6・344

 「ん~……ちゅっ♪」

 狭いベッドに、二人分の体を押し込めて。
 あたしは樹のおでこに、ちゅっ、と唇を押し当てた。
 「……えへへ、くすぐったいよぉ~、お姉ちゃん」
 樹がおでこをおさえて、恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべる。
 「え~、だってだって~、樹がこーんなにチューしちゃいたくなるおでこなのが悪いんだもーん。……ほら、もーいっかい」
 と、もう一度口をすぼめると、あたしは再び樹の額にちゅっ、ちゅっとキスを降らせた。
 「ひゃんっ。……もー、だったらわたしだって……」
 楽しげにころころと笑いながら、樹があたしの首元に顔を寄せ、そこにちゅぅっ、と吸い付いてきた。
 「あはははっ、だっ、ダメよ、樹っ! そこ、くすぐったいってばっ!」
 「ふふーん、お返しだもんねー」
 樹はあたしの体にぴったりとくっついて離れようとせず、背中に腕を回してぎゅっと抱きつくと、ぽふ、とパジャマの上から
あたしの胸に顔をうずめてきた。
 「……ぷは、お姉ちゃんの体、ほこほこで気持ちいいな……」
 「お風呂上がりだからね。……そういう樹だって、ほら」
 あたしは指を伸ばして、樹の頬を二、三度、つんつん、とつついてやる。
 「すべすべぷにぷにで、まるでお餅みたいにやわらかいわよ? もー食べちゃいたい、なーんてね」
 「もー、お姉ちゃんってばー」
 あはははは、と声をそろえてあたし達は笑う。
 「……さて、もう遅いし、そろそろ寝ましょっか。電気消すわよ、樹?」
 「えー、もうちょっとお姉ちゃんと遊びたいよー」
 「だーめ、明日も学校で早いんだからね」
 ぶー、と口をとがらせる樹に構わず、あたしはぱちん、とスイッチを切り、部屋の照明を落とした。


      ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇      


 「……そう言えばさ、樹」
 「なーに?」
 「入学式は、どうだった? クラスにお友達になれそうな子、見つけられた?」
 電気を消してもなお、胸元から離れない樹の頭をやさしくなでつつ、あたしは樹に尋ねた。
 「んー……まだ、わかんない」
 「そっか、仲良しになれる子、いるといいね」
 「……うん」
 小さな声で返事をすると、樹はますますあたしにしがみついてきた。

 ……そう、私の妹――犬吠崎樹は今日、晴れてめでたく中学生に進級したのである。あたしと同じ、讃州中学の一年生だ。
 そして。

 「そうそう、放課後は、勇者部に挨拶に行くからね。授業が終わったら迎えに行くから、教室で待ってるのよ」
 忘れてはいけない大事なことを、あたしは樹に伝える。
 「うーん……どうしても、入らなきゃダメ? わたし、他の部活にもいろいろ興味があるんだけど……」
 「ダメダメ。妹なんだから、お姉ちゃんのお仕事くらい、手伝いなさい?」
 「ちぇっ」
 不満そうな樹の体をぐい、と抱き寄せ、あたしはなだめるようにぽんぽんと背中を叩いてあげる。
 「わたし、他の先輩と仲良くできるかなあ……結城さんと、東郷さん……だっけ?」
 「そうよ。二人とも、すっごく優しい子だから、心配しなくても大丈夫」
 「ねえ、挨拶する時は、お姉ちゃんもそばにいるんだよね?」
 「はいはい、ちゃーんと隣にいてあげるから」
 なおも心配そうな樹を安心させるように、また、頭をさすさすとなでてあげる。それでようやく気持ちが落ち着いたのか、
樹はえへっ、と笑顔になって、
 「じゃ、がんばる」
 「うんうん、いい子いい子」
 次第にとろとろと目をつむっていく樹の顔を、あたしは優しく見守っていた。
 「……友奈は明るくて、誰かのために頑張るのが得意な女の子でね。ま、ちょっと元気すぎるトコもあるんだけどね」
 「うん」
 「東郷は……そうねえ、一口で言うには、なかなか難しい子だけど……でも、すごく芯がしっかりしてる子よ。
  手先が器用だから、樹も色々教えてもらうといいわ。折り紙とか……手品とかね」
 「うん……」
 やがて樹の口数は減っていき、合間合間にくー、くーという静かな寝息が挟まるようになってきた。その事に気づいた
あたしは、ぽんぽんと叩き続けている背中はそのままに、樹に軽く呼びかける。
 「……あれ? おーい、いつきー。お姉ちゃんと、もっとおしゃべりしましょうよー」
 樹の寝顔に、反応はない。あたしはもう一度、名前を呼んでみる。
 「いつきってばー」
 「すぅ………すぅ………」
 幸せそうな寝顔にも、安らかな吐息にも、何ら変化は見られなかった。
 「………樹」
 耳元でぼそり、とつぶやいてみても、やはり、起きる気配はない。どうやらやっと、本当に眠ってくれたようだ。

