夜もだいぶ更け、時折暗雲の隙間から差し込んでくる月光が周囲の雪景色を朧に照らし出すこの地に、ビュゥッと雪の入り混じった、凍えるような冷風が駆け抜け、家の外にいる者たちに厳しい寒さを叩きつける。
クロッセルより少し北上した場所にある雪原にて、今1組の男女が睨み合っていた。
一方は闇に紛れる漆黒のコートを身に纏う黒髪の青年。もう一方は炎を連想させるような一対の赤銅の角を頭に生やした少女。
両者は互いに沈黙を保ったまま、己が敵を叩きのめさんと言わんばかりに鋭い眼光で相手を睨み据えている。もし視線に力があったなら、両者の顔には綺麗に風穴が開いていたことだろう。
まさに一触即発。少しでも物音がすればすぐさまこの硬直状態が、シャボン玉が割れるよりも容易く弾けてしまう。そんな重苦しい緊迫感が、両者を取り巻く空間に横たわっていた。
そして、その場にいるのはこの2人だけではない。
いままさに衝突しようと火花を散らしている両者から少し離れた場所では、3人の少女達が事の成り行きを見守っていた。
「・・・どうしてこうなっちゃうんでしょうか・・・」
そしてその中の1人、機械的な杖を持った茶髪の少女が、困りきったような感じでそう呟いたのだった。
***
少女はやわらかな布団の上に横たわっていた。
着崩れた衣服にぐったりと脱力しきった体、呼吸は不規則で荒く、上気して汗ばんだ顔には茶色く長い髪がべったりと張り付いていた。
夜空のような漆黒の瞳は半分閉じられ、潤んだ瞳はどこか夢の中を彷徨っているようにぼんやりと虚空を見つめている。
そんな少女の横では、1人の青年がどこか思いつめたような表情でぐったりと横たわる少女を見つめていた。
青年は片手に持った“それ”を握り締め、奥歯を噛みしめる。
―――こんなはずじゃなかった。
言葉に出さずとも、青年の表情はそう雄弁と語っていた。
やってしまったのだからしかたがない。すでに終わってしまった過去だ。そう割り切ることもできるのに、どうにも割り切ることができずに青年は静かに布団に横たわる少女に声をかけた。
「ティラ・・・」
青年の言葉に反応して、少女がゆっくりとこちらに顔を向ける。浅い呼吸のまま、上気して潤んだ瞳で見つめてくるその姿は、いつもの彼女とは違う妖艶さを醸し出していた。
その姿に僅かに息を飲み、青年はまるで幼い子供に聞くようにゆっくりとした口調で言葉をかける。
「なにか言いたいことはあるか?」
「・・・」
少女が答えないが、もともと少女の言葉を期待していなかったのか、青年は構わず話を続ける。
「まぁ、お前も色々言いたいことはあるだろうが、まずはオレから言わせてもらうぞ」
青年は片手に持った“それ”をまるで犯人に決定的証拠を見せ付けるかのように少女の目の前で軽く振りながら、そして青年は決定的な言葉を放つ。
「・・・なんで風呂場でのぼせた?」
「・・・うぅうー・・・」
ライトの言葉に、のぼせてぐったりしているティラは思い切りバツの悪そうな顔で視線を泳がせたのだった。
「ったく、明日には北の雪原に行くってのに余計な体力使いやがって・・・。宿に泊まった意味がないだろ」
「むぐ・・・・・」
ぱたぱたとうちわで扇がれながら、ティラは呆れた様子で愚痴るライトの言葉に口をつぐむ。
まぁ露天風呂で酔っ払ったおっさんよろしく歌いまくった挙句に立ちくらみを起こして意識を失い、気がついた時にはもう布団の中で伸びていた身なので反論の余地などあるはずもなく、迷惑をかけた申し訳なさも相まって、現在ティラは布団の中で睡魔と闘いながらライトの説教を延々と聞き続けなければならないという拷問的状況に陥っていた。
「ティラー?大丈夫かー?」
