鍵穴に鍵を差し入れゆっくりと回すと、かちりと言う小気味のいい音とともに錠が外れる。
 日々繰り返す半ば儀式じみたその行為は、つまりこの扉が区切る空間が自分のものであるという事を確認するものでもあるのだろう。
 何故か、普段は素通りしてしまうはずのそのプロセスに対して、私はそんな新鮮さを帯びた感想のようなものを抱いてしまっていた。
 扉を開けると、5センチほどあけられたキッチンの窓から仄かに洩れ出していた甘い香りが、より濃厚さを増して鼻腔にこびりついてくる。
 そういえば、今日はクリームシチューとかメールが来てたっけ。
 そんな事を思いつつ、後ろ手に扉を閉め鍵をかけながら、踵をすり合わせるように革靴から足を引っこ抜くと、私の趣味ではない、だけどかわいらしい玄関マットに両足を乗せた。

「ただいま」

 そして、小さくそう告げる。
届かなければそれでいい。そう、思う。もう幾度となく繰り返したはずの光景ではあるはずなのに。
 どうしてだろう、今はどうしてか、それを気恥ずかしく思ってしまっていた。
 パタパタとスリッパでフローリングを叩く音を響かせながら、ミルクをたっぷり入れたホワイトクリームシチューよりずっと甘い匂いのするあの人が――

「おかえり、あずにゃん

 私が以前おひさまのようだと口にしてしまった笑顔で、私の帰りを迎えてくれることが。

「唯先輩――」
「んぅ?唯先輩だよ、あずにゃん」

 見蕩れた、という表現がおそらくそのときの私にもっともふさわしいのだろうと思った。
 ライトグレーのスウェットを黒猫をあしらったエプロンで包み込み、小さく小首を傾げてみせるこの人の――唯先輩の前で。
 私は馬鹿みたいに、本当に馬鹿みたいに呆けて、ぼんやりした眼差しのまま立ち尽くしていた。

「ほぅら、あずにゃん。いつものようにこの胸に飛び込んでおいでなさい!」
「……な」

 そんな私ににへらっと、まるでそれまでがいつもの一連の習慣だとばかりに、先輩は両腕を広げて見せる。
 そこでようやく私は我に返ることができた。

「その言い方だと、いつも私がそうしてるみたいじゃないですか!」
「ふふ、でも違わないよ、あずにゃん」

 私の抗議にふわりと柔らかな笑顔を返す唯先輩。何が違わないというのかと問い返そうとして、その答えがすぐ鼻の先まで近づいていることに気が付いた。

「ほら、こうすれば結果は同じだしね」

 私の頬に柔らかな頬がぺたりと吸い付き、同時に背中に回された手のひらがぎゅうっと私をその体へと押し付ける。
 ふよんと、私からすると嫌がらせかと思う柔らかな触感とともに形良くエプロンを押し上げていたふくらみが押し当てられるままに形を変える。
 そしてそこを一番の圧力として、服越しにでもわかる柔らかでだけど余分な肉付きのない心地よい感触が私の上半身前面を覆う。
いつもよりほんの少しだけクリームの匂いを交えた香りが嗅覚を介して私の脳髄辺りに甘い痺れを生じさせる。
 おかえりあずにゃん、と言う声が再び、私の鼓膜に一番近いところでくすぐるように優しく響く。

――抱きしめられている。

 いつものように――帰ってきた私を出迎えるとき、帰ってきた先輩を私が出迎えるとき、常にそうしてくれるように。
 だから確かに、結果は同じということになるのだろう。
 いつもそうするように、私の腕も自然とその背中に回っていたのだから。

「えへへ~」

 ほら見てごらん、と言わんばかりの笑い声が耳元で響くから。
 少し悔しさを交えた私は先輩がそうするよりずっと強い力で、その体を私の体へと押し付けてあげた。
 おふぅと少し情けない声がその肺から漏れて、こうさんこうさんとさらに情けない声が響くけれど、力を緩めてあげる謂れはない。
 小さな苦笑とともに、抱擁を私に任せたのか、先輩の手のひらは私の背中から離れ、そして優しく私の頭を撫でた。

「あずにゃん、冷えてるよ」
「外、寒かったですから」
「そうだね、今日は寒いよね」

 ああ、そうか。
 そう、私は気付く。
 きっとそのせいだろうと。
 季節外れの冷え込みを見せた今日。まるで木枯らしのような春風に、季節どおりの装いしかしていなかった私はすっかり冷やされてしまったから。
 だから、そう。
 そんな私を温かく迎えてくれるこの人がいる事を、私はとても、とても――幸せなことだと思ってしまったんだろう。
 あずにゃんをたくさんぎゅっとできるからね、なんてそんなわけのわからない理由で半ば無理やり私とのルームシェアを決めてしまって。
 押し切られる形で私の隣でにへらっという擬音とともに笑うことを当たり前にしてしまったこと。
 部活とそして私に与えられた特別なシーンにおいてだけ、その傍にいられた時間を私の日常としてくれたことを。
 冷え切った部屋が暖房で暖められるまで凍え続けることもない。
 私を一番暖めてくれるそのぬくもりは、私が望む前に私のすぐ隣にいてくれる。
 ぎゅうっと私を暖めてくれて、そして暖めてもらうことを許してくれる。
 そのぬくもりは私の皮膚を通して私の体の奥まで――私の心と呼べるところまで到達して、そこを起点として連鎖的に生み出された熱は私の体中を駆け巡り、埋め尽くしてしまう。
 そうして与えられるすべての感覚が、私に思い知らせてくれる。
 幸せ、なんだと。
 覚えた気恥ずかしさと新鮮さは、きっと今更ながらにそれを自覚してしまった故なんだろう。
 本当に今更だと、思う。
 今更過ぎて、私は思わず小さく笑みをこぼしてしまっていた。

「唯先輩」
「なぁに?」
「私、幸せです」
「私も幸せだよ」

 淀む事もないままに即答してきた唯先輩にとっては、きっとそれは当たり前のことだったんだと思う。
 だから、本当に。どうやら私は、今まで散々否定してきた自分の鈍感さを、遂には認めないといけなくなってしまった、ということなんだろう。
 そのやり取りを契機に、くいっと肩を押して私から離れた唯先輩は、またそのおひさまのような笑顔を私に見せてくれた。

「おなかすいてるでしょ。シチュー、食べよっか」

 そう言って、本当に無造作に私の頬に唇を当てた唯先輩は、踵を返すと軽やかな足取りでダイニングの方へと消えた。

 それは――いつもの、じゃないですよ。

 急激に熱を帯びた頬に手のひらを当てながら、私は呆ける。

「唯先輩めー……」

 どうやらここぞとばかりに、あの人は。私にその鈍感さを思い知らせる腹積もりに違いない。
 シチュー食べ終わったら、覚えておいてくださいね、そんなまるで負け惜しみのような独白を浮かべながら私は、きっと。
 誰が見てもまるで結婚式直後のような幸せいっぱいの笑顔を浮かべながら、甘い香りに満ちるダイニングへと足を踏み入れた。


  • いい唯梓でした -- (鯖猫) 2012-11-20 01:57:47
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最終更新:2011年03月23日 23:01