劉虞は、後漢後期の人物。光武帝の長子、東海恭王劉彊の後裔。
 幽州で


情報

劉虞
伯安
本貫地 東海郡郯県
家柄 郯県劉氏
劉舒
起家 孝廉
官歴 幽州刺史 去官 甘陵 宗正 幽州(本秩を以って職に居り) 太尉 大司馬 太傅(王命不達) 加六州事
爵位 容丘侯 襄賁侯 増邑
威信素から著れ、恩は北方に積まる 倹素を以って操と為し、冠が(やぶ)れて改めず、乃ち就きてその穿を補う。
死去 初平四年冬十月、薊市にて斬首
死後評 徳に(つと)めてこれ燕北に城す。仁能く下に(あまね)く、忠以って国を衛る(後漢書賛)。
劉和




事跡


幽州に威信を立てる

 五経に通じ、孝廉察挙された。
 やがて幽州刺史に遷った。民も夷狄もその徳化に感じ、鮮卑烏桓夫余穢貊の輩から、皆、時(四季)に随って朝貢があり、敢えて辺境を騒がす者も無く、百姓は平穏を歌い悦んだ。
 やがて公事によって官を去った。
 中平年間の初め(184年)、黄巾が叛乱し、冀州の諸郡を攻め破った。劉虞は甘陵相を拜して、荒れた叛乱の跡地を綏撫(慰撫)し、蔬倹(粗食節倹)を以って部下の官吏を率いた。
 宗正に遷った。


張挙・張純の乱

 中平二年(185年)、車騎将軍張温が賊の辺章らを討ち、幽州の烏桓三千の突騎を発動したが、牢稟(俸給の糧食)が遅滞し、みな叛いて本国に還った。
 中平四年(187年)、幽州漁陽郡人の張純・張挙らが烏桓の大人と連盟して叛乱し、下を攻めた。城郭を焼き、百姓を略取し、護烏桓校尉箕稠右北平太守の劉政遼東太守の陽終らを殺した。その衆は十数万人に至り、肥如県に屯した。張挙は「天子」を称し、張純は「彌天将軍・安定王」を称し、州郡に文書を回して云うに、
「張挙はまさに漢に代わるべし」
 と。天子(霊帝)に避位を告げ、公卿に奉迎を勅命した。
 張純はまた烏桓の峭王らを使して歩騎五万を二州に入らせ、清河平原を攻め破り、吏民を殺害した。
 中平五年(188年)、朝廷は劉虞の威信が平素から顕れ、北方に恩が積まれていることによって、幽州監軍使者に拜した。遼東属国長史として烏桓突騎を領していた公孫瓚に実働する兵を指揮させて張純・烏桓を討たせ、劉虞が節度によって公孫瓚を監督した。
 劉虞は薊県に到ると、屯兵を罷め省き、務めて恩信を広めた。使者を遣わして峭王らに朝廷の恩顧は寛大であること告げさせて、善路(帰順の道)を開いて許した。また褒賞を設けて張挙・張純の首を購った。二人は逃走してを出て、残余の兵は皆降伏するか離散した。
 張純は自分の客の王政に殺され、王政はその首を送って劉虞のもとに至った。
 霊帝が使者を遣わして劉虞は太尉を拜し、容丘侯に封じられた。


諸侯蜂起の中で

 中平六年(189年)、董卓が政事を執り、献帝を即位させると、使者を遣わして劉虞に大司馬を授け、封を進めて襄賁侯とした。同時に公孫瓚も降虜校尉を拜し、都亭侯に封じられて、また遼東属国長史を兼領することになった。
 初平元年(190年)、袁紹袁術らが兵を起こして袁隗が処刑されると、またされて、代わって太傅とされた。しかし道路が隔塞し、王命は劉虞のもとに届かなかった。
 古くより幽州部は荒外に隣接し、必要な経費資材は甚だ大きく、常に青州冀州調を年間二億銭余を割いて給付し、補っていた。この時代には処々の交通が断絶し、輸送は至らなかったため、劉虞は務めて寬政を敷き、農植を勧め監督し、上谷郡の胡巿(夷狄との交易市)の利を開き、漁陽郡の塩鉄の饒を通した。民は悦び、豊作の年となり、は一当たり三十銭と安定した。青州・徐州士人庶民で黄巾の難を避けて劉虞に帰した者は百余万人、これを全て収容し政事を視て、憂い労り、生業を成り立たせた。流民は皆、郷里を離れて遠く遷っていることを忘れた。
 劉虞は位は上公となったが、天性節約で、ぼろ衣に縄を履き、食膳には一種類の肉しか置かなかった。遠近の豪族の元から僭越奢侈だった者も、これを視て操を改め、心を帰さない者はなかった。
 公孫瓚は自分の元に徒衆を集めることに務め、その勢力は強大となり、ほしいままに部曲を任じて、百姓を頗る侵し(みだ)した。しかし劉虞は政事をするに仁愛であり、民とその財産を利することを考えていた。このことから劉虞は公孫瓚と次第に不和となっていった。


