「さむっ」
 鈍く広がる曇天の下、梓は歩き出した。昨日までのうだるような残暑とは一転して、冬かと錯覚しそう
なほどの冷たい空気に、ついつい声を漏らしてしまう。手袋かマフラーを持ってくればよかった、とも思
ったけれど、今から取りに帰るとぎりぎりで遅刻してしまうかもしれない。なんとなく、あの人のことが
脳裏をよぎる。思わず口が緩んだ。寒さは我慢しようと決めて、いつもどおりの通学路を梓は進んでいく。
 視界が開けてきた。ここまで来ると、ちらほらと他の桜高生の姿も見えてくる。同じ赤いリボンの顔見
知りに会釈しながら、さてあの人はと梓は辺りを見渡した。いつもの道の、いつもの場所。のんびりほわ
ほわふわふわの、あの軽音部の先輩は、今日もここを通るだろう。毎日と言うわけではないけれど、だい
たいにおいて梓と彼女はここで合流していっしょに登校している。……合流というより、あの人が一方的
に抱きついてくるのだけど。
 素肌のままの手のひらに息を吹きかけ、まだかな、としばらく立ち尽くす。そろそろ行かないと間に合
わないかも、という時間になって、ようやくその人は姿を現した。
「唯センパ……」
 近づきかけて、梓は立ち止まった。
 唯の隣に、憂がいた。ピンクのマフラーを二人で分かち合って。
 よくある光景だ。あの姉妹はとにかく人にくっつきたがるし、それを差し引いても仲がいいし、これま
でだって何度もああいった場面には遭遇した。ういー、なんて声が聞こえてきそうだ。それに応える、お
ねえちゃん、なんて声も。
 特別じゃない、平沢唯と平沢憂の朝のひとこま。
 なのに。
 だけど。
 だから。
 不思議と、近づけなかった。

 踵を返して、梓は学校へと一直線に向かう。呼びかけた名前はとうに冷たい空気に霧散してしまってい
た。最後の一文字を飲み込んで、梓は歩いていく。
 その顔はどこか浮かない。
 唐突にやってきた秋は、むしろ冬に近くて――。



「あー、おなかすいたーっ!」
「純、だらしない」
「こういう日って、なんか疲れちゃうよね」
 昼休み。 午前の授業の終わりを告げるチャイムと同時に、純の机に梓と憂が集まった窓の外には相
変わらず灰色の雲が広がり続けている。かといって雨を降らすわけでもなく、ただ薄暗さが校舎には漂
っていた。どことなくしけった空気に、つけられた明かりは少し強すぎて、ちぐはぐな空気が教室には
漂っている。
 うー、とうなり声を上げながら、純がパンを開封してほおばった。
「んー、コンビニの味ですなぁ」
「そりゃそうでしょ、コンビニのパンなんだから」
「わかってるけどさ。あー、カロリー大丈夫かな。こういうの絶対高いし」
「気にするならしっかり計算すれば?」
「言ったでしょあたしそういうの苦手だって」
「威張るとこじゃないでしょ、そこ」
 軽口を叩きながら梓もパンに口をつける。なんとなく憂とは話しづらくて、ついつい純にばかり話し
かけてしまう。傍からすると普段どおりかもしれないが、憂は気づくだろうか。そんな自分の思考を自
覚して梓はひどく嫌な気持ちになった。どうしてこんなことを考えてしまうのだろうか。朝の景色が頭
をよぎる。胸が少し、軋んだ。
「でもさー、憂はすごいよね」
「え?なにが?」
「お弁当。毎日二人分でしょ? お姉さんと」
「う、うん。別にそんな、すごいって言われちゃうと……なんか、恥ずかしいな」
 はにかむ憂を、梓は素直に見ることができなかった。きっと、唯においしいよ、と言われたときもこ
んな表情をするだろう。そして笑顔が返ってくる。それがなにより憂は嬉しくて、だから毎朝張り切っ
て。そんな毎日だったらきっと誰だって楽しい。あの人の笑顔には、そういう力があるのは梓もよくわ
かっている。
 そこで、ひとつの言葉が思い当たる。
 ……ああ。私、憂のことがうらやましいんだ。
「……梓ちゃん?」
「う。なに?」
「なに、じゃないよ。ボーっとしてさ」
「ああ、うん。憂ってすごいなーって」
「もう、梓ちゃんまで……」
 けなげな奴めー、とからかう純と、やめてよー、と照れる憂に、梓は少しだけ距離を感じた。手元の
パンはすっかり冷めてしまっている。はむ、とほおばる。繊維の味が消えていく。
 苦かった。

