5・506-510

(――困ったことになったわね)

 勇者部の部室で、東郷美森は悩んでいた。
 眉間にしわを寄せた東郷の険しい顔。その頬を、誰かの舌がぺろり、と撫で上げた。
 東郷はくるり、とそちらを振り向いて、その舌の持ち主の顔を真剣に見つめる。
 「どうしましょう……友奈ちゃん」
 東郷の質問を受けた結城友奈は「?」と首をかしげ、頭の両側の犬耳をぴこぴこと動かすと

 「わん!」

 と、元気よく答え――もとい、鳴き声を上げた。


 そもそもは、東郷が次回のレクリエーションで披露するつもりである余興、『催眠術』が原因だった。
 「……難しかったけど、だいぶマスターしたから、きっと本番までには完璧になっているはずよ」
 「わーっ、すごいなー、東郷さん。本当に何でもできちゃうんだね!」
 勇者部のティータイム恒例、東郷手製のぼた餅を食べながら、東郷と友奈はふたりで談笑しあっていた。
 「でも、催眠術ってどんな感じなんだろう? わたし、かけられた事ないからわからないやー」
 「それなら、ちょっとだけ試してみる?」
 腕組みをしてうーんと考え込む友奈に、東郷は軽い気持ちで持ちかけた。
 「えっ、今、ここでできるの?」
 「基本的に、道具は使わない方法だから……友奈ちゃんは、椅子に座ってリラックスしていてくれればいいわ」
 「へーっ、面白そう! やってみようよ!」
 と、いう話の運びとなり、東郷は友奈に催眠術をかける事になったのである。
 「それじゃあ、目を閉じて、肩の力を抜いて……」
 「えへへ、なんだかドキドキするね」
 「ほら、友奈ちゃん、そんなにわくわくしてちゃあ、上手く行かないわよ?」
 初めのうちは緊張や興奮からか、そわそわとせわしなかった友奈の様子も、数分経つうちに、いくぶん落ち着いてきた。
 「友奈ちゃん、私の声が聞こえる?」
 「……うん」
 「今、友奈ちゃんはすごくいい気持ちね。頭の中は、私の声でいっぱいで、なんでも私の言うとおりになってしまうの」
 「うん」
 「それじゃあ、これから三つ数えたら、友奈ちゃんは……ええと……ワンちゃんになって、目を覚ましてしまうわ。
  ……いち、にい、さん!」

「……まさかここまで完璧にハマってしまうとは……素直な友奈ちゃんの『いい子度』を甘く見ていたわ」

 膝の上に頭をすりよせ、「くん、くん」と鼻を鳴らす友奈の頭を優しくなでてやりながら、東郷は思う。……あるいは催眠を
かける前に、自己暗示の一環としてつけさせた、この犬耳つきカチューシャの効果もあったのかもしれないが。
 「お手本通りの手順を踏んでも、元通りに戻ってくれないし……本当に、どうしましょう」
 困り顔の東郷を尻目に、当の友奈は元気いっぱいの様子で、きゃんきゃんとそこら中を飛び跳ねている。見方によっては、
普段の友奈と変わりないように見えるかもしれなかった。
 そのうち、友奈がぴくり、と何かを感じ、くんくんと鼻をうごめかす。
 「どうしたの、友奈ちゃん? ……ああ、残っていたぼた餅を見つけたのね」
 唐草模様の包みの中にはまだ数個、ぼた餅が残っていた。東郷はそれを取り出し、手の上に載せて友奈に差し出す。
 「ほら、お食べ、友奈ちゃん」
 友奈は嬉しそうに――もしあれば、尻尾をちぎれんばかりに振っていたほどに――かぷっ、とそのぼた餅に食い付き、
わふわふと美味しそうに食べ始めた。
 「ふふ、気持ちがワンちゃんになっていても、やっぱり友奈ちゃんは友奈ちゃんのままなのね」
 と、若干笑みを浮かべた東郷が、自らもぼた餅をぱくりと食べる。
 その時。

 「……わんっ!」

 と突然飛びかかってきた友奈が、東郷の口めがけてまっすぐキスをしてきた。
 「!?」
 突然の事にその場で身を固まらせる東郷。友奈はそんな東郷にお構いなしに、ぺろぺろと口元にわずかに残っていた
あんこをなめ取るのに夢中の様子だった。
 「ゆ、友奈ちゃん、そんな、大胆……っ!?」
 思わぬ奇禍に見舞われた東郷だったが、続けて友奈の舌が、口内に残った糖分まですくい取ろうとするに至ってはもはや、