皇帝に推される

 初平二年(191年)、冀州刺史の韓馥勃海太守の袁紹、及び山東諸将が議して、朝廷(献帝)は幼少であり、董卓に逼られ、長安は遠隔で関は塞がれ、存否も知れないので、宗室長者である劉虞を立てて皇帝に即位させることを望んだ。
 故の楽浪太守の張岐らが遣わされて決議を齎し、劉虞に尊号を上した。劉虞は、顔色を(はげ)まして(厳しくして)張岐らを叱りつけて、
「今天下は崩乱し、主上は(京師を離れて)塵を蒙っている。吾は重恩を被りながら、未だ国の恥を清め雪ぐこと能わない。諸君はおのおの州郡に拠し、宜しく共に勠力(協力)し、王室に心を尽くすべきであるのに、反造・逆謀し、もって相い垢誤(恥ずべき誤り)するのか!」
 劉虞は固くこれを拒んだ。韓馥らは諦めず、領尚書事として承制封拜を行うことを請うたが、劉虞はまた許さず、遂に使者を収監して斬った。


献帝奉戴の試み

 このことから劉虞は大司馬(州従事とも)の右北平の田疇・州従事鮮于銀を選び、険路を冒して街道の間を往かせ、使者として長安に奉じさせた。
 献帝は既に東帰を考えており、田疇らを見て大いに悦んだ。時に劉虞の子劉和侍中となっており、そこで劉和を遣わし、潜かに武関より出て、劉虞に兵を率いて来迎するように告げた。武関からの道は南陽郡を経由しており、後将軍袁術がそのあらましを聞くと、劉和を足止めし、使者をして劉虞に報せ、兵を遣わして共に西行しようと持ちかけた。
 袁術の詐欺を予測した公孫瓚がこの派兵を諌めたが、劉虞は聴かず、数千騎を使わして劉和に就かせ、天子を奉迎させようとした。兵が派遣されてしまうと、公孫瓚は袁術の恨みを買うのを恐れ、密かに劉和を捕らえて劉虞の兵を奪うに勧めた。袁術はついに天子奉迎の兵を派遣しなかった。
 これにより劉虞と公孫瓚との仇怨はますます深くなった。劉和はやがて袁術から逃れて北へ還ったが、また途中で袁紹に留められることとなった。


公孫瓚との確執

 この頃(初平三年・192年頃)、公孫瓚は袁紹に敗戦を重ねていたが、なお攻めるのを止めなかった。劉虞は、公孫瓚がその武を(けが)す(無闇な武力を振るう)のを患い、また、彼が袁紹を倒してしまえばますます制御できなくなるのを憂えて、固く出撃を許さず、次第に稟假(兵糧の供給)を節制した。公孫瓚は怒ってしばしば劉虞の節度に反し、一方で再び百姓を侵犯した(勝手に徴発した)。劉虞が胡・夷に賞賜、交換した物資も、しばしば公孫瓚の抄奪に遭い、劉虞は禁じることができない状態が続いた。
 劉虞は使を遣わして朝廷に章を奉じさせ、その暴掠の罪を陳述した。しかし公孫瓚もまた、劉虞が兵糧を回さないことを上した。二つの上奏が交錯し、互いに非難毀謗しあったので、朝廷は曖昧な態度を取るしかできなかった。
 朝廷の詔勅によって解決しないとなると、公孫瓚は薊城に(高丘)を築き、劉虞に備えた。劉虞はしばしば自分の公府に参上するよう召したが、公孫瓚は病を称して応じなかった。
 劉虞は遂に公孫瓚を討とうと密謀し、東曹掾右北平魏攸に告げた。しかし魏攸は曰く、
「今、天下は首を伸ばして(あなた)を帰すべき場所としております。それには謀臣爪牙は無くべからざるものであり、公孫瓚の文武の才力は恃むに足りるものです。小悪が有ると雖も、固く宜しく容忍すべきであります」
 劉虞は中止した。