 午後の授業の間、梓はずっと上の空だった。うらやましいという気持ちだけがぽん、と心においてい
かれてしまっていて、どうすればいいのかわからない。確かに憂のことがうらやましい。それはわかっ
た。そして、朝に感じたのもきっとそれだ。だけど、どうしてうらやましいのか、そしてこの気持ちを
どうすればいいのか。ということについて、まったく当てがない。
 頬杖をついてくるくるとシャーペンを弄びながら、窓の外を流れる雲を見るふりをして、窓側の憂を
見たりもする。まじめに授業を聞いているその顔は、改めてあの人と瓜二つで、もしあの人がポニーテ
ールにしたらきっと憂と見分けがつかないだろう。もしかすると二人で髪型を変えてみたりなんて事も
したのかもしれない。そっくりだねー、なんて言いあってたのかもしれない。自分の髪型を思う。長め
のツインテール。どうやっても、あの人には近づけなさそうだ。ため息がこぼれる。
 ノートを取る憂に、いつの間にかあの人の姿を重ねていた。まずは授業を聞いて……さっそく怪しく
なってきた。額に皺が寄っている。はぁー、と大きく息をついて、机に突っ伏した。は、はやい。もう
眠ってる。 ……なんて。そもそも、あの人と同じ教室で、同じ授業を受けたことすらないのに、なん
となくそんな姿が目に浮かぶ。そのくらい、あの人のことばかり梓は追っていた。
 「…?」
 あまりに長く見すぎていたからだろう、視線に気づいた憂が梓を見返してきた。途端に恥ずかしくな
って、なんでもないとかぶりを振って黒板のほうを向く。相変わらず授業は右の耳から左の耳へとすり
抜けて、早く部室に行きたいなあ、とだけ梓は思う。
 曇天は、窓の外に悠々と広がっている。



