H1・834

そのっちが日本史の教科書を読んでいる。
私の部屋で、そのっちと二人で勉強会。
頭のいいそのっちではあるが、2年のブランクを経ての復学である。
そのっちの家ならば一流の家庭教師をつけるなど、この2年を埋める方法などいくらでもあるだろう。
だが、

「わっしー、ちょっと分からないところがあるから教えてくれる~?」
「もちろんいいわよ。ここはね、教科書の――」
「――ああ、なるほど~。……ねえわっしー、お願いがあるんだけど聞いてくれるかな~?」
「私にできることなら」
「放課後にね、勉強を教えてほしいんだ~。もちろん勇者部の活動がない日でいいから」

いくらでも方法がある中で、私を頼ってくれた。
そのっちの学力向上と、離れてしまっていた2年という時間を埋める……その2つを同時にできるのだから、二つ返事で了承した。
そして今日が放課後勉強会の初日。
初めて『東郷』の家にそのっちを迎えた。
お母さんは乃木のお嬢様が来るからと、数日前から家中の清掃を徹底しており、我が家は引っ越してきた二年前以上の清潔感を演出していた。
……押し入れの中は、そのっちには見せられないが。
ちなみに言っておくが、私の部屋はいつも清潔だ。

「わ~、綺麗な家だね~」
「そのっちが知ってる私の家よりは大分小さくなったけどね。そして、お隣が友奈ちゃんの家よ」
「おお~、ゆーゆの家も趣がある~」

東郷家と結城家を交互に見ていたそのっちがぼそりと漏らした言葉を私は聞き逃さなかった。

「……やっぱり私の家って大きいのかな~……」

すっごく大きいと思います。
そのっちのこういうズレた部分を久しぶりに感じることができて、少し感慨深く感じた。

「ただいま」
「お邪魔します~」

私たちが靴を脱いで上がったあたりで、お母さんがぱたぱたと小走りでやってきた。

「いらっしゃい、乃木さん。おかえりなさい、美森」
「こんにちわ。乃木園子と申します~」

そのっちの自己紹介をお母さんは少し緊張しながら聞いている。
私が思っていた以上に、大赦内での乃木家の力は強大なのだろう。
お母さんの顔には『粗相があってはならない』という字が書いてあるかのようだった。
もう……そのっちは私の親友なのだ。そんな気遣いは不要だというのに。

「お母さん、部屋で一緒に勉強してくるね」
「ええ。乃木さん、ゆっくりしていってくださいね」
「はい、ありがとうございます~」
「お母さん、お茶だけお願いします。お菓子は休憩のときに私が取りに行くから」
「わかったわ」

お母さんがお茶の準備のために一旦下がると、私たちは私の部屋へと向かった。

「わっしーのお母さん、なんか緊張してたみたいだね~」
「そのっちが乃木家のお嬢様だからってね。あ、ここが私の部屋よ」

私は自室のドアを開き、中に入る。そのっちも続いてくる。

「わっしーの部屋はわっしーの部屋って感じだね~」
「ふふっ、どういう言い回しなの?」
「ザ・わっしー!みたいな~」
「余計に分からないわよ」

なんというか、そのっちとの会話は自然と笑顔になってしまう。
彼女の陽気にあてられて、温かくなるのだ。

「さあ、勉強を始めましょう。そのっちには2年のブランクを2週間で埋めてもらいます」
「ええ~!わっしー鬼教官~」
「中間テストが2週間後なんだから仕方ないでしょ。そのっち、5教科で400点が最低ラインよ」
「平均80点か~」
「そのっちならばできると私は信じているわ」
「わっしーにそう言われたらできるような気がしてきたよ~。よーし、がんばるぞ~!」

その後お母さんの淹れたお茶も届き、私たちは勉強を進めた。
今日は私の得意中の得意である日本史を教えていた。

「1582年、本能寺の変~」
「明智光秀が織田信長に謀叛を起こし、本能寺で自決させた事件ね」
「これは有名だよね~。ドラマで見たことある~。ねえわっしー、なんで光秀は謀叛を起こしたんだろうね~?」
「諸説あるわね。天下が欲しかった。信長への怨恨。何者かとの共謀説……この辺が有力かしら」
「わっしーはどう思うの~?」
「そうね……もしかしたら裏切られたのは光秀の方だったのかもしれないわ」
「その心は~?」
「光秀は信じていたのよ、自分が戦い続ければ平和な世が信長の手によってもたらされると。でも比叡山の焼き討ちで不信感を抱いた。
 さらに人質に出していた母を信長の方針転換で見殺しにされ、融和を図っていた長宗我部家に対しても方針転換で武力による制圧を
 信長が決定。もう信長を信じられなくなってしまった……」
「なんとなく、わっしーの中の信長像のモデルがわかったよ~。そして光秀はとても真面目で、考え込んでしまうと視野が狭まってしまう
 ような人だったのかもしれないね~」
「……こほん、もうこんな時間ね。そろそろ休憩にしましょう。私手作りのお菓子を持ってくるわ」
「わっしーの手作り?絶対和菓子だよね~」
「ふふっ分かってるわね、そのっち。ちょっと待っててね」

