◆◇◆エピソード投稿2000年代◆◇◆

※ワープロ同様に入力してください。

※投稿の最初に卒団年とパートとお名前を記載してください。

※前に入力されている分は消さないようにご注意ください!

▼入力について▼
●投稿(編集)するには、上部にあるメニューバーの「編集」をクリックして、開いたメニューの一番上の「このページを編集」を選んでいただくと、この文章に続けて入力できる画面が開きます。
●投稿の中の改行はShift+Enterでしてください。Enterのみで改行すると、上記の※注意書き3点のように行間が広く空いてしまいます。ただし最後は次に投稿される方のために、お名前を記入した後はEnterのみの改行をしてから終えてください。
●投稿を終えるには、編集欄の上または下にある「ページを保存」をクリックしてください。内容が保存されて閲覧画面に戻ります。
●次に投稿する人は前の投稿の次の行から書き始めてください。

よろしくお願いします。

【投稿コーナー】

〈投稿記入例〉
20XX年卒、Sop.△山◇子
私が在団していた当時、あんなことやこんなことがありました。楽しい思い出です。

<94卒平山から質問>
(1)2005年の第38回定演から「部長」ではなくて「団長」表記になってますけど、この名称変更の理由ってなんでしょう?(江花君からです)
(2)2007年の第40回定演のプログラムからはわからなかったのですが、ステマネってどなたでしたっけ?あと顧問の先生が小川先生から山根先生に移っていますが、2007年はどちらの先生だったんでしょうか?

→09卒中川がご回答申し上げます。
(1)当時の定演パンフレットチーフにも確認しましたが、特に深い理由はないとのことです。
 合唱“団”だから“団”長になったのではないか…とのことです。
(2)確認したところ、2007年の第40回の定演のステマネは渡辺靖之さんでした。
 また、顧問の先生は山根先生だったとのことです。

 

2002年卒、Sop.上野華奈(旧姓 向井)
私が入団した1998年。この頃の雰囲気は、一言でいえばアットホーム。
楽しく歌い、練習後は、八景近くの「エスポワール」か「クレオール」で、
どんぶりに入ったリゾットやピザを食べながらおしゃべり。
練習でない日も部室にたむろし、一部の者はカードゲームにいそしむ日々。
このゆるーい雰囲気は、愛すべき部長・京島さんと、優しい指揮者・杉田さんの代が醸し出していたものと思います。
特に京島さんの甘党ぶりは最高。
「横浜駅周辺アイスショップ7件めぐり」したり、
京島さん卒業時の女声追いコンは、部室でホールケーキ3つを囲んでカレースプーンでぱくり!

翌1999年は人数不足が激しく、現役14名、うち女性5名。。
定演にはOGのめぐさん、いずみさんに参加協力していただきなんとか開催。
定演ディズニーステージの作り込みは楽しかった。
ミッキーミニーにアラジン・ジャスミン姫、短パンのピノキオ。
裕子さんお手製衣装のパーフェクト白雪姫を囲む、小人たち。
そしてプルートのふーじーさん(=犬きぐるみパジャマを着ただけ)(笑)

2000年になる瞬間は、市大混声有志、国大混声有志、他が集まりテレビ神奈川のミレニアム記念番組に出演。赤レンガ倉庫の前から生中継で歌いました。
終了後そのまま部室に直行し、おしゃべりで夜を明かし、日の出を見ようと野島公園に向かったが、ついたころには明るくなっていた・・

2000年(3年次)の自分は副部長、会計、定演マネ、ソプラノパトリの両立。
パンフ奥付に名前かかれすぎ!!(第35回パンフをご覧ください)
それでも、パート比率の偏りはあったものの後輩も無事に加わって、これで安泰かと思ったのに・・・

2001年。
人数不足、予算不足に加えて意見の相違。
私は就職活動を挟んでいたこともあり、最終決定の経緯は分からないのですが、夏ごろに大野先生のご指導が終了することとなりました。
そして、責任をとると言って辞めてしまった3年生や2年生たち・・

この年から2年間、市大混声は定演がありませんでした。
私は、卒団定演を経験していません。
胸に花を差して舞台に立てないと分かった時はさびしかった。

それでも残ってくれた、千葉くん、曜子ちゃん、もーり(森谷さん)、信子ちゃん。
千葉くん運転するワゴンで峠を超え、5人で出かけた南房総追いコン旅行はいい思い出です。

