―――病院の廊下を歩きながら、私は自分がどうしてここにいるのか考え続けている。
それは「病院なんかに用は無い」というより「病院じゃどうしようも無い」という感覚が近い。
私は本来ここに居るべきじゃないのだろうけど、かと言って何処に行けばいいか思い出せない。
何とも言えない据わりの悪さが胸にあって、でも歩き続ける位しか出来ることが無い。
やがて、患者さんは勿論看護師さんともお医者さんともすれ違わないのをいい加減不審に感じ始めた頃。
ぽん、ぽん―――。
随分と弱々しい手を叩く音。拍手の練習をしているような、不定期のリズムが聞こえた。
私はその音の方に向かって歩き出す。他には何の音もしない。
何となく「これは私を呼んでいるんじゃないな」とは思ったのだけど、他に手掛かりが無い。
角を曲がって、階段を昇って、幾つか並んでいる中で1つだけ開いている部屋の前に立つ。
「あの、すいません」
一言断って扉を開く。ぽんぽんという音は、私がこの階に着いてから聞こえていない。
部屋の中には―――とても美しい人が居た。
似ている。最初にそう思った。けれど、少しの間見つめているとそんなに似ていないとも思う。
目の前のこの人も確かに美しいのだけれど、私にとっては彼女の方が少しだけ親しみ易く感じる。
そんな失礼なことを考えている私に向かって、その人は全てを見透かしている様な瞳を向けた。
「―――まったく、嫌になるわね」
「え?」
「ああ、貴女に言ったのではないのよ。
ただ世界は例外なく何時も苛酷で冷徹なのだと、その事実にうんざりしただけ」
世界は苛酷で冷徹。その言葉にドキリとする。何だろう、とても恐ろしい物を見た記憶が過ぎった、気がした。
やっぱり、よく思い出せないのだけど。
「それで、貴女は何処のどちら様なのかしら、迷子さん」
「あ、すいません!私はその、ゆう…」
ゆう…何だったっけ。自分の名前が思い出せない、そのことに愕然とする。
いや、そもそも私はどうして此処に居るのかすら思い出せないのだ。
覚えていることの方がもしかしたら少ないのではないか、そう思い今さらゾッとする。
「ああ、恐がる必要はないわ。思い出せないということは、大事ではあっても大切ではないのよ」
「え?えーと、どういう意味、ですか?」
「そうね、とりあえず互いの呼び方を決めないかしら、迷子さん。
ゆうしか解らないのなら…ゆーちゃん、と呼びましょうか」
そう言ってイタズラっぽく笑うと、随分年上だと思った彼女の容姿が実は私とそう変わらないことに気付く。
その不思議な女の子は、ベッドの上から足を下ろしてこちらに向き直る。
「貴女が名前を思い出せないのに、私だけ名乗るのも何だかアンフェアね。
私の大切なお友達は『しずるさん』と呼ぶから、そう呼んでちょうだい」
女の子―――しずるさんは“お友達”と口にした時だけ、表情をとても柔らかく緩めた。
【しずるさんと迷子の勇者 a lost stray Braver】
「ゆーちゃんは気付いたら此処に居たのね。途中で誰にも会わなかった?」
「うん、全然。不安になっていたら拍手?手を鳴らす音が聞こえたから、階段を昇って来たんだ」
「そう、階段をね」
それがまるで重要なことのようにしずるさんは繰り返す。
そう言えばエレベーターもあった気がする。アレを使えばもっと早かったのだろうか。
「そう言えば、あの拍手ってしずるさん?」
しばらくは敬語を使っていた私だけど、しずるさんから「私は別に偉い人じゃないのよ」と言われたので今は砕けた喋り方にしている。
私の問いかけに、しずるさんは少しだけ楽しそうに笑う。
「上手く手を鳴らすのは難しいのよ。上手に鬼さんを呼べるように」
「鬼?」
「鬼にしては可愛すぎるのだけどね」
それはさっきから度々しずるさんが口にする「お友達」のことだろうか。
ギリリと頭が万力で締め付けるように痛んだ。
「ゆーちゃん、あなたは今いろいろと解らないことだらけで困っているみたいね」
「うん。何だかいろんなことが思い出せなくて。すごく大変なことが一杯あった気はするんだけど」
「じゃあ逆に、解っていることって何があるかしら」
解っていること。私は…ええと、女の子で、確か中学生で、それと―――。
「私が解っているのは『他の人が何を欲しているか解っていない』ということよ」
「どういう意味?」
「ああ、ごめんなさい。友達にいつも話す調子で言ってしまったわね。
人は誰でも大切なものを持っている、生命と同等の価値があるほどの何かを。
けれど多くの人はそれが大切なものだと解っていない、それを欲していることすら気付かない。
けれどどうしようもない『飢え』だけがあるから、それをごまかす為に徒にお金や名誉や権力を求めたりする」
命と同じくらいの価値があるもの。ごまかし。飢え。ギリリ、ギリリ、と頭が痛む。
「けれど貴女は…多分、それを何となく解っている人だと思うの」
「自分の名前も思い出せないのに?」
「それは大事ではあっても大切なただ1つでは無いからよ。
思い出そうとする必要は無い、それを求めたら多分『終えた』後の貴女には何も残らない。
忘れていないことを、ゆっくりでいいから思い返せばいいの。貴女は、何を覚えている?」
私が覚えていること。私は女の子で、中学生で、それから、それから。
そうだ、私はしずるさんと会った時に、既にそのことを考えていたじゃないか。
―――彼女のことを。
「―――東郷さん!」
―――私はすべてを取り戻した。
私は結城友奈。勇者部の皆と世界を守る為にバーテックスと戦って。ミタマを殴りつけて。
多分、そこで力尽きた。それじゃあ、ここは死後の世界でしずるさんは天使?