ライトの説教地獄で口や耳などから魂とかその他諸々が出かかっていた時、襖の奥から年齢14・15歳くらいの少女がひょっこりと顔を出した。その額には、人族ではまずあるはずのない白銀に輝く角が生えている。
少女の名は涼蘭。ティラが数時間前に露天風呂で知り合った鬼の少女である。
「え?あれ?涼蘭さん?」
出かかっていた魂を何とか呼び戻して正気に帰ったティラが、助かった!と言わんばかりに涼蘭の方へ顔を背けた。それに気付いてジト目でティラを睨むライトも、話の腰を折られた後にまた説教を再開する気は起きなかったらしく、しぶしぶとだが説教をやめた。
「ティラ、こいつに感謝しろよ。のぼせて気を失ったお前をここまで運んできたのはこいつなんだからな」
ライトに目で涼蘭を示しながらそう言われ、ティラは布団の中から「えっ、うわごめんなさいごめんなさい私が茹であがったばっかりに涼蘭さんにご迷惑おかけしましたー!!」と土下座せんばかりに頭を下げようとするが、苦笑いをした涼蘭に手で制されてしまう。
だがティラの心の中は、「ぶっちゃけ助かりました!もうすこしで色々と抜けちゃうところでした・・・!」という感謝の念で一杯だ。
「あーいや、友達として当然。・・・というかティラがのぼせた原因は半分わたしにあるしねー」
ボソリと後半の台詞を涼蘭は独り言のつもりで言ったようたが、近くにいたライトには聞こえてしまったらしく、意味が分からずに「は?」と思わず聞き返したライトに、涼蘭は慌てて何でもないと答えてはぐらかした。
「えーと・・・、あ、それよりもティラから依頼のこと聞いたんだけど、鬼の角の採取だって?」
なにやら無理矢理話を逸らされた感があって釈然としないが、どうやら依頼に関係する話のようなので、ライトは暇そうに寝転がっていたリインにうちわを渡して涼蘭に向きなおる。
「そうだが・・・、・・・そういえば何でお前額に角なんか生やしてんだ?」
つっこむ人がいたら「今頃かよ!?」とつっこむだろうが、生憎と周りにはそういう人はいない。
「え?だって鬼だし」
対して涼蘭も、ずっと角を晒していたので気付かれていると思っていたのかきょとんと答えた。
「・・・・・」
「・・・・・」
互いの間に広がるなんともいえない沈黙。
その傍らでは「がおー!」と楽しそうにリインがライトの見様見真似でのぼせているティラをうちわで扇ぎ、
「いたいいたいリーちゃん痛いー!」
そのうちわがティラの顔にばしばしと当たってティラが悲鳴を上げていたりいなかったり。
きっとティラには良い薬になるだろうし、まぁそれほど気にすることもないだろう。
「そうか、鬼だったのか。始めてみるな」
「いや、別に珍しくないんだからそんなにまじまじと見られてもなー」
「角譲ってくれ」
「え、だめ」
「そうか・・・」
あっさりと引き下がったが、その顔はどことなく残念そうだ。
「まぁそれは置いといて、いま依頼書とか持ってる?どんな内容か見てみたいんだけど」
「ん?まぁ持ってるが・・・、鬼の角の採取しか書いてないぞ」
ライトは近くにあった荷物を手繰り寄せて中身を漁りながら言うが、涼蘭は別にいいよとあっさりと返した。
「んー・・・、あ、あったあった。ほらよ」
「どれどれ、依頼の内容をちょっと拝見」
涼蘭はライトから依頼書を受け取り、その内容にざっと目を通す。少しばかり緊張した面持ちで依頼書の上から下まで目を走らせた後、その表情には安堵の色が浮かんだ。
「ふむふむ、・・・うん。この内容だったら別に角達磨でもいいかな?」
「角達磨?」
「あ、知らない?確か人間は鬼小玉って呼んでたけど」
「なら初めから人間用語で言ってくれ。鬼用語なんぞしらん」
人と話すにはお世辞にも良いとは言えない態度で話すライトに、涼蘭はとくに気分を害した様子もなく「あははは、ごめんごめん」と朗らかに笑う。
