アマネオ

黒川の手帳(2002年)

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amaneo

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 絶え間ない雨が濃い闇に降り注いでいた。窓辺に立つナツは、ひんやりした湿気を感じる。雨多ノ島水族館はすでに閉館していた。ナツは白ジーンズに脚を通し、黒地にパープル水玉の入ったシャツを着た。しなやかな左腕には、メカニカルでゴツい時計がつけられていた。

 トートバッグを掴んで更衣室を出る。暗い廊下に、事務室の明かりが洩れていた。

 ナツがそっとドア越しに覗くと、黒川が事務仕事をしていた。
「お疲れ様です」
「うい」

 黒川は手を止め、ナツを見た。ナツも黒川を見る。数秒の沈黙に、雨が割って入るように響いた。黒川は左手を白衣のポケットに突っ込み、右手で無精髭をじょりりと撫でる。ナツは視線を宙に泳がせた。
「ええと。そういえば、黒川さんはなんでココに来んしゃったんですかね」

 言いつつ部屋に入り、黒川の隣の椅子に座った。背もたれを前にして、そこに顎を乗せる。
「んー、なんでだー?」

 黒川は再びPCにツナギ関連の情報を入力しはじめた。ピアノでも弾くようにキーボードを打ち、口許は綻んでいる。
「やー、ただ前から気になっとっただけです」

 PCの脇にある灰皿には、吸い殻が大量にあった。黒川はポケットからまた一本、くわえて火をつけた。
ふと見られているのに気づく。
「――お前もいるか?」
「てか、ここは禁煙です」
「だから共犯者にしようと思ったんだがな」

 口の端を上げてニッと笑った。
「や、ウチは吸うとツナギの受精卵とかに悪影響が出るらしくて」

 黒川は思い出したように何度も頷いた。それから小さな声で、そういうデメリットもあるか、とひとりごちる。
「俺は変身ヒーローになりたかったんだよな」
「え」
「だから、どうして俺がここにいるのかってことだよ」

 変身ヒーローになりたかった理由は色々ある。

 素行の悪い俺が正義とか親切とかをするのは何か違ってたから、別人になれるようなもんがよかったんだ。

 姿を隠して善を成す。

 熱い焔が立ち昇り、震える心で悪を討つ。

 俺は中学生くらいまでヒーローになることを真剣に考えてた。未成年が煙草吸いながらな。

 同志もいた。そいつは現実的に正義を執行することを考えて、後で警察に入った。今、名呑警察署に勤めてる岩本ってやつだ。あれから会ってないが、すごいやつだった。中学生が悩みがちなくだらん不安とか痛みとかネガティブな要素を前向きに言いくるめて、喜びに変換する。

 錬金術みたいに。

 究極のドMかもな。

 そいつは、中学の三年間で次第に悪の道へ踏み入っていく俺をじっと見ていた。眼鏡の奥からカッターみたいな鋭い視線で。
で、もう全然話さなくなっていた卒業前の教室で、そいつは一言だけ俺に話しかけて去っていった。
「僕は正義――まあヒーローみたいな正義とは違うだろうけど、正義の側に立つ。君は、どうするんだい。それが君の道なら、そうなんだろうけど、それは僕には悪だよ。ここでさよならだ」って。

 俺は答えずに、正義とか悪とかって何だよガキか、うるせーよって言った。

 迷ったまま、俺は卒業して高校に行った。名前を書いたら受かっちまうような工業高校な。誰も聞かないし、誰に向けても話してない授業。上級生がシメたら下級生が全員でリンチに行くような毎日。俺は仲間のために切り込み隊長になって、バットで三年の教室を破壊する。

 上級生の命令でゴミを捨てた時、気を利かせてついでに焼いてやろうとしたら、煙が蛇になって空が蛍光ピンクになってトロトロ眠くなった。それまで誰もゴ ミを焼くようなことはしてなかったから、焼却炉は麻薬を隠すようになってたんだ。俺はそれを全部燃やして幻覚を見たってことだったんだな。

 その日から狙われはじめた。ケンカどころか流血沙汰でルール無用の残虐ファイトだ。

 俺は薄々感づいていたが、その辺りで決定的に気づいた。

 あれ? 俺、とりあえずヒーローではなくね?

