◆◇◆エピソード投稿1980年代◆◇◆

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【投稿コーナー】

〈投稿記入例〉
19XX年卒、Sop.△山◇子
私が在団していた当時、あんなことやこんなことがありました。楽しい思い出です。

 1983年卒、Ten.三枝 裕
私が学生の頃、エレファントマンという映画が話題をよんでいました。
そんな折、我が大学の八景キャンパスに、目の箇所だけに穴を開けた紙袋を頭からかぶり、エレファントマンさながらの男が現れました。
彼は、混声合唱団の団員で、キャンパス内でバイクで転倒し、顔が腫れあがったためそのようないでたちをしていたのでした。
※元気かい?、W君。

もう一つ。
私が3年の時と思いますが、卒業式で混声合唱団が校歌を歌うことになっていました。
ところが、当時の学指揮がいつまでたっても現れません。彼は前日に相当飲んでいたようでした。
卒業式が始まっても現れないため、我々は副指揮者の棒で校歌を歌いました。
学指揮は卒業式が終わってからキャンパスに現れました。
彼は何事もなかったかのように、卒業生とともに、みんなでその夜も飲みに行きましたとさ。

 1984年卒、Ten.和田 修一(エレファントマン)
はい、元気です。
そんなこともありましたね・・・
※あのバイクはどうなってしまったのでしょう?、I君。

 

 1990年卒(たぶん。ひろいと一緒)、Alt.岩崎 美紀子

11/5の練習で、ひろいが「部室の移り変わりについては私たちの年代が
書かないといけないんじゃないの~」と大きな声でつぶやいていたので、
忘れないように書いておきます。

入学したとき(たぶん1986年)の部室は、II講の先の古い木造平屋でした。
部屋の奥の床が陥没していて「立ち入り禁止」区域がありました。
日本軍の弾薬庫だったという噂がありましたが、本当だったのでしょうか?
サークル棟建て替えのため、仮設プレハブ部室に移ったのは1年の秋だったか?
旧部室で学祭の準備をした記憶が無いのでたぶん間違いないでしょう。
仮設サークル棟はグラウンド奥の山沿いに並んでいました。
仮部室も新部室も「部室で練習をするから」と交渉して広いスペースと
ひな壇を獲得できたのはサークル棟委員をしていた小野先輩(Bass.)の功績
だったような気がします。
新部室に移ったのは何時だったのだろう?引越し荷物はどうやって運んだの
だったかな?全然覚えてないです。
新部室が広くてピカピカで、別棟に大きな倉庫も確保できて嬉しかったのを
覚えています。「住めるレベル」と言って、つかさくん(佐橋くん)が一時期
泊り込んでいませんでしたっけ?

そういえば、小野さんはその後、留学して帰国したときにはBass.からTen.
に変声していたという話もありましたね。
 

1981年卒 Ten. 鞍田 透

夏、合宿では近所の沼や湖でボートをこぐのが恒例でした。
2~3人ずつ気の合う仲間と手こぎのボートに乗り込んで、
真昼の水面にギッチラコォとこぎ出していきます。
白い雲に涼しい風、上流階級の避暑気分に浸って、いられるのもしかしツカの間、
やがて・・・岬の影にひそんでいたならず者たちが目的ありげにやってくるのです。

はじめて合宿にいった夏、僕の手には緑色に透き通った水鉄砲がきらめいていました。
うす白いふたをはずしてつめたい湖の水につけると、
ピコピコピコッとあぶくとピコットさんが出て、凶悪な兵器に実弾が装填されていきます。
おりしも、貴婦人を乗せた船がうまうまと岬の向こうにあらわれました。

最初の獲物には慎重に近づきます。
「やぁ、みんな、うまくこげてる?」
「ええ、涼しくてとても気持ちいいみずうアプッ!!」
主砲命中、両手で連射しながら一人ずつ水祭りにあげていきます。

数隻、やっつけて  まわりが広々としてきたところで、
持ってきた怪獣プラモ「グジラス」に水中モーターをつけて遊びました。
湖に出没する怪獣グジラスの勇姿、教養人ならわかっていただけますでしょう?

日も傾いて帰り道、貸しボート屋さんの近くの水面には、
復讐に燃える連合艦隊が待ち構えていました。
包囲殲滅戦の教科書通りの展開で、
「まて、桶を使うのは南極条約違反ワブッ!!」

アア涼しかった。
(この物語は事実に基づいたフィクションです。)

 

1989年卒 中川なおみ(Alt.

