情報
事跡
幹事の才を有し、
政に従って熟達し、漢の良吏となった。
初め、徐州従事に徐任された。
司徒府に
辟召され、
中山国の
盧奴県令に徐任された。
冀州によって治績が最も異(とりわけ優れている)と推挙された。
揚州刺史に遷った。
霊帝の熹平元年(172)十一月、
会稽郡人の
許生が「越王」を自称し、郡県を寇した。臧旻は丹陽太守
陳夤と共にこれを討ち破った。
熹平三年(174)十一月、丹陽太守の
陳寅を率い、許生を會稽郡にて大いに破り、これを斬った。
丹陽郡太守に遷った。
この時、辺方(辺境)は警(緊急警戒)を有し、
羌、
胡が出寇していた。
三府が能あるものを挙げ、臧旻は使匈奴中郎將に遷った。
熹平六年(177)十一月、
破鮮卑中郎将の
田晏が
雲中を出、臧旻が
南単于とともに
鴈門を出、
護烏桓校尉の
夏育が高柳を出て、並んで
鮮卑を伐ったが、大敗した。
臧旻は賊を討って功が有り、徴されて
議郎を拜して
京師(
洛陽)に還った。
太尉袁逢と見えると、袁逢が西域諸国の土地、風俗、人物、種族の數を問うた。臧旻は具さに答えて言うには、西域はもとは三十六国であったが、後に分れて五十五となり、
稍して散って百余国に至ったこと。その国の大小、道里の近遠、人数の多少、風俗の燥湿、山川・草木・鳥獣・異物・名種の中国と同じくないもの、悉くその状況を口陳、地形を手書きした。袁逢はその才を奇とし、歎息して言った。
「
班固が西域伝を作ると雖も、何を以ってこれに加えるだろうか?」
三国志臧洪伝は
中山太守にも任官したとするが、時期は不明。
年表
所属項目(タグ)
関連項目・人物
「臧旻」をタグに含むページは1つもありません。
-
最終更新:2016年03月26日 00:16