 「…………………」

 あたしは樹の背中を叩く手をぴたり、と止め、ふっとひとつ、短い息を吐く。
 それから、抱きつかれたままの樹の手を、目を覚まさせないようにゆっくりとすり抜けて、ベッドの上に身を起こすと、
樹の体をそっとまたぎ越してベッドを降りる。一度だけ、ちらりと樹の寝顔を振り返って見てから、そのままそろりそろりと
樹の部屋を出て、リビングへと出た。
 音を立てずに仕切りの戸を閉め、キッチンへと向かう。ケトルに水を入れて湯沸かし器にセットすると、戸棚からインスタント
コーヒーの瓶と、古いマグカップを取り出した。
 その場でシンクにもたれかかり、ぶらぶらと片足を遊ばせながら、あたしはふうっとため息をついた。

 (……中学生にあがるまでには、『卒業』させるつもりだったんだけどな)

 やがてこぽこぽとお湯がわいたのに気付き、マグカップにざっとコーヒーの粉を放り、しゅんしゅんと湯気の立つお湯を
注ぐ。たちまち熱を帯びるマグカップの取っ手を持って、慎重にリビングのテーブルへ運んで腰かけた。
 飲みやすい温度になるまで待とうと、軽く波打つ琥珀色の水面をぼんやりと見つめるうちに、あたしの意識はふと、その
カップの、本来の持ち主に思いを馳せる。

 (――上手くいかないものね、お母さん)

 あたしはカップを取り、ぐっ、とブラックのままのコーヒーを飲みこむ。
 かすかに苦味走った空気が、口の端から漏れ出て行った。


      ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇      


 そもそもは、あたし達姉妹が、バーテックスの襲撃によって、お父さんとお母さんを亡くしたあの日から始まった事だった。

 大赦の職員によってもたらされたその報せは、まさに青天の霹靂だった。のしかかる現実はあまりにも重苦しく、あたしは
その場で崩れ落ち、泣き叫び出す寸前だった。
 だけど、あたしの陰には樹がいる。あたしの大切な――そして今では、たったふたりきりの家族が。
 その事に気づいて、あたしはどうにか倒れずにいられた。あたしがくじけてしまったら、誰がこの幼い妹を守るのだ、と。
 それからというもの、あたしは必死になって樹の親代わりを務めてきた。時にはお母さんの代わりとなって樹の世話を焼き、
またある時には、姉妹二人きりの暮らしを支えてくれる大赦の活動に参加して、お父さんのように家庭を支えてきた。
 ――樹にとって、深刻な不便が生じないよう、また残酷な迫害が起きないくらいには、上手くやれてきていたはずだ。
 事故の直後こそふさぎこんでいたものの、樹も少しずつふだんの様子を取り戻し始めてくれて、あたしの事を慕ってくれた。
庇護する相手に頼られることに、悪い気持ちはしなかった。
 だけどやっぱり、そういう不自然な関係の歪みというものは、多かれ少なかれ、どこかに現れてしまうものなのだろう。

 この2年間で、樹はすっかりあたしに依存しきり、クラスの友達とも距離を置くほど、内向的な子になってしまった。

 「――やっぱり」
 もう一口コーヒーをすすり、手の中で軽くマグカップをもてあそびながら、あたしは独り言をつぶやいた。
 「ニセモノの『お母さん』じゃ……限界があるのよね」
 見るともなく、あたしの視線は両親が使っていた寝室へと向いていた。

 二人きりになってしまってから、あたしは樹に対して、めいっぱい愛情を持って接してきた。いなくなってしまった二人の分まで、
あたしがあの子を愛してあげなくては、と強く感じたからだ。……だけど、もしかしたら、それは間違っていたのだろうか?
 もしも――もしもお母さんが生きていたならば、ただ甘やかすだけではなく、時に厳しくしかったり、突き放したりすることで、
樹に反骨心や、自立心を芽吹かせるような愛し方をしていたのだろうか?
 あたしにはそんな余裕はなかった。ただ毎日を生きていくのに必死で、自分の人生についてだってゆっくり考える暇がないくらい、
ただ盲目的に、樹が悲しんだり、さみしがったりしないよう配慮する事しかできなかった。
 樹がこの先、どんな女の子に育っていくのか――育ってほしいのか、なんて想像すらしていなかった。
 だってあたしは――あの子の、本当のお母さんじゃなかったから。

