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「はあ…」
「わっしー、お~い、わっしー」
「須美、須美ったら!…えい、こちょこちょこちょ」
「うひゃあっ!?な、何をするのよ、銀!」
「さっきから呼んでるのに無視するからだろ」

 物思いに耽りすぎて2人の声に気付かないとは不覚だった。これは甘んじて受けておくべきだろう。

「で、また友奈さんのこと考えてたの?」
「な、そそ、そんなことはないわよ!ええ、全然!まったく!」
「そこまで否定されると友奈さんが可哀想だよ~?」
「…ちょっとだけ、考えてました」

 いえーい、と手を打ち合わせるそのっちと銀。どうにも最近の2人には私は勝てないでいる。
 結城友奈さん。迷い込んだ先で出会った不思議な女性。勇者を名乗る凛々しくも愛らしい年上の少女。
 彼女が何者なのかを探る手掛かりは1つもない。けれど、私の心の中には彼女が完全に根付いてしまった。
 あの明るい声を聞きたい。もう一度、彼女の口から勇者と呼ばれたい。そうすれば、もっと力を奮えるかも知れない。

「須美は思い込むと一直線というか、他のことが目に入らなくなるところがあるからなあ」
「一途だからねー、わっしーは」
「もう、私が悪かったからこれ以上はからかわないでちょうだい!はあ、お手洗いで顔を洗ってくるわ」

 とりあえず少し火照った顔を冷ましたかった。
 2人を残して手洗い場に向かい、顔を洗おうとして気付く。鏡がある。
 いや、手洗い場に鏡があるのは普通なのだけど、ここの鏡は女の子が映るとかいう怖い話があって、一時的に取り外されたはずだ。
 じっと見つめていると鏡の向こう、私の背後を友奈さんと同じ制服の女の子が通り過ぎる。
 思わず手を伸ばした瞬間―――私の意識は唐突にぷつり、と切れた。


「と、とと、東郷先輩!東郷先輩、大変です!」
「どうしたの、樹ちゃん。そろそろ勇者部の部室に行く時間よ」
「それはそうなんですけど、女子トイレで人が倒れてるんです!」
「…それは私に言うんじゃなくて保健の先生を呼ばないと。落ち着いて、ね?」
「お、落ち着けませんよぅ!だって、倒れてるの東郷先輩なんですよ!?」

 私が倒れている?それでは、ここで樹ちゃんと話をしている私は誰なのか。
 樹ちゃんに手を引かれてやって来たと手洗いでは、確かに女の子がぺたんと座り込むようにして気を失っていた。
 その顔は確かに私そのもの。ただし、制服は神樹館のもので、全体的に私よりも小柄だ。

「この子は…まさか、鷲尾須美?」
「ど、どうしましょう?これってあの、ドッペルゲンガー?見たら死んじゃう的な?」
「それはそれで興味深いけど」
「自分のことですよ!?」
「樹ちゃん、とりあえず樹ちゃんは勇者部に向かって、私は遅れると伝えてくれる?このことは内緒でね」

 樹ちゃんは心配そうに何度か私と“私”を見比べていたけど、ぺこりと頭を下げて小走りに去って行った。

「ん…?」

 まるでタイミングを測ったように“私”がゆっくり目を開く。そして、私と目がしっかり合った。

「………ド、ドッペルゲンガー!?」
「少し違うわ。私は2年後の貴女よ」

 鷲尾須美としての記憶を取り戻した私には、この現象に心当たりがあった。
 時間移動。神樹様の力か、勇者の奇跡か、果てはその相乗か、私には時を超えた記憶がある。
 おかげでこうして、ある程度は平静に対応することが出来ていた。

「2年後?未来の私?バーテックスとの戦いは終わったの!?」
「それを聞いて、どうするの?気を緩めて帰れば未来が悪い方に変わるかも知れないわよ」
「……ひ、1つだけ聞いてもいいですか?」
「答えられるなら答えるし、無理なら答えない」

 自分相手なのに敬語になる辺りが、昔の私らしいと思う。
 私は冷徹にさえ思える口調で淡々と話し続ける。
 そうでなければ、彼女を抱きしめてわんわんと泣き出してしまいそうだったから。
 これから彼女を待つ過酷過ぎる運命に。彼女の友人たちの残酷な末路に。2年後に待つ地獄に。想いを馳せて。

「その制服、友奈さんと同じ…彼女と、未来で会えたんですか?」
「……」
「お願いです、絶対に勇者のお努めに手を抜いたりしませんから!もっと、もっと頑張ります!
 この国と、神樹様と、友奈さんの未来を守るために!」

 私は、もう我慢できなかった。組んでいた手をほどき、しっかりと彼女の体を抱きしめる。

「わ、ぷっ…!」
「頑張って―――どうか、頑張って。頑張りぬいて。でも、絶対に頑張りすぎないで」
「……?」
「大丈夫、未来で会えるから…絶対に、生き抜くの。どんなに辛く苦しくても、絶対に何処かに道はあるから」

