唯先輩は笑う。
本当に嬉しそうに、楽しそうに、可笑しそうに笑う。
私の記憶の中の唯先輩は、いつもそうやって笑っていた。


先程までの雨足が嘘のように、どんよりと塞いでいた雲は疎らになり、空はオレンジ色に染まっていた。
いわゆる夕立、というものだったのだろう。
すっかり洗い流された空気は僅かな湿気をまといながらも澄んでおり、夕方の冷気とも合わさって心地よく肺を刺激してくれる。
白い吐息を舞わせながら、くるくると手にした傘を回しつつ、唯先輩はくるりと振り返って夕焼けに染まるその笑顔を見せてくれた。
なんか空気が気持ちいいねって、笑う。
それには甚だ同意ですが、どうしてあなたはまだ、もう雨も降っていないというのに傘をさしているんですか。
そう言及しても、先輩はまたくるくると傘を回しながら、ふんふーんと鼻息交じりの笑顔を返してくる。
なんか楽しいからいいじゃん、って。
先輩はそうでも、くすくす周りから笑い声がこぼれてくるこの状況は、私にとっては好ましいとは言えません。
なんて言い返しても、先輩はどこ吹く風。
とんとんと、後ろを歩く私のほうに笑顔を向けたまま、歩道の赤いタイルの上を選んで後ろ向きに器用に歩く。
あずにゃーん、そこアウトだよ?ってまるで私の話を聞いてませんね。
何ですか、それは。小さいころたまに遊んだ、決められた色のタイル以外を歩いたらダメってゲームですか?懐かしいですね。
なるべく辛辣に言ったつもりなのに、先輩の笑顔は崩れない。
朱に染まる街路樹とビルとその間の石畳、その上に散りばめられた赤の上をまだとんとんと後ろ向きに歩いていく。
手にした傘をくるくる回したまま、本当に楽しそうに、嬉しそうに、可笑しそうに。

――そんなはずはないのに。


唯先輩はいつも笑っていた。
気が付けばいつもそうだ。
だから出会ってから、高校一年のあのときから、私の記憶に浮かぶあの人は、いつも笑顔のままでいる。
元々、情緒豊かな人だから。
嬉しいときにはすぐ笑って。
悲しいときにはすぐ泣いて。
怒ったときにはすぐ拗ねて。
楽しいときにはまた笑って。
そんなふうに情動の振れが大きくて、それを体全体で表すような人だった。
そして、どんなときでもいつも最後には笑っていたから。
私の思い出の中のあの人は、いつも笑顔のままだった。
浮かんでくるのはそう、いつも笑顔。
だから、出会ってまもなくの私は、この人はいつも笑顔の人なんて勝手に属性をつけたりしていた。
甘えん坊でだらしなくていつも何も考えてなくて悩みも無いのだろうから、いつだってへらへらしているんだと。
勿論それに何かしらの悪印象を抱くわけではなく、それが唯先輩だと思っていただけだけど。
実際のところ、その笑顔に何度癒されたか、救われたかもわからなかったから。
先輩はそういう形にできているんだと、そう私は思っていた。
いつだって、笑える人なんだと。

――そんなはずなんて、なかったのに。


小さな悲鳴に我に返ると、とんとんと調子よく前を歩いていた唯先輩の体が傾いていた。
あわてて駆け寄り、手を伸ばす。
きゅっと、こちらに伸ばされた手を掴み取り、ぐっと引き寄せる。
先輩の重みが腰にかかり、傾きそうになる重心をぐっと踏ん張って支える。
そうすると、思ったよりもずっとスムーズに先輩の体は私のすぐ隣に収まってくれた。
えへへ、ありがとね、あずにゃん。じゃありませんよ。全く気をつけてください。
そういう私に、でもやっぱり先輩は笑ったまま。私の注意にも全く堪える様子も無い。
それどころか、ちょうど先輩のさす傘の下に入り込む形になった私に向けて、相合傘だね、なんて言ってのけてくれた。
それは文字通り不意打ちで、私は言葉に詰まってしまう。
確かに、唯先輩の言うとおり一つ傘の下二人並んで立つこの光景は間違いなくそう呼ぶべきではある。
お互い傘を用意していた先程までは為し得なかったものを、今ようやく果たせたという形になるのだろうか。
きっと先輩にとってはそうなんだろう。そうすると、多分今の一連の行動は計算ずくだったのかもしれない。
だって、転びそうになったにも関わらず、その傘は放り投げられるでもなく、その右手にしっかりと握られたままだったのだから。
怒るべきなのかと思ったけど、相合傘~なんて嬉しそうに笑う笑顔を見ているとそんな気も薄れてくる。
それより言及すべきなのは、さっきから私たちを包んでいるくすくす笑いがその音量を上げたところではないだろうか。
んー、大丈夫だと思うよ、なんてそれを気軽に否定してくる唯先輩。
参考までにその根拠を聞きたいところです、と赤色の傘の下私が食い下がると、先輩に。
だって、あずにゃん、今笑ってるもん、なんて朗らかに言ってのけられた。
傘に切り取られた空間の中、私と二人きり並んだまま、相変わらずのその笑顔を浮かべながら。
私の愛しい時間に必要不可欠なものを、私の記憶に焼き付けるように。


