「
あずにゃんはあずにゃんで大事に想ってるからね」
唯先輩は確かにあの時そういってくれたけど。
唯先輩のことだから、それは建前とか慰めとかそういうものではなく、本気でそういってくれたと思う。
だけど、きっと。ううん、きっとじゃなくて確実に――
今こうして私の目の前をふらふらと歩く唯先輩。
傘を持つ手もふらふらなものだから、すっかりびしょぬれになっている唯先輩。
ギターを、ギー太を部室においていくことになって、気が気じゃないという様子の唯先輩。
――そんな唯先輩の頭の中は、今はギー太でいっぱいなんだろう。
私のことなんて、欠片もそこに残してくれてはいないんだろう。
別に、だからといって不満に思うことなんてないけど。別に、ないんですからね。
唯先輩や皆がからかい混じりに言うように、嫉妬とか、やきもちとか――そんなの、そんなの。
だけど。
これ以上先輩がぬれないようにと、ふらふらゆれる傘を持つ手をきゅっと支えてみても。
ふらふら歩く先輩が車道に間違えて入ってしまわないように、きゅっと抱きしめてみても。
唯先輩は魂の抜けたような声で、ありがとうあずにゃん~なんていってはくれたけど。
唯先輩の目は遠くに、音楽室に置いたままのギー太に向けられたまま。
私のほうを向いてはくれない。
いつもなら、そういうチャンスがあれば人目も気にせずにスキンシップしてくるくせに。
私をぎゅうっと抱きしめて、暖めて、可愛がってくれるくせに。
ただほんのちょっと、一日だけギー太が手元にないってだけで、いつもの唯先輩はどこかに行ってしまった。
それは、やっぱり。やっぱ、寂しい。
寂しくって、ぎゅうっと胸が締め付けられるようで、苦しい。
先輩が濡れるからと、ふらふら歩いていってしまうからと、私は自分の傘をさすのを諦めて、唯先輩にぎゅっとしがみつくようにその傘を支えてあげている。
ぎゅうっとしがみついて、変なところに歩いていってしまわないように、私の傍にいてくれるように抱きしめるように歩いている。
いつもの私なら、何しているんだ自分と突っ込みを入れてしまうような行為。だけど、今の私にはそんなことどうでもいいことのように思えていた。
そんなことよりも、もっと、気になることがあったから。
だって。
相合傘、なのにな。
いつもの唯先輩がそうするように、ぎゅうっと抱きついて。
本当なら唯先輩はとても嬉しそうに、少し恥ずかしそうに私に笑いかけてくれるはずなのに。
そうして、くれるはずなのに。なのに。
「ギー太ぁ……」
唯先輩の眼差しは、寂しそうに。キミが傍にいないのが寂しいよと、切なげにその姿を追い求めるだけ。
先輩の傍には、今私がいるのに。
私じゃ、ダメなんですか。私はこんなに傍にいるんですよ。
普段絶対とってあげないような、先輩のこんな近くに私はいます。ぎゅっと抱きしめてまでいます。
だから、そんな顔しないでください。こっちを見てください。
そう、ギー太のことなんて忘れて――
なんて、そんなの。そんなこと無理だってわかってるけど。
唯先輩がどんなにギターを、あの子を大事に思っているか、私もよく知っていることだから。
私が思い浮かべる唯先輩の傍に、あの子がいなかったことはないから。
きっと、ひょっとしたら。こうして不慮の事態で手元から離してしまうなんて、初めての経験なのかもしれない。
そんな状態で、ギー太のことを忘れてください、なんて望めるわけもない。
だけど、それでも。
そればかりしか考えてくれない、目を向けてくれない唯先輩を見ていると。
それを、私に向けて欲しいと思ってしまう。
私だけを、見ていて欲しいと思ってしまう。
いつも私が一番だよなんて顔をして、ぎゅうっと抱きついてくるくせに。
ちょっと興味を引かれるものを見つけると、すぐに先輩はふらふらとあちこちに行ってしまって。
そのたびに私は、今と同じような心境に捕らわれていたんだ。
はっきりとそれだと気付かなかったけど、きっとそうだったんだ。
ええ、もう認めますよ。やきもちです、嫉妬です。そんなのを私は、きっと私よりずっとずっと多くその腕に抱かれているあのギターに感じてしまってるんです。
そんなものを浮かべてしまうくらいに、私はきっと、先輩のことが好きになってしまっているんです。
そう、私は唯先輩のことが好き。好きで好きで、どうしようもない。
そんな言葉、ずっと浮かべないようにしていたのに。それを浮かべてしまえば、もう自分が止まれなくなる事を知ってるから。