 「――早すぎたわ、お母さん」
 頬杖をついて、テーブルの表面に視線を落としたまま、あたしは喉をつまらせながら言う。
 悲しみはすでに溶けて消えた。未だに残っているのは、どうにもならない後悔だけだ。
 「偽物のあたしなんかじゃなくて――『本物』のお母さんにしか教える事の出来ない大事な何かが、きっとあったはずなのに」

 あたしの悔恨への答えは、どこからも届いてこなかった。


      ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇      


 ――それでも。
 それでも、中学生になって、樹を取り囲む環境が大きく変われば、と、あたしは淡い期待を抱いていた。
 交友関係が変われば、付き合い方だって変ってくる。もしかしたらその中に、樹を、あたしのいない――だけど、それ以外に
楽しい事のたくさんある、外の世界へ連れ出していってくれる子がいるかもしれない。
 そのためには樹を縛り付けていてはいけない。授業でも、遊びでも部活でも、大きく道を外れたりしない限り、何でも
好きなようにやらせようと、あたしは決めていた。なるべくあたしから離れたところで、自分と周りとの関係性を作っていって
ほしいと願って。

 それなのに。
 あたしのそんなささやかな願いさえもが、大赦から送られてきた、たった一通の封書によって絶やされてしまった。

 「…………」
 あたしは椅子を引いて立ち上がると、いったん自分の部屋へと戻り、小さな鍵を取ってくる。
 リビングにある、書類や冊子などの収納に使っている茶箪笥の、一番下の段。そこだけが鍵付きになっているその引出の
鍵を開けると、あたしは一番上の封筒を取り出してテーブルに戻った。
 封筒の中に入っているのは、わずか一枚の連絡書類だ。何の飾りも挿絵もない、無愛想なその業務連絡を、これが届いた
一月前から今まで、あたしは何度見返した事だろう。
 何かの間違いであってほしいと。もしかしたら、性質の悪い冗談なのではないかと。
 だが文章にしてわずか数行のその文面は、どう逆さに読んでも間違えようもなく、右下に押捺されている大赦の印は確かに
本物であり、これがまぎれもなく神樹様の意志であることを、嫌というほど証明していた。

 【神託:神世紀300年 4月1日をもって犬吠崎樹を犬吠崎班へ配属させます。つきましては貴方が部長を務める
  讃州中学勇者部に加入させ、校内活動においても常にその動向を把握するよう務めなさい。】

 「………っ」
 繰り返し読み返す内、その紙にはすっかりくしゃくしゃの皺が刻まれ、元に戻らなくなってしまっている。
 読むたびに、あたしの指先がぶるぶると震え、力を込めてしまう衝動が、どうしても抑えられないせいで。



 ……言うまでもなく、あたしの設立した『勇者部』は、ただの奉仕目的のボランティア部ではない。
 バーテックスに立ち向かうための、勇者適性を持つ少女たち――あたしが班長となる『犬吠崎班』においては
結城友奈や東郷美森をひとところに置いておき、有事に備えるという裏の目的が存在する。その設立や二人の勧誘も、
基をただせば大赦からの指示に従い、行った事だった。友奈や東郷には事情を黙っていなければならないのも、あたしに
とっては心苦しい事だったのだが。
 だからあたしは、樹を勇者部に入部させるなどという事は、当然これっぽっちも考えていなかった。逆に、もしも
樹が強い興味を示し、絶対に入部したい、などと言い出したらなんと言ってごまかせばいいか、なんて方向に心を
砕いていたほどだ。
 それがいざ、蓋を開けてみればこの有様だ。
 ……正直に心の中を打ち明けるならば、あたし自身は勇者として選ばれることに、絶対の抵抗感というものはなかった。
お父さんやお母さんの命を奪ったバーテックスに、この手で復讐するチャンスを得られると考えれば、むしろ望むところだと
いう気持ちさえあった。
 けれど、友奈や東郷は違う。あの子たちは本来、戦う理由なんて何もないはずの、ごく普通の女の子なのだ。
 ましてどうして、あの心優しい樹を、戦いの場に駆りたてたりしなければいけないのだろう?

