そのありすは、いわゆるレイパーと呼ばれる類の存在ではなかった。
ありすにはゆっくりしたつがいのまりさがいて、
二匹は同じ群れに生まれ、子供のころから互いに想い合った相手であり、
結ばれてから二年の歳月を重ねる間に幾度も愛を交わし、多くの子を設けた幸多き所帯であった。
――つい、この間までは。との但し書きが着くが。
* * *
「おら、『わたしはレイパーです』って言ってみろよ」
今、家族から愛される母ありすの周囲に、彼女が守り、守られる家族の姿は一匹もなかった。
自慢の美しく艶のある金髪は今は散々に乱れ、きめ細かなもち肌だった素肌も透き通るような白から激しく打擲を受けて
あちこち白黒の斑模様と変わり、野生にはそうそう見かけぬ美ゆっくりであった名残もない。
容易くは殺さぬよう手心を加えられた暴行は、その回を重ねるごとにゆっくりと少しずつ激しくなり、
ことにありすが口答えをしようものなら一際激しく鞭打たれ、身体の各所にカスタードを噴き零す大小の裂傷を作っている。
ありすの身体の縦横に刻まれた傷は、傍目に見ても決して浅くはない。
だが、ありすは今なおその命を保っている。
日夜の別なく繰り広げられる虐待の中で、最大限の苦痛を与えつつ緩慢にその命を奪うことが拷問吏の目的なのだろう。
なぜ、こうなったのか。ありすにはわからない。
ありすはいつもどおり、何より大切な家族のために餌をいっぱい集めようと森に出かけただけなのに。
目の前に大きな生き物――人間の影が現れたと思うと、ゆっくりできない袋に詰め込まれ、
家族の姿を求めて泣き叫ぶうちにこの薄暗く、飾り気のない無機質な部屋に放り込まれていた。
こうなった時点で、ある程度待ち受ける未来への覚悟は出来ていた。
ありすは人づてに聞いていた。人間には、ゆっくりを残忍な手段で殺すことですっきりする連中がいると。
そうした連中に捕まったゆっくりは、それから片時もゆっくりする暇を与えられず、決して生きて群れに戻ることがないのだと。
ましてや、ありすを捕らえた男の目には、狂的なまでの憎悪の光がくっきりと宿っていた。
それはありすに否応なく、自身の確実な死を予感させるに足るものだった。
そして、そんな伝聞にも予感にも微塵も相違することなくして、ひと心地つくより早く、満面の笑顔で告げられた。
「じゃ、これからお前をゆっくりなぶり殺しにします」
それからその言葉どおりに始めた身の毛もよだつような拷問の数々。
あんよをじっくりと炭火で焼かれ、肌を柔軟な竹の定規で数え切れないほど打たれ、
ぎりぎり底面が破れるか否かの瀬戸際まで迫る水責めを受け、
ふやけた底面がまだ乾かないうちに男の手に持ち上げられ、高所より落とされた。
鋭い刃物で表層に幾本も薄い切り傷を刻まれ、カスタードが毀れないよう上面を深々と抉られ、
やがては鏡の前でありすの身体に数多の穴が穿たれ、その穴から自分の中身が流れ出る様子をゆっくりと見せ付けられた。
絶えず全身に新たに刻み込まれる大小の傷。
その無数の傷口の最初の一つが癒えるほどの時間もない内に、一体何度、どれほどの暴虐がこの身に揮われたことだろう。
だが、まだ殺されていない。ありすの命が傍目にも絶えそうになれば、すんでの所で男の手にした竹筒から注がれる砂糖水が
ありすを死の渕から強引に連れ戻した。
殺されていない、というより、男はありすの死をまだ許すつもりがないのだ。
男はありすに加える虐待、その中で目的とするものの最後の一つを未だ得ていなかったから。
そうだ。そうしてひとつの虐待が終わるたびに、ありすに決まってひとつの言葉を吐くように強要する。
「聞こえてねえのか? レイパーだって認めろっつってんだよ」
まるでその肯定が男にとって何より重要であるかのように。何度も、執拗に、諦めることなく。
一言。そう、たったの一言二言。
難しいことは求められていない。簡明に「はい」、「ありすはレイパーよ」と応えれば、安楽な死がありすに訪れたに違いがない。
だというのに、
「ぁ……ありずは、れいばーじゃ……ないわ……」
数多の傷を受け、命のともし火を限界まで弱めながらも、ありすはその要求を凛然とした態度で跳ね除けた。
ただ焼かれるなら、殴られるなら、ただ刻まれるなら、ただ潰されるなら、ただ抉られるなら、
ただ虐待を受け続けるだけならば、ありすは無様に顔を歪めて泣き喚いていただろう。
だが、ありすにとってレイパーという呼称だけは、到底受け入れられるものではなかった。
だって、ありすは家族に愛される『とかいは』だから。
レイパーなんて、あんな野蛮な連中といっしょくたにされるのはこの上ない屈辱だった。
そう、ありすは家族に愛されているから。
家族を、とても大切にしているから。
家族は、ありすを信じてくれているから。
