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*豊前福光氏のこと(2006-10-22) #counter なぜ、古術が代々一族相伝と言う伝承形態ながら今日まで続いてきたのかは、一つの大きな理由がある。百姓の護身の芸だけが目的ならば、江戸の太平の長きの中で、恐らく埋没し、途絶えていたことだろう。 では、その一つの理由とは。 これを語るためには、豊前福光氏のいわれから説き明かさなければならない。 豊前福光氏は美作菅家党の末流、福光党の末を称している。戦国期には明智家の家人であった。明智家滅亡後は大谷家に仕え、関ヶ原、大阪夏・冬の陣と大阪方で奮戦したが、いずれも負け戦となったことは皆の知るところである。考えてみれば、よくよく運がなかったと言わざるを得ない。現代風に言えば、勤めた会社が次々に倒産、リストラといったところだろう。 そして、開祖明正は明智の縁を頼り、細川氏が小倉入国を追って九州に下向した。しかしながら、大阪方の浪人の身であって、見咎められれば首をはねられる状況でもあり、また、江戸幕府開闢して既に世の体制は決していた。細川家への士官もかなわず、明正は途方に暮れながら、やがて豊前の国、香春の異様なる山のある地にきて、その山里に隠れ住むように帰農する決意をしたと言われている。 そこで、帰農にあたり、名字帯刀が許されない百姓として生きるしかない、と覚悟を決めた明正は、一つには美濃源氏以来の「鎌倉風流武芸」を農具・生活用具を使っての護身の芸、とすることにした。これが古術福光派の起こりとされている。 しかし、古術継承の真の目的は、徳川の太平の世もいつまでも続かない、もし乱世に戻れば、直ちにこの古芸を持って武家に戻り家名を再興する、という事であり、それこそが福光氏の悲願であった。 古術には、色んな口上言伝が残っているが、歴代の武家に戻る日を夢見続けた執念のようなものを感じる。私の先代は、元秋田藩士族の出で、明治に北海道に移住した者の末である。貧しい少年時代を送ったが、成人してからは戦前の満鉄の広報に勤め、瀟洒な暮らしをしていたのが、日本の敗戦とともに全てを失ってしまった人であるから、この豊前福光氏の謂われを語る時、いつも涙ぐみながら話していた。 自分の人生を重ね合わせたのか、あるいは謂われそのものが創作であったのか、私には未だに真偽定かではないが、先代がよく言ってたことは覚えている。 「およそ日本国において、一度たりとも武家でなかった家を探す方が難しかろう。また、武家ならずとも、兵農分離以前の戦国期には百姓は兵として戦に出ているのだから、江戸期身分が固定された時点で、護身用として、あるいは武家に戻る夢を持ち続けるために、このような武芸が農村に残っている可能性のほうが高いのではないか。」 最近になって、私も先代の見解は正しかったのではないかな、と歴史を研究しながら思うようになった。古術の謂われの真偽は定かではないが、百姓が本気で武装するとしたら竹槍を使うだろうか?私なら、間違いなく長柄の鎌と二丁鎌を選ぶ。 道理はいずれ明らかになると私は思っている。(館長) [[風門の儀に戻る>風門の儀]]
*豊前福光氏のこと(2006-10-22) #counter なぜ、古術が代々一族相伝と言う伝承形態ながら今日まで続いてきたのかは、一つの大きな理由がある。百姓の護身の芸だけが目的ならば、江戸の太平の長きの中で、恐らく埋没し、途絶えていたことだろう。 では、その一つの理由とは。 これを語るためには、豊前福光氏のいわれから説き明かさなければならない。 豊前福光氏は美作菅家党の末流、福光党の末を称している。戦国期には明智家の家人であった。明智家滅亡後は大谷家に仕え、関ヶ原、大阪夏・冬の陣と大阪方で奮戦したが、いずれも負け戦となったことは皆の知るところである。考えてみれば、よくよく運がなかったと言わざるを得ない。現代風に言えば、勤めた会社が次々に倒産、リストラといったところだろう。 そして、開祖明正公は明智の縁を頼り、細川氏が小倉入国を追って九州に下向した。しかしながら、大阪方の浪人の身であって、見咎められれば首をはねられる状況でもあり、また、江戸幕府開闢して既に世の体制は決していた。細川家への士官もかなわず、明正公は途方に暮れながら、やがて豊前の国、香春の異様なる山のある地にきて、その山里に隠れ住むように帰農する決意をしたと言われている。 そこで、帰農にあたり、名字帯刀が許されない百姓として生きるしかない、と覚悟を決めた明正公は、一つには美作菅家以来の「鎌倉風流武芸」を農具・生活用具を使っての護身の芸、とすることにした。これが古術福光派の起こりとされている。 しかし、古術継承の真の目的は、徳川の太平の世もいつまでも続かない、もし乱世に戻れば、直ちにこの古芸を持って武家に戻り家名を再興する、という事であり、それこそが福光氏の悲願であった。 古術には、色んな口上言伝が残っているが、歴代の武家に戻る日を夢見続けた執念のようなものを感じる。私の先代は、元秋田藩士族の出で、明治に北海道に移住した者の末である。貧しい少年時代を送ったが、成人してからは戦前の満鉄の広報に勤め、瀟洒な暮らしをしていたのが、日本の敗戦とともに全てを失ってしまった人であるから、この豊前福光氏の謂われを語る時、いつも涙ぐみながら話していた。 自分の人生を重ね合わせたのか、あるいは謂われそのものが創作であったのか、私には未だに真偽定かではないが、先代がよく言ってたことは覚えている。 「およそ日本国において、一度たりとも武家でなかった家を探す方が難しかろう。また、武家ならずとも、兵農分離以前の戦国期には百姓は兵として戦に出ているのだから、江戸期身分が固定された時点で、護身用として、あるいは武家に戻る夢を持ち続けるために、このような武芸が農村に残っている可能性のほうが高いのではないか。」 最近になって、私も先代の見解は正しかったのではないかな、と歴史を研究しながら思うようになった。古術の謂われの真偽は定かではないが、百姓が本気で武装するとしたら竹槍を使うだろうか?私なら、間違いなく長柄の鎌と二丁鎌を選ぶ。 道理はいずれ明らかになると私は思っている。(館長) [[風門の儀に戻る>風門の儀]]

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