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決定版ブルーノート・ブック―史上最強のジャズ・レーベルのすべて

内容(「MARC」データベースより)
ブルーノートはジャズ大名盤の宝庫として有名なレコードレーベル、その全ての発売作品を録音データ・ジャケット写真・解説と共にカタログ化した全ジャズファンの愛蔵版。
ジャズはワインと似た処があります。
  1. どこまで行っても果てがないくらい広い気がする。
  2. ピンキリのはずなのに、どれがピンでどれがキリか分かんない。
  3. 自分では演らない(造らない)のにメチャメチャ詳しい人がいる。
  4. そんなこんなで軽々しくモノが言えない。

ジャズを聴いてみようと思い立って、教えてくれる人も見当たらないという場合は、あるいは独学が好きって場合は入門書にあたることになりますが、そんな時にもっとも適してそうなのがこれ。もちろんジャズはブルーノートだけではなくてプレスティッジもあればヴァーヴもあるし、ヨーロッパにだってございます。40~60年代が黄金期だったとしても現在にだってジャズはございます。なのになぜブルーノート限定で入門するのか。
  • その黄金期をインディーズのまま生き延び、商業主義に染まらなかった。名プロデューサー、アルフレッドライオンの才能が存分に発揮されている。
  • ルディヴァンゲルダーという屈指の録音エンジニアの存在。
  • ジャケットがカッコイイ(これは本当)。
  • 当時には珍しくギャラを払ってリハーサルを行ってから録音に入っていた。プレイヤーから愛されていた。才能が存分に出せた。
  • (場外から)そんなのどうでもいい、マイルスを聴け(すいませんマイルスはほとんどありません)。
いやはやごもっとも。しかし最大の理由は他にあります。ブルーノートが入門に適しているのは、「レコードに明快な通し番号がついているから」に他なりません。だからこそこんなふうな通し番号順の解説本が書けるわけです。情報量に圧倒されなくて済むのです。実にすばらしい。

漏れなく、且つダブらずに一覧にするのが非常に簡単且つ正確なので、「これで全部。これ以外ない。」と言い切るのがとっても気楽なのであります。この気楽さは何物にも代え難い。

  • 出版社 松坂 (1999/02)




ジャズ喫茶マスター、こだわりの名盤

鎌田 竜也,JAZZ MAGAZINE

巻末にジャズ喫茶一覧

2006.5
日本各地の各マスターのオススメ盤たちなので、実にバリエーションに富んでます。ブルーノートレーベルの解説本で飽き足らなくなった人に。
2007.5.11追記

ジャズ喫茶、嗚呼ジャズ喫茶。

ジャズ喫茶は古き良き時代の想い出になろうとしています。ジャスラック様が料金の請求を始めたのです。それも過去に遡って。だからここに載ってるお店の殆どはもう無いかもしれません。特にライブもできるような店は壊滅的です。心して読みましょう。




こんな処に押し込めてすいません。


ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読

多木 浩二

よくぞ紹介してくれました

2006.9.13
デジタルデータは複製が非常に容易であります。そこで例へば音楽CDなどで著作権と複製技術の利益が相克する状況が生じてゐるので在りますが、此れは何も今に始まつた事では無く、近代黎明期以降、「現代」は常に、それまでより複製が簡単になつた時代でありました。

表題にある様に、問題の本質は、芸術作品が複製可能に成つて仕舞つた事では無く、複製可能な形で芸術作品が提供される様に成った事にあります。版権の誕生であります(それと同時に、版権所有者の利益の為に「オリジナリティ」やら「個性」と云つた様な馬鹿げた価値観が発明され、「栄誉」が「人気」へと堕落させられたのでありますが、本書の書評の範囲を越える為、ここでは指摘に留めます)。体験から鑑賞への変化と言つても良いでしょう。

従つて、其れを少々複製したからと言つて何を今更、盗人猛々しいと云ふ話でありまして、「伽藍とバザール」など最新の論考に触れるのも大いに結構ではありますが、古典に触れて自らの考へに問いかけるのも充分に刺激的でありましょう。

原著


なほ、元著の日本語訳も文庫版が出版されており、大部では無いので併せて読まれるのが良からうと思ひます。なほ写真は文庫版ではない版。私は文庫版を持つてゐるんですが、amazonで見つからないんです(岩波文庫、ちくま学芸文庫→参考書評要約を公開してる人もゐます。