 俺、何やってんだ?

 それから高校を中退、なんやかんやあって大学に入って研究した。受けまくった中で唯一受かった生物学科だ。同じゼミの阿部ミナって女が、真面目に勉強し ろってうるさかった。ああいうのを面倒見がいいって言うんなら、俺は世の中の「面倒見」ってやつを片っ端からハンマーで殴ってやりたいね。

 大学に来い、レポートを出せ、観察しろ、実験器具を準備しろ。
あの女はいつも命令してきたし、いつも喧嘩した。成績優秀な阿部ミナは、将来を嘱望されてた。いまだにヒーローになりたい気持ちを捨てきれない、体は大人で頭脳は子供でハートは少年の馬鹿とは大違いだ。

 でも阿部ミナは、研究室で二人のときだけ、わけのわからんことを口走る女だった。
「生物学を研究すればするほど排卵周期が早くなってくる」とか「哺乳類が我が子に乳をあげてるのを見ると、ああ子供作らなきゃって思う」とか「研究した いんだけど、子供産まなきゃ」とか「男ってそういうの無いの? 無いんなら楽よねえ」とか「男ばっかりずるい」とか「君はちゃんと研究しなよ」とか。

 うるせえ女だな。

 そう思っても、そんな阿部ミナは不安定で、不気味で、俺は何故だか気圧されて喧嘩なんかできなかった。

 結局、阿部ミナは研究職にはつかずに、アホ面した男(俺が言うのもなんだが)と結婚して、子供を産んだ。演技じみた調子で「研究は別にいいんだ。主婦も子どもも楽しいから」と言っていた。後日その子どもと夫婦の写真を見せられた時、俺は猛烈に寂しくなった。

 良いも悪いもない。あれはどう言えばいいのかわからない。多分その感情は、あの卒業を控えた教室で岩本が俺を見て言ったのと同じだったかもしれない。

 そうか。

 道が。

 違った。

 寂しい。

 阿部ミナを前にして、しかも幸せな写真を見せられて、もちろん顔には出せなかった。その時、俺は初めて阿部ミナにまともなことを言った。
「――おめでとう」

 唇の先くらいは少し震えてたかもしれない。

 俺は大学に残って研究し続けていたが、名呑町雨多ノ島水族館で「ツナギ」とかいう変身スーツが開発されたって噂を聞いた。

 俺の胸に熱い焔が蘇ってきた。すぐに連絡を取ったが、存在を否定された。何度も電話するうちに、ユーミ館長が出た。「ツナギ」はあるってことを聞いた。ちょうどお前らが大学の方で抜けてた時期だったから、人手不足だったらしい。

 俺はすぐに研究事務としてワクワクしながらここにやってきたんだ。ああこれで長年夢に見た、変身ヒーローになれるんだって。でも詳しく話を聞いていくうちに、問題に気づいた。

 「ツナギ」、卵子を使うから女しか着れないんだよな。

 それで俺は結局、事務をやってる。ヒーローの手伝いをする科学者みたいなもんだと思ってな。

 黒川は話し終えると、煙草に火を点けた。

 ナツは露骨に嫌な顔をして煙を払うと、聞いた。
「その、ツナギを着れないのって、どうなんですか」
「今になると、阿部ミナが男はずるいって言い続けてたのも、わからんでもないよな。俺は卵子を持ってないから、女が羨ましい」

 ナツは居心地の悪さを感じて、時計を見た。もう九時を過ぎていた。
「まあ、研究しながら飯が食えるだけありがたいんだがな」
「ウチ、黒川さんの分も頑張ってやったほうがいいんですかね」

 黒川は目を丸くして、首を振った。
「違う。俺は関係ない。普通に頑張れ。俺は、このデータ入力を普通に頑張るから」
「クールですけど、その表、数字が間違ってますよ」

 ナツが笑顔でディスプレイに指をさした。
「え嘘」

 黒川は手帳を開いて資料を確認する。メモ欄の端に、ヒーロー物のシールが貼ってあるのを見て、ナツは困った顔でため息を吐いた。

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