 

載せられるかちょっと微妙かも…

 旧部室で練習していたので、確か1年の時だったと思います。
団にアルバイトの依頼がありました。
「慰霊祭でアヴェ・マリアを歌って欲しい。」
報酬もそこそこだったか団としてもお引き受けすることに。
しかし後日、詳細打ち合わせをしてきた某先輩が言い出しにくそうに「実は…」
思いもよらぬ物を慰霊することが発覚。

当日、赴く先は芝の増上寺。
白黒の定演衣装に身を包んだ我々の目前にそびえる「供養塔」に一面にはりついているのは…たくさんのお古のブラジャー達。
有名下着メーカー「トリンプ」のブラ供養キャンペーン~たんすの奥に眠っている古いブラジャーを新品と交換!とかそんな感じの~の最終段階だったのです。
本社?のお偉いさんだかの英語のスピーチの後、読経が始まります。
供養塔に火がかけられ、我々のアヴェ・マリアの後「今、ブラジャーの魂が天上にうんたらかんたら」と効果音が入り、
シャボン玉が飛び交います。関係者一同とにかく大真面目で、とても笑ってはいけない雰囲気。
気を紛らわす為か「何色が何枚…」とか数えている団員も。
すべてが終了するまで、精神的にとてもくたびれたのを覚えています。 

「テレビ放映されます」と聞いてからしばらくたって、今はなき
11PMで供養塔がメインの画像のバックに歌声が流れていたような。
「こんな経験、二度とないよね~。」と団員達で話していました。

後日、トリンプからお礼状と共に大きめの段ボール箱が部室に届きました。
中には新作のショーツがぎっしり入っていました(勿論女性用)。
団員で山分けしました。

 1981年卒 Alt.奥山(辻村)郁子
「当たって砕ける」
先日のOB会で思いがけない記録を目にして瞬間、赤面した。創部五十周年の記録の中に学生指揮、副指揮の欄に自分の名前を見つけたからだ。混声での活動の中で最も消し去りたい記憶の一つだからだ。幸いにして定演等の公の場で振ったことがなく、今のようにデジタル機器の普及した時代でもなかったから、殆どその証拠は残っていない。ごく稀にその当時を知る面々からからかわれることはあるけれど、その記憶は遠くなるばかりだった。このような駄文を書かなければ…。にもかかわらず、その記録を見、消し去りたい記憶を思い出したばかりにこんな文を書く。--馬鹿なことをする--
市大に入った当時、サークル活動などする気は全く無かった。混声に行ったのも同じ仏Aのタヌちゃんに誘われたからに過ぎない。中・高時代に女声合唱部に入っていたが、その人間関係に疲れ、逃げるように退部したのだ。もう自らすすんで煩わしいことに首を突っこむ気にはなれなかった。ただ断る口実を思いつかないばっかりに見栄を張って経験者ヅラをしてしまったのだ。これが「命取り」だった。
当時、四年生は女性が多かったものの、三年、二年は紅一点状態で、混声の存続の為にも一年生女子の獲得は必須命題であった。--と後に知った。-- 一歩部室に足を踏み入れたその瞬間から殆どキャッチセールスにとっ捕まったようなものだった。断る口実を考える暇もなくタヌちゃんともども気がついた時には「一年生部員」の一人として仕立て上げられていた。当時の内田部長の手腕であった。
だが思いがけず入部してしまった当初、当惑することも多かった。自分一人ならもちろん、誘われても今までなら断っていたハイキングなどの体育系行事にまで半ば強引に誘われたのだ。事実そういう行事では間違いなく皆の足を引っぱっていた。それでも当然の如く誘われ、参加させられているうちに、苦手なものでも避けて通らずにやってみると案外楽しいものだと思えるようになっていったのだ。「やってみて無駄なことはない」そう思えるようになっていた。
二年次の終わり、来年度を考える頃には、この混声で何かやりたい、と思うようになった。小学校時代から声が小さいことが劣等感になっていたのが、女声、混声と合唱を続けて発声法を手に入れて、人前で意見が述べられるようになった。このことを混声で生かしたい、と考えたのだった。その結果が学生副指揮者だった。リズム感が悪いのはピアノの経験から分かりきっていた。棒なんか振れっこない。それが分かっていながらの副指揮者への立候補だった。事実振れなかった。どんなヘタな踊りよりも私の指揮はヘタで噴飯ものだった。たぶん熱意以外の何物もその棒は語らなかったに違いない。今となってはその「熱意」だけで振れない指揮者を許してくれた団員に感謝するのみだ。だが大したこともできない、振れない指揮者は重かった。--馬鹿なことに挑戦してしまった。-- 悔恨と共にその事実を記憶からも記録からも抹消したかった。
当たって砕けろ、と諺に言う。だがこれを最初に言った人は後のことまで考えて言ったのだろうか。見事なまでに玉砕してしまった私は疑問に思う。だが忘れ果てていた記憶の糸をたぐってみると存外、悪い経験ではなかったのではないか、と気付いた。どうせ大したことはできないのはお互いさま。馬鹿なことに力一杯挑んで 馬鹿を見るのも一興だろう。混声合唱団では恥ずかしいエピソードも多々あるが、「一生懸命バカをする」意義を学んだのが最大の収穫だったのではないだろうか。--こんな駄文を書かなきゃバカなことがばれずにすむのに馬鹿なヤツ--