紀伊国屋 book web 書評2005.9.29からコピペ
『複製技術時代の芸術』ヴァルター・ベンヤミン(晶文社)

「メディアは「遊び」である」

迷ったとき、行き詰まったとき、見通しが利かなくなったとき。そんなとき、幾度も読んだ本をまた開いてみたくなる。ぼくにとって、それはしばしばベンヤミンの著作だ。先日も「複製技術時代の芸術作品」を再読した。

「複製技術時代の芸術作品において滅びゆくものは作品のアウラである」というキーフレーズでよく知られるこの論文は、芸術作品が技術的に複製可能になる過程を、作品のもつ権威や鑑賞の一回性の喪失と捉え、それにともなう芸術とひとびととの関係が、礼拝的価値から展示的価値へと劇的に変容することを示したものだ。

この論文が書かれたのは、1930年代半ばのことだ(三つの稿がある)。ハリウッド映画をはじめとするアメリカ産の商業映画に「大衆」が熱狂した時代であり、同時代の知識人たちも映画に注目していた。そのなかにあってこの論文が特異なのは、(たとえばホルクハイマー=アドルノ『啓蒙の弁証法』のように)文化産業による搾取や文化の低俗化のプロセスとして嘆息するのではなく、まさにそうした事態そのもののなかに、社会の決定的的な断層を読みとり、新しい複製技術の内側から社会を再編成していく理論的可能性を見出していたことにある。

古典中の古典ともいうべきこの論文にかんしては、すでに無数の言が積み重ねられている。ただぼくには、この論文のいちばん基底のところで、よくわからない点があった。システムへの隷属とその内破的変革といういかにもベンヤミンらしい弁証法的な構図は、いったい何によって担保されているのか。

だが、今回はたと気がついた。「遊戯」(シュピール)だ。一回性が肝要だった従来の芸術は、自然を制御することをめざしていた。ところが、映画のような新しい複製技術の根源は遊戯性にある。かれはちゃんとそう述べている。ベンヤミンはこの言葉をわりあいあっさり登場させているけれど、これはもしかしたら「アウラの喪失」よりもずっと重要な指摘かもしれない。

遊戯性、遊びの感覚。それは「儀式」とか「正義」とか「権威」とかといった目的に奉仕する合目的なものではない。遊戯とは、広い意味での何らかのルールにしたがってゲームを遂行していくことであり、しいていえば、戯れ遊ぶことそれ自身を目的にするものだ。と同時に、ゲームの遂行とは、そのルールを逸脱し、ズラし、書き換え、新しいゲームを編みだしていくことでもある。ルールとは(ヴィトゲンシュタイン=クリプキが述べたように)つねに無根拠なものだからだ。

複製技術において志向されているのは自然と人間との共同の遊戯であり、いまや芸術の決定的な社会的機能は、まさにこの共同の遊戯を練習することにある。映画という新しい技術のシステムと密接に関係する新しい知覚や心性を、まずここに適合させていくことで、逆に、いまはそのシステムの奴隷となってしまっている現状を変革していくことを可能にする。それがベンヤミンの見立てなのだ。ベンヤミンは、メディアの根源に「遊び」を見出した最初のひとであるということができるだろう。

「遊戯」という言葉にぼくが反応してしまったのには理由がある。ぼくはいま、仲間たちと一緒に、メディアを「実践すること」の地平から組みたて直すことを試みようとしている。それは、大学院生時代から参加してきた「メルプロジェクト」 (MELL: Media Expression, Learning and Literacy) の活動のなかで考えはじめたことだ。もしベンヤミンがいうように、複製技術の根源に遊戯性が坐しているのだとしたら、その遊戯性は、メディアにかかわる実践とも深く関係しているはずだ。そこから、メディアとひとびとの関係を解きほぐし、再編成していくことの契機へとつなげられるのではないか。

なお「複製技術時代の芸術作品」には複数の邦訳がある。もっともよく知られている晶文社版の著作集での佐々木基一訳が単行本化されているので、それをあげておいた。久保哲司訳(『ベンヤミン・コレクション1近代の意味』ちくま学芸文庫、所収)は、もっとも新しい訳。個人的には野村修訳(『ボードレール他五篇』岩波文庫、所収)が好きだが、いずれも良い訳だとおもう。



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