私の記憶は、いつもそれに埋め尽くされている。
唯先輩と知り合ってから、もうどれくらいになるのだろう。
直接顔をあわせたのは高校一年のときだから、もう五年にもなる。
出会ったあの時は、私たちは高校生だった。
そしてその後しばらくは私たちは高校生として過ごした。
そして先輩は卒業して、私もその後を追うように卒業して、そして今もまた変わらずにこうして傍にいる。
それは変わらない。だけど、私たちは変わっていく。
過ぎた月日の分だけ、その数えられる年の分だけ、私たちは大人になっていく。
私も、そして唯先輩も。
だけど、それでもこの人は、いつだって笑顔のままで私のそばにいてくれた。
いつだって、そう。この人はいつだって、笑ってくれていた。
だから、私はそれに気が付かなかった。
どうして、この人は笑っていられるのか、なんて。そんな当たり前のことに。
いつだって、笑顔でいられるときばかりじゃない。
子供でいられていたときと違って、悲しいことや悔しいこと、腹立たしいことなんていっぱい転がっている。
それにぶつかることなんて日常茶飯事。それが大人になるということのひとつの要素だ。
だけど、それでも。
この人はいつだって笑顔だった。
私が辛いときや苦しいとき、うかつにもそれを八つ当たり気味にぶつけてしまった時だって。この人は笑顔でそれを受け止めてくれた。
なんだかんだでこの人は器用だから、そういうことをするすると華麗に回避して、それで笑っているのかもしれない。
私が続けていた馬鹿な勘違いのように、ただこの人はそういう形にできているから、そうしていられるだけなんだと。
でも、そうじゃなかった。
そんなこと、あるはずなんて無かった。
唯先輩だって、私と同じ生身の人間なのだから。
だけど、私はそれに気付けなかった。
私はそれに気が付くことができなかった。
その笑顔が、特別だってことに。
ずっとそうだってわかっていたはずなのに、私は気付くことができないままでいた。


結局そのまま唯先輩が歩き出すものだから、私もそれに倣うように歩き出すことになった。
雨上がり、二人きり、相合傘。
まるで安っぽいコントのような、もし私が傍観者だったとしたら思わず奇異の目を向けてしまいそうな、下手したら噴出してしまいそうな光景が今私たちの周囲十メートルくらいに展開されているに違いない。
まだ高校生のまま、制服に身を包んでいたあのころなら、じゃれあいですんだかもしれないけれど。
女子大生二人組じゃ、あまりにシュールすぎる。
だけど、私は結局その傘の下に収まったまま、唯先輩と二人並んで歩いている。
今日もまた唯先輩のペースに乗せられてしまっている。まあ、そのあたりは今更もうどうこう言うことではないんだけど。
ほら、あずにゃん外れてるよ、落ちちゃうよ。なんて唯先輩は相変わらず笑う。
ああもうどこに落ちるって言うんですか、と返しながらも赤いタイルの上に復帰する私は付き合いがいいと我ながら思う。
笑いながら、思う。


本当は多分違う。
付き合いがいいとかそういうのじゃなくて、ただ私がそうしていたいだけなんだと思う。
この人の傍にいたいと、きっと私はそう思っている。
高校時代のように漠然としたそれとは違って、確かな意思として私はそれを抱えている。
だから、こうして齢二十を数えるころになっても、私はこうして唯先輩と並んで歩いている。
だから、唯先輩はいつも笑う。
たぶん、きっと、この人は知っているんだろう。
私にとってその笑顔が特別だってこと。
私が何度もその笑顔に暖められていて、救われてきて、満たされてきたのかを、知っているのだとしか思えない。
だから、この人は笑う。いつだって笑う。
私の前で、いつだって笑ってみせる。
今もこうして笑ってくれている。
私が幸せになれますようにって。
それは本当に特別なこと。特別じゃなきゃいけないこと。
だって、私にはできない。できてない。
どうして、何でそんなことを、そんなにたやすくしてのけるんですか。