破局と敗亡

 しばらくして魏攸が卒(死去)すると、劉虞は積もる怒りを抑えられなくなった。
 初平四年(193年)冬十月、遂に自ら諸屯兵、合わせて衆十万人を率い、公孫瓚を攻めた。まさに行こうとすると、従事で代郡人の程緒が冑を脱いで前に出て曰く、
「公孫瓚は過悪を有すと雖も、罪名は未だ正されておりません。明公は先に告曉し(教え諭し)て行いを改めさせようとはなさらなかったのに、兵が蕭牆に起きる(門の屏風ほどの鼻先で内紛する)のは、国の利ではありません。加えて勝敗は保ち難いものです(行方はわかりません)。兵を(とど)めて、武を以って(威圧し)これに臨むに如くはありません。公孫瓚は必ずや禍いを悔いて謝罪するでしょう。いわゆる、戦わずして人を服させるものであります」
 劉虞は程緒が臨んで議を阻んだとし、彼を斬り、以って徇(広く告げ知らせる。みせしめ)とした。軍士を戒めて曰く、
「余人を傷す無かれ、殺すは一に伯珪のみ」
 時に州従事の公孫紀なる者があり、同姓であることから公孫瓚が厚くこれを待遇していた。公孫紀は劉虞の謀を知ると、夜に公孫瓚に告げた。公孫瓚はその時、部曲を放散して外に所在させており、急なことで免れられないのを懼れ、(薊城の)東城を掘って逃走しようとした。
 しかし、劉虞の兵は戦いに習熟せず、また劉虞が人・廬舍を愛して、命じて城を焚焼することを許さなかったので、厳しく(しかし正攻法で)攻囲したが下せなかった。公孫瓚はそこで鋭士数百人を簡抜召募し、風によって火を放ち、直ちに衝突した。劉虞は大敗し、官属とともに北の居庸県に奔走した。公孫瓚は追ってここを攻め、三日にして城は陥ちた。
 劉虞は妻子と共に捕えられ、公孫瓚の本拠である薊県に移された。捕らわれの身でもなお州の文書を処理させられた。
 たまたま、天子が使者の段訓を遣わし、劉虞の封邑を増して六州事とし、公孫瓚を前将軍に拜して侯に封じ仮節督幽・并・青・冀州とした。公孫瓚は、劉虞が前に袁紹らの議を受けて尊号(皇帝号)を称することを欲したと誣告し、(信節によって天子の専断権を代行するようにと)段訓を脅した。

 同月、劉虞は薊のにて斬首となった。公孫瓚はその前に座して呪い、曰く、
「もし、劉虞がまさに天子と為るべき者ならば、天はまさに風雨して以って相救うべし」
 しかし、時に旱魃炎暑であり*1、雨が降ることはなく、遂に斬ったのである。


死後

 生前、劉虞は倹約質素を以って(みさお)とし、がやぶれても取り換えず、その穴を補って使うほどだった。害に遇うに及んで、公孫瓚の兵がその内を捜したが、而して妻妾は羅紈を服し、綺飾を盛んにしていた。時の人はこれによって劉虞が本当に質素であったのか疑ったという。
 公孫瓚は朝廷に上して段訓を劉虞の後任に当たる幽州刺史とし、これによって幽州の地をことごとく領有することになった。
 しかしながら、劉虞は厚い恩義によって衆望を得、北部の州を懐かせていた。百姓は、他所からの流民と旧来の住民とを問わずその死を痛惜し、多くの反動が起こった。
 劉虞の首級は京師(長安)に送られたが、途中で劉虞の故吏尾敦が奪い取り、帰ってった。
 州従事で漁陽郡の鮮于輔は、州兵を糾合して率い、共に公孫瓚に報復しようと謀って、平素から烏桓に恩信を有した閻柔を推して烏桓司馬とした。閻柔は公孫瓚の任じた漁陽郡太守の鄒丹を破って斬った。
 烏桓の峭王もまた劉虞の恩徳に感じ、同族人と鮮卑七千余騎を率いて、鮮于輔と合流し、袁紹に留められていた劉和を軍に迎えた。
 興平二年(195年)、袁紹の将の麴義の来援も加えて総勢十万の軍は、公孫瓚を鮑丘にて破り、易京へ撤収させた。
 軍事的な自由を求めて劉虞を殺し幽州を得たはずの公孫瓚は、しかし、劉虞の死を境に積極性を失っていき、建安四年(199年)、多年の籠城の末に袁紹の策に敗れて自焚したのだった。
 鮮于輔は後にその衆を将いて曹操に帰順し、度遼将軍となり、都亭侯に封じられた。
 閻柔は部曲を将いて曹操に従い、烏桓を撃ち、護烏桓校尉を拜し、関内侯に封じられた。
 劉虞の子、劉和のその後の消息は、史書に記されていない。


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最終更新:2016年05月09日 22:03

*1 太陰暦十月は冬の初めであるはずだが。