ある日の登校中。
珍しく早く家を出てきたらしい、あの人の背中を見つけて声を掛けようとしたけれど、
隣を歩く憂に抱きついている姿が見えて、何だか胸がモヤモヤして見ない振りをした。

教室移動の時。
そういえばあの人のクラスだな、と思って通り掛かった教室の中を覗いてみたけれど、
隣に座る大人っぽい人に抱きついていて、廊下にいる私には気付いてくれなかった。

お弁当だけでは物足りなくて、購買にパンを買いに行った時。
デザートでも買いに来たのか、他の生徒に混じって列に並ぶあの人を見かけたけれど、
一緒に並んでいた律先輩に抱きついている姿が見えて、苛立ちを覚えて踵を返した。



こんなの、全然普通じゃない。
午後の授業なんて少しも耳に入らないまま、私――中野梓は小さく溜め息を吐いた。

本当に、こんなのは普通じゃない。
ただの部活の先輩が、妹や友人と仲良くしているのを見てモヤモヤするなんて。
そんな、寂しがっているだけでも十分普通じゃないのに、何だかんだで尊敬している
はずの律先輩たちにまで、自分でも理不尽だと分かる苛立ちを向けてしまうなんて。


でも、本当に「普通じゃない」のは私なのだろうか?
自分の異変に頭を悩ませていると、ある可能性に辿り着く。

ただの先輩に対してそんな嫉妬じみた感情を向ける今の私は、確かに普通じゃない。
それならあの人――唯先輩が、私にとって「ただの先輩」ではないとしたら?
唯先輩にそんな感情を抱く明確な理由があれば、私は普通に戻れるのかもしれない。

そんな藁にでも縋りつくような滑稽さに気付かないまま、私は更に思考を巡らせる。



平沢唯、唯先輩。

私の高校生活は、あの人に出会った事で始まったと言っても過言ではない。
軽音部の新歓ライブで、楽しそうに歌いながらギターを弾く唯先輩に心を奪われて、
あんな素敵な人と音楽をやりたいと思って、私は軽音部に入ることを決めたのだ。

その後に先輩のだらけた姿を見たときには、少なからず失望を覚えたりもしたけれど、
今ではそういう部分も含めて良い先輩だと思っているし、恥ずかしくて絶対に口には
出さないけれど、そんな唯先輩を他の先輩と同じくらいに尊敬していたりもする。

それでも今の私にとって、あの人は決して「他の先輩と同じ」ではないのだ。

だったら――唯先輩がただの先輩でないのなら、あの人は私にとって何なのだろう。

唯先輩はだらしなくて怠け者で、やたらにスキンシップが激しくて私を困らせてばかり
だけれど、抱きつかれるのも頬擦りされるのも私は全然嫌じゃなくて。

実はプライベートではギターの練習だってちゃんと頑張っていて、ライブではいつもの
だらしない姿とは全然違う、私が目を奪われた時と同じ格好良い姿を見せてくれて。

日向のように温かくて一緒にいると心が落ち着くのに、何故だか心臓だけは高鳴って。

いつも笑顔でいてほしくて、先輩の笑顔を見ると私も笑顔になれて。

傍にいてくれると嬉しくて、いてくれないと不安になって。

ずっと、ずっと一緒にいてほしくて。

本当に――大好きで。



ああ、もう。
こんな感情になんて気付かなければ良かった。

私が唯先輩の事を好きで好きで仕方なくて、それで先輩の周囲にいる人たちに嫉妬して
いたというのなら、確かに今まで不自然だった自分の様子は説明が付くけれど。

いくら理由が見付かったってこんな気持ち、全然普通じゃない。
女の私が同じ女である唯先輩に本気で恋してしまうなんて――普通であるはずがない。

ずっと気付かないでおくべきだった、そんな道を外れた感情に気付いてしまった以上、
どんな顔をして唯先輩に会えば良いのか分からなかったけれど、それでも私は精一杯
いつも通りの自分であり続けようと、まずはいつも通り部室に向かう事にした。

