5・351-352

―――部室に入ったら、風が包丁をじっと見つめていた。
そのまま回れ右をして出て行きたくなるのを必死に堪える。
万が一の時の為に刃物対策のノウハウが頭を過ぎるが、それを風相手に容赦なく使えるかは解らない。

「ああ、夏凛。早かったわね」

風がこちらを向いて、本当に何でもない様子で声をかけて来る。
いそいそと包丁に布を巻きつけて、鞄の中にしまうのを確認してから全身の筋肉を弛緩させた。

「あ、あんたね、何してるのよ!?刺されるかと思ったわよ!?」
「包丁は料理をする為の物で、刺す為に使ったら職人が泣くってもんよ。まあ、これは大量生産品だけどね」

あまりにも風の口調はいつも通りで、目を見ても妖しい気配の欠片すらない。
少なくともいきなり私に切りつけて来たり、意味不明なことを叫んで部室を飛び出していったりはしなさそうだ。
けれど、それが却って部室で包丁を眺めているという奇行の異常さを深めてもいた。

「…いやー、恐い思いさせちゃった?完成型勇者様でもやっぱり刃物は恐いんだ」
「か、からかうな!てか、あんた根本的なこと聞くけどさ…その包丁、何処から持って来たのよ?」
「ん?ああ、家からよ。これ犬吠埼家の包丁。ウチのだから大丈夫」

窃盗とかは最初から疑っていないので、その事実で何を安心すればいいのか解らない。
むしろ何で学校に自分の家の包丁を持ってくる必要があるのか。
まだ凶行を起こす為と言った方が納得は行くが、風は誰かを切りつける気はないらしいし。

「うん、家に置いておくと危ないからさ。でも捨てたら今夜の夕飯作る時に困るでしょ?
 あたしもさ、やっぱりこれが手に馴染んでるから一番使いやすいし…」
「いやいやいや!学校で持ち歩いてる方がずっと危ないでしょ!見つかったら没収ってレベルじゃないわよ!」
「でも、私が持ち歩いてれば樹は安全だし」

―――樹?
どうやら話がいきなり確信に突入したらしいが、どうして急に彼女の名前が出るのか。
今までだって2人は同じ家で暮らしていて、包丁は台所にずっと在ったはずなのに。

「昨日、東郷がまとめてくれた活動報告書を提出に行ったんだけど、ちょっとトラブってね
ああいや、単に先生が忘れて帰りかけてただけなんだけどさ。樹に先に帰らせて追い掛けたワケ
―――どうしてあんなことしたんだろう」

それまでは一応まともだった風の目がいきなり曇った。これ程までに風が後悔しているなんて。
まさか樹に何かあったんじゃ?そう言えば朝から樹の姿をまだ見ていない。
勇者時代の記憶がPTSDになって突発的に―――なんてことも絶対ないとは言い切れない。

「そうよ、あの時ちゃんと一緒に帰ってれば…樹が料理を作ることなんて無かったのに」
「…………はあ?」

料理を作った?樹が?いや確かに生活無能力者な樹が料理を作るとか稀代の事件だけど。
私の体からみるみる緊張が抜けて行く。要するに、その時指を怪我したとかそういうことだろう。
それで包丁を持ってくるのは正直ヤバいと思うけど、それでもシスコンの風ならあり得なくも無…。

「樹は料理なんて作らなくてもいいのにね。ねえ、そうでしょ?」
「…ん?いや、そりゃあんたを楽させたい一心でやったことなんじゃ」
「あたしが!!樹を負担に思ってるとでも言うのか!!」

さっきの僅かな瞳の変化が可愛いとしか思えない豹変。爆発、そんなイメージ。

「樹はあたしを頼って!あたしはそんな樹の世話をして!笑顔や仕草だけで癒されて!
 そんな生活を今まで送って来たんだ!これからもずっと送って行って何が悪い!
 樹はあたしの全てなんだからあたしも樹の大部分を占めてなくちゃいけないでしょ!?
 違う!?ねえ違う!?それが姉妹ってものでしょ!?最愛の相手なんじゃないの!?」
「ふ、風、落ちつ…!」
「―――だからね、こんな危ないものはもう家に置いておけないって思ったの。
 野菜を前に包丁を握ったまま、樹ったらおたおたしてたのよ?
 これが無くちゃ他のことなんてまず何にもできない…あの姿、今思うと可愛かったわね」

一瞬でエネルギーを使い尽したように、風は正気に―――“別の正気”に戻った。
いつものように何処か不敵な笑みを浮かべた、少し抜けているけど勇者部の頼れる部長。
けれど、その内側には強烈な情念を放つ“姉”が眠っていることを、私は理解せざるを得ない。
今更だが、私は彼女が樹の声が戻らないと思った時に大赦に殴りこもうとしたことを思い出す。
実際に私も剣を合わせて絶叫を聞いたのに、どうして今まで忘れていたんだろう。

「…怒鳴って悪かったわね。樹には内緒よ?ちょっとシスコン臭くて恥ずかしいから」

えへへと年相応に見える笑みを浮かべる風に、私はカクカクとロボットの様に頷く。
それしかできなかった。

やがて友奈と東郷が連れ立って部室にやって来て、少し遅れて樹がやって来る。
樹が頬を張られたりしているんじゃないかと不安に思ったけど、彼女はいつも通りだった。
考えてみれば、風がどんな理由があろうと樹に暴力を奮う訳がない。
最近恋人同士になった友奈と東郷が、部活動に支障がでない程度にイチャついている。
風と樹に視線を移す。2人も当たり前のように笑いあっていて、決して友奈たちに負けていない。
これはこれで姉妹は幸せなのかも知れない―――そんな風に思うしか、今の私にはできることが思い付かなかった。


おまけ

―――台所を見ると包丁が無くなっていた。お姉ちゃんがどこかに隠してしまったらしい。
私はそれほど落胆することなく、私服に着替えてから“ある物”を探す。
いつも見ているのに探さなきゃ見つからない辺り、私は本当に生活能力に乏しいらしい。
それはとても大きなものなのですぐに見つかった。掃除機。

一緒に帰りたがるお姉ちゃんに、事務所から電話がかかって来たと言って先に帰って。
後は時間を調節して、お姉ちゃんが帰って来る頃にこれをかけているフリをすればいい。
実際に私が掃除をしたら家の中が滅茶苦茶になって迷惑をかけてしまうから。

これから芸能活動が本格的になったらますますお姉ちゃんと触れ合う時間は減って行く。
お姉ちゃん、もっともっと私のことを見詰めて。東郷先輩が友奈先輩にするみたいに。
部屋の中からでも聞こえるくらい足音を立ててお姉ちゃんが階段を駆け上がって来る。
それじゃご近所に迷惑だよ―――“誰か”より私を優先してくれてありがとう。
私は頬を緩めながら、ゆっくり掃除機のスイッチを入れた。
最終更新:2015年02月09日 14:31