 「……返事、来ないな」
 あたしはテーブルの上に置いていたスマホを取り上げ、メールをチェックする。数週間前に送った、樹の勇者部への
参加の見直し――せめて延期の陳情への返事は、まだ来ていない。
 過去に勇者として戦った人たちの中には、わずか三人で活動していた組もあると、大赦からは聞かされていた。そんな
前例があるのなら、あたし達だってやれない事はないはずだ、というような根拠によるものだったのだが、結局は聞き入れられず、
とうとうこの日を迎えてしまった。
 明日になれば、樹は讃州中学勇者部のメンバーだ。

 (――風先輩の、妹さんなんだよねっ! 私、結城友奈! いつもお世話になってますっ!)

 きっと友奈は、大喜びで迎えてくれることだろう。

 (初めまして、私は東郷美森。これからよろしくね、樹ちゃん)

 きっと東郷は、優しい笑顔で微笑んでくれることだろう。
 二人とも、他人に優しく、友達を大切にし、身の周りの人間を心から愛している女の子なのだから。
 だからこそ、あの二人は勇者の素質を持っているのだから。

 (……は、はいっ! よ、よよ、よろしく、お願いします……)

 今はあたしにべったりの樹も、あの二人に接していればきっと変わってくれる。その事だけをとってみれば、あたしの
願い通りと言えるかもしれない。

 ――そしていつか、『その時』が訪れたとき、樹は、あたし達は――


      ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇      


 「……大丈夫よ」

 あたしは知らないうちに、両肘をテーブルに着き、手の指をぎゅっと強く組み合わせて、そこに頭をもたれかからせたまま、
まるでお呪いのようにぶつぶつとつぶやいていた。
 ――確率の問題だ。
 公にはされていないが、勇者候補として集められているのは、何もあたし達勇者部だけというわけではない。讃州中学だけでも
似たような数人単位の班が、他にも存在するはずだ。数組? 数十組? もしかしたら、百組を超えているのかもしれない。
 それに大赦は、生き残った四国全域で勇者候補の調査を行っているはず。だとしたら、あたしが知らないだけで、さらに
他にも勇者として選ばれる可能性を持った女の子たちは大勢いるのだろう。

 そんな中で、あたし達讃州中学勇者部が『当たり』を引いてしまう確率が、いったいどれほど残されているというのか?

 自分たちが『当たり』を引く事なく、なおかつ他の勇者がバーテックスを全て倒してくれさえすれば、もうあたし達の出番はなくなる。
 樹が危険にさらされる事への底知れない恐怖も、永久に忘れ去ってしまえるのだ。
 大丈夫、大丈夫、大丈夫だ。あたしは何度もそう繰り返す。
 勇気づけてくれる人も、肩を抱いてなぐさめてくれる人もいない、たった一人の部屋の中で。

 けれどあたしは樹の無事を、神様に祈る事だけは絶対にしない。
 神様なんて、あたし達人間に目もくれなければ話も聞かない、身勝手な存在だという事を、すでに思い知ってしまったから。



 「樹……」

 あたしは無性に樹の顔が見たくなり、すっかりぬるくなってしまった飲みかけのコーヒーをそのままにして、再び寝室へ
向かう。
 「すぅ……すぅぅ……」
 樹はそこにいた。さきほどまでと何も変わらない寝息を立てて。何も知らない、幸せそうな寝顔のままで。
 ――これから自分に降りかかる苦難の事など、つゆ知らず。

 「………う…っ……」

 不意に、あたしの胸の奥から、気持ちの悪い何かが急激にこみ上げてきて。
 気が付いた時には、あたしは、声を押し殺して泣いていた。

 「……うぅぅ……っ、ふぐぅぅっ……いつ、きぃぃっ………」

 その場にうずくまり、両手で口を抑えながらも、ひっく、ひっくとしゃくり上げるのまでは止められず、あたしの目からは
ぽろぽろと涙があふれる。こぼれ落ちた涙は、敷かれたラグに吸い込まれて、音もなく消えていった。

 (――どう、して)

 父を失い、母を失い、でき損ないのニセモノの『お母さん』に育てられざるを得ず。
 そしていよいよ、今度は自身が命を張って、戦わされるかもしれない。
 どうして樹がこんな目に遭わなければならないんだろう?
 あたしの事は構わない。どうせあたしは樹の父にも母にもなりきれず、友奈と東郷に平気な顔でウソをつき通しているような
人間なのだから。
 だけど樹は違う。ちょっと内気で引っ込み思案の――でも優しくて思いやりのある、こんなあたしの自慢の妹なのに。
 たったひとりの、大切な家族なのに。

 あたしは誰を恨めばいい? 世界を滅ぼそうとするバーテックスか? 樹を勇者に任命しようとする神樹か? 大赦か?
それとも樹にこんな運命を強いる、この世界全てか? 
 あるいは大赦に逆らう事も出来ず、ただ人形のように命令に従って今まさしく樹を道連れにしようとしている――

 (……あたし自身?)

