの結論に達し、その他皆賛成せり。」
という雰囲気であったという。

 これに対し、極東ソ連軍の増強と我が国の戦力国力の限界とをよく認識し、対支和平を主張する参謀本部戦争指導班は「閣議国を誤る事此に至り、挺身以て国家の危急を救うは今日に在り。各人分担して直接次長及び長官を衝き、今次の閣議決定を絶対に取り消すべし」と談判し、

 「広田外相の強硬論は何ぞや、自らの失態を蒋介石に転嫁するものか。両大臣が実情を知りて之に和せしとせば罪深し。抑々トラウトマンは、蒋介石の質問に答えるため改めて最近広田外相に念を押したるに非ずや。面も先の条件も広田外相より発出せるものに非ずや。当時是認せりとせば、その変化は南京追撃の戦況に酔いて倨傲となれるか、或は輿論を恐れて臆病となれるか、是認せる条件に基づく回答ならば責を一身に負いて交渉に入ること当然にして、亦是外相の機略ならずや。念を押したる上の回答を無視する本措置は、国家の信義を破ると共に日本は結局口実を設けて戦争を継続し侵略すと解釈するの外なし。是道義に反す。成し得べくんば支那側今次の申出を取り上げ交渉に入るべし。交渉に入らば折衝妥結の道自ら開くべし。
本条件絶対に容認し難きとせば、我が欲する条件を明確に示すべし。その条件は既に久しく用意あり。之が取り扱われざりしのみ。群衆は常に強硬なり。解決条件は寛大なるを要す。況や日支大転換を企図するにおいてをや。無礼呼ばわりして具体的応酬なき本措置は戦勝に驕れるの甚だしきものなり。何をもってか日支兄弟の好を結ぶを得ん。」
と憤激した(1)。

(1)堀場一雄【支那事変戦争指導史】一一七~一一八頁。
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