傘を持つ手を支える手を、進行方向がぶれないように支えていた手を、そんな建前なんて全て放り投げて、私はぎゅうっと唯先輩を抱きしめる。
歩は止まって、傘を持つ手はふらりと傾いて、まだ勢いの弱まらない雨の中私と唯先輩はびしょぬれになってしまったけど、だけどそんなのかまわずに。
「ほえ?」
そこではじめて、ようやく先輩は私のほうを向いてくれた。
時に私がうらやましく思ってしまうまんまるで大きな瞳に、私が映る。
今までギー太しか映してなかったその瞳に、今は確かに私のことを。
「あ、あずにゃん……?」
そこで初めて、唯先輩は今の状況に気が付いたらしい。雨の中びしょぬれになるのも構わずに、自分に抱きついている私のことに。
「ぬ、濡れちゃうよ?」
「別にいいです」
もう既にびしょぬれといってもいい様相なのに、それでも一番にそう聞いてくる唯先輩は、やはり少し混乱気味なんだろう。
それはそうかも。だって私から唯先輩に抱きついたことなんてなかったし、それもこんな雨の中傘もささずになんてシチュエーションがいきなり目の前にあったら、さすがの唯先輩もそうなってしまうだろう。
唯先輩の手が、おそらくは反射的にすいっと上がって、おそらくはいつもの抱きついたときのポジションにいる私をその習慣に応じて抱きしめようとしてくれたけれど。
だけど、唯先輩の手はその途中、その戸惑った表情と声色の示すそのまま、行き場所のわからない迷い子のように止まってしまう。
そのまま抱きしめてくれていいのに、そうすればきっと私はその胸の中でふわりと溶けてしまえるのに。
「……あずにゃん」
だけど結局、先輩の手は私を抱きしめてくれることなく、トンと私の肩に当てられた。
そのままくいっと、私を自分から引き剥がそうと動く。それは本当に軽い力で、私はそれに抗うことはできたけど。
だけど、それがきっと先輩の意思表示だから、それなら私はそれに逆らうことは良しとできないから、だからそれに従うままに抱きついていた腕を解いて身を離した。
「ちゃんと傘差さないと」
そういって、先輩は下げていた傘を私の頭上にさしてくれる。
「かまいません」
「ダメだよ、風邪引いちゃうから」
「いいんです、それでも」
そんな私の言動は、ひょっとしたら先輩の目には自棄に映ったのかもしれない。実際私はそのとおりの状態だった。
私の方は、今自覚できたように、先輩のことを好きで好きでたまらないのに、だけどきっと先輩にとって私は。
私はきっと、ただのかわいい後輩でしかないんだろう。
もしそれでないとしたら、先輩はきっと私を今抱きしめてくれたはずだから。
雨の中びしょぬれになるのにも構わず抱きしめあうこと、それは私にとっては私の大好きにふさわしい行為ではあるけれど。
それは唯先輩にとって、おそらく可愛い後輩との関係という領域を逸脱するものだということ。
だから、こうして私をその身から離して、距離を置いている。理由もわからず抱きつかれることを良しとせずに、一拍置こうとしている。
それは普段の唯先輩からは想像しがたい本当に常識的な行動で、だからそれだけに私にその行為の意味を深く押し付けてくるもののように思えていた。
いつも私を可愛がって、甘えてきて、甘えさせてくれて、時に私が辟易するくらいにぴとってくっついてきてくれるけど。
例えば、今こうして自分がその範囲に入らないにもかかわらず私に傘を差し出してくれるように、優しくしてくれるけど。
だけどそれは私が先輩の初めての後輩で、軽音部のただ一人の後輩で、先輩の好みに合う格好をしているからってだけ。
私が思うように、それに気付いてしまった私が望んでしまうそれとは、先輩の私に向ける好きは違うものなんだろう。
それはぎゅうっと私の胸を締め付けて、スパッと私の胸を切り裂いて、耐えがたい痛みを私に与えてくる。
私のことを大事に想っているよといってくれたこと、そのとき気付かなかったその絶望的なまでのベクトルのズレを、私に押し付けてくる。
きっとそれは、それに気付いてしまった私が
これからずっと抱き続けていかないといけないもの。
本当なら、逃げ出してしまいたい。このまま駆け出して、きっと先輩は私を呼び止めるだろうけどそんなの聞こえない振りして、その姿の見えない声の聞こえないどこか遠くに行ってしまいたい。
そしてそれに気付かなかった頃の、私がそうと
勘違いできていた先輩の笑顔だけを胸に抱きしめて、閉じこもってしまいたい。
だけど。
唯先輩の目は優しく私を見つめてくれていた。
さっきまでとは違って、確かにその目は私に向けられていた。