どんなに私が歪んだ想いを抱えていたとしても、その歪みを隠し続ければ唯先輩の傍に
いる事くらいは許されるだろうし、唯先輩とはベクトルが違うとはいえ、好意を抱いて
いるという点においては他の先輩や憂、それに純だって大好きな人たちだ。
軽音部を辞めるなんて考えられないし、二人ともずっと友達でいたい。
唯先輩に私の下心がばれてしまったら、他の居場所まで同時に失う事になるだろう。
仮に――陳腐な恋愛映画のように、都合よく唯先輩が私を受け入れてくれたとしても、
私たちの周りにいる人々まで異常な恋を認めてくれるとは限らない。

だから、唯先輩に会ってもいつも通りの私でいよう。
ずっと自分と先輩たちを騙し続けて、ぬるま湯のような時間を一緒に過ごしていこう。

そう、心に決めたはずだったのに。


「唯先輩って本当、誰にでも抱きつきますよね」


部室に入った私を、いつも通りに抱きしめてきた唯先輩に対して私が放った言葉は、
全然いつも通りなんかじゃなかった。



「え……あずにゃん?」

唯先輩が困惑したような声を出す。
ような、ではなく本当に困惑しているんだろう。
自分でも今の発言は唐突だったと思うし、何より声に感情がこもっていなかった。
いつもされるがままの後輩が急に突き放してきたら、それはびっくりするだろう。

落ち着いているのか、いないのか。
そんな事も判断できないくらいに乱れた頭で、けれど冷静に自分の精神状態を診る。
いや、冷静に考えるまでもなく分かっている。
私は嫉妬が抑えきれなくなっている。
今まで唯先輩への気持ちを自覚していない時だって、無意識下で先輩と親しい人間に
対して嫉妬心を抱いていたのだ。
そんな歪な私が完全に自覚を持ってしまった以上、この感情は正体不明の苛立ちなど
ではなく、私自身が抱く明確な他者への敵意になってしまった。

全てを隠して、いつも通りの自分でいようと思ったけれど。
結局のところ、私が目指した「いつもの私」とは唯先輩を無邪気に慕っていた私で。
自身の歪みに気付いてしまった時点で、いつもの私なんて消えてしまったんだろう。
だって昨日までの私は、心の底では尊敬しているはずの唯先輩の事を、こんな薄汚い
欲だらけの目で見たりはしなかったのだから。

「あずにゃん、またヤキモチ~?」

そんな私の葛藤を知らない先輩は、からかうような浮かれた口調で話しかけてくる。
また、というのは今年の六月に私が先輩のギターに少しだけ嫉妬していたときの事で
当時は必死に否定していたけれど、今となってはあれも間違いなく嫉妬だった。

唯先輩があのときと同じような、そんな軽口を叩くのは仕方ない。
あのときと今でどれだけ私が変わってしまったのか、先輩は全く知らないのだから。

「……そうだって言ったら、どうします?」

「え?」

だから、仕方ない。

「唯先輩が他の人に抱きつくのを見て、私が本気で嫉妬してるって言ったら?」

「あず、にゃん?」

仕方がないけれど。

「本気で嫉妬するくらいに、唯先輩の事が好きだって言ったら、どうします?」

だからって、気付いてしまった私の想いが、抑えられるわけじゃない。

「先輩だからじゃなくて……同じ女性なのに愛してるって言ったら、どうします?」

いよいよ抑えきれなくなった想いは、言葉となって私の外に吐き出される。
何も知らない唯先輩に自分勝手な怒りを覚えて、さっきまで隠し通そうと思っていた
想いの丈を勢い任せにぶちまけてしまう程度には、私の心は歪んでいたのだった。

唯先輩は何も答えない。

一瞬、驚いた表情は見せたけれど、すぐにその顔からは表情が消えてしまった。
いつもの朗らかな唯先輩からは想像もつかないような無表情で、私を見つめてくる。
少なくとも表情に嫌悪感はないけれど、その代わりに他の感情も何一つ読み取れない。

冗談だと笑い飛ばしたりもしない。
きっと私の表情や声色から、今の発言が冗談なんかじゃないって理解したのだろう。
普段はボケボケとした印象が強いけれど、こういう他者の変化には妙に鋭い人なのだ。


全部終わってしまうのかな、と思った。
先輩たちや友達と過ごす楽しい時間も、何よりも唯先輩の傍にいられる幸せな時間も。

ここで唯先輩に拒絶されたとして、これからも今まで通りに出来るとは思えない。
唯先輩は私を避けるだろうし、事情を直接言わなかったとしても律先輩たちは違和感に
気付いて、部内でも私は孤立してしまうだろう。
憂や純にも私の異常性がバレて距離を取られて、最後には校内でも居場所を失うのだ。