――あんなことが、あったのに。

私の想像より、ずっとずっと深く傷ついて、その痛みに苦しんでいるはずなのに。
なのにどうして、今もなお先輩は、私に笑ってくれているんですか。

気付けなかった。
私は、ずっと気付くことができなかった。
そうやって、私は何度この人の痛みを見過ごしてきたのだろう。
だけど、ようやく気付けたのに、この人はまた笑う。
その笑顔を、私の前にとんと立ててみせる。
本当に何も変わらない、いつもの先輩の笑顔を。
欠片でもほころびがあれば、私はそれを足がかりにできるのに。
それをきっかけに、笑顔の裏に隠しているものに触れることができるのに。
だけど、私にはそれが見つけられない。
私の目に映るのは、本当にいつもどおりに笑う先輩の笑顔だけ。
それが偽物か本物か、見分けることができない。
ああ、きっとこの人の妹なら、それをすんなり見破ってきっとその心の内に入っていけるのに。
なんて、そういう場違いな嫉妬さえ浮かべてしまう。
本当に場違いだ。そういうことを浮かべてしまう自分自身が、情けなくて泣きそうになる。
どうして、何も言ってくれないんですか。
どうして、そうやって笑ったままなんですか。
辛いって苦しいって言ってくれさえすれば、もしくはその笑顔を崩してくれさえすれば、どんな優しさでもあなたが望むのなら私は用意して見せるのに。
あなたがもしこの全てを望むのなら、喜んで何もかも残らず差し出せるのに。
私が今まで見過ごしてきたあなたの痛みの分、それに及ぶとはとても思えないけれど。


覗いたその横顔は嘘みたいに鮮やかなオレンジに染まって、その瞳は嘘みたいに鮮やかなオレンジを映していた。
いつもどおりの、私の記憶の中にあるものときれいに重なる、唯先輩の横顔。
小さく息を呑む。
それはまるで、初めて目にするような、そんな貌に見えていたから。
そんなはずは無いのに。その象も彩も、私は何度も目にしてきたもののはずなのに。
視線に気が付いたのか、先輩はくるりと首を回して私を見る。
私の目の前で、少しその距離を恥ずかしく思ったのか、僅かにはにかんだようなそんな笑みを浮かべてみせる。


私はそれに気付いている。
私はこの笑顔が偽物だという確信を抱けている。
私はだって、今先輩が傷ついてないはずがないということを知っているから。
結果から逆算なんて、こんなに傍にいたのに本当に情けない有様だけど。
だけど、ようやく私はそれを知ることができた。
だから、踏み出すべきなんだ。
だけど、私の前に立てられた笑顔が、私の歩みを阻む。
本物にしか見えない、唯先輩の笑顔が私の侵入を未然に防ぐ。
辛いことなんて、痛いことなんて何も無いよなんて笑うから、それが嘘だとわかっていても。その言葉を切り捨てることができない。
ひょっとしたら、そう。
先輩は拒んでいるのかもしれない。
私なんかが、その内側に入り込んじゃダメだよって、拒絶しているのかもしれない。
そうだとしたら、それはとても悲しくて、寂しくて、切ないことだけど。
切なくて、泣いてしまいそうだけど。
でも、言ってしまえばそう。
それはただ私に勇気が無いだけ。
確かですらないその危惧に怯えて、足をすくませているだけ。
だから、私に悲しんでいる余裕も、資格すらも存在しない。
私にできることは、すべきことは、ただひとつだけ。
それだけとわかっているのに、だけど。
私はまだ踏み出せずにいる。
本当に意気地なしで、自分が嫌になる。
触れないことが思いやりだなんて、そういう場合もあるよねって。
そんな卑怯な言い訳に納得してしまいそうになっている自分こそが、ただ悲しい。
ただ自分が、明確にその拒絶を形にされるのが怖くて、足踏みしているだけなのに。
傷つくことが、その痛みが現実のものになるのが怖いだけなのに。
その傍に、いられなくなることが――


不意に、私の頭の上から傘が消える。
驚いて顔を向けると、そこには少し私から距離を置いた先輩の姿が見える。
三十センチから三メートル。距離を変えて、唯先輩はまだ笑顔のまま、私を見ている。
マンホールの蓋の上、傘をくるくる回しながら。
先輩、アウトですよ。マンホールはセーフだよ。
そんなやり取りの間に、私はもう別れ道に来てしまったことに気が付く。
唯先輩の部屋と、私の部屋への道。重なっていた道が、分かれてしまうその瞬間にたどり着いたことを。
ひどく象徴的だと思ってしまう。
そう思ってしまった自分に、私は激しい憤りを覚える。
だけど、じゃあどうすればいいのと自問すれば、私は答えることができない。
だから、私はただそこに立ちすくむ。
そんな私に、唯先輩はじゃあねって笑いながら小さく手を振ると、くるりと踵を返して、私に背を向けて歩き出した。
赤い十六角形を揺らせながら、すらりと伸びた両脚を動かしながら、私から離れていく。
私は、ただそれを見送る。
まるでまだその赤い羽根の下にいるかのように、そこから出てはいけないんだと思い込んでいるかのように、立ち尽くしたまま。