そこに、ありすのありすとしての矜持があった。
ひ弱なゆっくりというナマモノの身に、仮借ない虐待を耐え忍ばせる力を生み出すだけの矜持が。
この身は、もうこれ以上の暴虐にはそう耐えられないだろう。家族を置いて先立つのは悔しいが、もはやどうにもならないことだ。
ならば、せめて家族の信じるありすを貫いてこの世に別れを告げよう。そう、心に決めている。
その決意の固さが、ありすのともすれば崩れ落ちそうになる心と身体をしっかりと強く支えてくれている。
ただし、それはほんのわずかな言葉のやり取りで砕け散るほどに脆い支柱でもあったのだが。
それはまだ、ありす自身の知るところではない。
「おまえ、馬鹿か? そんなの誰が信じるんだよ」
「まり、さは……わかって、くれているも、の。それに……おちびちゃん、たちも……ゆびぇっ」
息も絶え絶えに反論の弁を奮うありすの姿が、男の目にはよほど滑稽に見えているのだろうか。
命そのもののカスタードを全身の傷口から垂れ流すありすを手にした木の棒で突き転がし、男は唇の端を歪めてせせら笑った。
「レイパーの家族か。家族だけか。そりゃ、お仲間のことは守ってくれるだろうな」
「……かぞくのこと、は……かぞくのことだけ、は、わるく……いわ、ないで……」
ありすの言葉尻を逃さず、わずかに矛先を変えた男の言葉。
苦しい息のもと、ねちねちと苛む男の言葉に眦を逆立てて反論しても却って男を喜ばせるだけ。
そうと知っても、ありすは男を睨み付けて抗議の言葉を吐かずにはいられない。
「へぇ。レイプで無理やりこさえた連れ合いとガキでも、情がうつりゃかわいいもんかね」
案の定、それを聞いた男が得たりとばかり嘲笑を一層強いものにした。
ありす自身への攻撃の次は、ありすの家族を徹頭徹尾貶める。
それがありすにとってもっとも大切なものだと知り尽くした上で、そこを狙う。
拷問と拷問を繋ぐ合間に、何度も繰り返されたやりとりだ。
(でも……にんげんさんは、ありすのことなにもしらないもの)
だが。『大切なもの』は『弱点』であるばかりとは限らない。ありすは青年の冷たい笑顔を見返して思う。
男は知らない。まりさの優しさを。
男は知らない。ありすとまりさのおちびちゃんのゆっくりした笑顔を。
男は知らない。ここにいるこのありすがどんなゆっくりなのかさえ。
男はゆっくりという種の存在を知っているだけだ。個々体のそれぞれの別などに興味はない。
そんな人間がありすや、ありすの家族のことを幾ら悪く言おうが、事実とまるで異なる言葉の羅列はありすの心をただ素通りしていく。
ありすの家族を知らない人間の言葉に、惑わされるはずなんてない。
少し、心が揺らぐたび。ありすは自分の記憶の中にある自分や、家族の姿を思い浮かべて強く自分を持ち直すのだ。
だが、その決然とした思いと表情が、次に投げかけられた男の言葉にわずかに揺らいだ。
「じゃあ、お前は信じてくれるヤツを思い浮かべられるのか? もちろん家族以外で、だ」
「それは……」
それは今までにないやり取り。ありすと家族に絞られていた攻め手に、突如加わった変化球。
もちろんよ。
その既にパターン化したやり取りの新バリエーションに、ありすはきっぱりと続けようとして、声が掠れた。
「あたり……まえ、じゃない。みんな、ありすのともだ……」
語尾は掠れて、語尾は暖炉の薪が爆ぜる音に紛れて消えた。
男の問いに答えるため、餡子脳からこれまでのゆん生で接してきた多くのゆっくりたちの記憶を探る。
記憶の底まで探る。
洗い出すように探る。
信じてくれる友の存在を、必死に記憶の井戸から探らなくては、ならない。
突然心の奥底から湧き出し体中を覆った強烈な悪寒に、わなわなと震えて男を見返す。
男は、ありすの劇的な反応ににんまりと会心の笑みを浮かべていた。
ありすは愕然とした。
『家族以外で』。その余りにも平易な条件の、余りにも理不尽な厳しさに気が付いて慄然とした。
人間の態度が小ばかにするような態度で放たれた言葉であれば、まだありすの心は傷つかなかったかもしれない。
だが、心からありすの態度を不審に思う――ありす=レイパーという認識をごく自然なものと感じている人間の様子が今、
ありすの心の内側を鉤爪のように深く、手ひどく抉っていく。
驚くべきことに、そして恐るべきことに。
ありすは人間の指摘を受けて、自分を信じてくれるだろう第三者の存在に思い当たらないという事実に直面した。
多分、いや絶対に。誰も信じてはくれないだろう。
家族に愛されるありすは、反論しようと口を半ば開いたままの間抜けな面のまま、何も言い返すことが出来なくなった。
ありすは、確かに家族から多くの愛を受けていた。
しかし同時に、家族以外の誰からも、愛を受けたことがなかったことを、何故か忘れていたその事実を、今改めて思い知っていた。
