- 同時代のポリスと比べても群を抜く広さの領土を持っていた。およそ8000平方kmで、
二番目に大きい
シュラクサイの4000平方kmを大きく上回る。
- 共同食事・国家による男子の育成など、独特の生活様式を持った事で知られる。
共同食事は、男子市民が各家から糧食を持ち寄り、グループごとに共同の夕食をとった慣習のこと。
この食事に出席できない者は市民としての資格を失ったといわれる。
- 成人男子が全裸で陸上競技その他の運動をする風習もスパルタで生まれ、他のポリスに広まっている。
体育場を意味するギリシア語「ギュムナシオン」は、裸を意味する「ギュムノス」が語源。
- またプルタルコスは「リュクルゴス伝」の中で、優秀な若者を選び出して夜間のうちに田園に派遣し、
農場で奴隷として働くヘロットと呼ばれる人々の中で特に力のあるものを殺害させた、と記している。
これはヘロットたちが常に反乱を起こす潜在的可能性を持っていたため、これを未然に防ぐ意味もあったのではないかと言われる。
- また前六世紀以降、ギリシア各地では貨幣鋳造が普及し始めたが、
スパルタは貴金属貨幣の流通を禁じ、鉄の貨幣の利用のみを認めていた事も知られている。
金貨や銀貨を私蔵しているだけで処罰の対象となったとか。
(これは、貨幣鋳造によって経済活動が盛んになると不動産の所有関係にまで影響がおよび、
重装歩兵市民の減少などが起こる恐れがある事に対する対抗策だったのではないかと言われる)
- 古史料によると、盛期のスパルタにはアギス家とエウリュポン家という二つの王家が並び立つ、
二王制がとられていたと見られる。このような制度は同時代のポリスにあって異質であると云々。
- 古代ギリシャのポリスが海外へと植民市を作る事に熱心だった事と対照的に、
スパルタはこうした植民をあまり行っていない事が知られている。
唯一の例外は
BC706年(W)の
タラスへの植民であるとか。
- また、スパルタには長らく城壁が存在しなかった事も知られている。
(他ポリスが陸戦を仕掛けてくる事はない、という自信の表れと見る見解もある)。
スパルタに城壁が作られたのは、紀元前二世紀になってからのこと。
- スパルタは文書制作を嫌う事でも有名で、その法律は意図的に成文化されなかった他、
戦死した兵士と在職中に死亡した女神官を除いて、墓石に名を刻む事も禁止していたという。
- 古代において、スパルタ(ラケダイモン)の女は、結婚した夫に不幸をもたらすという観念のあったことが知られる
- 考古学的には、スパルタの地に居住の形跡が見られるのは紀元前十一世紀後半または紀元前十世紀初期のこと。
スパルタには
アガメムノンに仕えた高名な伝令使
タルテュビオスを祀った社があり、
スパルタから派遣される伝令はすべてこのタルテュビオスの一族が特権として担当する事になっていたという。
が、ペルシアの
ダレイオスがスパルタに降伏勧告の死者を出した際にスパルタ人がこれを井戸に落として殺したため、
タルテュビオスの怒りを買い、以降使者を立てる際の占いにどうしても吉兆が現れなくなったとか。
「影の追及」という名前の
日時計を初めて展示した場所だという。
(zsphereコメント:一体どういう経緯で、スパルタで展示する事になったのか……?)
参考文献
『ギリシア神話』アポロドーロス
『歴史(下)』ヘロドトス
『アエネーイス(上)』ウェルギリウス
『プリニウスの博物誌 Ⅰ』
『古代ギリシアの歴史』伊藤貞夫
『古代ギリシア 11の都市が語る歴史』ポール・カートリッジ
最終更新:2016年02月10日 03:33