私は台所まで行くと、ラップをかけていたお皿を取り出す。皿の中身はもちろんぼた餅だ。
お盆の上に新しい茶葉を入れた急須とポッド、そしてメインのぼた餅を置いて自分の部屋まで持っていく。

「おまたせ。これがこの2年間で私のイチオシになったぼた餅よ!」
「おお~これが勇者部のみんなが言っていた、わっしーのぼた餅~!美味しそう~」
「さあ、おあがり下さい。舌の肥えた乃木家のお嬢様?」
「うむ~!って私はそんなに食に厳しくないよ~」
「ふふっごめんなさい。ちょっと自信がなかったから保険をかけちゃったわ」
「私にとって、わっしーが作ったものなら絶対美味しいよ~」
「えっ///」
「いただきま~す」
「あ、どうぞ召し上がれ……」
「――!?んんんんん~~~~~!!」
「そ、そのっち!?どうしたの!?お、美味しくなかった!?」
「わっしー!このぼた餅すっごく美味しいよ~!これなら毎日食べたいくらいだよ~!」
「あっ……///そのっちったら、友奈ちゃんと同じようなこと言って……///」
「ゆーゆも言ってたんだ~。でもホントに美味しいよ~。このぼた餅、天下取れるよ~」
「そんな、天下なんて……///」

『天下』……少し甘美な響きだ。私が一番好きな時代は昭和だが、戦国時代も大好きなのだ。特にお城。
そんな歴史好きの私に「天下を取れる」は殺し文句のようなものだった。
このぼた餅で天下取り……。
将来はそのっちと一緒に和菓子屋さんなんていいかもしれない……。
料理人として風先輩も雇って、うどんも提供する。和菓子とうどんのコラボ……新しい!

「さすが神世紀の明智光秀と呼ばれたわっしーだね~」
「もうそのっち、褒めすぎよ///……って、それじゃあ三日天下じゃない!?」
「いや、そうとは限らないよ~」

そのっちはもう一口ぼた餅を頬張り、お茶を飲んだ。

「わっしーは南光坊天海って知ってるよね~?」
「ええ。天台宗の僧で徳川家康の側近。江戸幕府初期の重要政策に深く関わった人物ね」
「その天海の正体が明智光秀だったっていう説があるんだよね~」
「それは私も知ってるわ。かなり眉唾ものだけど」
「私はその説を信じてるんだよ~」
「……その根拠は?」
「浪漫、だよ~」
「……ふふっ、確かに。私たちは真実を探求する歴史学者じゃないものね。ただの歴史好きにしてみれば、浪漫というものは十分根拠足りえるわ」

私はぼた餅を手に取り、口へと運ぶ。そしてお茶でのどを潤す。
もう少し、この談義を続けたいと思っていた。

「光秀が天海だったとして、三日天下でないというのはどういうこと?天下は家康のものになっているのよ?」
「確かに征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開いた家康は天下人だよ~。でも『天下を取る』っていうのは、
 そういうのだけじゃないんじゃないかな~」
「……なるほど、読めてきたわ。『天下を取る』というのは天下の政(まつりごと)を取り仕切ること。
 つまり、家康に政治的な献言を行うことが出来る人物ならば、その人物もまた天下人であるといってもよいと」
「そういうこと~。明智光秀は南光坊天海と名前を変えて、天下を取っていたんだよ~」
「ふむ……そのっちの言うことに従えば、光秀は三日天下などではなく、およそ250年続く江戸幕府の天下人……250年天下だったと」

面白い。
明智光秀といえば、織田信長の右腕であり、内政から軍事まで幅広く才を示した人物だったが
突如本能寺の変を起こし、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、敗走中に死んだ。
光秀が京で政を取り仕切ったのが実質三日であったことから三日天下という言葉が生まれた。
これが私の明智光秀像だった。
これに天海という要素を加えるとどうだ。たった三日の天下人が250年の天下を築いた大人物になる。
だがそれは、徳川家康がいてこその250年天下だ。

「わっしー、徳川家康はどんな人だったのかな~?」
「家康……?そうね……実は短気だったなんて言われているけど、やはり忍耐の人だったと思うわ。
 信長の命令で断腸の思いで長男を切腹させ、妻を殺さなければならなかったり……農民上がりの秀吉に頭も下げた。
 全ては徳川家のため、最後に天下を窺うため、耐えて耐えて耐え忍んだ。きっと苦しかったでしょうね……」

