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〈投稿記入例〉
19XX年卒、Sop.△山◇子
私が在団していた当時、あんなことやこんなことがありました。楽しい思い出です。
1973年卒 Alt.吉田常美
テニスコートの前、古い木造平屋で隣りは美術部。床に穴があいていた汚い部屋。思い出しますネー。
私が入学した1969年に学園紛争がおこり、「この様な時に歌ってはいられない」とやめていく団員が出だしました。
1971年卒がいなくなると、練習を続け、定演を開催できる最低の人員という感じで歌っていました。
我々世代の誰かが抜けたら、休部したメンネルコールの後を追うのかとの思いを常に抱きながら歌っていました。
樋本さんが常任指揮者となった後の興隆をみた時、あの時つぶさなくてよかったと、しみじみ思ったものでした。
1974年卒 Ten. 岡部研一郎
市大混声創団50周年記念イベント50年史企画を(三枝さんの)「楽しかったこと、悔しかったこと、記録に残したいこと、何でも構いません。」のお言葉に甘えて書かせて戴きます。写真やガリ版刷りの類は実家に置いており、ここへの記載は、全て記憶ですので誤りがあると思います。「記録に残しておきたい。」をキーワードに“プチブル・ノンポリ”と訳もなく自分を恥じていた二十歳前後の自分と今の心境です(混声との関係は少ない・・・)→間違い、自己満足等どうぞお許し下さい。
昭和44年(1969年:都立高2年→高3)
1月、加藤東大総長代行が「東京大学入試中止。」を発表しました(翌年の受験への影響を考えぞっとした記憶があります。)。その後、「4.28沖縄デー」を皮切りに「10.21国際反戦デー」まで反戦高協(中核派高校生組織)の生徒を中心に高校は荒れ、9月には「安保反対、沖縄返還」をテーマに全校ストライキに突入(「政治スローガンを掲げてストを行った全国で最初の高校と言われていました。)。学校をストに導いた仲間を恨みながらも「これで勉強をしない言い訳が出来た。」と思う自分が居ました。当時、校内には「勉強する奴は悪!」という雰囲気が蔓延、先生との徹夜の討論で「10.21国際反戦デー」デモは不参加となり、責任を取ってスト自体は解除されましたが、年内は授業が成立せず、昭和45年を迎えました。
昭和45年(1970年:都立高3年→市大1年)
1月、反戦高協の生徒は学校に来なくなり、皆急に受験モードになりました。でも、小生は、仲間の余りの変貌に付いて行くことが出来ず、呆然とした日々を送りました。そして、2月1日から慶応法学部試験前日の2月18日までは一生懸命勉強、これを4月からやっていれば・・・と思いました。結果は全て不合格(昭和41年4月東龍太郎都知事と小尾乕雄(おびとらお)教育長が学校群制度を発表、我々はその第一期生として昭和42年4月に高校の門をくぐり、女子高に振り分けられた我々の大学入試の結果は都内高校関係者や父母の注目を浴びるものでしたがストの影響で歪みました。)。ところが、同じクラスの友達から「市大から補欠の通知が来た。」との電話。念の為、家の郵便受けを見ると小生にも通知が届いていました。補欠でも入れれば正解!と思い市大の門をくぐりましたが、周りの学生は、年上だったり、学生運動の活動家だったり・・・学内には「ホンジツ~~登校された~~全ての横浜市大の~学友しょく~~ん。」とアジる先輩(?)やゲバ棒ヘルメットの学生が目立ち、混声の部室に辿り着くどころかちょっと怖くてクラブに入る気になりませんでした。(この年は70年安保の年ですが、条約はあっさり更改。11月に三島由紀夫が自衛隊市谷駐屯地で割腹自殺。小生は休講で時間を潰すべく伊勢佐木町を歩いていたのですが、三島の自決を知らせる街頭放送が流れていました。)
昭和46年(1971年:市大2年)
3月2日(火)、千葉市に父が家を建て、引越し。市大まで片道2時間40分かけて通うこととなりました(下宿は許可されず。)。このためこの年もクラブに入るきっかけがありませんでした(国鉄遵法闘争で後期試験は3時間20分かかり遅刻!)。
昭和47年(1972年:市大3年)
遂に、横浜市立大学混声合唱団に入団!小生の大学生活はこの年から始まったようなものです。毎日下駄を履いている自衛隊から市大生になったS先輩を始め、ユニークな先輩に囲まれ、当初の印象は、「大学の合唱団は高校とは違う!」でした(高校は前身が女子高だったこともあり、女子が多く華やかで音楽のレベルも高かった。同期に“鮫島有美子”さんが居ましたが、部長が「ソロの発声と合唱の発声は違う。」と入団を思い止まる様アドバイス。その後、そのクラブからソプラノ、アルト、テナー、バリトンのソリストやピアノ・ハープ・バイオリンその他のプロ奏者を輩出・・・。)。年末に混声スキー合宿があり、スキーを初体験。ボーゲンすら出来ない小生を尻目に青森出身1年下のY君はストック無しで滑り、困っていた小生を何かと助けてくれました。何故、夏の合宿ではなく、遊びの方が印象に残っているのかわかりませんが、小生にとっては「これこそ市大混声に入団した価値!」と思わせるイベントだったのです。
昭和48年(1973年:市大4年)
4年生になり蒲鉾兵舎の部室に気兼ねなく通うことが出来るようになりました。床に穴が開いていましたが、練習の合間に、ギターで、「神田川」、「心の旅」、「学生街の喫茶店」その他の曲を歌っていました。10月~年末にかけてトイレットペーパーが街中から消え、地方から上京した後輩A君の「岡部さん、トイレットペーパーがなくなりそうです。」に驚いて母に頼み家にあったものを持って来て渡したことも懐かしい思い出です。
平成24年(2012年:60歳)
今回のイベントで市大混声の歴史、変遷を知りとても感激しました。このイベントを企画運営されている内田OB会会長ご夫妻、会場確保を始め様々なことをご提供下さる鏑木さん、イベント情報等タイムリーに提供・サポートなさる三枝君、「夢見たものは」の指揮を始め飲み会アレンジ等細かいご配慮を随所に見せる星君、指揮者の大和田さん、松原君、井上君その他全ての幹事の方々に尊敬と感謝の念を表して筆をおきます。市大混声と共に自分はとても良い時代を生きて来た気がします。この流れを現在そして将来の市大生が繋いで100年を迎えることを願ってやみません・・・と遠大な希望ですが、2月のメモリアルコンサートでは、感謝を込めて、心を込めて(感激の余り泣かないように・・・)歌います!勝手な思いのたけと長々と書いてしまい誠に失礼しました。