こういうのを心が広いと言うのかもしれない。
「―――うん。別に急ぐ用事もないし、私達の力を貸してもいいよ」
「・・・私『達』?」
少し引っかかる言い方に首を傾げてライトが聞き返す。リインのうちわ攻撃から身を守るべく脱力した体で孤軍奮闘していたティラも、その話に興味があるのかその意識を一旦涼蘭へ向けた。
「うん。実はこの宿には2人の友達と来てるんだ」
「その2人も鬼ですか?」
「うんにゃ。確かに1人は鬼だけどもう1人は人間。話下手で人見知り激しかったり武士道精神旺盛で融通がきかなかったりしてちょっと気難しい2人だけど、いい奴だから後で紹介するよ」
「わぁ!本当ですか!?」
「・・・そらまた極端な友人が多いことで」
どんな人物像を想像したのか、ライトはもの凄く微妙な笑顔、ティラはまた友達ができると目を輝かせて喜んだのだった。
「・・・まったく涼蘭のやつ、一体どこをほっつき歩いているんだ」
宿の廊下、1人の少女が溜息混じりにそう独り言を漏らした。少女が今抱えている心配事は一つ、―――温泉に浸かりに行った友人が戻ってこない。
自分もその友人も結構長湯をするタイプだが、それにしては遅すぎる。それで心配になって温泉に出向いたところ、なんと既に温泉からは出ているということをその場にいた従業員から聞き、こうしてしらみつぶしに探しまわる羽目になっていたのだった。
「・・・でも、涼蘭なら大丈夫だと思うけど・・・?」
その少女の後ろから、外見でその少女よりも少し年上だとわかる少女が、少し遠慮勝ちに尋ねる。
「力だけなら心配はない。だが、ここは人里。何があるかはわかったものではないからな」
少女がここまで心配するのには理由があった。
自分にも友人にも、他人には決して知られてはならない秘密がある。
「・・・む?」
何かを感じ取ったように、少女がある部屋の扉の前でその歩みを止めた。後ろから付いてきていた少女も突然止まられたことで危うくぶつかりそうになるも、なんとか踏み止まる。
「・・・椿、どうしたの?」
「いや・・・この中から涼蘭の気配がするのだが・・・」
「・・・でも椿、ここ今他の人が泊まっているみたいだよ」
「なに、友人がいるかもしれないのだ。礼をもって接すれば失礼にはならないだろう」
「―――・・・?」
ライトの目が、何かに気付いた時のように細められ、鋭い眼差しが部屋の出入り口である扉の先へと注がれる。
「?ライト?」
ティラや涼蘭も、その視線に何か尋常じゃないものを感じたのか、同じように部屋の出入り口へと視線を注ぐと、
―――その直後、数回のノックが聞こえたと思ったら、突然部屋の扉が開かれた。
「―――失礼。ここに涼蘭という名の者が来ていないか?」
扉から入ってきながらそう尋ねるのは、涼蘭と同い年くらいの、少々無愛想な表情が特徴的な少女だった。その後から、少女より年上、ざっと見て大体17・8歳くらいの気の弱そうな表情が印象的な少女が、少し遠慮勝ちに部屋へと入ってくる。
その無愛想な印象の方の少女は、部屋の中でまったりとくつろいでいた涼蘭を目にとめると、僅かな驚きと憤りの入り混じった表情を浮かべて、今まで溜めていたものを吐き出すようにして叫んだ。
「涼蘭!お前一体どこをほっつき歩いていた!」
その怒号は音の塊となって部屋中にこだまし、天井や壁をビリビリと振動させた。
その場に居合わせた者はその少女以外ビックリ仰天である。
「うわっ、もーなんだよ椿―。ビックリするじゃんか」
「まったく毎回毎回ふらふらと、探し回る私たちの身にもなれ!!」
「まーまー。アクシデントは旅の醍醐味じゃんかよー」
「そういう問題じゃない!」
――――!
