ロンドンアンドノースイースタン鉄道(London and North Eastern Railway,LNER)はかつてイギリスにあった鉄道会社である。LNERは、1921年鉄道法 (Railways Act 1921) により1923年1月1日に設立されたイギリスの四大鉄道会社の一つで、四大私鉄(ビッグフォー)の一角を担い、2番目の規模を誇った。当初 16 年間は、サー・ラルフ・ウェッジウッド (Ralph Wedgwood) がLNERの総支配人を務めた。1923年1月1日から国有化される1948年1月1日まで存続し、国有化後はイギリス国鉄のイースタンリージョン (Eastern Region)、ノースイースタンリージョン・スコティッシュリージョン (Scottish Region) の一部へと分割された。標準塗装は旅客機関車はアップルグリーンに白色のライン、貨物機関車は黒に赤いライン、客車はチーク材にニス塗の木目調であった。
構成する鉄道
グレート・イースタン鉄道(Great Eastern Railway)
グレート・イースタン鉄道は1900年に旅客輸送量でトップであり、イギリス最長の路線距離をもつ会社の一つである。この会社は旅客輸送の他にも貨物輸送を行っている。GERは国会決議でイースタンカントリー鉄道がロンドン-ノーウィック間の鉄道建設を認められた1836年に操業を開始し、英国国会が承認する最も長い路線を建設した。1843年、路線はデヴォンシェア・ストリート・ショーディッチからコルチェスターにまで到達した。1862年にイースタンカントリー鉄道と小規模の4つの会社が統合してGERをつくった。1867年にGERは破産の危機に追い込まれたが、最終的にはマルケル・デ・サリスブリーが会社を引き受けることによって救われた。この鉄道は商業的な優位性などで他社と比べられることがあるが、運行の面においては完璧とはいいがたい
グレート・セントラル鉄道 (Great Central Railway)
GCRはローカル線会社として発足し、英国の主要鉄道会社の一つへと変貌を遂げた。GCRは20世紀初頭にロンドン市外で、当時の最高級の車両と機関車による特急列車の運行を行った。ロンドン&ノースウェスタン鉄道やミットランド鉄道といったよりおおきな鉄道会社の活動と相まって、GCRは英国鉄道の黄金期の旗頭となった。
グレート・ノーザン鉄道(Great Northern Railway, GNR)
グレート・ノーザン鉄道は1846年のロンドン&ヨーク鉄道法により設置されたイギリスの鉄道会社である。
ロンドンからヒッチン (Hitchin)、ピーターバラ、グランサム (Grantham) を経てヨークに至る幹線と、ピーターバラから分岐しボストン、リンカンを経てボウトリー (Bawtry)、ドンカスターの南に至るループ線、シェフィールドへ至る支線、ウェイクフィールドに至る支線があった。
幹線はイーストコースト本線の一部となった。
グレート・ノース・オブ・スコットランド鉄道(Great North of Scotland Railway)
この会社のスタートは遅々としたものであった。というのも、アバディーンとインヴァネスを結ぶために設立されたのは1845年であったが、建設工事は1858年までに完了しなかった。しかし、会社の経営陣内にモファット氏が参加することにより、事情が変化した。列車はきちんと運行されて他の列車との接続が可能になり、車両のシートも改良された。こうした改革は乗客だけではなく従業員や株主にとっても好結果をもたらした。路線は徐々に延伸されていったが、当初の悪評を拭い去るのにはかなりの労力を要した。その地域の会社の激しい競争がこれらの原因であった。19世紀末、グレート・ノース・オブ・スコットランド鉄道はその不評を少しずつ拭い去り、徐々にではあるが優良会社へと変貌を遂げていった。のちに報われることになるとはいえ、ここにたどり着くまでには会社の重役会の多大な努力が必要であった。
ハル・アンド・バーンズレィ鉄道(Hull and Barnsley Railway)
HBRは、NERの独占を阻止すべく1885年に開業した。ハル・アンド・バーンズレィ社はミッドランド鉄道(MR)を通ってバーンズレィに到達した。MRはノース・イースタン鉄道(NER)と競合していたのでHBRに肩入れした。MRとNER間の競争によってハルにおける石炭の生産が増え、値段は引き下げられた。しかしこれらはHBRの破産の危機を救うことにならず、状況はNERにとって有利なままであった。1889年、NERとの提携の可能性について再提案がなされたが、ハル社の重役はそれに反対した。19世紀末に石炭輸送がかなり増え、さらにワスに向けての支線の開通により、その地域の他の鉱山がHBRを利用して生産物を輸送することができるようになったことで、ようやく会社は将来の経営的保証を得るに至った。
