ドロワ系17 タバコ

唐突な話だけれど、私はタバコが嫌いだ。
 学生の身分だからとか、そういう話ではない。
 単に個人的な好き嫌いという、最もつまらなくて最も正当な理由。
 まず、目にしみる煙が嫌い。
 薄く張った幕は目を燻し、世界の姿を曖昧にさせる。
 歪み、くすんだ世界が映すものは果たして真実なのか。
 まるであの人の笑みのように、ひどく曖昧であやふやな景色。
 鼻につく臭いも嫌い。
 元々人より鼻が利く体質らしいが、そんな事よりどちらかといえば感情的なお話だ。
 人は呼吸をしなければ生きていけない。
 その誰もが行う当然の行為に、無理やり割り込まれるのが嫌いだ。
 健康被害が、だなんて言うほど無駄に長生きをしたいわけでもない。
 単純に誰かの体に入った物を体に取り入れなければならない苦痛。
 それは私にとって、見知らぬ誰かに体を内から蹂躙され、犯されているような感覚。
 そこらの男共の肺を巡り、喉と口と鼻を通って吐かれた煙など、私にとっては真の意味で毒に等しい。
 勿論、そんな私の性癖に準じるような、潔癖じみた理由ばかりと言うわけじゃあない。
 この部屋の主は、いつもいつもタバコの匂いに紛らせて、嘘を吐き出す。
 あるいは、嘘の中にタバコの香りが混じっているのか。
 まあ、どちらでもいい。
 私にとってのタバコは、時間稼ぎと間を持たせるための賢しい小道具だ。
 タバコを吸うその瞬間は、誰も彼も口を閉ざす。
 子供の道徳じゃあないけれど、会話とは言葉のキャッチボール。
 私と誰かの間に割って入る壁。
 面と向かって拒まれている、そんな気がして私はあまり好きではない。
 普通に話しかければいいのだろうが、言葉を拒否されている様な気がして、私は思わず口を噤んでしまう。
 体を、心を、人の感覚器を潰して世界を私と誰か以上の向こうへ追いやる。
 だから、私は目の前でタバコを吸われるのが好きじゃない。
 私は、タバコが嫌いだ。










