6・107-112

気が付いた時、私はまた、暗闇の中でたった一人だった。

 それは生半な暗闇ではなかった。
 四方八方、上下左右、どちらを振り仰ぎ見下ろしても、視界にはかすかな変化すらない。すぐ眼の前にあるはずの自分の
手さえ影も形も認識できない、漆黒にべったりと塗りつぶされてしまったかのような暗闇だった。
 そしてその暗闇には音がなかった。どれだけ耳を澄まして集中しても、耳鳴りすらも聞こえない、完全なる無音。いったい、
この騒々しくもにぎやかな世界で、いかにすればこれだけ音を排除できるのかと思う程の静寂だけが広がっていた。
 光も、音もない空間。この場所で、私は一人きりだった。
 それでも、私には経験がある。
 戦士として、訓練を重ねて培った、鋭敏な感覚は残されている。

 周囲のどこかで、何かがかすかに動いている気配がした。

 私は即座に戦闘の構えを取る……が、その瞬間、まるで操り人形の糸がぷつん、と切れたかのように、左手と左足に
力が入らなくなってしまった。
 途端にバランスをくずした私はがくん、と膝を折りながらも、残された右手と右足をせいいっぱい踏ん張り、襲い来る敵に
備える。
 どこだ? いったいどこから向かってくる?
 敵の動きは素早く、感じる気配の位置もその度に変化しているようだ。捉えきれない相手を感じながら、私は音もなく
舌打ちをする。
 (……くそっ、ここにあの子たちがいてくれれば……)
 頭の中に浮かんだその悔恨を、私はふと反芻する。……あの子たち? あの子たち、って……
 唐突な疑念に、ふと思考が空白になった、その一瞬。

 ぬるり、と何かおぞましいものが、右足に絡みつく感触がまとわりつき――


 「―――いやぁぁぁぁっ!!」


 私――三好夏凜は、自室のベッドの上で飛び起きた。

「……はぁっ、はぁっ……」

 呼吸が荒い。心臓が、やかましいほどにどくどくと脈動を速めている。
 私は胸にぐっと手を当て、ひたすら気持ちが落ち着くまで耐えた。今はもう、先ほどまでの暗闇と無音が、夢の世界だった
事には気付いている。そして、あの夢を見て目覚めた時には、決まって気分が不安定になっているのだ。
 「………っ、ふぅぅ……」
 やがて、息も心拍もどうにか収まってきたのを察し、私はゆっくりと息を吐いて、ベッドサイドの時計を見た。時刻はちょうど、
午前2時になるところだった。
 (……水でも、飲もう)
 ぎし、とかすかにスプリングを軋ませて、私は台所へと向かう。冷蔵庫の中からペットボトルを取り出すと、グラスに注いで
くい、と飲み干した。
 その一連の動作には、今や何ら、後遺症は残っていない。二本の足で部屋を横断し、右手でペットボトルを傾け、左手の
グラスであふれる水を受けるのには。
 (――それなのに)

 夢の世界にだけは、まだ、あの闇としじまが色濃くこびりついているのだった。

 ベッドに戻った私は布団をかぶり直し、横になる。だけど、どうしても目をつむる気にはなれなかった。
 眠ってしまえば、きっとまた、悪夢を見る。それが恐くて、眠ってしまう事ができない。ここ数日、ずっとこんな夜が
続いていた。
 そんな寝苦しい夜に、私が決まって思い出す事がひとつあった。

 「………友奈……」

 私は一つ寝返りをうち、今はきっと、自宅の寝室で安らかに眠っているはずの、友人の名をそっと呼んだ。

……バーテックスとの決戦の舞台で、私は一度、すべてを失った。
 東郷が破壊した壁の向こうから、群れを成して襲ってくる大型バーテックス達。それに対抗するためには、満開の力が不可欠
だった。
 だから私は、何度も力を解放した。その代償として、神樹に奪われるものを承知しながらも。
 あの時の私は、自分の体が代償で済むのならば安い物だと思っていた。それであの子の――友奈の涙を、止められるのならば。
 けれど。

 (……何も……見えない……何も……聞こえない……?)

 散華と共に襲ってきた現実は、いとも簡単に私の心を、冷え冷えとした氷の刃で斬り刻んだ。

 (………怖い……!!)