その先の交差点、後姿は立ち止まる。
くるくるとまた、傘が回り始める。
相変わらず赤いタイルのうえを歩いていたその足は、今はマンホールの上。
その上で、立ち止まっている。
だから、たぶん信号は赤なんだろう。
あの傘の向こう側、きっと信号は赤く光っているのだろう。

だから、あの傘の向こう、先輩はきっと――


だから思う。
きっと、違うんだと。
拒絶なんて、そんなわけない。
あの人は本当にただ、それを隠していただけなんだろう。
くるくる傘を回して、その中に納まっているように。
その切り取られた空間の中に、入り込んでしまっているように。
ただその心を、その内に。
私に知られないように、心配させないようにしながら。
私のことを思ってくれていた。

私は良く知っているはずだったのに。
唯先輩がどんな人か、なんて。
やわらかくて、暖かくて、そして優しい人。
何度もそうやって、私を救ってくれた人。
唯先輩は、いつも私にどうしてくれていたか、ただそれを思い出せばよかった。
唯先輩はいつも笑っていた。
だけど、笑っていてくれただけじゃない。
いつも私のことを抱きしめてくれていた。
ぎゅうって強く、ぬくもりを分け与えるような優しさをこめて。
だから、それがきっかけだった。
いつもそうしてくれていた先輩は、今この瞬間に至るまでそうしてはくれなかった。
だから、つまりそういうことなのだと思う。
そういうことにして、いいんだと思う。
ひょっとしたらそれは、意気地なしの私に向けた、唯先輩からの精一杯のメッセージだったのかもしれない。


私は駆け出す。
その赤い後姿に向かって。
全力で。一秒だって惜しむ勢いで、ただ、速く。
一刻でも早く、空いてしまったこの距離を埋められるようにと。
私と先輩に一番ふさわしい距離へと位置へと私と、そして先輩を戻せるように。

唯先輩。
あと数歩、呼びかけた私の声に、先輩はびくっと体を震わせて、振り返る。
ふわりとその手から傘が舞い落ち、地面にとんと軽い音を響かせる。
そうして振り返った先輩は、本当に、私が想像したとおりの顔をしていたから。
だから私は何も言わず、ただそのままの勢いで、強く強く抱きしめた。

なんであずにゃんがここにいるの、と唯先輩は震える声で尋ねてくるから。
走ってきたからですよ、と私は答えてあげる。
じゃあねって言ったのに、と続けるから。
そういったのは先輩だけです、と返してあげる。
見られたくなかったのに、とあなたは呟くから。
見せて欲しかったんですよ、と私は囁く。
その耳元で優しく、ようやく見つけられたその姿をもう離さないように。
あなたの笑顔が大好きだから。
何度も何度も私はそれに救われてきたから。
だから、私にその笑顔を守らせてください。
あなたの一番傍にいさせてください。

ゆっくりと、私の背中に腕が回る。
ぎゅっと、私の体が抱きしめられる。
数年ぶりに聞くその先輩の声が鼓膜に響く。
声を上げて、小さな私の胸に顔をうずめたまま、唯先輩は泣く。
その痛みに私の胸も同じだけ痛んでくれればいいと、その分だけ優しくなれればいいと、私は願う。
だから、私は小さく微笑んで、今まで言えなかった言葉を小さく囁いて、その体を抱きしめた。
この距離が私たちにふさわしい距離なんですよと、あなたに、そして自分に思い知らせるように。
優しく、そしてひたすらに強く、抱きしめた。

(おしまい)

元ネタ:BUMP「ウェザーリポート」


  • 待ってたんですよねきっと…。ゆいあずの深くそして重い面を垣間見させていただきました…… -- (名無しさん) 2010-12-29 08:27:56
  • ??? 完走感しか残らなかった -- (名無しさん) 2011-01-08 12:44:49
  • やっぱりウェザリポだったんだ^^ -- (名無しさん) 2011-01-08 13:21:50
  • 割と読み手を選ぶけど、好きかな。想像の余地があるのがいいね -- (名無しさん) 2011-01-08 14:05:58
  • この曲が大好きになった。これが唯梓パワーか -- (名無しさん) 2011-01-10 04:54:59
  • そんな気したが、ウェザーリポートだったんだ…この曲、マイナーだけど好き -- (名無しさん) 2012-11-15 00:26:42
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最終更新:2010年12月25日 19:54