「梓、なんかあった?」
 授業を終えて憂と別れ、部室へと向かう梓に純が尋ねてきた。
「授業中、ずっとぼーっとしてたでしょ」
「うん、大丈夫」
「どう大丈夫なのよ…」
 あきれてつつも心配してくれるくれる友人を、心底ありがたいと思うけれど、今回ばかりは言い出せ
ない。だいたい誰に言おうにも、自分の中で整理がついていないのだし。
「いいの。うん」
「そっか」
 深く追求せずに、何かあったらいいなよ、とだけ残して純はジャズ研へと向かった。照れくさくてい
えなかったけれど、後できちんとお礼を言っておこう。
 音楽室へと続く階段を昇る。あいかわらず楽器の音は聞こえないので、今日もまたお茶会をしている
のだろう。そんなことが、今ではちょっとだけ嬉しい。一番奥の席から、先輩達の顔を見ながら紅茶を
飲むのは、この部室でしか出来ないことなのだから。面と向かって口になんてしないけれど。
 音楽室のドアの前、一息ついてからノブに手をかける。
 あの人がいるといい。
「どうも…」
「あー、あずにゃんだ!」
「遅いぞー」
「ん、来たな」
「お茶出来てるわよー」
 当然のごとく唯が飛びつき、それに続いて声がかけられる。いつもならすぐに離れるのだけれるのだ
けれど、きょうは少しだけ甘えたくなった。やっぱりここに来ると、落ち着く。それだけこの日々が梓
の中に息づいている。そして、この、抱きついてくる先輩も。
「すっごく寒いんだもん、あずにゃんはやく来ないかなーってずっとまってたよぅ」
「私は暖房かなにかですか…」
「んー、あったかあったか」
 頬を擦り付けてきて、ついつい口元が緩みかける。実際、寒々しい一日の中で、はじめてあったかい、
と感じられた。教室にかかっている暖房とは違う、人のあたたかさ。平沢唯という、たいせつなひとの
温かさ。それをもう少しだけ留めておきたくて、恐る恐る、背中へと手を伸ばそうとする。恥ずかしい
けれど、今日は、そうしたかった。今朝感じたあの気持ちが、そうさせた。唯の体に触れるまであと少
しといったところで、ふと、梓は首元に当たる柔らかな感触に気がついた。
 ピンク色の、マフラー。
 二人で一緒に巻いていた。
 途端、心の中に少しだけ染みが生まれる。何もいえないで、伸ばしかけた手はそのままで、立ち尽く
した。
「……あずにゃん?」
「え、ああ、なんでもないです」
後ろに下がって、そそくさと自分の席へと急ぐ。不思議そうな顔をしながら、唯もそれに続いた。紬が
入れてくれたお茶に、ふぅ、と息を吹きかけて冷ましてからひとくち。おいしい。だけど、その水面
に写った自分の顔は、ひどく暗い。純や唯から声をかけられるのも無理はない。
 ……せっかく部室に来たのに。
 朝から続くよくない一日が、この部屋にまで入り込んできてしまった。それを持ち込んだのは自分
なのだ。朝から些細なことで、ずっと嫌な気持ちを引きずっている自分。また、うらやましいと思っ
てしまっている自分。打ち消すようにもう一口紅茶を飲む。暖かい。暖かいけれど、その暖かさは梓
の奥深くまでは届かなくなっていた。いけない。このままだと、ずっと引きずってしまう。なんとか
しないと、と考えて、
「み、みなさん、練習しましょう、練習」
「えー、お菓子食べてからにしようよー」
「じゃあ今すぐ食べてくださいっ」
 まったく、とため息をついたところで、ぽつぽつと窓が鳴り始めた。次第にその音は数を増していき、
雨音で部室が満たされていく。
 全員で窓から外を見ると、そこそこ激しい雨が降り始めていた。突然の降雨に慌てて鞄を掲げる生徒
たちが目に入る。
「あっちゃー、降ってきたかぁ」
 どうやら律は傘を忘れたらしい。同じく梓も傘を持ってきていない。天気予報だと今日までは曇り
で、明日から雨のはずだったのに。
「うーん、早めに帰ったほうがいいかも」
「そうだな。このまま止まなかったらみんな濡れちゃうだろうし」
「みおしゃん!」
 鞄から折り畳み傘を取り出した澪に律がすがる。他に傘を持っているのは、と梓が唯と紬を見つめ
ると、
「ぶいっ!」
 赤い傘を唯が掲げていた。わー、と手を叩く紬。
「唯センパイのことだから、どうせ憂に言われて持ってきたんですよね?」
「そのとおりです!」
「やっぱり……」
「えへへ」
 照れくさそうに笑う唯に、うまく笑い返せなかった。
「ほら、いくぞー」
 どうやら今日はこのまま解散のようだ。
 浮かない顔のまま、梓は部室を後にした。なんだかすっきりしない。


