陽射しの支配する炎天下に、陽炎が泳ぐアスファルト。爛れるような夏の昼下がりを行く一匹のまりさはいま、リアルな死への恐怖を体感していた。
ここ最近、この界隈に現れるようになった大きな悪魔。「飼い」だか「野良」だか知らないが、片っ端から
ゆっくりを狙っては虐殺する巨人――
そう……まりさは、通り魔ふらんの姿を見てしまったのだ。
先刻は発見されそうになったが、何とか身を潜めることに成功した。とはいえ、家庭のあるまりさは我が家へ帰らなければならない。きっと心配してくれている子どもたちに、狩りで得た食糧を見せて安心させてやらねばならない。
上等でない頭をフル回転させながら、まりさは退路を思案する。脳みそという雑巾を絞れるまで絞ったところでふらんの巡回ルートを割り出すことなど不可能であるが、本能が生への道に縋りついて離さなかった。
「ゆっ……ゆっ……」ズルズル
ずるずる、ずるずる、まさに
ゆっくりと進む。熱された道を力無く這うまりさの身体は枯渇寸前であったが、実は自宅までの距離はほんの僅かしかなかった。
「おうちはすぐそこなのぜ……ここをいけばかえれるのぜ……」ズルズル
暗雲を貫く一閃の光が、まりさの目に映った。
生きて帰れる――希望に満ち溢れた光であった。
「みんなっ……まりさはいきてかえったのぜ……!」ズルズル
「――そこにもいっぴき、いるみたいだな」
しかし、その光は一瞬にして魔人の手に遮断されてしまった。
「ゆっ――!?」
視界に広がる歪んだ口元。さらに上を見やると、紅蓮の双眼が爛々とまりさを見下ろしていた。
そして、その悪魔の両手には、無惨な姿に成り果てた二匹の赤れいむが握られていた。迷子になったのか、はたまた勝手に出歩いてしまったのか。捕まってなぶり殺しにされるぐらいなら、干からびて息絶えたほうがまだマシだったろうに。
まりさは蛇に睨まれた蛙と化していた。一歩も動けず、おそろしーしーを漏らし、涙が止まらない。急激に迫りくる死を受け入れられず、だが逃れられぬ事実は眼前にあり、混乱してしまっている。
「ころす」
悪魔――ふらんから発せられた、たった一言、だが絶望で塗り固められたあまりにも冷酷な審判。
「ころす。ころすころすころすころすころすころすころすころすころす――」
結果的に一言どころでは収まらなかったが、どちらにしろその言葉の意味するところは死一択である。
死への恐怖はより現実的なものへと変貌し、まりさは頭を地に擦りつけた。
「やめるのぜッ!!! いのぢだげはッッ!!!!」
涙に濡れた懇願は虚しく、あまりに鋭利すぎる指爪がまりさの小さな眼球に迫る。まず視力を奪い、暗い世界に陥れ恐怖を煽る段取りなのだろう。
悪魔が笑う。
「きっといたいよ、とってもいたいから、でも、いたくても、しぬまではしぬなよ」
「やめでぐだざいッ!!! がぞぐがいるんでずッ!!!! ごばんだべなぎゃゆっぐりでぎまぜんッ!!!!」
「だ、め♪ あははははははははは――」
「――こら、ふらん!」
瞬間、絶望と哄笑の中に第三者の、それも可愛らしい女の子の声が響いた。
見れば、二匹を仲裁するような位置に、両手を腰に当てたしかめっ面の少女が立っていた。無論まりさにはまったく見覚えがない人物である。そもそもひとの顔を何日も覚えていられるオツムはこの
ゆっくりには備わっていない。
「あ……I」
ふらんは決まり悪げにそう呟くと、渋々Iという少女の右手を掴み、まりさから離れた。
Iはふらんの手についていた赤ゆの死骸を気にも留めず、優しい微笑みを見せた。
「まりさ、大丈夫? ゴメンね、うちのふらんがまた勝手に弱い者いじめして」
「お……お……おねーさん……ありがとぉおお……」
安堵からか、まりさは自身のいろいろな体液でぐしゃぐしゃになりながらその場に倒れ込んだ。Iは「気をつけて帰ってね」と一言だけ言い残し、ふらんと手をつないで去っていった。
去り行くふらんが一度だけ振り返り、いまにも飛びかかりそうな勢いでまりさを睨んだ。
★
「おねーさんはすごく
ゆっくりしたひとなのぜ!
