「はあ…」
風が溜息と共に
うどんの箸を置く。私たちはその異常事態に思わず目を剥いた。
「ふ、風?あんた、それ」
「ん、ああ。悪いけど、ちょっともう入らないみたいで。残すのも勿体ないし、夏凜食べる?」
「ま、待ってお姉ちゃん!私が食べる!」
何とか『風がうどんを残す』というあまりにも衝撃的な事態から復帰した樹が挙手する。
まだ一杯目の半分も食べていないのに大丈夫だろうか。いや、それどころじゃなくて。
「風、まだ一杯目よね?」
「ええ、勇者部の活動中も私のぼた餅を食べていない。てっきり限界までうどんを詰め込む為だと思っていたのだけど」
「これはあり得ない事態だよ。わっしーがゆーゆのこともういらないって言い出してるようなものだよ!?」
「東郷さん、私のこといらないの?」
「いるわ!たくさん!」
バカップルは放置するとして。
犬吠埼風と言えば麺食い、麺食いと言えば犬吠埼風。部活が終わった後の間食でうどんを3、4杯は平らげる健啖家。
うどんに対する愛は深く、時に正気を失うほどだったりもする。そんな彼女がよりにもよって『もう入らない』?
「何かの病気じゃないかしら、こう、不治の病系のヤツ」
「不治の病ねー、もしかして恋の病かな?」
「はぶふっ」
私たちのこそこそ話が聞こえていたのだろう、樹がうどんを吹き出しそうになっている。単純に限界なのかも知れないけど。
当の風は溜息を吐きながらテレビの方を見詰めている。テレビには入れ歯洗浄剤のCMが流れている。
「まさか、あんなお婆ちゃんを!?」
「そんな訳あるか!でも、確かに思い返してみれば最近の風はちょっとおかしかったかも」
「そう言えば、バレンタインの少し前辺りから様子がおかしかった気がするわね。
こちらの話をよく聞いていなかったり、何だか寝不足っぽかったり」
「うぷっ、家でも最近ご飯少なめで。でも、うどんを残したのは初めてで、ひっく」
食べ過ぎてしゃっくりしながら樹が会話に混ざって来る。
身内からの証言まで揃っているとなると、これはどうやら本格的に風に何かの異変が起きているらしい。
「間違いないよー、これは恋だね。勇者部部長の心を射止めた女性が何処かにいるんだよー」
「女性限定なのね。風先輩は沢山チョコレートを貰っていたようだし無いとは言い切れないけど」
「う~ん、それくらいで風がうどん食べられなくなるかしら?命が懸るくらいじゃないとうどん食べるの止めなさそうだけど」
「お姉ちゃんに好きな人…お姉ちゃんに好きな人…」
樹がぐらぐらと頭を揺らしながら機械のように繰り返す。食べてすぐあんな動きをして大丈夫なのだろうか。
「思い返してみれば、私たち勇者部へのチョコレートもちょっと高めのお洒落な奴で女子力高かったような」
「え、そうなんですか…ぐ、むぅっ、ちょ、ちょっとお手洗いに」
あ、やっぱりダメだった。
「樹!大丈夫なの?」
正気に戻ったらしい風が樹に寄り添っていく。普段はつゆまで飲み干されているはずの丼が2鉢残された。
「うまーい!味が解るってやっぱり最高!」
友奈だけが、能天気にうどんをすすり続けていた。
※
「と、いう訳でお姉ちゃん対策会議を始めたいと思います!」
翌日、少し早めに勇者部の部室に集まった私たちの前で、妙にテンションの高い樹が議題を吠える。
「つまり、謎の恋敵さんに対抗する手段をみんなで考えるんだねー」
「いやいや、本当に恋煩いかどうかも解らないし、仮にそうでも何で妹の樹が姉の恋路の邪魔するのよ」
「その通りです、園子さん!」
「その通りなの!?」
「夏凜ちゃんも薄々は気付いていたでしょう、樹ちゃんの風先輩への気持ちは。彼女は本気なのよ」
そう言われると樹の言動や行動は常に風への愛情に満ちてはいたのだけど。
姉妹ってアリなのかしら?家族仲でろくな想い出の無い私にはよく解らない感覚だ。
「姉妹百合は、西暦の時代から連綿と続く無限の可能性なんだよ!」
「樹ちゃんは、風先輩とそういう関係になりたいの?」
変な方向に盛り上がる園子を軽くいなしながら東郷が問う。樹はしばらく悩んでいたようだけど、やがて1枚の写真を取り出した。
それはバレンタインの時にみんなで撮った写真だ。風から貰ったチョコをみんな手に持って写っている。
風はというと照れているのか、それともこの時には異変の兆候があったのか、頬に手を当てて微妙に焦点の合わない目をしている。
「私は、お姉ちゃんと恋人になりたいのかは、正直解りません。けど、この関係が壊れるのは嫌です」
「それが、風先輩の可能性を狭めてしまうことになっても?」
「…同じ学校にいる間は」
樹の目に宿る強烈なエゴ。勇者部の部員は全員が自己犠牲精神の塊だが、同時に絶対に譲れない強固なエゴも持っている。
「それなら、心を奪い返すしかないよねー」
「そうね、風先輩は樹ちゃんが大好きだもの。こう言っては何だけど、ポッと出の女性では樹ちゃんには勝てないわ」
「女性で確定なのね、もう。で、どうするのよ?誘惑でもする?」
「が、がんばります!」
「え?今のはそうしろって言った訳じゃなくて」
まるで示し合わせたかのように風が部室に入って来て、訂正の機会は失われてしまった。
「おー、全員集まってる。やる気十分ね、みんな!部長は嬉しいぞー」
「お姉ちゃん」
「ん、樹どうしたの?」
顔を真っ赤にした樹がぎくしゃくと風の前に歩み出る。
私たちはその動向を注視する。さっきから一言も喋らなかった友奈はぼた餅を食べている。あんたも混ざりなさいよ!