「人生というのはきっと、ただ1つの大切なものを守り通すことにしか意味は無い。
逆に言うなら、大切なものに気付いているならまだ生命の終焉には早いかも知れない。
取り戻したものに流されてはいけない、それも大事だけど大切なものは何?」
そうだ、私は東郷さんと約束をしたんだ。絶対忘れない、ずっと一緒にいるって。
だからきっと、体はもう力尽きているのに心だけが病院をさ迷っていたんだろう。
道理でしずるさんの手拍子を追った時、自分の足音も呼吸の音も心臓の音さえしなかったはずだ。
「東郷さん、泣いてた…」
いつも見てるって言ってくれたのに。絶対何とかするって言ったのに。
色んな物を見逃して、一緒にいてあげられなくて、恐い恐いって泣かせて。
この上で、また私は約束を破るのか?東郷さんを泣かせ続けるつもりなのか?
―――ふざけちゃいけない。
ぽん、ぽん―――。
随分と弱々しい音が外から聞こえる。
それは手を叩く音じゃない。水滴が落ちる音。誰かの、彼女の涙が落ちる音。
私は開いている窓の方にゆっくりと近づく。その窓枠に足をかける。
「そこから落ちたら、今度こそ死んでしまうかも知れないわよ」
「大丈夫。根性で何とかするから」
「人の想いは強くて弱い。ただ1人で世界の理を覆せるかしら」
「1人じゃないよ。待ってる、ううん、待たせてる人が居る。それに私は―――」
窓の外を見下ろす。私の体と、涙を流す東郷さんの姿がはっきりと見えた
「勇者だからね!」
窓枠を蹴って外に飛び出す。一瞬だけ私の姿は勇者の装束に包まれて、呆けている「私」に一直線に向かう。
視界の隅でしずるさんが手を振っているのが見えた。
私に向かってかな、と思ったけどどうやら違うみたいだ。
東郷さんの向こう側、病院に続く坂道に置かれた自販機の前に女の子の姿。
けれどすぐに私は東郷さんしか見えなくなって。
―――ゆっくりと、開いたままの瞳に光を取り戻した。
結局、目が覚めてからも散々東郷さんを泣かせてしまった私は、漸く退院の日を迎えようとしていた。
前とは逆で、東郷さんが私の車椅子を押してくれている。
みんなと同じで、少しずつ体の機能は回復に向かっているらしい。
けれど、全快するにはまだまだ時間がかかるみたいだ。根性だけでは如何ともし難いこともある。
「この自販機―――」
坂道の途中で見かけたそれは何百年と経っているのか、辛うじて形を保っているだけの代物だった。
「何でも旧世紀からずっとあるそうよ。ちょっとしたモニュメントね」
「誰かが遺したのかな」
「さあ、どうかしら。けれど、夏凛ちゃんによればあの病院は、元は旧世紀の大赦の前身になった組織の研究所だったそうよ。
そこの人達がよく使っていたから、懐かしんで遺したというのはあるかも知れないわね」
私は自分の居た病院の方を振り返る。
坂の上の真っ白なそれは、何だか豆腐みたいだなあと思われた。
「ゆっくり歩んでいくといいわ。貴女の大切な人と一緒に」
そんな声が耳元で聞こえた気がして、病院の窓から一瞬黒い髪が覗いた気がした。
けれどそこは、私が朝まで入院していた病室で。人が居るはずが無くて。
「東郷さん」
「なあに、友奈ちゃん」
「ずっと、一緒に居ようね」
大切な物を守ることだけが、人生の意味。
今は守られるばかりだけど、またいつか互いに守りあえるように。
そう誓って私は、坂道を東郷さんと一緒に下って行った。
【a lost stray Braver.Closed】
余章.勇者と供物と覚悟と
「勇者ってどんな人を言うか解るかしら」
「ええと、
ゲームの主人公とかでよく出て来るあの勇者?それは、やっぱり勇敢だと思われている人じゃない?」
「流石に聡明ね。その通りよ、勇者というのは他人から勇敢だと思われている人のことだわ」
「他人からってわざわざ強調するのね」
「それはそうよ。勇者って要するに、他の人ができないことを代わりにやらせる生贄のことだもの」
「生贄って、何だかそれはちょっと可哀想な言い方だわ」
「例えば勇者は怪物や魔王を退治に行くけれど、別に勇者自身は勇気や正義感は持っていなくてもいいのよ。
周りの人が『あんな恐ろしい物に立ち向かうなんて勇気があるな』って思えばそれはもう勇者。
内心では逃げ出したいと怯えていても、みんな自分だけに任せやがって、死んでしまえと思っていても構わないの。
そういう意味では勇者というのはみんなで作り上げる幻のようなものね、だから犠牲にしても心痛まない」
「…でも、私は自分たちの為に恐いに違いないことに挑戦する人が居たら、やっぱり心配すると思うわ。
ううん、そう思ってくれる人はきっと大勢いると思う。そう思いたい」
「そうね、だから彼女は戻って行ったんでしょうね」
「彼女?」
「勇者が自分から何かを守ろうとした、という話よ」
「よく解らないけど、私も何かあったら大切な人の為に立ち向かえるようになりたいわ」
「危ないことはして欲しくないわね。
けれど貴女の様な人たちがこの世界を『もたせて』来たのでしょうね。
これまでも、きっとこれからも」
最終更新:2015年02月09日 16:45