 絶望の未来しかないと諦めかけた時に、友奈ちゃんが私の眼を覚ましてくれたように。
 希望はある。明日は絶対に良い日が来る。太陽は昇り、夜は終わる。そのことを伝えるように。
 そっと体を離すと、彼女はちょっとだけ頬を赤らめていた。自分に抱かれて照れないでほしい。
 けど、そんな彼女の様子が自己愛めいているけど私からしても可愛くて。

「お守りよ、勇者に祝福を」

 そっと、鷲尾須美の額に口づけする。
 彼女が驚いたような顔をしたと思った瞬間、手洗いの鏡が急に輝きを放って。
 目を開くと、そこにはもう“私”の姿はなかった。

「…ひっく、ひっく…」
「そのっち、見てたのね」

 手洗いから顔を出すと、そのっちが蹲って泣いていた。その頭を私は優しく撫でる

「わっしー、これで良かったのかなあ…私、全部伝えて3人で逃げてって…言いそうになっちゃったよ」
「奇遇ね。私も、似たようなことを言いそうになったわ…でも、考え直したの」
「どうして?」
「そのっちたちと友奈ちゃんに出会った記憶は、私にはあるわ。でも、讃州中学の手洗いにやって来た記憶はないの」
「え?」

 そう、未来の自分と邂逅した記憶は私には無い。
 つまり、あの鷲尾須美は既にその時点で私と違う道を歩んでいる可能性があるのだ。

「パラレルワールドってこと~?確かに、私の精霊にも似たような世界を作れる子がいたけど~」
「何かの本で読んだのだけど、時間というのは順番に流れているとは限らないらしいわ。
 スライド写真のようなもので、ある時点でまったく別の光景を挿入しても、それ以前の繋がりが消滅する訳じゃない」

 もちろんそれは良いことばかりではない。私は自分の出会いが未来を良い方向にばかり変える等と思い上がってはいない。
 もしかしたら3人とも死んでしまうかも知れない。生き延びても酷い姿になるかも知れない。
 ―――友奈ちゃんに会えないかもしれない。

「それでも、あの子の…“私”の頑張りを、私は信じたい。
 友奈ちゃんの為なら私はなんだって出来るわ。きっと、あの娘も」
「何しろ神樹様に弓引く位だからね~…わっしー、痛い。ほっぺた無言で引っ張るの痛い!」

 向こうから、樹ちゃんに引かれて勇者部のみんながやって来る。悩んだら相談、秘密にしておけなかったのだろう。
 とりあえず、どんな言い訳をしようか。心配そうな顔の友奈ちゃんを見つめながら私は思案した。


「おい、須美!須美ったら!起きろって!こんなとこで寝てたら、風邪ひくぞ!」

 気付くと、私は女子トイレの前の廊下で座り込んで船を漕いでいた。
 幸いそのっちと銀以外には見られなかったようだけど、これはかなり恥ずかしい。

「顔を洗った直後に廊下で眠る…新しすぎりね、わっしー」
「わざとじゃないのよ。一々意識が途切れるのは勘弁してほしいわ、もう」
「???」

 すべては夢だった、そんな風に思うこともできるかもしれない。
 けど、体に僅かに残る熱と額に感じた温もりは、あの邂逅が確かに現実だったと伝えている。

「待たせてごめんなさい。帰りましょう、そのっち、銀」
「お、おう。なんだろ、須美ってばなんか、ただ帰るだけなのに気合入ってない?」
「頑張るって約束したからね。祝福まで貰っちゃったから」

 未来で待っていてください、友奈さん。そして待っていてね、優しいけれど何処か悲しい目をしていた未来の私。
 その悲しみを打ち消して、必ずあの時へ辿り着いて見せる。
 強く決意しながら、私は自分の額にそっと手を当てて僅かに赤面した。


エピローグ

「こんにちはー」

 お隣さんがお引越ししてきたと聞いて、私はさっそくあいさつに向かった。
 私と同年代の娘さんが居るらしいし、同じ讃州中学校に通えたらとっても素敵だと思う。

「…そんなにズルいって言わないで。仕方ないじゃない、引っ越しの時期は業者次第なんだから」
『だからって須美だけ先に友奈さんに出会えるなんてやっぱりズルい!
 すぐに園子と夏凜連れてそっちに行くからな!待ってろよ!』
「待てと言われても、ねえ」

 とてもきれいな黒髪が目に入る。こちらに背を向けて、私よりも少し大きい女の子が何処かに電話をかけていた。
 それにしても、友奈さん?私の名前が電話の向こうから聞こえたような。

「―――」
「!!」

 振り返った女の子は、ものすごい美人さんだった。これぞ大和撫子っていう感じ。
 まっすぐに立っているその姿が、まるで体に一本固い芯が入っているみたいにピッシリして格好いい。

「…ようやく、会えた」
「え?」
「ううん、こちらの話なの。初めまして、お隣の…結城優奈さん。私は―――」

 ザッと強い風が吹いて、何処からか運んできた早咲きの桜の花びらを2人の間に運ぶ。
 彼女が何故か自分の額を触って照れたように笑って、私もそれに釣られて笑った。
 これから、とても長い時間を一緒にしていくような、不思議な感覚。これが私にとっての彼女との出会い。
 彼女がずっと前に私と出会っていたと知るのは、彼女とその友人たちと仲良くなってからのことになる―――。
最終更新:2015年03月28日 08:29