ノース・ブリティッシュ鉄道 (North British Railway)
ノース・イースタン鉄道 (North Eastern Railway)
NERは最初に登場した鉄道会社の一つで、1810年ごろ、重要な地点としてよーくを目指した。第2次鉄道建設ブームが始まるとニューカッスルに向けてさらに路線を延伸させた。この鉄道の開通には、優秀なエンジニアであるロバート・スチーブンソンの助力を得ている。
地域
LNER は、その名が示す様に、ロンドンの北から東にあたる地域に路線を有していた。これにはロンドンからヨーク、ニューカッスル・アポン・タインを経てエディンバラに至るイースト・コースト本線と、エディンバラからアバディーンおよびインヴァネスに至る路線が含まれる。ペナイン山脈の東側のほとんどは、イースト・アングリアの広大な平地を含め
LNER の領域であった。
LNER の主要工場群はドンカスターにあった。
路線
イーストコースト本線 (East Coast Main Line)
イースト・コースト本線は、イギリスの鉄道路線で、主要幹線のひとつである。通称「ECML」。日本語では「イースト・コースト・メイン・ライン」や「東海岸本線」と表記されることもある。
ロンドンのキングス・クロス駅とエディンバラのウェイバリー駅(Waverley railway station)の間を結び、ロンドンとヨークシャー・ノース・イースト・イングランドおよびスコットランドを繋ぎ、グレート・ブリテン島の東側の大動脈となっている。
グレートセントラル本線
グレートイースタン本線
グレート・イースタン本線(Great Eastern Main Line、「GEML」)は、イギリス鉄道の幹線鉄道路線である。ロンドン都心部とイースト・オブ・イングランド(イングランド東部地域、グレート・ブリテン島東部)とを結ぶ。シティ・オブ・ロンドンにあるターミナル駅のリバプール・ストリート駅からイプスウィッチ、ノリッチ、およびイースト・オブ・イングランドの海岸沿いのリゾート地とを結ぶ。この路線は主として通勤路線かつレジャー客を輸送する路線であり、また貨物列車のルートでもある。
路線はロンドンから途中のシェンフィールド駅までは基本的に列車線(急行線)と電車線(緩行線)の複線がそれぞれある複々線で構成される。前者はインターシティ(特急列車)とロンドン近郊の外まで走る列車が、後者は近距離の普通列車が使用する。近距離列車が走らないシェンフィールド駅以遠は複線となる。
LNERの総路線長は6,590マイル(10,605km)であった。ノース・イースタン鉄道の規模が1,757マイル(2,828km)と最大であり、他にはノース・ブリティッシュ鉄道が1,378マイル(2,218km)、ハル・アンド・バーンズレイ鉄道が106.5マイル(171km)であった。
LNER はこの他、下記を有していた:
タービン船6隻、その他蒸気船36隻、河川用船舶および湖水蒸気船多数など
ドックおよび港 20箇所、イングランド北東沿岸の港、スコットランド東部の港、ハーウィッチ (Harwich) 及びロンドンの国際港
その他埠頭、桟橋
ホテル 23軒
ロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道と共同で、
LNER はイギリス最大の合弁鉄道であるミッドランド・アンド・グレートノーザン合弁鉄道を有していたが、その大部分は
LNER の路線と競合していた。1936 年に、この合弁鉄道全体が
LNER の鉄道網に組み込まれた。
車両
蒸気機関車7700輌
客車20,000輌
貨車29,700輌
電車140輌
電気機関車6輌
レイル・モーターカー1 輌
機関車
塗装
LNER の車輌塗装はさまざまである。最も多かったのは旅客用機関車のアップルグリーン (グレート・ウェスタン鉄道が用いた緑よりはずっと明るい) に縁どりを施したものと、貨物用機関車の縁どりのない黒塗装で、どちらにも金色のレタリングが施された。客車は一般にチークのニス塗り仕上げであり、数少ない金属製客車にもチークに似た塗装が施された。
一部の特別列車とA4 パシフィック機関車には、銀やガーターブルーなど一般とは異なる塗装が施された。