だから、私はそこから逃げ出すことはできなかった。動くことはできなかった。それでもなお、ここにいたいとそう思っていた。
そうすることに私は意味を見出せていたから。
だって、そう。先ほどまで置き去りにしてきたギー太しか映っていなかったその瞳は、そのせいで寂しいとか心配だとかそんなものに埋め尽くされていたその瞳は。
今はいつもの優しい光を取り戻して、私を見つめてくれているのだから。
最初から、そう思うべきだったと今になって私は思う。
その目に私が映っていないことを寂しがるばかりで、先輩にそんな目をさせないようにしようなんて私は少しも思えてなかった。
私のことも、周りのことも目に入らないほどに寂しく不安に思っている唯先輩を前にして、私は自分のことだけだった。
だから、これでいいんだとおもう。先輩の許してくれるこの距離が、きっと今の私にはふさわしい距離なんだと。
だから、いい。
痛いけど、それに負けないくらい暖かいから。嬉しいと、そう思えるから。
今は、こうして私が傍にいることで、先輩をいつもの唯先輩でいられるようにできるのなら、それでいいと思う。
「あずにゃん……?」
何も言うことなくただ見つめ返すだけだった私に、先輩は不安そうな眼差しを私に見せてきた。
いけない、これじゃ意味がない。
「先輩がいけないんですよ?ギー太が心配だからって、ふらふら歩き出すから」
「え、え?」
「車道にまで歩いて行きそうだったから、慌てて止めたんです。でも先輩全然気付いてくれなくて」
「そ、そうだったんだ」
「そうですよ、もう」
最初に使った理由、それで押し通すことにした。よく考えればあからさまに無理がある話だけど、だけど矢継ぎ早に畳み掛けたおかげで、先輩はそうだったかもと首をかしげながらも納得した様子。
都合がいいといえばそうなんだけど、もう少しそこは疑ってくれないと、今後の唯先輩が心配でもある。
まあ、それは今後の問題ということで置いておこう。
「それに、寂しがる必要、ないですよ。今日はギー太の代わりに、私が傍にいてあげますから」
あの子の代わり、というのは少し癪だけど。だけどそれで先輩がいつものように笑ってくれるなら、それも悪くないと思う。
「え、それって……
お泊りしてくれるってこと?」
「先輩が迷惑じゃなければですけど」
私がそういうと、先輩は嬉しくて嬉しくて感極まったという笑顔を見せてくれた。
「あずにゃん……っ!」
そうしてその次の瞬間、ぎゅうっと私を抱きしめてくれた。ぽいっと傘を放り投げて、またびしょぬれになってしまうのも構わずに。
いつもの唯先輩のハグ。それは私が本当に望むものとは近くて遠いものだけど、だけどそれでも私にとって気持ちよくて暖かいもの。
だから私はその胸に身をゆだねる。しょうがない先輩ですねと、いつものように、抱き返すこともなく。
鋭い痛みはその笑顔で相殺して。それでも溢れてくる分はそっと飲み込んで。
「もう、また……というか、また濡れてますよ」
「いいよ~もうびしょぬれだし」
傘を放り投げたまま、それでも私に抱きつくことを優先しているこの人に、私は目一杯の喜びをこめた苦笑を浮かべてみせる。
くすぐったくて、嬉しくて、思わず先ほどのように抱き返したくなるけど。
だけど今は、バランスを崩さない程度に抱きつくその腕に手を添えるだけに留めていた。
今はまだ、これで。
それに。
そう、私は別にだからといってこの位置に満足してるわけでもないから。
今は届かないその場所に、きっといつか、たどり着いて見せるから。
だから今はこのまま、今の距離だからこそ得られるこの記憶に、身をゆだねてみようと思う。
「ねえ、唯先輩……」
「んぅ?なに、あずにゃん?」
小さく名前を呼ぶと、先輩はなんだろと言う顔で少しだけ身を離すと私の顔を覗き込んできた。
至近距離で映る、唯先輩の顔。私の大好きな、唯先輩の顔。もし恋人同士なら、キス一歩前のその距離で私は小さく笑って見せた。
「いいえ、なんでもないです」
今は、まだ。
だけど、覚悟して置いてくださいね、唯先輩。
私をこんなに振り回してくれた分、私をこんなになるまで先輩のことを好きにさせてくれた分。
いつか、それに負けないほどに私のことを好きにさせて見せますから。
そうですよ、ギー太になんか負けないくらいに、ずっとずっと私に首ったけにさせてやります。
「へんなあずにゃん」
そういうって、笑いながら首をかしげる先輩に、私は。
声を上げないまま、読み取れないほどの動きでちいさく、大好きですの形に唇を動かして見せた。