1983年卒 Sop.渋谷則子
混声に入ってはじめての春休み。高校時代の友人(つまりよその女子大生)を部室にさそい、誰もいないのをいいことに3人でストーブを囲んでいました。
そこに入ってきたのがテノール同級生の某氏。何のためらいもなく女性3人の話の輪に入り、4人でストーブを囲むことに。
その中に立教のグリー(女声)がいたのがきっかけで彼は立教のカレッジソング(St. Paul's)の楽譜を入手し、やがて市大混声の男声達は色々な大学の校歌を次から次と歌うようになっていったのです。
まだ国大とのジョイントも決まっていなかった頃の話です。

 1983年卒 Ten.三枝
渋谷さんの投稿を受けまして…。
当時、立教大学カレッジソング、慶應義塾大学塾歌、同志社大学カレッジソング、東京大学運動会歌などをよく歌って遊んでいました(男声です)。
あるイベント(寮歌祭)の控室で、東京大学運動会歌を歌って遊んでいたら、同じイベントに参加していた東京工業大学の人たちが、東京大学コールアカデミーが来ていると思ったそうです(コールアカデミーはそのイベントには参加していませんでした)。

 1981年卒 Alt.青木(天野)洋子
私がいたころの混声・・・目をつぶると浮かぶのは・・・
崩れそうな部室(床がふやふやして抜けそうだった)、のら猫(部室で子猫がうまれた)、学祭の時期の銀杏のにおい(銀杏を拾い集めて、中身を学祭で売っていた)、

実は私は、最初隣のギター部の部室を訪問しました。しかし、ギター部では「ここはギター教室ではありません」と言われてしまい、隣の混声の部室へ行ったら、ほかにも入部希望の女子がたくさんいて、大歓迎され入部しました。
真沙子ちゃん、直子ちゃん、たぬちゃん、せっちゃん、辻村さん、板倉さん、ひとみちゃん、洋子ちゃん・・・
一挙に女子がこんなに増えて、喜ばれました。

1年生の定演では、「土の歌」を樋本さんの指揮でうたいましたが、女子たちは「かみなりだ~いなずまだ~」という歌詞が、もうなんだかおかしくって笑ってばかり、樋本さんに、「声が出てないよ、顔見ればわかる」とか言われました。
先日の練習で、現役3年生の中山さんが「大地讃頌」を指揮されたんですが、あのころの樋本さんと重なって見えました。

夏合宿ではどこかの湖のボートの上で、「真昼の星」を各パート一人ずつの4人で歌い、本当にきれいにハモったの。
4人は誰だっけ?ソプラノは直子ちゃん、アルトが私で、テナーの青木さんと、ベースは小沼君だったかな。感動しました。
その合宿ではカップルがなんかもめごとしたのかな?夜中になんか話し合いとかやっていたのかな?
あのころのカップルはジグソーパズルみたいに、はめたり崩したり無理に置き換えたり、まあ、若者はそんなもの?

4年の時の定演で「島よ」のアルトのソロのところを歌わせてもらいましたが、お客様のアンケートに「ソプラノのソロは良かったが、アルトはいまいちだった」と書かれました。全くその通り、その時のソロはそれでも、「練習した中では一番良かっ た」と鏑木君が言ってくれて、私もそう思ったし、むしろ「やった」って感じで、舞台で歌うのが好きになったと思います。

大学時代を混声で合唱に出会い、大好きになり、今に至っています。
市大混声の皆さんには、心から感謝しているし、いろいろな思い出は大事な宝物です。

 

最終更新:2012年01月15日 11:50