 真冬の大気に白い大輪の花が咲く。
 一瞬で咲き誇り、一瞬で消える儚い幻。
 いくら冬だとは言え、室内でこの寒さはなかなかに辛い。
 元々この部屋の住人は暖房をつけないのだが、それにしても今日の寒さは身にしみる。
 さすがに何かおかしい。
 それの正体を探るべく、私は部屋の中ほどにまで足を踏み入れた。
 寒さの次に感じたのは――風だ。
 どこから?
 いぶかしみながら部屋の中を見回してみれば、一箇所だけ小さくはためくカーテンが目に付いた。
 誰かが開けて行ったのだろうか。
 思いながら、とりあえず私は冷たい窓枠に手をかける。
 本当に具合が悪い人にとっては、これほど辛い環境もないだろう。
 レールの上を窓が滑る軽い音を聞きながら、私は本来の用事を思い出した。
 だが。
 吐息のように消えてもらっては困る人物の姿がそこにはなかった。
 残念ながら、もう一人の先生の姿も見当たらない。
 机の上やホワイトボードも見てみるが、書き置きなどの類は一切無し。
 もう一つの目印、いつもの携帯灰皿も置かれていないから、地下というわけでもないようだ。
 ベッドを囲むカーテンも念のために捲ってみたが、流石にこの状況では寝て居るなんて事も無く。
 引きこもりよろしく四六時中居ろとは言わないが、保険医が行き先も告げずに保健室から居なくなってどうするのか。
 私が来るまでの間に、本当に体調不良の人が来ていたらどうするつもりだったのだろう。
 ……困った人達だ。
 眉間に皺が寄るのを自覚する。
 代わりに。
 新しい灰皿がひとつ、惨めな姿で転がっていた。
 開閉ボタンよろしく、眉間に付けられた新しい焦げ跡。
 餡子と共に舌を投げ出し、白目を向いた苦悶の形相。
 要するに、額に根性焼きを入れられたゆっくりだ。
 開いてみれば口内もある程度焼けているのだろう。
 生きていれば治療は面倒な部位だが、そんな事を確認するまでもなく死んでいる。
 吐かれた餡子は湿気が飛んで乾いたもので、その体は完全に冷え切っている。
 もっとも、この状況だと温度は判断基準とならないだろう。
 まあ、昨日帰る時にこんな物は見当たらなかったから、昨日の夕方から今日の午前中にかけて出来たものだと推測は出来る。
 恐らくは下に行くのが面倒になったか、人のいない時間帯だから行かなかったのか、ともかくここでタバコを吸った。
 臭いは窓を開けて換気し、吸殻はれいむに食べさせ証拠隠滅を図る。
 喫煙禁止を一応守ってはいるようだが、時折発作のように子供じみた戯れに及ぶ人だ。
 部屋に居ないのも、どうせ予想以上に寒くなったからとか、そんなくだらない理由だろう。
 詳しい数まで覚えていないが、多分壁際の水槽のから適当に選んだ1匹を使ったはずだ。
 目が覚めると、いつの間にかこの世の地獄に落ちていた。
 つまらない冗談だ、色々と。
 私は二重の落胆とともに、とりあえず机の上の掃除にかかる。
 ひとつは先生が見つからなかったこと。
 もうひとつは、まさしくこの片付けるという行為そのものにだ。
 別に家事の類は嫌いではない。
 ただ、子供じゃあるまいし、自分で汚したら自分で片付けるくらいすればいいのに。
 ……仕方のない人。
 私の心情を表現すればその一言に尽きるだろう。
 放っておくから面倒になるばかりなのに。
 ため息と共に、洗面台にかけられた真っ白なタオルを水に浸す。
 取り上げようと水に手を入れたところで、思わず私は顔を顰めた。
 痛みすらも覚えるほどに、真冬の水は冷たく指を刺し貫く。
 再度の嘆息。
 どうして私がこんな事をしているんだろう。
 出来る事なら本人にやらせればいいのだが、ここまでやって止めるのもなんか癪。
 それだけを糧に、痛みを堪えてタオルを絞り、机の掃除に取り掛かる。
 まずは邪魔な死骸から。
 摘み上げた拍子に、口内から餡子と共にタバコのフィルター部分が顔を覗かせた。
 どうやらあの推察で正解らしい。
 ……ちっとも嬉しくない。
 私は肩を落とし、そのまま機械的に摘んだれいむのリボンを離す。
 見ずとも判る、足元には口の大きなゴミ箱がある。
 掃除機は勝手に動くようになったりしたけど、ゴミ箱が動くようになったなんて話はまだ聞かない。
 それでいい。
 ゴミ箱は動かないものだからだ。
 れてぃ同様、成体ゆっくりを加工したゴミ箱。
 今はそこそこ大きなれいむが置いてある。
 ゴミは常にそこに落とされ、哀れなゆっくりが人間にとってはゴミでしかない、しかし彼女らにとってはそうでもないものを食す。
 好き好んでではないことくらい、馬鹿にだって判るだろう。
 しかし、そうせねばならない。
 足を焼かれ、舌を切除され、口を開く形で固められたゆっくりには、それを受け入れるほか術は無い。
 食事はそれだけ。
 動けず、話すことも出来ないゆっくりが生きるにはそれしかない。
 だから唯一の抵抗として涙を流し、己の境遇に嘆きつつ、ゴミ箱は黙って役割のままにゴミを消化する。
 時折誰かが戯れに与える菓子クズや、昼食の残りなどで命を繋ぎ、運良く育ったならば――何も変わることは無い。
 ゴミ箱にゴミ箱以上の役割など誰も求めない。
 ゴミを消化することを放棄したのなら、それは「不良品」のゴミ箱だ。
 速やかに交換されていく。
 使えない道具には、持ち主が感傷に浸る事以外の役目なんて与えられてはいないのだから。
 そして、その時になってようやく。
 あのゆっくり達は、長い長いゆっくり出来ない時間に終止符を打ち、永遠にゆっくりすることを許されるのだ。
 そしてまた、新しいゆっくりが代わりに「加工」されて、持ってこられる。
 ただ、それだけ。





 ――ああ、そうか。
 そこまで思って、私は自分の過ちに気が付いた。
 本気で証拠を隠滅するつもりなら、最初からこの大きなれいむに捨てればよかったのだ。
 あえてそうしなかったのはただの戯れなのか、何か理由があったのか。
 そこまでは判らないが、このれいむは生まれた場所から相手から、ただただ運が悪かった。
 多分何の意味も意図も無く物のように弄ばれて、そして恐らく誰にも見取られる事無く寂しく死んでいったのだろう。
 先生が居る間に死んだのならば、流石にさっさと捨てたはずだ。
 だからといって、ああなるほどと、納得できるものでもない。
 逆ギレと言う無かれ、ああいう感情を抱かせるのは普段の先生の行いが悪いからで、私一人に起因するものではないのだから。
 つまるところ、第一発見者になってしまった私も運が悪いと言うことらしい。
 まあ、このれいむ達が色々可哀想だとは思わないでもない。
 自分で言うのもなんだが、この学園では比較的珍しい部類に属するだろう。
 可愛がる人間は他にもいる。
 やったとしても、せいぜい可愛いからついからかっちゃった、その程度の人たちだ。
 でも、私は違う。
 可愛がり、しかし必要があれば即座に叩き潰す事も厭わず、そして同時に哀れとも思い、けれどその感情を制御する術も知っている。
 歪んでいると言われれば否定できないし、今更否定する気も無い。
 可愛いからいじめる、そんな程度の矛盾とは遥かにかけ離れた、異常の形がここにはある。
 このゆっくり達に対してもそうだ。
 私がこの学園に来てからでさえ、一体何代目のゴミ箱だろうか。
 何とかできるものならしてやりたいが、治ったとしても精神が破壊されかかっているような生き物が、どうして生き延びられようか。
 私にこの状態からの治療を果たしきる技量は、残念ながら今のところ無い。
 そもそも、体以上に壊れた心を治す術があるのかどうか、そこからしてまず怪しいものだ。
 人間がやったこととは言え、命として異形の存在。
 だから、可哀想だと思い、けれどもそれ以上思うことは無い。
 出来もしないことにこだわっても仕方が無い。
 これは私にとっては最早ゆっくりだったもの、愛すべきゆっくりだとは思わない。
 そういう風に、決めたから。
 机の上を拭く手を止めて、私は視線を背後に向けた。
 そこには清潔なカーテンと、先ほど覗いたベッドがある。
 私が見るのはその下。
 床板に遮られた奥には、あの実験室が存在する。
 実験用に、雑用に。
 ゆっくりの命がゴミのように使い捨てられる、あの部屋が。