 「………あ……あああ……!」
 自分の気持ちをせき止めていた、最後の堤が崩れ落ちて。
 ありったけの大声で、泣き叫びそうになった、その瞬間――


 「………ね………ちゃん……」


 ゆるやかに鼓膜をふるわせる樹の声が、あたしの理性をギリギリのところで繋ぎ止めた。

 「……いつ、き……?」
 ただぼうっとしたままあたしは樹の名をつぶやき、半拍遅れて、もしかして起こしてしまったのかと心配になるだけの
冷静さを取り戻す。だが、近づいて様子をうかがってみても起きているようには見えず、どうやら寝言をつぶやいただけのようだ。
 と、あたしのすぐそばでもう一度、先ほどよりもややはっきりとした声で、樹がむにゃむにゃと言葉を発した。

 「……おねえちゃん、だいすき……」

 「……!」
 その瞬間、あたしはあの日の事を思い出していた。

 泣き崩れてしまいそうな、2年前の自分と。
 そのあたしにぴったりと寄り添って離れず、救いを求めるようにあたしを見上げている、樹の瞳を。

 ――ああ、そうだ。
 いつだってあたしに立ち上がる力をくれるのは、樹なんだ。
 どうして忘れていたんだろう?

 「……そうよ、泣いてなんかいられるもんですか」
 あたしは小声でつぶやくと、ぐいっと乱暴に涙をぬぐい、すっくと身を起こす。大変なのは、これからだ。
 ……ただでさえ友奈や東郷のおかげでにぎやかな勇者部の毎日に、さらに樹が加わるのだ。それはもう、想像を絶するような
大騒ぎが待っている事だろう。
 毎日毎日、笑顔と笑い声の絶えない、大忙しの日々が始まるに決まっているのだ。
 その最中、もしもバーテックスが出現し、あたし達が勇者として選ばれるというのなら、その時はその時だ。化け物だろうが
神様だろうが、樹に危険を及ぼすようなものは、全部このあたし、犬吠崎風が打ち払ってみせる。

 あたしは樹の母親でも父親でもない。
 だけど、樹の『お姉ちゃん』なのだから。


      ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇      


 「……ありがとう、樹」

 あたしは胸に手を当てて、樹に心からのお礼を言う。
 ありがとう。あんたのおかげで、あたしはあんたを守るための勇気を、捨て去らずにすんだんだよ。
 そしてあたしは髪をかき上げ、眠る樹の額にそっと唇を寄せる。

 「………ん」

 音もなく、甘ったるい声も出さない静かなキス。だけど、そこに込めた想いは同じままだ。

 「……おやすみ」

 と、一声を残してベッドのそばから離れ、あたしは静かに戸を閉めた。リビングのテーブルの上には、夜の空気にさらされて、
完全に冷え切ってしまったコーヒー入りのマグカップがぽつん、と鎮座している。
 その中身と同じくらい、あたしの頭はすっかり冷静さを取り戻していた。

 ……今はまだ、焦らなくていい。
 あたしも樹も、まだまだ子供だ。この先どんな出会いや別れを経て、どう変わっていくかなんて、あたしたち自身にも、
それこそ神様にだってわからない。
 その中で喜びや幸せはもちろん、悲しみや傷つくことを経験して、樹も大人になっていくだろう。そうして成長していく
過程で、いつかはあたしから離れていってしまう日が来るかもしれない。
 それでいい。あたしと樹は本当に仲のいい姉妹だけど、それでも、別の人間であることには変わりないのだから。幸せの
形も、きっと別々であるべきなのだ。
 あたしの役目はその間、樹を閉じ込めるのでもなく縛るのでもなく、ただ『守って』あげる事だけだ。

 何から?
 樹から、何かを奪ったり、失わせようとするもの全てからだ。

 「……大丈夫」
 あたしはもう一度、同じ言葉を繰り返しつぶやく。今度はしっかりと顔を上げて、前を向きながら。
 「樹と――樹の未来は、あたしが守ってみせるわ。絶対に」
 そう決心して、あたしは自分の部屋へと戻り、眠りにつく。新しい一日と、そこから始まる未来へと進むために。


 ――いつか樹が、あたしからの『卒業式』を迎えられる時まで。
 その日はきっと、そう遠くないはずだから。



最終更新:2015年02月11日 10:35