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 それは、ほんの小さな出来心だった。

 私たち勇者部は幼稚園や老人ホームに行って、劇や絵本の読み聞かせ、歌などを披露することがある。
 学生のボランティアとはいえそこに甘えてはいけない、と私たちは自発的に勉強を重ねて来た。
 園子ちゃんが加わり、東郷さんの足が動くようになったことで更に演技の幅は広がっている。
 そこで他の人からも学ぼう!と思い立った私と東郷さんは、日曜日に図書館の本の読み聞かせに来たのだった。

「うぅ、女騎士さんが報われて良かったよぉ!」
「てっきりあのまま王子とお姫様がくっついて悲恋で終わるかと思ったのに、素敵な終わり方ね」

 絵本の内容も読み聞かせ方もとても素晴らしいもので、私たちは興奮しながら話し合っていた。
 思えば、この時もう少し冷静になっていればあの事態は防げたかもしれない。

「そう言えば友奈ちゃん、渡された感想の紙は書いた?」
「あ!わ、忘れてた!」
「必ず書かなきゃいけないものではないみたいだけど。子供たちにも書いてない子は多いし」
「ううん、こんなに素敵なお話を聞かせてもらったんだもん。ちゃんと伝えなきゃ失礼だよ!」

 さらさらと感想を書きつけて、備え付けのボックスへと入れに行く。
 さあ入れようとした所で名前を書き忘れていることに気付いた、どうやらまだ興奮してるみたい。
 ボックスの隣にもペンがあったのでそれを借りて“結城友奈”と書こうとした時。
 ほんの小さな出来心が私の胸に芽生えた。

“東郷友奈”

 そう書いてから、急に恥ずかしくなって来た。
 いやいやいや、確かにこれはとても素敵な響きがあるけれど。
 将来的にはそれも視野に入れるのも考えなくちゃだけど今書くのは絶対よろしくない。
 それに“結城美森”の可能性だってあるんだし決め付けてしまうのもどうかと思うし。

「ああ、アンケートの協力ありがとうございます。入れておきますね」
「あ」

 書き終えてからボックスの前で仁王立ちしている私に気を遣って、お姉さんがアンケートを入れてくれる。
 私はお礼を言うのもそこそこに慌てて東郷さんの元へと戻った。

「友奈ちゃん、どうしたの。顔が少し赤いみたいだけど」
「な、何でもないよ!そろそろ帰ろうか、お昼も食べなくちゃだし!」

 別に読み上げられたりする訳じゃないんだし、東郷さんに伝わることはない。
 そうは思ってもなかなか気恥かしいのは治まらなくて、漸く落ちついたのは2人で喫茶店に入った辺りだった。

 その後、楽しく買い物して、東郷さんの部屋でどんな風に今後の読み聞かせに活かしていくか考えて。
 自分の家に帰る頃には、心の隅の方で燻っているだけになっていたのだった。

 それから1週間後。

「へえ、ここで絵本の読み聞かせしてるのは知らなかったわ」
「わっしー、わっしー、旧世紀の姉妹百合の傑作○ナと雪の女王があるよー」
「あんたら図書館では静かにしなさいよ」

 私たちのレポートで興味を持ってくれたようで、今度は勇者部一同で図書館を訪れた。
 今日はどんな絵本が読まれるのかワクワクしていると、向こうから樹ちゃんの声がした。

「わあ、すごい。太っ腹なんですね」
「ここの図書館は改修はされてるけど、旧世紀から現存するらしいわ。
 だから国からお金が出ているそうよ」

 見ればそこには“今月の図書券プレゼント当選者”のコーナー。
 読み聞かせ会の感想を書いてくれた人の中から抽選で毎月図書券をプレゼントしているらしい。
 みんなが釣られるようにそこに集まる中、私はギクリと立ち止まる。読み聞かせの、感想?
 いやいや、だって1カ月分の中から選ばれるんだから、そんな偶然がある訳が。

『今月の当選者:東郷友奈さん
 図書券2000円分を贈呈しますので身分が証明できるものを持って受付まで来て下さい』

 東郷さん以外の4人が一斉にこちらを振り向いて見つめて来る。
 私は当然抽選に当たった喜びなんて欠片もなくて、あの日の自分に頭の中で何度も勇者パンチする。
 もちろんそんなことをしても告知が消えるはずもなくて、私は手近な本棚に寄りかかった。
 私の視界の隅で、東郷さんが受付の方に向かっていくのが映る。

「すいません、図書券の受取をお願い出来ますか」
「はい、身分証明書をどうぞ」
「身内のものでも大丈夫でしょうか」
「はあ、東郷美森さん。お姉さんですか」
「嫁です」

 東郷さんの受け答えに、私はずるずるとその場で崩れ落ちて蹲ったのだった。
 でも、その口元には。自分でも解るくらい、小さいけど確かな笑みが浮かんでいた。


教訓:名前は正しく書きましょう。後で意外な後悔をします。


追記:図書券はちゃんと貰えたので、1000円分ずつ東郷さんと分けました。
最終更新:2015年02月11日 10:38