―――――――!!
隣でなにやら口論を始めた2人を横目に、ライトは入口あたりで突っ立っておろおろしていた少女を手招きで招いた。
「ういっす。随分騒がしい連れだな?」
「・・・どうもすみません」
少女は本当に申し訳ないといった様子で頭を下げた。
「オレはライト。こっちはティラとリインだ。あんたは?」
「あ・・・はい・・・。ハルカと言います」
ハルカと名乗った少女はぺこりとお辞儀をしつつも、ちらちらとライト達を見る。どうやら人見知りをする性格のようだ。
その様子に何かを気付いたのか、「あっ」と声を漏らしたティラがその疑問を口にした。
「もしかして、涼蘭さんのお友達の方ですか?」
「え・・・?あ、はい。そうですけど・・・」
ハルカの台詞に、ライトも合点が行った。という顔になる。
「ああ成程な。じゃあ向こうの奴は鬼なのか」
「・・・え・・・?」
なぜそれを知って?というような感じのきょとんとした表情を浮かべるハルカを見たとき、疑問が確信に変わった。
そーかこの2人か。涼蘭の言ったとおりだなー。とライトが少し嫌な予感を覚えながら思っていると、どうやら一通りの口論が終わったらしく、横が静かになっていた。
「あ、そうそう。椿ちょうどよかった。ちょっと紹介したい人がいるんだけど―――」
「・・・紹介したい者?」
涼蘭のマイペースな言動に若干の落ち着きを取り戻した椿と呼ばれた少女は、涼蘭の言葉に怪訝そうな表情を浮かべて、ふと涼蘭の後ろでことのなりゆきを見ていた人間に、そこで初めて気がついたように目を向けた。そして、その視線がライトで止まった時、その目が見開らかれる。
「・・・涼蘭。そいつから離れろ」
「―――へ?」
椿は静かに言うと、突然のことに呆けている涼蘭をスルーしてその奥にいるライトへ鋭い視線を向ける。
「その見るからに怪しい外見。大方私たちの角を狙ってやってきた支援士だろう」
「・・・はあ?」
いきなりの喧嘩腰の不躾な物言いに、ライトも思わず眉をひそめて不審げに椿を睨みつける。それがいけなかったのだろうか、その瞬間椿の表情がさらに険しくなり、いまにも跳びかかりそうな敵意を向けてライトに言葉を吐き捨てた。
「この卑怯者め・・・!涼蘭を騙し、私たちの油断を誘うつもりだったのだろうが、そうはいかないぞ」
「や、だから椿―。ちょっとわたしの話を」
「お前もお前だ涼蘭!こんな怪しい連中に気を許すなど、一体どういうことだ!?」
「・・・話を聞けー」
「涼蘭さん。声が遠いよ?」
ちょっと置いてきぼりをくらい始めた周囲には目もくれず、両者の間に広がる険悪なムードが徐々にヒートアップしていく。
「あーあ、やれやれ。外見で人を決めつけるとは、最近の鬼は格が落ちたもんだなー」
ライトの溜息まじりの安い挑発に、椿は「なっ・・・!?」と憤慨し、続いてこめかみにビキリと青筋を浮かべた。
険悪なムードがさらに悪くなる。
「この・・・!涼蘭を騙して角を狩ろうとするだけではなく、我ら鬼族を愚弄するとは・・・ゆるさん」
「へっ。ゆるさなかったらどうだってんだ。あーいやだねー最近の鬼は喧嘩っ早くて、そんなんだから格が落ちるって気付かないのかねー?あーあ、涼蘭の友人だからどんな奴かと思っていたのに、こんなのだったなんてガッカリだ」
この言葉を鍵に、2人の険悪なムードが決定的に悪くなり、
―――ブチィッ!!!