 ○

 いつもの分かれ道で、律と澪、紬と別れ、唯と梓は二人で帰路につく。
 ひとつの傘に二人で入っている。俗に言う相合傘で、嬉しいことのはずなのに、梓は逆に戸惑ってい
る。隣に近寄りがたくて、でも、離れるわけにもいかなくて。
「あずにゃんの家まで一緒にいこ?」
「い、いいですよそんな。いつものとこまでで」
「でも、風邪引いちゃうよ?」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
 微妙な距離を保ちながら、二人は雨の中を歩いている。
 なぜだか言葉がうまく出てこなくて、梓はだまったきりだ。そんな梓を気遣ってか、唯も無理に話し
かけようとはしてこない。二人の間に漂うぎこちない沈黙は、行き場のないままそこによどんでいた。
 ただ、梓は、俯いている。
 ……どうしよう。このまま、家についてしまったら、なんだか、とても嫌だ。嫌なのに、それをどう
したらいいのか、梓にはわからない。嫌な一日が、嫌な一日のまま過ぎてしまって、唯にも憂にもよそ
よそしいままで、そんな日が続くのが、怖い。
 水溜りが跳ねる音。車が通り過ぎる音。アスファルトを叩く雨の音。傘に降り募る雨雫。そのおかげ
で保たれているこの時間。
 何か言わなくちゃ。でも、何を言えばいいんだろう。
 憂と一緒に登校しないでください、なんて言えるわけがない。そんなことを言ってしまえば、一番惨
めになるのは自分だ。不必要に唯と憂を悲しませるだけになってしまう。うらやましい。どうして憂が
うらやましいんだろう。二人きりなのは今朝の憂と一緒なのに、唯も梓も笑っていない。ほ、とため息
をつく。鞄を握る手のひらに、すこしばかり力がこめられた。耳元には雨音だけ。
 そんなときだった。
 雫の音の中に、かすかにはなうたが混じる。透明な声。聞きなじんだその声。顔を上げて振り向くと、
唯が目を瞑りながら、ハミングを奏でていた。
 ……あめふり。
 ずいぶん昔に聞いたきりの、懐かしい童謡。リズムに合わせて、唯が揺れる。ハミングは続いている。
 その顔に、見蕩れていた。雨音と、足音と、ハミングが合わさって、ひとつの大きな音楽に聞こえて
くる。自然と体が揺れてきて、
 ――ぴっちぴっち、ちゃっぷちゃっぷ、らん、らん、らん。
「おー、あずにゃんうまいねー」
「……あ」
 耳を澄ませていたら、いつの間にか口ずさんでしまっていた。だって。あんまり楽しそうにうたうも
のだから。あんまりに、嬉しそうな顔をするものだから。一緒に奏でたくなってしまって。
 なんだか、解きほぐされてしまった。
 この人といると、いつもそう。
雨の日にね、こうやって歌うとおとがいっぱいになるからオススメだよ」
「……そう、ですね」
「憂とね、あーめあーめふーれふーれ、って」
「ふふ。楽しそうですね、それ」
 今日になって初めて、梓は心から笑った。やっと笑えた。今、この人の隣にいて、一緒の傘のなかで、
一緒に音を奏でられて。
 ……そういった時間は、私と、唯センパイの時間でもあるんだし。
 うらやんでしまう気持ちはあるけれど。それでも、一緒にいられる間は、一緒に笑っていたい。いや、
そんな理屈ですら、きっとこの気持ちを受け入れるためのもの。
 ただ嬉しかった。隣でハミングを奏でるこの人がが、隣にいてくれることが、うれしくて。きっと、
自分はこの人のことが、とてもとても、大切なんだと、好きなんだと、じんわりと心に沁みてきて。
 考え込んでいたのが、馬鹿らしくなってしまって。
「そっち、いいですか」
「苦しゅうない、ちこうよれ」
「では、遠慮なく」
 肩と肩がくっつくくらいに、梓は唯に近づいた。
 ためらいがちに、唯の手のひらにその手を重ねる。指が応え、小さな手のひらがきゅっと握り締めら
れた。


「センパイ、次は何にします?」
「うーん……次……つぎ……」
 ぽつぽつとなる雨音と。
 ちゃぷちゃぷ跳ねる水溜り。
 しとしと響く傘の中。
 唯のハミングが、また、奏でられた。
 梓の声が混じっていく。
 二人きりの帰り道を、その声と声は柔らかく彩って。

 ――ふっでぺーん、ふっふー。



 翌朝、空を覆っていた灰色の雲はすっかり姿を潜め、晴れやかな青空が広まっていた。
 手に持った傘をどうしようかと思案して、置いていった。もし雨が降ったら、また同じ傘に入れても
らおう、なんて考えたから。
 いつもの時間、いつもの場所。唯と憂の姿が見えてくる。
「唯センパイ、おはようございます」
 そして、しっかり憂に向き合って。
「おはよ、憂」
「あ、あずにゃんおはよー」
「梓ちゃん、おはよう」
 …言えた。 
 ほっと安堵して、唯の隣に並ぶ。ちょうど、憂と梓で唯をはさむように。
 唯が笑った。憂も笑う。そして梓も、照れ笑い。
 ……今日は、三人で、歩こう。


  • あずにゃんよ嫉妬はいいけど友情も大事にね -- (あずにゃんラブ) 2013-01-04 03:21:10
  • ええな -- (名無しさん) 2014-02-09 03:52:48
  • この人の文章雰囲気あって好きなんだよな、また書いてくれないかな -- (名無しさん) 2018-10-11 04:37:53
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最終更新:2010年10月10日 17:40