5・695-700

 鳴り響く目覚ましの音を止めて。
 今朝も、やわらかい声で呼びかける。 

「樹ー、朝よー」

 そっ、と肩を揺らしてやれば。
 震えた瞼が、ゆっくりと持ち上がった。

「おはよ、樹っ」

 寝惚け眼の、あたしの可愛い『妹』は。

「……お、はよぉ、お姉ちゃん」

 へにゃり、とゆるく笑って。
 少し掠れた『声』で、そう答えてくれた。

 ――……ああ。

 頬が、ゆるむ。

 ――……樹の『声』だ。

 耳から、なんとも言えない感情が、体中に浸透してくるのを感じる。
 視力を取り戻してから。

 樹の笑顔が、あたしの目には、妙に眩しく映るようになった。




 樹と二人で、朝ご飯を食べて、学校に向かう。
 それは、毎朝繰り返してきた『日常』だけど。
 最近は、少し、変化が生まれた。

「手伝うよっ」

 朝食後の後片付けを、率先して手伝ってくれるようになった。
 最近の樹は、行動力が増したように思う。

「おはよー、樹ちゃんっ」

 だから、なのか。
 友達も、沢山出来たようで。
 登校中、樹に声を掛けてくる人が、増えた。

「おはよう!」

 少し、照れながら。
 笑顔で返事を返す、横顔だって。
 やっぱり、眩しいのだけど。
 なんでだろう。


 樹の声が、遠く聞こえた。




「チラシ、撒いてくるね!」

 勇者部の皆で、近所のチャリティバザーのチラシを作った。
 真っ先に立ち上がった樹は、完成したそれを手早くまとめると、止める間もなく部室から出て行ってしまった。

「樹ちゃん、頑張ってますねっ」

 友奈が、笑いながら言葉を続ける。

「樹ちゃん、言ってましたよ。『いっつもお姉ちゃんにお世話になりっぱなしだから、もっとしっかりして、お姉ちゃんに迷惑かけない私になりたいんです!』って」

 ――……ああ。

 こめかみが、鈍く疼いた。

「……風先輩?」

 東郷が、気遣うように呼びかけてくる。
 でも、聞きたい声は、そんな声じゃなかった。

 ねえ、樹。

『いっつもお姉ちゃんにお世話になりっぱなしだから、もっとしっかりして、お姉ちゃんに迷惑かけない私になりたいんです!』

 その台詞は。
 どんな声で、口にしたのかな。

「……樹を、手伝ってくる」

 一言、そう言い残して。
 あたしは部室を後にした。




「手伝おうか、犬吠埼さん」

 廊下で。

「え? あ、ありがとう」

 戸惑いながらも、男子生徒にチラシを渡す樹をみつけた。

「最近、いっつも頑張ってるね」

 そんなの。
 あたしが、一番よく知っている。
 よく、知っているけれど。

「……お姉ちゃんに、喜んでもらいたいから」


 樹の声が、遠い。




「お姉ちゃん?」

 夕暮れの帰り道。
 自転車を押しながら。
 振り返ることもせず、前を歩くあたしの後を、小走りに追い駆けて。

「お姉ちゃん、どうしたの?」

 少し、息を乱しながら。

「お姉ちゃん、なにか」

 樹は。あたしの『妹』は。


「なにか――……『怖い』ことが、あったの?」


 優しい、声で。


「ッ……!」


 あたしは。
 自転車のハンドルから、手を離した。

「えっ!?」

 樹の、驚いた声が。
 がしゃぁあんっ、という、自転車がコンクリートに打ち付けられた音で、掻き消える。

 その、不確かさと、儚さに。
 鳥肌がたった、から。

「った!?」

 樹の腕を、グイッと掴んで、引き寄せた。
 そのせいで、樹の手も、ハンドルから離れたので。
 2度目の大きな音が、辺りに響く。

「い、た……ッ」

 か細い声を無視して。
 走り出す。

「痛い、よ、お姉ちゃん……ッ!」

「……」

 ただ、家まで、走り続けた。




 勢いよく開いた扉を、叩きつける様に閉ざして。
 その内側で。
 くずおれるように、抱きしめた。
 ひたすら、強く。

「い、いた、痛い……」

 掠れた、声の後で。

「……っ」

 頬に触れる、やわらかな掌の感触。
 顔を上げる。
 目が、あった。

「……お姉ちゃん」

 また、優しい、妹の声。

「痛いの?」

 そうだ、痛いのだ。
 胸が――……痛い、のだ。

 だから。

「目が」

 舌が、もつれる。

「目が、見えなくなっても、いいの」

 震えて、掠れて、裏返って。

「たとえ、両目とも見えなくなっても、関係ないの」

 我ながら、とても、情けない声だ。
 だけど。

「樹が居ればいいのよ」

 だけど、あたしの声なんて。
 どうでもいい。
 どうだって、いいのだ。


「樹の声が、一番近くで聞こえていたら、それだけで――……ッ」


 そっ、と。
 頭を、抱きしめられた。

「……お姉ちゃん」

 樹が、笑うのを。
 吐息で『感じた』。 


「大好き」


 優しくて、甘い『声』が――……鼓膜を破って、脳を揺らす。


「だから、ずっと呼ぶよ。一番、近くで」


「……ッいつき!」

 ただ、名前を繰り返し呼んで。
 強く強く、抱きしめた。

 この腕の中に、閉じ込めるみたいに。

「あたしも」なんて、返せない。
 この気持ちは。

 そんなに綺麗な物じゃない、から。




 ――……眩しくなくてもいいから、その声で鼓膜を破って、脳を揺らして、心を侵して。



 終
最終更新:2015年02月10日 10:58