今のライトの台詞のどの部分が気に障ったのか―――いや全部と言えば全部と言えるが―――椿の額からなにかがぶち切れる壮絶な音が鳴り響いた。
「・・・いいだろう。そこまで言うのなら覚悟はできているな・・・?」
怒りに目をたぎらせた椿は、声を震わせながらライトを威圧する。並みの者ならばそこで腰を抜かしてもおかしくないほどの威圧感だが、生憎と椿と同じように火が付いてしまったライトには火に油を注ぐ程度の効果しかなかった。
「オーケー。喧嘩腰でプライドの無駄に高い子供に教育してやりますよー」
ゴゴゴガガガ!!!と2人の周りに立ちこめる異様な空間。流石にこりゃあかんと思い、今まで成り行きを見守って(置いてきぼりをくらって)いた3人は仲裁に入るべく一斉に口を開いた。
「椿ー。だから誤解だってばー」
「椿・・・少し落ち着いて・・・」
「ライトももうちょっと落ち着いて・・・」
『『―――うるさい!!ティラ(晴華と涼蘭)は黙ってろ(いろ)!!!』』
―――だが、ぐわわっ!とケンカ腰のテンションを維持したまま振り向いた2人の迫力に負けて、はいっ!と返事をした3人は仲良く口をつぐんでしまった。
・・・というか2人とも怖いんですけど。
「(あーあーもう椿すっかり頭に血が昇ってるよー)」
「(・・・というか、・・・あんなに初対面の人と話してる椿は・・・始めて見た)」
「(うぅうぅ・・・ごめんなさいごめんなさい私が悪かったです・・・)」
そんな3人からさっさと視線を戻し、ライトと椿の険悪ムードは、遂に臨界点を突破する。
互いから放たれる殺気にも似た壮絶な敵意、ぶつかり合う視線と視線、その間で迸る火花。
最早だれにも止めることのできない、むしろ仲裁に入ったほうが被害を被るであろう迷惑かつ危険極まりない状況が、ここに出来上がった。
『『・・・表へ出ろ』』
そして、その2人の言葉に、周囲は完全に仲裁は無駄だと悟り、お互いに顔を見合わせた3人は深く深く溜息を吐いたのだった。
―――で、ここで冒頭に至る。
「ふん、鬼である私に1人で喧嘩を売るとはいい度胸だな」
視線の火花を散らしたまま、椿がそう挑発する。
「はいはい御託はいいからさっさと始めようか。寒いんだよここ」
対して、ライトはそれを軽く流しながら拳を鳴らした。その間も、椿の視線からは決して逸らさない。
最早誰も口を開かず、周囲には風の吹く音だけが聞こえてくる。
―――そして、ゴクリ。と、
誰かが唾を飲み込んだ途端、両者の戦いは幕を開けた。
ライトは黒金の剛爪を抜き放ち、両手にそれぞれ握ると、一直線に椿の元へ駈け出した。
靴の踵から、蹴り上げた雪が宙を舞う。
だが椿は、特に構える様子も見せずに接近するライトを睨みつけている。
(・・・なんだ?舐めてるのか?)