ゆっくりしたひとなのぜええええッ!!」
無事帰宅したまりさは、赤まりさに赤れいむ、そしてれいむに先程の体験談をどや顔で披露していた。
彼らの巣は、いつから建っているかも分からない廃屋の庭の茂みにあった。引っ越し当時、その場に散乱していた巨大なダンボール箱やビニールシートを利用して、なかなか立派な自宅を設置したのだ。
「あんなにやさしいにんげんさんがいるなんてしらなかったのぜ! みんなにもみせたかったのぜ! それにまりさもふらんとたたかったのぜ! ごかくいじょうのたたかいだったのぜ!」
テーブルの上に立って豪語するまりさを、家族が笑顔で褒め称える。
「しゅごーい!」「てんしゃーい!」「さすがはれいむのまりさだね!」
喝采に赤面しつつ、まりさはIの偉大さと優しさを三時間以上も語り続けた。
ふらんを飼う、黒髪ロングヘアの可愛らしい少女。彼女はいったい何者だったのか。まりさたちからしてみれば、優しい優しい命の恩人でしかないのだが……。
★
翌日、まりさは狩りに出ていた。
ふらんの姿を思い出すと背筋(?)も凍るが、そんなことを言っている余裕はない。食糧の蓄えが少ないため、調達しなければふらんに殺されずとも飢え死にしてしまうからだ。
昨日の件もあるし、ふらんだって簡単に外出はできないだろう。そう思えば狩りが億劫になるということはない。
「たっぷりとってかえるのぜ。ふらんがでないいまがちゃんすだぜ」
ふらんの気配はないし、いつも道路を焼いている夏の太陽も、今日はなぜだか元気がない。涼風も吹いて過ごしやすい気候である。
「あ、もしかして昨日のまりさ?」
微笑みかけるような少女の声が聞こえたのは、巣の近くにある公園の入口を過ぎようとしたところだった。
見上げた先には、餡子脳でも一晩語れば刻み込まれた女神の顔貌。救いの天使Iであった。
「お、おねーさん! ゆっくりしていってね!」パァァ
「ゆっくりしていってね♪」
ああ、ここでまた出会えたのは運命だろうか。まりさは伸びたり縮んだり、とにかく嬉しさを身体で表現した。
「今日も狩り?」
「そうなのぜ。なつはあつくてたいへんだけど、しかたないのぜ」
「大変だね。子どもがいるの?」
「かわいいかわいいおちびちゃんだぜ」
「へえ、じゃあ狩る量も増えちゃうんだ。この時期は天敵よりも天候が怖いから、狩りも一筋縄じゃいかないよね。……それじゃ、これあげる」
「ゆ?」
Iは片手に提げていたビニール袋の中から、紙袋を取り出した。その中にさらに手を入れ、引っ張り出したのは……
「あ、あまあまさんっ!?」
「メロンパンだけど。いる?」
「おねーさんありがどぉおおおッッ!!!」
Iはわざわざ屈んで、まりさにメロンパンを手渡してくれた。
それは、家族で食べても二日は食に困らない、しかも人間の作り出したあまあまさんである。
「こんなものしかあげられなくて、ごめんね」テヘペロ
「ぜんっぜん!! いいのぜっ!! ゆるすのぜっ!!」
「えへ……気に入ってもらえたなら、わたしも嬉しいよ」
Iは悠然と去り、まりさの狩りも終わった。
三つ編みおさげを揺らすそよ風が心地良い。街には音ひとつなく、ここはまるでまりさだけの世界のようだ。
そうだ、この蓄えがあるなら、明日は狩りに出なくてもいい。明日は久しぶりに、子どもたちとずっと遊んでいよう――親心と童心を胸に、まりさは巣へと戻っていった。
★
「さあ、さっさとでていくのぜっ!」
メロンパンというご馳走――豪華な晩餐が始まる直前、そのまりさは現れた。
薄汚れた帽子にギラギラした両眼は、一目見て
ゆっくりできない輩だと判断できた。こいつは、ここにいてはいけない。四匹の家族は、本能でそれを悟ったことだろう。
「ここはまりさたちの
ゆっくりぷれいすだぜ! でていくのはそっちなのぜ!」
一家の大黒柱のまりさは、強気の命令にももちろん引き下がらない。
しかしそれは、侵入者まりさも同様だった。
「でていかないのなら、そのあまあまさんをこっちによこすのぜっ! はやくするのぜっ!」
あまりに無茶すぎる交渉に、大黒柱まりさは力を溜めて、そして、全力で地を蹴った。
「はんッ! そんなこうげきがこのまりささまにつうようするとでも――」シュタッ
