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α波。ヒトや動物の脳が発生する脳波のうち、8~13Hz成分のこと。
リラックス時の脳波において他の周波数成分に比べて占める割合が高く、これ自体が一種の癒し効果を持つとされる。

「ふう…」

イヤホンを外して一息付く。
五体満足で過ごす日常は私にとって久しぶりで、心地よいと同時に意外なほど疲れが溜まりもする。
友奈ちゃんが戻って来る前はそれどころの精神状態でなく、蓄積した疲れを見過ごしていたのも良くなかった。
体の疲れに加えて精神の疲れ、脳の疲れを実感するようになった私は、ある古典的な方法を試して見ることにした。
いわゆる『癒されるCD』の使用…今使っているのは波の音とイルカの鳴き声を収録したものだ。

「東郷―、今空いてる?」
「ええ、調度聞き終わった所だから。良ければ夏凛ちゃん、どうぞ」
「助かるわ。まったく園子はどれだけ私を振り回したら気が済むんだか」

ブツブツ言いながら夏凛ちゃんは私からイヤホンを受け取ってCDに聞き入る。
そのっちが勇者部入りしてから数週間、勇者部の先輩を名乗って世話役に名乗りを上げたのは夏凛ちゃんだった。
そのっちはテンポが独特なので夏凛ちゃんも勝手が違うらしく、最近は彼女も私のCDの常習者だ。
口では色々言いつつも、2人が上手くやっているのは微笑ましく感じるけれど。

「ただいまー!結城友奈、帰還しました!」
「おかえりなさい、友奈ちゃん。でも少しだけ静かにね?」

口元に指を当てて片目を瞑ると、慌てて友奈ちゃんは自分の口を塞ぐ。そこまで大袈裟じゃ無くてもいいのだけど。
夏凛ちゃんはすっかりCDに癒されているようで、友奈ちゃんの帰還に気付かなかった。

「夏凛ちゃん、何を聞いてるの?」
「イルカと波の音を収録したCDよ。前にも言ったα波が出ていて、とても癒されるの」
「ふーん」

復帰後の友奈ちゃんは体力が前より落ちているはずなのにまったく疲れというものを見せない。
とは言え、彼女が周りに気遣って弱音を最後までは吐かないことは承知済みだ。
いつも見ている、いつも一緒に居ると約束した私が彼女を気にしていないといけない。
改めて気合を入れる私の隣で、CDケースのイルカを見て可愛いねーとか友奈ちゃんは言っている。
可愛いのは友奈ちゃんだと思う。

「私も聞いてみたいなー。水族園のイルカってあんまり鳴かないんだよね」
「そうね、夏凛ちゃんが聞き終わったら友奈ちゃんも一度―――」
「そうだ!東郷さん、イルカの真似してみてくれない?」

………え。

「えっと、唐突にどうしたの、友奈ちゃん?」
「だってイルカの声って癒し効果があるんでしょ?α波が出てて。で、私は東郷さんの声に毎日すごく癒されてる」

不意打ちで恥ずかしいことを言い出す友奈ちゃん。
そのせいでツッコミの手がどんどん鈍ってしまう。

「つまり東郷さんとイルカが合わさればその癒し効果は2倍…いや、計り知れないんだよ!」
「な、なんですってー…いやいや、それはおかしいわ」

流石にこの年になってイルカの真似とか恥ずかしすぎる。
没頭しているとはいえ夏凛ちゃんだって近くにいるのだ、万が一聞かれたら自害を試みるしかない。

「東郷さん、ダメ?大丈夫、誰にも言わないから」
「む、無理よ」
「無理じゃないよ!」
「いや無理…」
「無理じゃない!勇者部五カ条!1つ!成せば大抵なんとかなる!」
「…はい」

予想はしていたが、結局最後は押し切られてしまった。
目覚めてからの友奈ちゃんは、時々私にだけワガママを言うようになった。
彼女の世話をしていた期間が長かったからか、心を今までより更に赦してくれたからかは解らない。
1つだけ確かなのは、それを私が内心では喜んでいるということだけだ。

「そ、それじゃあ…ち、小さな声でやるからね?一度しかやらないから」
「うん!じゃあ準備するね!」

いきなり友奈ちゃんに抱き寄せられて、私の頭の中が真っ白になる。
耳元で『これなら絶対に聞き逃さないよ』と友奈ちゃんが囁く。
友奈ちゃんのぬくもり、匂い、柔らかい感触。全てがCDの比でなく私の脳髄をとろかして…。

「きゅ…きゅいー…」
「もう一回」
「きゅいー…」
「もう一度。できるよね?いい子、いい子…」
「きゅぅいー…」

結局、頭を撫でられながら都合6回、私は友奈ちゃん専用のイルカになりきった。
そっと友奈ちゃんが体を離して、嬉しそうにほほ笑む。

「すごくα波が出てた気がするよ!」
「ど、どういたしまして///」

恥ずかしいやら心地よいやらが混じり合って、まるで桃源郷でフルマラソンをしているような気分だ。
夏凛ちゃんは…良かった、全然気付いていない。うっとりした表情で聞き入っている。
ホッと安堵の息を吐きながら顔を友奈ちゃんの方へ向ける。
その背後、入口の扉でそのっちが親指を立てて覗いていた。

「大丈夫だよ~。私、急な用事ができたからもう5分くらい校内ぶらぶらしてくるしー」
「何の用事も無いじゃない!」
「うわあ!な、なに、東郷…って友奈に園子!来てたなら声かけなさいよ」

何も知らない夏凛ちゃんが復帰してしまったせいで、私は崩れ落ちることもできない。
そのっちが『お疲れ―』と意味深に笑って夏凛ちゃんの背中に寄りかかる。
友奈ちゃんはと言うと涼しい顔で、全然恥じらっている様子が無かった。

「ゆ、友奈ちゃん、あんな場面見られて恥ずかしくないの…?」
「どうして?東郷さんと一緒で恥ずかしいことなんて何もないよ」

―――とりあえず、明日からはまた別のCDを持ってくることにしよう。
多分イルカの声を聞くたびに思い出して、癒されるどころで無くなってしまうから。
最終更新:2015年02月09日 16:36