その様子を見ていぶかしむライトだが、相手が後手に回るというのならこちらから先手を仕掛けるしかない。
先手必殺。とライトは双剣を構え、さらに接近。
その瞬間、椿は行動を起こした。
椿は片足を上げると、勢いよく地面を踏み付けたのだ。
「どわっ!?」
ズンッという鈍い振動が椿の振り下ろした足を中心にして発生し、椿目掛けて走っていたライトは不安定な態勢から不意にその振動をまともに食らい、グラリと体のバランスを崩した。そこへ椿が拳を握り締めて一気に間合いを詰める。
「―――フッ!」
気合いと共に放たれる下から突き上げるような上段突きを、ライトは咄嗟に腕を交差させて受ける。
―――だが、
「甘い!!」
椿の拳の勢いは止まらず、そのまま腕のガードごとライトを上空へと吹き飛ばした。
交差させた腕がミシミシと嫌な音を立てて、ライトは顔をしかめる。幸い骨には異常はないみたいだが、それにしてもガードごしから数M上空へと吹き飛ばすとは恐ろしい腕力だ。
「痛ってぇな!こなくそ!!」
悪態と共にライトはバランスの取れない空中から、全身のバネを使って片手に握る双剣を投擲。
放たれた剣は不安定な態勢から放たれたとは思えないような正確さと威力で椿へと襲いかかる。
だが、物凄い速さで迫りくる剣を前に、椿は表情を変えないまま勢いよく両手を地面へ突き刺すと、渾身の力を籠めてそれを引っぺがした。
「岩盤返し!!」
ゴバッ!!と椿の目の前の地面が周囲の地面ごとめくれ上がり、土の防壁と化したそれが椿を守る盾のように迫りくる剣の前に立ちはだかった。
ドスリと土の防壁に、剣の刃が根本まで突き刺さる。
土の防壁に剣が深々と突き刺さるのを見て軽く舌打ちをしつつも、ライトはまるで猫がするように体を反転させて姿勢を戻し、そのまま地面へ向かって来たるべき着地の衝撃に備えた。
だがしかし、遮蔽物のないはずの上空から不意に影が射しこんだ。悪寒が走り、上空へと視線を向けると、その先には、
―――信じられないことに、土の防壁の後ろに隠れていたはずの鬼の少女が、いつの間にか拳を岩のように固く握りしめて、すぐ目の前まで迫ってきていたのだ。
咄嗟に片手の剣を横薙ぎに振るうが、わずかに距離が足りず少女の前髪を僅かに散らすだけに終わり、さらに足場のない空中での不用意な攻撃によって再び態勢が崩れ、少女に向けて隙だらけの腹部を晒すこととなった。
そしてそんな苦し紛れの1撃には一切の怯みも見せない椿の拳が振り下ろされ、ライトの体に少女の渾身の1撃が突き刺さる。
「天地轟拳!!」
気合いと共に突き刺さった少女の鉄拳によって「く」の字に折れ曲がったライトの体が、まるで隕石が落ちるような勢いで地面に叩きつけられ、衝撃で巻き上げられた雪がその姿を覆い隠した。
遅れて地面に難なく着地した椿は、ライトの落ちた場所を一瞥する。もうもうと雪の舞うその場所には、見たところ動く影は確認できない。椿は「勝敗は決した」とでもいうように背を向けた。
「フン。所詮この程度か」
そう吐き捨てるように呟き、歩き出す。
その台詞と表情の中には侮蔑と共に、なぜか少しだけ失望の色が見え隠れしていたのは気のせいだろうか。
―――と、そこで椿は、涼蘭があんぐりと口を開けて信じられないものを見るような眼でこちらを指差しているのに気がついた。
・・・いや、正確にはこちらではなく、背後のさらにその先を。
「―――おいこら。勝手に終わらせるなよ」
「!?」
雪の中から放たれた言葉に椿は驚いたようにそちらを振り返ると、その先でゆらりと幽鬼のごとく立ち上がる人影が姿を現した。
「ゲホッゲホッ!あーもうくそ。あばら骨数本いったな」
「貴様・・・!?」
なぜ、と身構える椿から一度目を離し、ケタケタと中身のない笑みを浮かべながらライトは土の防壁に突き刺さった剣を引っこ抜く。
あばら骨が折れているにも関わらずその顔には苦痛の色はまったく出ていない。これが見栄を張るための演技だったら、呆れるのを通り越してもはや称賛ものだ。
「対魔法処理済みアダマンタイト複合ミスリル合金製の繊維を編み込んだコートだ。そこらのチャチな鎧よりも頑丈なんでね。それにこの程度の怪我には慣れてる」
あばら骨が数本折れる怪我を“この程度”と呼ぶならば、一体いままでどんな怪我を負ってきたのか、
「いやーそれにしてもあれだ。流石に鬼相手に力を抜き過ぎてた。悪かった、ここからは手加減しねぇよ」
ゴッ!!とライトの体から威圧するような気が放たれる。
再び顔を上げた時、そこにはへらへらとした態度の青年の姿はなかった。
「・・・歯ぁ食いしばれ」
ドンッ!と雪の大地を蹴り上げ、ライトは勢いよく椿に向かって接近した。暗闇と向かい風によって後ろに流れる黒いコートが、まるで黒い疾風のようにその姿を黒く染め上げる。
(また馬鹿の一つ覚えの突進か。また態勢を崩してやる!)
