6・79-80

樹が歌手を目指して芸能事務所通いを初めてから今日でひと月になる。
 社長さんや先輩、同期の子たちもみんな親切で優しいと樹は毎日楽しげだ。
 勇者部の活動が終わるとミサイルみたいに直ぐレッスンに駆けていく姿は、微笑ましいけれど少し心配になる。
 友奈や夏凛ほど体力のある子じゃないし、疲れていても中々そう言い出さない。
 そんな樹の為に―――今日も私は夕食を作って帰りを待つ。

 一緒に並んで帰ることがほとんど無くなって気付いたことがある。
 もちろん寂しいし少しだけ不安にもなるのだけれど…アレだ、新妻気分?
 ドラマなんかでよくあるような、バリバリ働く格好いい嫁を支える家庭的な奥さん。
 そんなシチュエーションに自分を重ねて、たまにニヤニヤしたりする。
 帰りを待つのも、嫌なことばかりじゃない。

「うん、いい感じに水分抜けてるわね。後は生姜のかけ汁を使って…」

 昨日の内に塩を振って水分を飛ばしておいた豆腐を取り出し、ペーパータオルで拭く。
 今日のメニューは揚げ出し豆腐。体が温まるのにサクサク食べやすい冬場の強い味方だ。
 普通はかけ汁に使う片栗粉を塗すんだけど、強力粉を使うのが犬吠埼家流。
 焼くと硬い食感になるので、サクサク感を出すのにはとても便利。

「樹はあんまり辛いの得意じゃないからね…明日もレッスンあるだろうし、生姜は少なめ。
 代わりにオクラを湯通しして少し添えてっと…」

 料理の過程を口に出すってどういう心境なんだろうって、今までは解らなかった。
 朝ごはんを作る時は寝室に、夕ごはんを作る時にはテーブルで皿を並べて、あたしが料理をする時は大抵樹が近くに居た。
 近くに居ない人のことを思って調理する時、色んなことが思い浮かぶ。
 喜んでくれるだろうか、美味しいと言ってくれるだろうか、笑いかけてくれるだろうか。
 少しやり過ぎてしまう時もあるけど、そんな気持ちがあたしを料理に更に打ち込ませる。

「後は帰りの時間に合わせて焼き上げれば…ん?」

 テーブルの上に置いていた端末に着信。
 手を洗って確認して見れば友奈からだった。

『友奈:風先輩、今日もお疲れさまでした!
 質問なんですが、茄子を焼く時ってどうしたら油をあんまりしみこませないように出来ますか!』
『風:油を敷くんじゃなくて、油揚げと一緒にフライパンで炒めるとイイ感じよ』
『友奈:ありがとうございます!d(*⌒▽⌒*)b』

 東郷のお母さんがしばらく家を空けているとかで、最近東郷は友奈の家で夕飯をいただいている。
 最初は東郷がお礼にと持って来てくれる惣菜に舌鼓を打つばかりだった友奈だけど、一念発起。
 色んな料理にチャレンジしているようで、あたしとしては手のかかるけど可愛い弟子が出来た気分だ。
 東郷によれば凄い勢いで成長しているらしい…まあ彼女の贔屓目もあるっぽいけど。
 でも、それが普通だ。好きな人のご飯を特別美味しく感じて何が悪い。

「好きな人かあ…」
 バーテックスとの戦いが終わり、あたしの復讐もひと段落が付いた。
 勇者部のみんなの体も回復して、当たり前の日常が帰って来たけど…変わったものもある。
 あたしの気持ち。樹へと向ける愛情の変化。
 姉妹として、家族としてだけじゃない。樹のお嫁さん気取りで喜ぶ気持ち。
 実の妹への恋慕。それは急に現れたものじゃ無くて漸く結実しただけなのだろうけど。

「そう、それなのよね…たまーにやり過ぎちゃって…」

 “待つ喜び”にまだ気付いたばかりのこと。
 筑前煮に味が染みるのを待つ間、再放送していたドラマを見て時間を潰していた。
 頭の中は完全に主人公と一体化、嫁の帰りを待つ健気な妻モード。
 それでテンションが上がって気付けば―――裸エプロンとかやらかしていた。
 友奈からの質問が来て冷静にならなければ、犬吠埼姉妹最大の危機の引き金だったかも知れない。

「…だってしょうがないじゃない。初恋が妹なんてさ」

 そりゃあ告白されたりアピールされたことはある…旅館で話したのが全てじゃないのよ、本当に。
 けれど、あたし自身が誰かを好きになったのは樹が初めてだ。
いや、ずっと樹が好きでそれに気付いてなかったと考えると年季が入っているのだろうか。

「何でもしてあげたいし、少しでも夢の手伝いがしたいのよ…仕方ないじゃない」

 ふと時計を見上げると、そろそろ樹が帰ってくる時間だ。
 とろみのあるかけ汁は保温の効果もばっちりなので、多少の時間の誤差も問題なし。
 あたしはフライパンで豆腐を焼き付け、鍋でかけ汁を混ぜながら樹の帰りを待つ。
 まるで測ったように、ご飯が炊きあがってから15分で樹のただいまが聞こえた。

「おかえりなさい、あな…樹!今日はお姉ちゃん特性揚げ出し豆腐よ」

 よーし、やらかし回避!
 樹の顔がぱあっと明るくなって、冷えた体で抱き着いて来る。
 この一瞬の為ならどれだけ時間をかけても構わない。
 あたしは“冷めちゃうわよ?”と言いつつも、樹の髪を名残惜しげに指で梳いた。


おまけ

「(私、疲れてるのかな…お姉ちゃんが“おかえりなさい、あなた”って言いかけたみたいに聞こえるなんて)」

 部屋で着替えながら、赤面する頬を冷えた掌でさます。
 まだ本格的にお仕事してる訳ではないけれど、疲れて帰って来たらご飯を作って待ってくれているお姉ちゃん。
 ドラマなんかでよくあるように、健気な妻の元へ帰る格好いいお嫁さんのイメージを自分に重ねたりして。
 そのせいであんな都合のいい幻聴が聞こえるのだろうか。

「(あのドラマ、途中で裸エプロンのシーンがあるんだよね)」

 万が一にでもそんなことをされたら、お姉ちゃんには悪いけど料理どころじゃないかも知れない。
 よこしまな気持ちを必死でかき消して、私はお姉ちゃんの待つ食卓に向った。
最終更新:2015年02月09日 16:59