「ほら、どうした?」
お前を信じてくれる誰かの名前を言ってみろよ。家族以外で、だ。
楽しげな様子で促す男の声すら、必死に他の皆から信頼されたという事実を過去から拾い上げようとする今のありすには届いていない。
ありすは森の群れに属するまりさとありすの家族の子として生まれ育った。
幼いころから、味方は家族だけだった。
同世代の子供の中で、ありすと親しくしてくれたのは隣のおうちで同じ日に生まれたまりさ、ただ一匹。
たった一匹の友達だったその子は、ありすと友達だったために他の友達を失い、お互いにお互いだけがただ一匹の代え難い友になった。
そのたった一匹の友達まりさも、今はありすの家族となった。
ありすを愛してくれるのは、本当にありすの家族だけ。
同じ群れの他のみんなは、上っ面は親しく接してくれる。でもみんな本心ではこう思っていることを、ありすたちは知っていた。
(あれは、レイパーになるゆっくりだよ)
(ゆっくりできないゆっくりだよ)
(もうレイパーになっているかもしれないよ)
(おお、こわいこわい)
ありすは、そのことを知っていた。
こそこそと呟かれるありす家族への嫌悪の言葉を、物陰から耳にしてしまうことも一度や二度ではない。
夜が明けると、おうちの前に誰のものとも知れぬうんうんが捨てられていた朝が何度あったことだろう。
みんなにとって、ありすはレイパーに過ぎないのだということを嫌というほど知っていた。
知っていて、なおかつそれは一部の心無いゆっくりのやることだと、自分自身を誤魔化していたことに気づかされてしまった。
せっかく、わすれていたのに。
わかっていたけど、きがつかないようにしていたのに。
思考停止という自己防衛の手段を突き崩すのは簡単だ。否応なく、その停止した事象と向き合う環境を作ってやればよいのだ。
ガラガラと、虚構に満ちたありすの世界が音を立てて崩れ去っていく。
世界はきっと自分たち家族に優しいと純朴に信じる、そう演じるための偽りの世界が。
今や何もかも自覚してしまったありうの頬に、つぅっ、涙が一筋落ちる。
「いえるのか? お前はレイパーじゃないって言ってくれる仲間がいるのか?」
いなかった。一匹も。
家族の他には誰一匹、ありすの潔白を担保してくれるゆっくりを、ありすは思い浮かべることが出来なかった。
だから、幾ら同じ問いを投げかけられたところでありすには何も答えられない。
実際に存在などしないものを、答えられるわけなどないではないか。
「いいか、ありすはレイパーなんだ。レイパーがありすなんだ。生まれつき、ありすとレイパーはイコール、
つまり同じ意味なんだよ」
ああ、ほんとうに。
この人間のいうことは、悲しいほどに間違っていない。
ありすがどれほどレイパーではないと叫んでも。誰もそれを聞いてくれない。
「お前はレイパーとして生まれ、レイパーとして生き、レイパーとしてここで死ぬんだよ。『ありすだから』な」
ありすだから、聞いてくれない。
レイパーのいうことなんて、聞いてくれない。
この人間が信じないように、誰もありすを信じてくれない。
ありすという個体がどうであるかなんて、みんなには関係がないんだ。
ありすという存在が即ち、レイパーであるということと同一になっている。
ただ、それだけ。
ありすを信じてくれるのは、家族だけ。
ありすと結ばれ、ありすの子として生まれたばかりに、みんなにレイパーの一味と憎まれてしまう家族だけ。
憎まれた挙句、他の誰からも疎外され、不幸に塗れ、不幸を与える生涯を送るだろう家族だけ。
人間はありすの涙を見て楽しそうに笑う。
ありすの瞳を見つめて楽しそうに笑う。
「レイパーの涙ってのは、どいつもこいつも安っぽい涙だな。誰からも愛されてねえもんな、お前らに殺されたうちのまりさと違って」
男の喜悦に満ちた、だが真性の憎悪が込められたその言葉を、既にありすは聞いていない。
聞こえてはいても、理解はできていなかった。ありすの言葉と、男――否、他の皆が操る言葉は違うのだ、通じ合えないのだと気付いてしまったから。
ゆっくりからも、人間からも、この世の知恵ある全てから疎まれ、憎まれていると知らされたありすは、ただ呆然と男を見上げるだけ。
「じゃあな。死ね、レイパー」
ありすはレイパーじゃ、ない。そうしんじるぐらい、ゆるして。
弱弱しい呟きは、誰にも聞き取られることはなかった。それが口の端から漏れ出る前に、振り下ろされた細い金棒がありすを叩き潰したから。
ありすは愛しいまりさとわが子たちのことへと想いを馳せながら、
レイパーの家族として、未来のレイパーとして蔑まれる家族の未来を憂いながら。
ありすは『人里近くを飼いゆっくりを狙って出歩いていたただのレイパー』としてその生涯を終えた。
最終更新:2022年05月19日 12:00