「お、お姉ちゃん!」
「な、なに?何で2回呼んだの?大事なことだから?」
「え、えぇとね、にゃ、にゃん!」
妙に気合を入れて頭の上で拳を握り、猫のようなポーズを取る樹。ノ―プランで突っ込んだ結果がこれ。
正直見ているこっちが恥ずかしさで死にそうだ。流石の風もいたたまれなくなるんじゃ。
「ぐっはぁ!?て、天使が!天使猫がおる!私を天に召すつもりなの!?」
「思った以上にシスコンだ!」
「お、お姉にゃん、口になにかついてるよ、とってあげるね」
猫キャラを通すかどうかで樹の中でも葛藤があるらしい。
樹が懸命に背を伸ばして、その唇を少しだけ前に突き出す。
流石に性急過ぎないかと思ったけど、風はほとんど抵抗しない。なにこれ、チョロい。
「ま、待って、樹!み、みんな見てるから!めっちゃ注目されてるから!」
「大丈夫です風先輩。ほら、友奈ちゃんは私のぼた餅に夢中ですから」
「あんたらは見てるでしょ!?」
「…できないのは、ホントにみんなが見てるから?」
樹が少しだけ潤んだ上目づかいで風を見詰める。どう考えても演技してる時よりヤバい。
「本当は他に事情があるんじゃないの?」
「い、樹、そんなことは」
「お姉ちゃん、私に隠し事しないで!お姉ちゃんは私だけのお姉ちゃんなの!全部、全部私のもので居てよ!」
感情を剥き出しにして叫ぶ樹。風はその言葉を、その姿を何度も何度も反芻しているようで。
やがてこくりと頷くと、風は樹の肩を優しく抱いて告げた。
「ごめんね、樹。黙ってて。でも樹を動揺させたくなかったから」
「私、ちゃんと聞くよ。納得できるかは解らないけど、真面目に聞くから」
「あはは、納得して貰わないと困るかなあ。まあ虫歯になった私が悪いんだけどさ」
……………………………………………うん?
「むし、ば?」
「そうなのよ、何とか今まで飼い慣らして来たんだけど、もう昨日あたりから限界で!
けど、子供のころに通ってた歯医者さんが滅茶苦茶怖くてさあ、なかなか行く覚悟ができなかったのよね」
「えぇと、それ、だけ?」
「そうだけど。なに、心配してくれてたんじゃないの?」
ぐるりと首を回して東郷と園子を見る。東郷は友奈にお茶を注ぎ、園子はパソコンに何かを激しく打ち込んでいた。
「だから言ったじゃないの!!」
「か、夏凜?どしたの、急に」
「うるさい!あんたが解りにくいのがそもそも悪いのよ!」
「夏凜さん落ち付いて下さい!お、お姉ちゃん、とりあえず2人で謝ろう!ごめんなさい、しよう!」
「ええー?ご、ごめんなさい、何だかよく解んないけど!」
―――結局私が落ちつくまで15分ほどかかり、勇者部の活動開始はその分ずれ込んだのだった。
※
「あんたらの恋愛脳はどうにかならないの、まったく!」
「女の子が2人居れば百合妄想をする、それが乃木園子の生き様だからね、仕方ないよ」
「そのっち、とても迷惑な感じのこと言っているわよ」
部活が終わって帰り道。樹は風が歯医者に行くのに付き添ったので4人で下校路を歩く。
結局、私の病気説が当たっていたのだ。あそこでおしまいのはずだったのに。いや、不治の病ではなかったけど。
「―――そうかなあ」
昨日今日といまいち目立っていなかった友奈が、背伸びしながら言う。
「そうかなあって、何?」
「風先輩の虫歯の原因って何だと思う?」
「バレンタインに沢山チョコを貰ったからじゃないの?」
「いえ、そのっち。風先輩の様子はバレンタイン前から少しおかしかったわ」
東郷もそう言っていたし、確かに思い出して見ると妙なことが多かった気がする。
「風先輩はしっかり者だから、歯磨きとかはしっかりする方だよね。まして虫歯に怖い想い出があるんだし」
「そう言えばそうね。まあそれでも虫歯になっちゃう人はいるらしいけど、友奈ちゃんは原因が解るの?」
「樹ちゃん、私たちのチョコの中身知らなかった」
『勇者部へのチョコレートもちょっと高めのお洒落な奴で女子力高かったような』
『え、そうなんですか』
「…もしかして、樹ちゃんのだけ手作りだったの?」
「ああ、味見とか試作のせいだったんだねー、虫歯と寝不足」
「想像だけどね。だけど、あの2人の気持ちは吊りあってると私は思うな…重さがね」
そう口にしながらも、こいつは実は最初の方から全部解って放置していたのだろう。
とりあえず、友奈にも何かお詫びで奢らせてやろう。ふつふつと怒りを再燃させながら私は思った。
最終更新:2015年02月28日 10:54