眭固(または
畦固、
睢固)は、後漢後期の人物。
黒山賊の将の一人とも、
黄巾の乱以後に黒山とは別に蜂起した賊将の一人ともいう。
後に
張楊の将となる。張楊を殺した
楊醜を殺して
袁紹に与したが、
曹操の遣わした
史渙・
曹仁に攻撃されて斬られた。
情報
事跡
黄巾が起こると、各地で叛乱が続発し、山谷の間に立て籠もって数え切れないほどだった。眭固(畦固)もその一人として蜂起した。
初平二年(191年)、黒山賊の
于毒、
白繞と共に十余万の衆で
魏郡、
東郡を攻略し、東郡
太守の
王肱は防御できなかった。
行奮武将軍の
曹操が兵を率いて東郡に入り、
白繞が濮陽県で破れた。
初平三年(192年)、東郡太守となった曹操に要撃(迎撃)され、大破された。
後に
大司馬張楊の将となった。
建安三年(198年)十一月、同じく将の
楊醜が張楊を殺し、その衆を奪って曹操に与した。
建安四年(199年)春、眭固は楊醜を殺し、その衆をもって
袁紹に属し、射犬に駐屯した。張楊の故の大司馬
長史の
薛洪・
河内太守の
繆尚を守りに留め、自ら兵を率いて北に袁紹を迎えて救援を求めようとした。
四月、曹操が北上して
河水に臨み、
史渙・
曹仁を使わして渡河させ、眭固を邀撃させた。眭固と史渙らは
犬城で遭遇した。
時に巫が有って眭固を誡めて曰く、
「将軍の字は兔にして、この邑の名は犬です。兔が犬を見れば、その勢からして必ず驚となります。宜しく急ぎ移去すべきです」
眭固は従わず、遂に戦って大破され、斬られた。
曹操が河水を渡って射犬を囲むと、薛洪・繆尚は衆を率いて降伏し、封じられて
列侯となった。
「後漢書集解」清代の漢学者惠棟の説を引き、
官渡の戦いで
淳于瓊の陣営が破れた際に斬られた督将の
眭元進とは眭固のことだとする。
年表
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関連項目・人物
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最終更新:2016年02月15日 00:21