史上最少人数の部員を残し、申し訳ないまま卒団しましたが、、
だからこそ、その後リセットされた合唱団を復活に導いた千葉くん達と、
今元気に活動している現役の皆さんには感謝の気持ちでいっぱいです。

長文失礼いたしました。

 

 【2007年卒、Bass. 江花晃司】
「はこね学生音楽祭」
僕たちの世代における市大混声の主な活動のひとつに、はこね学生音楽祭への参加がありました。
これは箱根町が主催している学生向けの合唱コンクールなのですが、全日本合唱コンクールや
アンサンブルコンテストなどにありがちな、いわゆる合唱コンクールのような殺伐とした空気は一切なく、
素晴らしい演奏やパフォーマンスを披露した団体には、他の出演者や観客から惜しみない賞賛が浴びせられる
非常に温かい空気に包まれたコンクールでした。

僕たち市大混声も、2003年(僕が1年生の時です)の第3回に初出場して以来、毎年楽しみに参加させていただいていました。
なにしろこのコンクール、上述の温かい空気以外にも魅力満載なのです!!
まず、箱根の温泉や観光地を堪能できるということ!(音楽祭は2泊3日で行くので、大涌谷観光などもしていました)
そして、審査員が服部克久先生・新実徳英先生・木下牧子先生など超豪華な顔ぶれ!!
そして何より、優勝賞金100万円!!!(笑)
こんなコンクール、他にないですよね。

このはこねへの出場、そして優勝を目指すために、毎年夏休みはほぼ返上して練習に励んでいた記憶があります。
僕たちのいた頃は下宿生の割合も比較的高かったのですが、まあみんな帰省もろくにせずよくがんばっていたなあと(笑)
どんなに温かくてもやはりコンクールなので、自由曲の選曲も難易度の高いものが多く、夏休みの集中練習や合宿はハードでした。
松下耕作曲の「狩俣ぬくいちゃ」を取り上げた年、指揮者の千葉さんは、振り過ぎで腕に湿布を貼りながらも僕たちをひっぱってくれました。

それだけ思い入れがあるはこねですから、がんばってがんばってがんばり尽くしたのに予選通過できなかったときは、心底悔しい思いをしました。
2006年に出場したときは、松下耕作曲の「三京ぬ後」と武満徹作曲の「翼」を一生懸命作り上げて挑戦したのですが、残念ながら予選敗退。
その晩、宿で見た指揮者の田村君の泣いている姿は未だに忘れられません。
また、その年は審査員の木下牧子先生からは好評価を頂けていたようで、後日木下先生から励ましのメールを頂いたのも良い思い出です。

ですが、努力が報われた年もありました。
2004年出場時には、指揮者の千葉さんが並々ならぬ思い入れを持ってコダーイの「Adventi Enek」と坂部剛さんに編曲委嘱した「箱根八里」で臨み、
見事第2位に当たる優秀賞(賞金30万円)とヤマハ賞(ヤマハの電子ピアノ)を受賞したのです!!
僕が知る限り、横浜市大混声が合唱コンクールで受賞したのはこれだけではないでしょうか。
今もときおり部室にお邪魔して箱根寄木細工のトロフィーを見かけると、当時のことが鮮明に思い出されます。

今では市大混声はコンクールに出場することはなくなってしまいましたが、練習や音楽づくりに対するひたむきさは
当時はこねに向けて練習に励んでいた頃から変わらず連綿と受け継がれていて、いえ、より一層磨きがかかって素晴らしいものになっています。
これからは藤井宏樹先生と一緒に、そのひたむきさでコンクールでは到底味わうことのできない音楽経験を積み重ね、
また新しい横浜市大混声の歴史を築いていってくれることを期待しています。

どうもありがとうございました。

 

 

2002年卒 上野華奈(追記)
2000年前後の活動状況として一部思い出したもの、当時の記録が見つかったものについて追記いたします。(連絡事項に近いです)