「舐めんな!」
再び椿が足を振り下ろす刹那、ライトは片足に力を込めて地面を蹴り、椿の頭上に向かって飛び上がった。ズンッと再び地面が揺れるが、いくら強力な振動でも地面に足がついていなければ意味はない。
さらに、地面を揺らすために意識を下に集中させていた所為で不意の上への対処が遅れ、現状椿の上半身は殆ど無防備な状態となってしまった。その無防備な上半身に向かって、ライトは腰を捻り頭へ振り下ろすように蹴りを放つ。
それを咄嗟に腕で受け止めた椿の顔が、僅かに苦痛に歪む。
だがそれで終わりではない。第一波を防いだと思ったら、続けざまに第二波が襲いかかる。
1撃目を防がれることは予め予測していたのか、ライトは蹴りを防がれた刹那に、無言で剣を振り下ろした。
「なっ、しま―――」
椿の言葉を遮るように、ガツッと硬いもの同士がぶつかり合う甲高い音が響きわたる。
ライトの双剣が、椿の手首にはめられていた腕輪にぶち当たったのだ。
「チッ」
ライトが舌打ちをしながら椿から一定の距離を取る。
―――と同時に、未だ態勢を立て直していない椿に向かい、容赦なく両手に握る双剣を投げ放った。
(―――もらった!)
勝利を確信し、ライトの口元に不敵な笑みが浮かぶ。―――だが、
弾かれる甲高い音が鳴り、投擲された剣がライトの頬を掠めて後方に弾き飛ばされた。
素早く後方に目を走らせると、双剣はかなりの後方に弾き飛ばされていた。今の状況で回収するのは恐らく無理だろう。
そして椿の手にはいつの間にか、その小柄な体のどこに隠し持っていたのかわからない程大きい、雷を帯びた金棒が握られていた。どうやら先程の剣は、この金棒で打ち返したものらしい。
ライトの頬からは、剣が掠めた時にできた傷口から一筋の血が流れ、ライトはキッと椿を睨む。
「勝負ありだな。流石に武器がなくては私には勝てないだ―――」
言い終える前に、黒い影が椿に急接近してきて、その頬をぶん殴った。
「うるせえ!そもそもてめぇなんか拳で十分だ!!」
椿をぶん殴った拳を誇示しながら、ライトが叫ぶ。遅れて、不意に殴られたことで少し唖然としていた椿も少しずつ事態が呑み込めてきたのか、その顔にだんだんと怒りが蘇ってきた。
「そうか・・・、死んで後悔するなよ痴れ者!!」
「うるせぇ泣くまで殴る!!」
両者が再び拳を振り上げながら激突する。
そして2人は喧嘩の第二ラウンドに突入しようとした、―――その瞬間。
『そこまでだ!!』
どこからともなく聞こえてきたその声を合図に、上空から複数の矢が襲いかかってきたのだった。