宣伝広報
LNER はイギリスに広範な路線を有し、ロンドンからイングランド北東部ならびにスコットランドへ列車を運行していた。1923 年の強制的な鉄道会社グループ化により、イングランドとスコットランドにひろがるかつての競合会社が
LNER として協調する必要生じた。
LNER の一般イメージを迅速に作り上げる作業が、初代宣伝部長ウィリアム M. ティーズデール (William M. Teasdale) に与えられた。ティーズデールは、広い称賛を勝ち得ているロンドン地下鉄ポスター広告のスタイルと内容に采配を振っているフランク・ピック (Frank Pick) の哲学とポリシーから影響を受けていた。ティーズデールは画家やデザイナーを厳格な指針に縛り付けず、自由にさせた。ティーズデールが
LNER の副総支配人に昇格した際には、後任として国有化まで
LNER の宣伝部長に留まったセシル・ダンドリッジ (Cecil Dandridge) にこの方針が引き継がれた。ダンドリッジは、後に
イギリス国鉄で用いられる Gill Sans 書体の採用に貢献した。
LNER は工業指向の会社であり、イギリスの石炭の三分の一以上を輸送して貨物収入の3分の2を得ていた。これとは別に、
LNER が自身が広告を通じて与えていた印象は、優美で高速な列車と洗練された目的地であった。
LNER の宣伝キャンペーンは、競合他社に較べ高度に洗練され進んだものであった。ティーズデールとダンドリッジはトム・パーヴィスといった最高峰のグラフィックデザイナーやポスター画家に仕事を依頼し、
LNER のサーヴィスを宣伝するとともに大衆が夏期休暇に東海岸を訪れるよう呼びかけた。
主任機械技師
鉄道網の表看板は機関車と客車に多くを負っており、それゆえ
LNER 主任機械技師 (CME) の個性が鉄道に深く刻まれている。
LNER には歴代三人の CME が就任した。
サー ナイジェル グレズリー
サー・ナイジェル・グレズリーは
LNER の初代 CME であり、
LNER の存続した殆どの間その任にあったため、
LNER にもっとも影響を及ぼした。グレズリーはグレート・ノーザン鉄道 CME を経て
LNER の CME に就任した。グレズリーは大型機関車策で知られており、とりわけしばしば
蒸気機関車の最高速度を記録した大型急行旅客機関車で記憶されている。LNERクラスA4
蒸気機関車4468 マラードの最高速度記録は今日まで破られていない。グレズリーは1941年にオフィスで死去した。
エドワード トンプソン
エドワード・トンプソン (Edward Thompson) の短い在任期間 (1941年 - 1946年) は議論の種となっている。CME 昇任以前よりグレズリーに対して批判的であったため、トンプソンの決定は前任者に対する嫌悪によるものだと解釈する向きもある。しかし、グレズリーの設計には長所と同時に欠陥もあったことは指摘せねばならない。トンプソンの業績は戦時下に頑丈で信頼性の高い貨物用機関車を設計したことにある。トンプソンは 1946 年に退職した。
アーサー H. ペパコーン
アーサー・H・ペパコーン (Arthur H. Peppercorn) の CME 在任期間は国有化のため 18 箇月に短縮された。新構想よりは再構築という雰囲気のこの短期間にペパコーンが行った設計で注目に値するのは、A1 および A2 パシフィック形急行旅客用
蒸気機関車であるが、その殆んどは国有化後に完成した。グレズリー門下のペパコーンはまたグレズリーの賞讃者でもあり、ペパコーン設計の機関車はグレズリーの古典的設計と、グレズリーが十分には為し得なかった信頼性と堅牢さとを併せ持つものであった。
第二次世界大戦後
LNER は国有化により、都市間鉄道の大規模な駅が受けた戦争被害から迅速に復興できた。1996年の
イギリス国鉄民営化の際、イーストコースト本線の長距離列車のフランチャイズは当初シー・コンテナ社 (Sea Containers Ltd) が獲得し、新列車運行会社をグレート・ノース・イースタン・レイルウェイ (GNER) と命名した。この会社名と略称は、
LNER を連想させるよう意図的に選ばれたものである。親会社であるシー・コンテナ社の財政困難のため、2007 年 12 月 9 日に GNER は権利を禅譲し、このフランチャイズはナショナル・エクスプレス・イースト・コーストに引き継がれた。
最終更新:2019年02月10日 22:07