・関東大学合唱連盟には1999年6月の演奏会まで参加していました。
・2000年は、6月30日に横浜国大混声合唱団とジョイントコンサートを開催しました。
・2001年は、6月24日に第44回神奈川県合唱祭に参加しました。
「数十年ぶりに復活参加されました」とアナウンスいただき、むずがゆかったのを覚えています。
・うろ覚えですが、市大病院のロビーでミニコンサートを行ったことがあります。
・私の卒業後ですが、2002年11月に浜大祭、医学祭のイベントとして
「横浜市立大学混声合唱団 横浜市立大学医学部合唱部 合同コンサート」が開催されています。
学内ホールでの演奏会ですが、パンフレットに「横浜市立大学混声合唱団 部長 千葉悠平」の記載があります。
また指揮は千葉くんと宮本信子さん、伴奏は千葉竜太さん(千葉君の弟)と記載されています。
医学部合唱部との合同活動は、千葉くん、葉山さん他の尽力があったのではないかと推測します。
 

2009年卒 Alt. 中川裕季子
(実は一度書いて投稿したのですが、翌日見たら何故か私の文章がきれいに消えていたので、再度投稿させて頂きますことをお許しください)

2年生の頃だったか、同期の間でテーマカラーがそれぞれに決まったのを覚えている。
それも色だけでなく、戦隊モノのように一人ずつ個性的な名前をつけた。
あれやこれやと様々な候補を挙げながらも、みんなでふざけあった楽しい思い出である。
ちなみにどんな色と名前だったのかというと…

マイマイ…タクトレッド
コメ…モンローピンク
ゆっきー…ナチュラルイエロー
みゆちゃん…チャーミーグリーン
ゆ~ゆ(私)…マザーブルー
よっしー…ツンツンブラック

…卒業してまだ3年というべきか、もう3年というべきかは定かではないが、こうして振り返ると当時の無邪気さが目に浮かぶようである。
みんなは名前の由来を覚えているかわからないが、私の覚えている限りを書いておこう。


マイマイは同期の中でも一番合唱に熱く、戦隊モノでいう中心的な存在という意味合いと、その色が似合うからという理由で赤に。そして指揮者だったマイマイにピッタリなアイテム、タクト(指揮棒)からこの名前が決まった。なんだか一番まともで格好いい名前になった。
コメは女の子らしくお洒落だからピンク。色については問答無用で全員のイメージが合致した。そして何故かセクシーな感じを醸し出す為に、マリリン・モンローから名前をつけたらこうなった。かわいい響きの名前になった。
ゆっきーは戦隊モノの中の位置づけでも、何となくイエローでみんなの合意を得た。(私と同じく「意外と食いしん坊同盟」にも所属していたし。)そしてその天性の天然っぷりを称えて“ナチュラル”イエローとなった。
みゆちゃんはみんなを癒す存在だ!という理由で色は緑に。…そこまでは良かったのだが、気づけば某洗剤の名前になっていたという罠。しかし彼女が魅力的であることもまた事実なのでこの名前に落ち着いた。
ゆ~ゆ(私)は…自分のことなので逆にうろ覚えなのだが、色はすぐに青に決まった覚えがある。そして時折、主婦の目線で何かを語ったり、お母さんのような雰囲気を醸し出したりしていたから…この名前になった…ようなそうでないような。記憶は曖昧だが、なんだか壮大で深そうな名前になってしまった。
よっしーは戦隊モノの中でも少し外した色の黒に決まった。入部当初は3人は確実にいたはずの男声が、ついに彼一人になったのはこのころだっただろうか。同期の中で紅一点ならぬ黒一点とでも言えばいいのかわからない状況の中で、個性豊かで自由過ぎる同期の女声たちをまとめるのは一苦労だったと思う。そんな彼の髪型は当時、天に向かってツンツンと立っていた。

…由来がどれも単純かつ、くだらないと言えばくだらないが、これで合唱戦隊2年ジャー!(一年経つごとに3年ジャー!、4年ジャー!と進級した)とか、色々考えながら楽しんでいたのは今でも結構印象深かったりする。
まさに色とりどりな個性あふれる面々が同期で、とても楽しかったし、本当によかったと心から思える。

4年間、一緒に歌ったり、笑ったり、泣いたり、怒ったり、悩んだり…
色々あったが、どの思い出も今では宝物のように煌めいて見えるから嬉しい。
ありがとう。
これからもまた、機会があるたびに一緒に歌えますように!

 

 

2002年卒 上野華奈【追追記 連絡事項】
2001年(平成13年)の部長は篠山隆志さんです。>太郎さん
よろしくお願いします。

最終更新:2012年01月18日 01:15