そこで私はハッとした。
とても苦しい状況を、死ぬことも許されずずっと耐えてきた女の子が目の前にいる。
孤独だっただろう。歯がゆい思いをしただろう。死にたいと何度も思ったのだろう。
でも彼女は耐えて耐えて耐え忍んだ。
全ては私と、もう一度出会うために。

「そのっちと家康は似てるかもしれないわね……」
「私が家康なら、わっしーの天下は三日じゃないよね~」
「えっ……?」
「光秀は家康と一緒なら、250年の天下を築けるんだよ~」
「……あっ///」

そのっちは最後のぼた餅を手に取ると、半分だけかじった。
そしてもう半分のぼた餅を私の前に差し出して言った。

「わっしー、私と一緒にならない~?」

私は差し出された半分のぼた餅を受け取った。

「そうね。そのっちと一緒なら、何だって出来ちゃう気がするわ。……ってそのっち、その言い方だとプロポーズされたみたいな気分だわ」
「どうしてそう思うの~?これがプロポーズじゃないなんて~」
「えっ!?」
「さ~て、勉強再開しようか~」

そのっちは再び教科書とにらめっこを始める。
でも教科書を持つ指が少し震えていた。
教科書から覗くそのっちの顔が、少し赤くなっているのにも気づいた。

「そのっち」
「……なに~?」

私は受け取っていた半分のぼた餅を口に運んだ。
でも顎がガクガクしてしまって、なかなか咀嚼できない。
お茶を飲もうと湯呑に手を伸ばしたが上手く掴めない。
手が震えている……緊張しているんだ。今からそのっちに伝えようとしている言葉に。

「わっしー?どうしたの~?顔も赤いし、なんか震えてるよ~?」

ああ……そのっちが心配してくれている。
「敵は本能寺にあり!」と叫んだ時の光秀は、この何倍も緊張していたのかもしれない。
勇気を振り絞れ!私は元勇者、東郷美森よ!
なんとか掴んだ湯呑を口に持っていき、お茶でぼた餅を流し込む。
そのっちに「一緒になろう」と渡されたぼた餅を、私の中に流し込む。

「そのっち!」
「は、はい~!」

緊張のあまり、声を張り上げすぎた。そのっちが驚いてしまっている。
だがそんなことには構わず、私は多少裏返った声で宣言する。

「そのプロポーズ!今度の中間テストで私よりも順位が上だったら、お受けするわ!」
「――――!!」

そのっちの顔に『衝撃』の二文字が張り付く。
こんなそのっちの表情はレア中のレアだ。
あ、実際光秀も「敵は本能寺にあり!」と叫んだ時、声が裏返っていたのかもしれない……なんか面白い。
言い終えて、少し余裕のできた私はそんなことを思えた。

「わっしー、いいの?」

そのっちが頬を紅潮させ、私の瞳を見つめてくる。
私を見つめるそのっちの瞳の輝きは、おそらくは老齢となり、苦難の果てにやっと天下が目の前に迫ってきた、
徳川家康がおよそ400年前に見せたものと同じだろう。
そのっちの眼前に、天下がやってきた。

「あら、もう勝った気でいるの?」

そうは言ったものの、私はテストは負けるだろうという確信があった。
徳川家康は最後に絶対勝つ男。
乃木園子も同様だ。2年前の瀬戸大橋跡地の合戦でも、あの状況で勝利を収めた。
そして今回の中間テスト、彼女にとっては関ヶ原。私にとっての天王山か。
ご存じ家康は関ヶ原で石田三成に勝利し天下人になり、光秀は天王山で羽柴秀吉に敗れた。

「鳴かぬなら、鷲をもらうよ、ホトトギス~。鳴かないホトトギスより、かっこいい鷲の方がいいもんね~。
 天下人はホトトギスの句を詠むものなんでしょ~?」

『鷲を』と『わっしーを』をかけているのかしら。
なんにせよ、そのっちの勝利宣言だ。関ヶ原に勝利し天下人になって、私を『もらう』と。

「そのっち、それは平戸藩の第9代藩主松浦清の創作なのよ。本人たちが詠んだものではないわ」
「へえ~そうなんだ~。日本史ではわっしーに勝てないな~。他の教科で挽回しないと~」
「そうね。がんばって、そのっち。私も……」

私も……そのっちに、もらわれたいから。
もらわれたいと思っているのになぜ条件を付けたか。
それは簡単なこと。だって、こう言えばそのっちは本当に2週間で2年を埋めるはずだから。
鬼教官天海は天下人だって甘やかさないわ。覚悟しておいてね、家康様?



明智光秀は南光坊天海と名を変えて、徳川家康のもとで天下を取った。
鷲尾須美は東郷美森と名を戻し、乃木園子と共に――。
――あ、ちょっと待って……さっきのぼた餅って、そのっちと間接キスだったわ///



数年後――。
「時は今、天が下しる、六月哉」
「ジューンブライドだよ~」
最終更新:2015年05月06日 00:04