1940年代(サウンドシステムの登場)

1940年代に小規模に存在していたサウンドシステム
場所は、キングストン(ジャマイカの首都)のゲットー(貧困地区)。

空き地やトラックスピーカー?を積んで、音楽をかけながらレコードを売っている人たちがいました。
(今でも、こういうレコード売りはいます。BURGER KINGの横でレコードを売ったりしています。こんなかんじ↓)

http://www.speakjamaican.com/soundsystem.jpg



しかし、この野外レコード屋には、レコードを買う気もお金もない人たちが集まるようになります。
では、なぜここに人が集まったのか?

答え:当時は、
①ダンスホールにあたる娯楽施設が存在しなかった
レコードプレイヤ-を持っている人は、ほんの少数であった
レコードを買える人も、ほんの少数であった
④ラジオを持っている人も、ほんの少数であった
⑤野外レコード屋が、ラジオ代わりの役目を果たしていた(音楽、ニュースの発信)
⑥男女交際の場となった
からです。

こうして、貧困層の黒人たちはサウンドシステムに行き、サウンドシステムにレコードを聴きにいったのでした。

次第にレコード屋のスピーカー?前は、人々の娯楽の現場へと変わり、野外でダンスパーティも行われるようになりました。
この野外ダンスパーティを、サウンドシステムといいました。
これが、サウンドシステムの登場です。

こうして、サウンドシステムは「屋外レコード屋」からスタートし、
後に、産業としてのサウンドシステムの仕組みが形作られました。


1950年代(サウンドシステムの発展)


サウンドシステムは、レコード会社?が運営していました。
その目的は、「自分のレーベルレコードの宣伝」と「収益の確保」です。

サウンドシステムは大企業のようなもので、
不安定な経済状況のさなか確実に利益を出す、数少ない方法でした。
サウンドシステムの主催者は、食べ物とアルコールを売ることにより、利益を得ました。

当然のことながら、大勢のお客さんを集めたほうが儲かりますから、
サウンドシステム同士の競争は猛烈でした。

曲を流すときには(レコードではなく)音質の悪いダブ・プレートを使用していたので、
少しでも聞こえがよくなるように、機材の選定や野外用のチューニング(音圧・音程などの調整)など、様々な工夫を重ねていきました。

これが過激になると、
曲を流すときに、イントロにのせて「他のサウンドシステムはFuckだ」とマイクで叫んで、ライバルの評判を落としたり、
時にはライバルのサウンドシステムを壊しにいったりしました。
そして、誰かが刺されるまで騒ぎは続くのでした。

このような過渡期において、サウンドシステムが生き残る条件は
「新しい音楽を持っていること」でした。

よって、当時のサウンドシステムは、
ジャマイカで流行していた音楽をいち早くキャッチし、流していたようです。
だから1950年代のサウンドシステムでは、アメリカのリズム&ブルースが主に選曲されていました。

ライバルに最新のレコードがパクられないようにと、
クレジット(中心の紙の)部分を削りとったり、別の歌手の名前を入れたりしていました。


1950年代(サウンドシステムとスカの誕生)


数あるサウンドシステムの中で、ずば抜けた集客を集めたのが
Coxsone Dodd(コクソン・ドッド)の「Sir Coxsone Downbeat」と
Duke Reid?(デューク・レイド)の「Trojan」でした。
この2つのサウンドは、参加者が数千人単位ということも、決して珍しいことではありませんでした。

ところが、1950年代半ばになると、
アメリカ音楽の主流が、リズム&ブルースやソウルからメローサウンドに変わります。
メローサウンドはジャマイカ人には受け入れられず、サウンドシステムから人々は離れだします。

そこで、Coxsone DoddDuke Reid?は、サウンドシステムの集客をあげるため、ジャマイカ人に受け入れられる音楽を模索しだします。

これがスカでした。
つまり、こういうことです。

①「新しい音楽」(=スカ)をサウンドシステムで宣伝して、人々にインパクトを与えると、
②「新しい音楽」(=スカ)を求めて人々が大勢集まり、
③大勢の人がサウンドシステムで楽しむことで、飲食による収益を伸ばし、
④収益をレコード制作にあて、
レコードを売って収益をさらに伸ばし、
⑥さらに得た収益で新しい機器を買って「新しい音楽」(=スカ)を作り、

⑦「新しい音楽」(=スカ)をサウンドシステムで宣伝して、人々にインパクトを与えると、
⑧「新しい音楽」(=スカ)を求めて人々が大勢集まり、
⑨大勢の人がサウンドシステムで楽しむことで、飲食による収益を伸ばし、
⑩収益をレコード制作にあて、
レコードを売って収益をさらに伸ばし、
⑫さらに得た収益で新しい機器を買って「新しい音楽」(=スカ)を作り、

⑬「新しい音楽」(=スカ)をサウンドシステムで宣伝して、人々にインパクトを与えると、
(以下、同じ)


このすばらしい輪廻にイチ早く気づいたのが、
Coxsone DoddDuke Reid?だったわけです。

Coxsone Doddは「Studio 1?(スタジオ・ワン)」、
Duke Reid?は「Trojan?(トロージャン)」後の「Tresure Isle?(トレジャー・アイル)」というレーベルを設立し、
現在に至るまで、ジャマイカ音楽を発信し続けています。

ちなみに、スカダブの世界ではおなじみのPrince Buster(プリンス・バスター)やKing Tubby?(キング・タビー)も、「Prince Buster」「King Tubby's Hi-Fi」というサウンド名でサウンドシステムをやっていました。

「新しい音楽」としてはじめてレコーディングされたのは1958年、Joe Higgs?Delroy Wilsonによるデュオ・Higgs and Wilson? でした。

この時期は「プリ・スカ期」と呼ばれています。

1960年代以降(サウンドシステムが与えた影響)


このサウンドシステムは、ジャマイカはおろか、世界中の音楽に大きな影響を及ぼしました。

人を突き動かして踊らせる「重低音」がサウンドシステムの魅力ですが、
この重低音が強調される音楽が1960年代後半から制作され、ロックステディとなりました。これが、レゲエに発展して、世界的に伝わりました。

また、Kool Herc(クール・ハーク)(後にブレイクビーツを創設したDJ)や他の移民は、サウンドシステムをアメリカにも伝えました。
これが、ヒップホップ(Hip Hop)の誕生に影響を与えました。

ヒップホップはファンク(Funk)やラップミュージック(rap)など、あらゆる音楽に通じています。
サウンドシステムが世界の音楽の歴史を変えたといっても過言ではないでしょう。


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最終更新:2007年05月04日 12:03