 「~~~~~~~ッッ!!」

 と、雷鳴に貫かれたかのように体をびくびくと激しく痙攣させることしかできなくなってしまった。

「……わんわん、わーんっ!」

 やがて、東郷の口を心行くまで味わった友奈は、ばっと身を離し、喜びの遠吠えを上げていた。
 それとは対照的に、
 「……はぁ……はぁ…ゆ、友奈ちゃん、意外と、技巧派で……」
 ぐったりとしてしまった東郷が、息も絶え絶えにあらぬ事をつぶやいていた。
 「……と、とにかくこれは由々しき事態ね……! 私はまあ、いいとしても、他の皆に誰彼かまわずキスをするように
  なってしまっては、勇者部の沽券に関わるというものよ!」
 きっ、と意を決した東郷はどうにかこうにか身を立て直し、とっさに思いついた対処法に取りかかる事にした。
 「友奈ちゃーん、ほら、こっちにおいで」
 「わん?」
 犬となっても東郷の言う事には素直に従うらしい友奈が、ととと、と駆け寄ってきて、東郷の目の前の床にちょこん、と座る。
 「そう、いい子ね。いい子だから、そのままじっとしていてね?」
 「くぅん?」
 そのまま東郷は、初めに友奈にかけた催眠術と同じ手順を用い、友奈をもう一度催眠状態に導く。
 「落ち着いてきたかしら? 友奈ちゃん」
 「……わん」
 「それじゃあ、よく聞いて。私がこれから三つ数えたら、あなたは『結城友奈』になって目覚めるの。ぱん、と
  手を叩いたら、あなたはもうすっかり、元の友奈ちゃんよ。……いち、にい、さん!

「……あれっ? 東郷さん?」

 ふっと目を覚ました友奈は、自分がどうしていたのかも分からない様子で、きょろきょろを辺りを見回した。
 「……よかった、元に戻ってくれたのね、友奈ちゃん」
 ほっ、と東郷が安堵のため息をついて、胸をなで下ろした。
 「ええと、わたし……あっ、そうだ。東郷さんと、催眠術の話をしていて……あれ? それから、どうなっちゃったんだっけ?」
 頭に人差し指を当てて考え込む友奈。そんな友奈に東郷は、
 「……ちょっと、上手く行かなかったみたいだったわ。友奈ちゃんはただ、ずっとここで眠っていただけよ」
 と、優しく教えた。
 「なあんだ、ちょっぴり残念だったかも」
 えへへ、とばつが悪そうに笑う友奈を見て、東郷もうふふ、と笑う。

 ――さすがに、あった事をそのまま説明するわけには、いかないものね。


 「あー、なんだか緊張したせいか、また甘いものが欲しくなっちゃった。東郷さん、ぼた餅、まだ残ってるかな?」
 「最後の一個があるわ。私はもうお腹一杯だから、友奈ちゃん、どうぞ」
 「わーい、ありがとう、東郷さん」
 喜ぶ友奈を残して、東郷はお茶をくみにキッチンへと向かう。
 (……それにしても)
 こぽこぽと沸かしたお湯を湯のみに注ぎながら、東郷はさっきの出来事を回想する。
 (……柔らかかったなあ、友奈ちゃんの唇……)
 ほんのりとしたその気持ちに、ぽっと頬を染めながら、東郷は苦笑する。

 ダメね、しばらくは、忘れられないかも。

「お待たせ、友奈ちゃん……あら?」
 一つ深呼吸をして気持ちを整えると、東郷はいつもの調子を取り戻して、友奈の待つテーブルへと
お茶を運んで戻ってきた。が、
 「………」
 そこにいた友奈は、なんとなく、いつもの彼女ではないように感じられた。手にしたぼた餅を見つめたまま、
それを食べるでもなく、じっとして動かないのだ。
 「……友奈ちゃん? どうしたの?」
 心配になった東郷は湯のみをことり、とテーブルに置いてから、友奈にたずねる。すると、
 「……あっ!? とっ、東郷さん!?」
 がたたっ、と椅子を派手に動かしながら友奈が大きくうろたえた。まるで今の今まで、すぐそばにいた東郷にも
気付かなかったような様子だ。
 さっぱり事情の飲みこめない東郷は重ねて友奈に問う。
 「ゆ、友奈ちゃん? いったい何があったの?」
 「うっ、ううん、何でも……なくは、ない、かな。あのね……今、東郷さんのぼた餅を普通に食べようと
  しただけなんだ。そうしたら、急に……」
 何故だか友奈はひどく話しづらそうにもじもじしている。気のせいか、顔も赤くなっているようだ。

 「……と、東郷さんと、わたしが、き、ききき……キス、しちゃってる場面が見えて……」

 「ええっ!?」
 掛け値なしに、心の底からびっくりする東郷。
 「わっ、笑わないでね? それが、すごく、夢やお芝居とかじゃなくて……ホントの事みたいで、あ、あはは、
  なんか、恥ずかしくなっちゃった」
 照れ隠しに頭をぽりぽりとかいて笑ってみせる友奈だが、その裏側の動揺は、とうてい隠し切れてはいなかった。
 「………」
 「だっ、だからって、別にわたしが東郷さんとヘンな事考えてるとか、そういう事じゃなくって……って、東郷さん?」
 あわあわと弁解しようとする友奈をよそに、東郷はすでに心の中で、強い決心を固めていたのだった。


 ――明日はもっと、大量のぼた餅を用意してくることと。
 より完璧な催眠術を操れるようになること――その二つを。
最終更新:2015年02月09日 16:35