アマネオ
こども(1992年)
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amaneo
ここは雨多ノ島水族館。
タマキは生体スーツ「ツナギ」を着て、地下プールを優雅に泳ぎ回っている。ツナギは標準形態、腕以外は人間の形を保っている。数十本ある深緑の触手を器用に押し出し、水中でブレーキをかけた。
ユーミは枝毛を探しながら、傍で見ていた。
「だいぶうまくなったわね」
水中でぼんやりしているタマキにもう一度呼びかける。
「――そうか」
ユーミは無表情な彼女をふざけて肘で突いたが、何も言わなかった。
水族館の裏口通路で深呼吸したユーミは、「関係者以外立入禁止」と書かれた扉をノックする。
「どうぞ」
「失礼します」
部屋には痩せこけた姿に白衣を着た老人がいる。まるで雪の積もった朽木だ。
「今コーヒーを入れたところだ。砂糖は五つでよかったかね」
頷くと、奇愛館長は湯気をくゆらせたカップを彼女の前に置いた。
「雨多ノ島水族館、次期館長は君に決まったよ」
「――タマキ研究員ではないのですか。熱心だし知識もすごいし」
「彼女は子供が出来たので結婚して二、三年休むそうだ」
ユーミはコーヒーを噴いた。落ち着くまで何度も胸を抑えてエホエホ咳をする。
「まずかったかね」
「まずいです。いえ、このコーヒーはとても美味しいんですけど、非常にまずいです。タマキさん自身が一番わかってるはずなのに――ちょっと失礼します」
ユーミは部屋を飛び出した。階段を一気にスッ飛ばし勢い余って棚にぶつかり試験管やビーカーを撒き散らして転がり込むようにロッカールームにやってきた。
「タマ、タマ。ハァハァ」
「タマタマ?」
肩で息をするユーミとは対照的に、落ち着いているタマキ。ツナギを脱いだばかりで全裸だ。
「タマキ。あ、赤ちゃんできたって」
「うん」
ユーミは胸倉を掴む。
「どういうつもり! 相手は? なんで言ってくれなかったのよ」
「聞かれなかったから」
ユーミは眉間にシワを寄せて口を開く。開いたが、そこから何も言葉が出てこなかった。タマキが一枚一枚服を着ていくのを眺めながら、仕切り直して尋ねる。
「どうするつもり。ツナギはせっかくできた受精卵を取り込んでしまうんでしょ」
「だから、胎児がツナギに吸収されないように変態もせずノーマルで使ってただろ。それにしばらく僕は事務仕事しかしないし」
「まだツナギは実験段階なのよ。危ないからもう絶対着ないで! もう。もう、いい加減にしてよ」
ユーミはその場に座り込んでしまった。
「何でユーミが怒る必要がある? これは僕の子だから、君には関係ないのに」
タマキは穏やかに言い放つと、白衣のポケットに手を入れ歩きだす。
「あたしは、関係ないの? タマキとも」
無造作に伸びた前髪がタマキの目元を隠していた。
ユーミは館長になった。
二人は隣あったデスクで仕事をしていたが、事務的なものを除いて会話しなかった。タマキの腹は日に日に大きくなり、ほとんど無かった胸も少しずつ膨らんでいた。
ロッカールームの鏡を見て、タマキは腹を撫でてひとりごちる。
「僕のこども、僕のこども。何にかえても守ってあげる。眠れ、眠れ。抱きしめて温かくしてあげるから」
「どうして『僕』とか言ってるのに、そんな簡単に母になれるのかわかんないわ」
ユーミも傍に立って鏡に映った。
「僕は昔から自分のことを女だと思ってるよ、君がどう思ってたか知らないけど」
「ハア?」
ユーミはロッカーを苛立ちにまかせて蹴り、逃げるように出ていった。
そして事件は起こる。世界は見えない。予兆はいつだって後になってからしかわからない。
ユーミは裸になってツナギの傍へ泳いでいき、餌をやっていた。ツナギは牛や鶏のレバーを、触手でしゅるるっと乱暴に掠め取った。
「あんた、やっぱりタマキの方が好きなんだね」
その時、ユーミの背後では水が立ち上がっていた。蝙蝠とタコを合わせたような形をした水だった。消失したと思われていた怪生物「それ」は水に同化して、今までプールにいたのだった。
ユーミは気づかず、また泳いで戻ろうとする。「それ」が襲いかかった。硬化した触手が彼女の左腕を締め付ける。ビリビリビチビチと筋肉が弾ける音が大きくなる。
ごきん。
二の腕が折れ、関節が一つ増えた。
悲鳴を聞き付け、タマキが事務室から大きな腹を抱えて走ってきた。事態をすぐに把握し、迷わずプールへ飛び込んだ。
「ユーミ、大丈夫か!」
タマキはすぐに水中でツナギを着た。身体に薄く膜が張り、両腕が触手になった。溺れ始めているユーミを、標準形態の触手を伸ばして奪い取る。そこから反動をつけてプールサイドに投げ飛ばした。「それ」は遠くなった獲物を諦め、今度はタマキへ狙いを変えた。
巨大なゼリー状の「それ」がツナギ全体を包みこんでいく。
「タマキ――ッ」
ツナギは瞬時に水に対して浸透して凝固、どうやら「それ」を体内に引き込んだらしかった。一瞬だけだったが、時間が止まったようにタマキとユーミは見つめ合う。
「ユーミ、僕はツナギで精子を作る実験をしていて、妊娠した。ツナギの中にあった、君の遺伝子から作った精子が原因だと思う。でも結果的に、良かった。僕はこどもが望めない身体だったし、君の――」
タマキは暴れだした「それ」を抑えつけた。
さよなら。
ツナギは変態を開始した。それは胎児を犠牲にすることを意味した。ユーミは叫んでいたが、言葉にならなかった。「それ」を含んだプール内全ての水をツナギが吸収し、そのツナギはタマキの腹の胎児に吸収された。
からっぽのプールで、胎児だけが残った。それは小さな口からブクブクと泡を吹き出している。胎児はリセットされたツナギだった。「それ」もタマキも彼女の子も、全てツナギに吸収されてしまったのだった。
ユーミは震える足どりでツナギに向かった。プールの底に降り、手の平サイズしかないツナギを折れていない方の手で拾いあげる。彼女は穏やかに明滅するツナギを、優しく抱えた。脈動を感じる。しゃくりあげながら、子守歌を呟いた。
――私のこども、私のこども。何にかえても守ってあげる。眠れ、眠れ。抱きしめて温かくしてあげるから。大好きなあなたの、こども。