どちらもまりささまなのだが、侵入者まりさも同じように地を蹴り――空中で交戦した二匹のうち、大黒柱は、打ち負けた。
「ゆげぇえっ!!」
三つ編みアッパーを受け、壁にぶつかり餡子を吐き出す大黒柱まりさ。侵入者まりさがジャンプと同時に身をくねらせたことにより、攻撃が読めなくなってしまったのだ。
「お、おとーしゃん……!」ガァァァ
「まりさ……!」ガァァァ
「きちゃだめだよ! れいむとおちびちゃんはまりさがまもるからねっ!」キリッ
「――その辺にしときなよ」
良く通る声が巣に反響する。
ゆっくりたちの視点よりも、ずっと高いところから浴びせられた声だった。
大黒柱まりさは、ハッとした。まさか、もしかして――
敵の横を抜けて、巣から飛び出す。そこには、やはり、いた。
「お、おねえざぁああんっ!!」
「やっほ♪」
Iだ。そして彼女の背後には、何とふらんも立っている。一瞬びくりとしたが、飼い主がいるのであれば恐れる必要はない。
「ふらん、そこのまりさなら殺していいよ」
「わかった」
主に言われるがまま、ふらんがニヤニヤと侵入者まりさに近寄る。
「ど、どぼじで……」
狩られる獣は、妙な表情で一人と一匹を見ていた。なぜここで殺されるのかが分からない。弱肉強食を嘆くのではなく、この展開に納得がいかない、という具合に。
「どぼじで……ごんなごどずるのぉおおおおッ!!!?」
「ほら、キミたちで言う――せいっさい、ってやつだよ」
Iの言葉が終わるとともに、ふらんの二指が侵入者まりさの目を貫いた。
断末魔。れいむが子どもたちの目を遮り、壮絶な光景を視界からシャットアウトした。しかしその悲痛な叫びだけは防ぐことができず、子どもたちは俯き、震えていた。
のたうち回る侵入者まりさを、ふらんは一部分だけ引きちぎり、肉塊を外に放り投げると、また一部分を引きちぎった。手が肌に触れるたび、侵入者まりさは「ひぎぃ」と声を荒げるが、ふらんはそれが愉しいらしく、指を五本突っ込んだり抜いたり、残虐を繰り返している。
「おねーさん、どうして……」
「ん? だから、せいっさい、だよ。キミたちのように幸せな家族が、こんな不幸な運命に振り回されるなんて、理不尽すぎるから」
いよいよまりさは、このIという少女を心から信頼した。
彼女は人間なのに、優しい言葉をかけてくれるだけでなく、こうして巣まで駆けつけて危機を救ってくれた。しかも強い強いふらんを従えて、家族に傷ひとつつけることはせず。
「ありがとう……なのぜ……」
もじもじしながら礼を告げると、Iは大きく頷いて、「さ、帰るよ」とふらんの手を引き、踵を返して去っていった。
「あれが、まりさのいってたおねーさん?」
れいむが息を漏らしながら尋ね、まりさは無言で頷いた。
「まりさのいったとおり、
ゆっくりしたにんげんさんだったね」
「……そ、そうなのぜ。おねーさんはとてもとても
ゆっくりしたにんげんさんなのぜ!」
「ふらんからたすけてくれて、おおきなあまあまさんもくれて、ゲスからもまもってくれて」
「ちょっぴり、にんげんさんのことみなおしたのぜ!」
「ゆふふ」
泣き止まぬ子どもたちをあやしながら、れいむは微笑する。
まりさはIの笑顔を、声を、
ゆっくりゆっくり思い出していた。いつかまた、危険が迫ったときには助けてくれるだろうか。あまあまさんをくれるだろうか。淡い期待が、明日からの生活の糧になる気がした。
★
とある無線会話。
「ふらん、そっち。公園のほう行った」
『うん、みつけたよ。――おい、そこのおまえ。そのてにもってるにもつをおいて、きえろ』
『なにいってるのぉおおおお!!? これはれいむがみつけたあまあまさんだよぉおおおお!!!?』プンスカ
「はあ。殺していいよ」
『なら、しね』グチュッ
『ハぶッ』
『――ころしたよ』
「……まったく、これだから野良は嫌い。ふらん相手に口答えするなんて、脳みそ焼き切れてんじゃないの?」
『どうする。きょうもイイモノがみつからないみたい』
「そうだね。おやつ用意するから、早めに帰ってきてね。――そろそろアレが美酒に化ける時期かなぁ」
後編まで、ゆっくりしていってね!!!
最終更新:2023年10月02日 21:51