吉田定房

吉田定房


  • 文永十一(1274)~暦応元/延元三(1338)年1月23日
 父は吉田経長、母は葉室定嗣の娘。名家中の名流の嫡男として順調に官途を進み、乾元元(1302)年、二十九歳で早くも参議。伝奏にも加えられた(1)。嘉元三(1305)年、権中納言となり、評定衆に任じた。延慶二(1309)年に辞官。後宇多院政再開とともに伝奏に復帰、元応元(1319)年には権大納言になった。元亨元(1321)年、後醍醐天皇親政開始の可否を諮るために鎌倉に下向。幕府の賛同を得て帰京した。この後の定房と後醍醐天皇の関係をどう捉えるか、私にはまだよくわからない。邦良親王派の中御門経継と確執があった(2)とされるが、これだけでは彼が天皇派に与していたとはいえないだろう。ともかく定房は早急な倒幕は不可能であると判断、しばしば天皇を諌めた。元徳二(1330)年には十ヵ条の意見書を奉呈している。しかし天皇はこれを容れなかったため、ついに元弘元(1331)年、日野俊基を主謀者とする倒幕計画の存在を幕府に密告した。元弘の乱の始まりである。俊基を犠牲にして天皇を守ろうとした、といわれているが、他の解釈が成り立つ余地はないのだろうか。建武の新政が開始されると、彼は名家の出身者として初めて、内大臣に昇進する。このことからすると、定房はやはり天皇に信任されていたのだろうが・・・・・・。天皇が吉野に脱出するとやがて定房もこれにならい、同地で没した。
  1. 『吉続記』乾元元年十月七日
  2. 『花園天皇宸記』元応元年十月二十八日

(本郷和人)
最終更新:2009年06月09日 01:58