それは本当に怖くて、後悔がないなんて言ったら嘘になるけれど。
そうなると分かっていたとしても止められないくらい、私は唯先輩が好きだったから。
だから後悔はしているけれど、これはこれで悪い結末ではないのではないかと思う。

あとは唯先輩に色んな事を謝って。
好きになってしまった事、不快にさせてしまった事、いなくなってしまう事を謝って。
そうしたら、あとは一人で生きていけば――。


「嬉しいよ」

「……え?」

別れを告げようと決意していた私の耳に、今まで黙っていた唯先輩の声が響く。
いつの間にか逸らしてしまっていた視線を正面に戻すと、唯先輩は今までに見た事も
ないような真剣味を帯びた表情で、私の目を真っ直ぐに射抜いていた。

「あの、それってどういう……」

先輩の放った「嬉しいよ」という言葉の意味が分からず、私はその意図を尋ねる。
すると先輩は一瞬前まで見せていた真剣な表情を崩して、いつも通りに笑って見せた。

「だからさ、すっごく嬉しいんだよ。あずにゃんが本気でヤキモチ焼いちゃうくらい
私の事を好きでいてくれて、すっごく嬉しい」

それは私が全く予想していなかった、けれど確かに心の奥では願っていた言葉だった。

「私もあずにゃんの事、本当に大好き――愛してる」

いつも通りなんかじゃない。
今までに見た事もないような見惚れる程の笑顔で、先輩が私に語りかけてくる。

視界が急速に歪んでいく。
嬉しいという感情で涙が溢れてくるなんて、去年の文化祭以来の体験だ。
あのときもやはり私を泣かせたのは唯先輩で、私を泣かせるのも笑顔にしてくれるのも
私の心を変えてくれるのはいつだって唯先輩なんだと、また少しこの人を好きになる。

だけど――だから私はここで踏み止まらなくてはいけない。

「あの、私も……私も唯先輩の事、愛してます! だけど……」

「女の子同士だから、普通の恋愛じゃないから?」

そう、こんな気持ちは全然普通じゃない。
唯先輩が私を受け入れてくれたのは夢のようで、それだけで十分だと言いたいけれど。
私の世界も唯先輩の世界も、決して二人だけではない。
少なくとも、私は唯先輩以外の人間を全て切り捨てられる程、まだ強くはなかった。

だから、ここで踏み止まろうと思った。
他の全てを諦めきれないのなら、この想いひとつを諦めるしかないと、私は思った。

「大丈夫だよ」

それなのに唯先輩は、そんな優しい言葉を優しすぎる笑顔で私に投げかける。
なんて無責任な言葉――と受け取りそうになるけれど、その笑顔は間違いなく本物で
決して適当な慰めのつもりで言っているのではないと分かった。

「みんな大好きだから、きっと大丈夫だよ」

私を強く抱きしめながら言う唯先輩に、なぜだか心が落ち着くのを感じる。
落ち着いて、その言葉を噛み締める事で、無責任な言葉ではないと理解していく。

唯先輩だって、自分を取り巻く人たちが離れていかないと確信しているわけではない。
確信なんて出来ないけれど、それでもみんなが大好きだから、信じていられるのだ。
家族である憂や幼馴染の和先輩、そして軽音部の先輩たちと今まで過ごしてきた時間は
きっと壊れたりしないと、そう信じている。

「それでもダメだったら……一緒にいてくれる?」

怖くないわけじゃない、未練がないわけじゃない。
だけど精一杯に信じているから、唯先輩は私と一緒に前へ進もうとしてくれている。
諦めずに進んで、それでもダメなら全てを切り捨てる勇気を持とうとしてくれている。