 実験結果に不備が出ぬよう、管理された空調機能を備える施設。
 そこにタバコの臭いは無い。
 仮に先生が吸ったところで、それらは超高性能のエアコンディショニングによって、あっという間に吸収、浄化され、あの箱庭には何の影響も及ぼさない。
 だが、それと同時にあそこには、命の香りもまったく無い。
 そこにあるのは、ただ消費されて廃棄されていく「物」があるだけだ。
 あの空気が、私はあまり好きでない。
 無論、ここに所属していないものが聞けば、何を今更と言われるだろう。
 だが、そんな集団の中でも多少はベクトルの違いがあることを、認めなくてもいいから口にするくらいは許して欲しい。
 私達が何かを楽しめるのは、当然のように生きているからだ。
 生きていくうえでルールがあり、その範疇内での自由を謳歌する。
 物にそれは無い。
 ただただ無慈悲に使い潰され、消費されていくだけだ。
 割り箸やビニール袋となんら変わるところは無い。
 私はゆっくりに対するその無機質感が、どうにも肌に合わないらしい。
 まあ、保存液に漬け込まれた奇形ゆっくりが立ち並ぶ森や、そこに暮らす気狂いじみた住人達。
 あるいは、生きていると形容していいのか怪しい、餡子の海に浮かんだ時折ぎょろりと動く目玉。
 そんな代物に睨み付けられられたり、囲まれたりするのを心地よいと思う人間もは、ここにあってもそうは多く無いだろう。
 私ですらも用が無ければあまり入りたくは無い、最高級の空気清浄機器でも浄化しきれないドス黒い狂気が満ちた部屋だ。





 あの部屋には無くて、此処にはあるもの。
 先生は冗談のように気安く生徒に触れる。
 その一瞬。
 白衣から漂う香り。
 タバコの匂い。
 やっと見つけた。
 私が焦がれて已まない、今だ持たず、きっとこの先一生持てない物を備えた人間を。
 先生の、匂い。
 終わった匂い、腐った匂い、歪んだ匂い、狂った匂い。
 どう表現しても当てはまり、どう表現しても正解ではない。
 そんな、あらゆる暗いものが入り混じった、退廃的で、致命的な何かが壊れた人の香り。
 私にとって、先生とタバコの匂いは最早切り離せない。
 ふらりふらりと明かりに誘われる羽虫のように。
 誰もいない、声も聞こえない事を確認すると、私は椅子にかけ置かれた白衣にそっと手を伸ばした。
 指先に、炎が灯る。
 凍える保健室の寒さをかき消すような熱が、触れた場所から体に満ちる。
 指に、髪に、肌に、舌に、粘膜同士に。
 俗に言うところの、触れ合うなんて範疇以上に踏み込んだ行為に及んだことだってある。
 だからと言って、何から何まで曝け出さねばならない道理も無いだろう。
 私は私だ。
 依存にも似た情愛と言うものが、私の心の柱であることを認める事は構わない。
 けれども、それだけに縋りついて乞い願う、そんな惨めな生き方はごめんだ。
 それならいっそ、拍子抜けするほどあっさりと、まさしく物のように切り捨てられた方が心地良い。
 お前なんかもう要らないよ、どこへなりと消えてしまえ、と。
 あの女性は、きっとそう言ってくれるに違いない。 
 ――あるいは。
 その瞬間をこそ、私は待っているのかもしれなかった。
 そうすれば、その時こそ私は望まれずとも、私の意志で私の望む場所に行られる事が出来るのだから。
 性的嗜好の意味で言っても道を外れている自覚はあるが、こんな思考も外道だろう。
 結局私は、私が思う以上にしみったれた女なのかもしれない。
 でも、そう想う事は裏切りに値する行為でも無し。
 秘め事の、ひとつやふたつ。
 そう。
 これは私だけが知る、私だけの静かな秘め事。
 先生の纏う、その心とはきっと真逆な純白の装束。
 まだ折り目の後も新しいそれを強く抱き、己の顔をそっと沈めた。
 そのまま、深く、深く。
 己の内に取り込むように、移し変えるように。
 静かな呼吸を何度も、何度も。










 ――ああ、でも、今日は。
 私が嫌いで、私が焦がれるタバコの匂いがどこにもしない。









                           TEXT.たいちょ

 sakuyaさんからのお題【泥の自キャラを使ったSS】でお送りしました。

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最終更新:2009年04月19日 00:42
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