 すぐそばに、危害を成すものがいたとしても、それに注意を払う事が出来ない。たったそれだけの事実が、私の戦意をみるみる
うちに萎えさせた。
 樹海の地面にどさり、と転がり、動けないままにぶるぶると私は震えていた。

 嫌だ、寒いよ、誰か、助けて――

 その時だ。
 私は突然、誰かにぐいっと身を起こされた。
 その『誰か』は何度も何度も私の体を激しく揺さぶり、右手をしっかりと握り、ぴったりと私に寄り添ってくれた。
 体を通して伝わってくる温もりが、どんな言葉よりも、どんな表情よりも、雄弁に私に伝えてくれた。

 ああ、これは。
 私の、大切な友達――結城友奈だと。

「……寂しいよ、友奈……」

 私は枕に顔をうずめ、もう一度つぶやいた。
 目と耳を失った私にとって、その時、友奈だけが世界の全てだった。
 右手を握る力強さと、抱きしめられた体の温もりと、頬を伝って私の顔にこぼれ落ちてきた涙の優しさが、私が感じる事の
出来る全てだったのだ。
 その温もりが、私は今でも忘れられずにいる。
 もう一度、あの日のように抱きしめてほしい。
 冷え切った私の心と体を、優しく温めてほしい。
 言葉に出したりはしないけれど、私の胸の奥底には、ずっとずっと、そんな願望が潜んでいたのだ。

 ――そして私の手は、去ってしまった温もりの残り香を求めて動く。

 「……ん………」
 布団にくるまったままで、私はもぞもぞと体を動かす。
 私の右手は、私の体の中でもっとも温かい――熱い、箇所をめがけて、するすると動いていく。まるで今でもそこに、友奈が
くれた体温が残っているとでもいうかのように。
 「……友奈……友奈……っ!」
 名前を一度口にするたびに、身体が熱を帯びていく気さえする。手の動きは止まらず、ぼやけた私の頭は、脳裏に都合のいい
妄想を描き出す。

 (……夏凜ちゃん……私、ずっと、夏凛ちゃんの事が……)
 (友奈……!)

 「………っ!」

ひし、と優しく抱きしめられる感触を想像しながら、私はひとり、無心に自分を慰め続けた。

「……ふぅ……」

 火照った体をさますため、私は毛布をはいで部屋の空気に身をさらし、胸の奥に溜まっていた空気をふぅぅ、と吐き出した。
吐息とともに、悪夢に怯える臆病な気持ちも散らしてしまうかのように。
 私はちらりと時計をうかがう。文字盤の針が示しているのは午前2時半だ。
 「……早く寝なくちゃ。明日も学校だもんね」
 私は乱れたパジャマを整えると、毛布をきちんと引き寄せてかけ直し、ぽすん、と枕に頭を預けた。

 ……明日になれば、また学校で、友奈に会える。
 それをとても楽しみにしている自分がいる事を、しかし私は素直な気持ちで受け入れていた。以前の私からは考えられなかった
変化だ。
 だけど、それも無理のない事だと思っている。
 私はもう、あの優しさを知ってしまった。心から想いを寄せてくれる人だけが与えてくれる、本当の優しさを。子供っぽい
意地で、かたくなに閉ざしていた私の心を開かせるのに、それは十分すぎる効果を持っていた。
 私はきっと、もう一人だけで生きていくことは出来ないだろう。例えそれが――友奈でなかったとしても、共に歩み、共に
支えあい、共に幸せを分かち合う誰かと一緒に、これからの人生を生きていくことだろう。
 他人の存在により心の安らぎを得て、それを心の支えとして――見ようによってはすがるようにして、生きていく。

 (……私は、弱くなったのかしら……?)

 ベッドの中で、私は心の中だけで自問自答する。
 ううん、違う。それはきっと。

 『大人になる』という事なのだ。

(――そうだ。明日はきっと、友奈と手をつなごう)

 うとうととまどろみ出した思考のかけら同士で、私はぼんやりと考える。

 『抱きしめて』なんて言う事は出来ないけれど、手をつなぐだけなら、私にだって。
 部室で、廊下で、帰り道で? どこだっていい。そっと隣に並んで寄り添い、すっと自然に手を差し出そう。今の私になら、
きっとやり遂げられるはずだ。
 風のヤツに見られたら、またからかわれてしまうだろうから、気を付ける必要があるだろうな。あと、東郷には別の意味で
目撃されるのはマズいだろうな。
 友奈、驚くかな。それとも照れたみたいにはにかんで、私の手を握り返してくるのかな。
 私は、何て答えるんだろう?

 (――なっ、何よ……何か、文句ある……?)
 (――す、少しだけ、黙って握らせてなさいよね……)
 (――寒いから。手、あっためてあげるわ)

 それとも。
 何も言えなくて、ずっと無言のまま、歩き続けていくのかな。手をつないだまま、二人で足並みをそろえて。
 二人がいい。私と、大好きな友奈と、ずっと一緒にいられたらいい。
 いつの日か、あの時に友奈がしてくれたみたいに、友奈を元気付けて、励まして、支えてあげられる日が来るといいな。

 友奈。

 (――私と出逢ってくれて、ありがとう)


 いつの間にか、私の意識は眠気の霧にかすんでしまい、朝までぐっすりと眠り続けた。
 夢も見ず、幸せな気分にひたったままで。
最終更新:2015年02月09日 17:02