だったら、私だけが逃げているわけにはいかない。

「はい……ずっと一緒です」

今はまだ勇気が持てないかもしれない――でも、いつかは持てるようになろう。
一人ではきっと無理だけど、唯先輩と一緒ならきっとどこまでも行けるはずだから。

「ところでさ、あずにゃん」

「はい?」

抱きしめられたまま決意の余韻に浸っていた私に、ふと唯先輩が声をかけてきた。
先輩の腕は背中に回されたまま、私は少しだけ先輩の胸と隙間を作って顔を上げる。

「あずにゃんは私がみんなに抱きついてたから、ヤキモチ焼いちゃったんだよね?」

「うっ……まあ、そうですけど」

唐突に話を蒸し返されて、なんだか気恥かしくなる。
愛の告白まで済ませておいて何を恥ずかしがるのだと思うけれど、そもそも私という
人間は素直に自分の気持ちを伝えられない性分なのだから仕方がない。
告白だって勢い任せで口に出してしまっただけだし、簡単には変わらないものもある。

それにしても、今になってどうして唯先輩はそんな話を持ち出したのだろうか。

「それならさ、あずにゃんが特別だって、私が証明すれば良いと思うんだ」

なるほど、唯先輩は恋人になった私に対して、早くもフォローを入れるつもりらしい。
意外に如才ないというか、格好良い唯先輩に惚れた身として悪い気はしない。
言い分も間違っていないと思うし、ここは愛しい恋人の言葉を受け入れるべきだろう。

「それは嬉しいですけど……具体的にどうやって証明するんですか?」

「え? そりゃあ恋人同士っていったら……」

そう言いながら、唯先輩は私の背中に回していた腕を、今度は私の両肩に乗せる。
そのまま顔を近付けてきた事で、ようやく私は唯先輩の言う「証明」の仕方を理解して
同時に頭の中で何かが弾けるような、ぐるぐると目が回るような感覚を覚える。

「ち、ちょっと待って下さい!」

「あ……あずにゃん、キスするの嫌だった?」

恥ずかしくなって、つい抵抗してしまった私の様子に、先輩が不安そうな声を上げた。
今にも泣き出しそうな表情を見せられて、私の心はどんどん落ち着かなくなる。

「あ、すいません違うんです! 唯先輩とキスするのは、その、嬉しいんですけど」

「けど?」

少しだけ瞳を潤ませながら、唯先輩が小さく首を傾げた。
その動作の可愛さに心拍数が跳ね上がるのを感じながら、私は必死に言い訳を考える。
別に言い訳なんて考えなくても、ただ「恥ずかしかっただけです」と言えば済む話だと
分かってはいるのだけれど、本当に私という人間は素直ではないらしい。

と、そこである妙案が思い浮かんだ。
キスを嫌がったのではなく、唐突に中断させた真っ当な理由を付けてやれば良いのだ。
たとえばファーストキスに際して、何か思い出に残るようなお願いをするとか。

「あの、私……いつもの唯先輩の、ほわほわしたところも大好きなんですけど……」

そうと決まれば、私が唯先輩にお願いする事なんてひとつしかない。

「その……ギター弾いたり、ライブで歌ってるときの格好良い先輩も大好きで……!」

「……そっか」

私の言わんとしている事を分かってくれたのか、唯先輩は真っ直ぐ私を見つめてくる。
視線はそのまま、私の肩に乗せていた手を片方だけ離して、右の横髪だけを耳にかける
その仕草の大人っぽさに、私はまた自分の心臓が高鳴るのを感じた。

自分の髪を掬い上げたその手を、今度は私の頬にそっと添えて。
普段と少しだけ違う穏やかな微笑みを浮かべながら、唯先輩は私に顔を近付けてくる。

今度は抵抗なんて出来ず、唯先輩に習って私も目を閉じた、その直後――。


「大好きだよ、梓」


ああ、もう。
こんなの、全然普通じゃない。

肌に感じる唯先輩の吐息も。

僅かに開いた視界に移った、その顔も。

私の肩を掴む、その手の力強さと温もりも。

唇に触れた、柔らかさとか温かさとか愛おしさとか。


私に触れる唯先輩の全てが優しくて、激しくて、どうにかなってしまいそうで。
こんなの、幸せすぎて全然普通じゃない――なんて。

蕩けそうな頭の片隅で、私はそんな事だけを考えていた。



END


  • 唯の嬉しいよって言葉で涙腺崩壊した!ゆいあず最高ーー!! -- (とある学生の百合信者) 2011-03-08 17:02:03
  • だよねー泣けるよねー!! -- (らりらり) 2011-08-05 21:20:43
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最終更新:2010年10月20日 21:06