アマネオ
あまねおの誕生(2009年)
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amaneo
カナメとナツは三三歳。コカゲとウミネネはまだ四歳になったばかりだった。
四人が扉を抜けると、受付の女性と館長が待ち構えていた。
「ようこそ。とは言ってもいつも来てるから感慨はないでしょうけど」
休日、四人は雨多ノ島水族館に遊びにきていた。受付を過ぎたコカゲはてけてけと走り出すが、すぐに転んでしまう。
「あらあらあらあら、大変ね」
先導していたユーミ館長が駆け寄る。ナツとカナメは慣れてしまって追わない。リノリウムの床はそれほど痛くなかったらしく、コカゲは座りこんで笑っていた。
「館長、ウチのこどもがなんでこけるかわかりますか」
手を後ろに組んだナツが笑顔で聞いた。
「こどもは大人に比べて頭身が低いから、バランスがとりづらくて転ぶ。そうじゃなかったかしら」
ユーミは以前テレビで見た知識をたぐり寄せてこたえる。もうかなり白髪のはずだが、明るいブラウンに染めて若々しい。
「そう。ウチの子は特に頭が重いけん転ぶんです。なんで頭が重いかって、脳ミソが重くて頭が良いからなんですよ」
ねー、とナツとカナメは声を合わせた。それを見た息子は走ってユーミの後ろに隠れた。白衣の裾を掴んでいる。
「ホラ、親バカ過ぎてこどもがひいちゃってんじゃないの」
カナメが背中で眠っている娘を見せる。寄ってきたナツがそのぷくぷくした頬を指でそっとつつくと、うなりながら小さな手で払った。ナツは嬉しそうにニヤニヤしている。
「ナツなんかこの前、ウミネネの服があんまり可愛いからって、ほお擦りしすぎて鼻血出したんですよ」
「そりゃただのバカでしょ」
ユーミの中に湧いていたイラツキが笑いに変わった。ひとしきり笑った後、途中の「関係者以外立入禁止」と書かれたドアを開けて通常ルートを逸れる。
「カナちゃんとナッちゃんがこの前見つけた、変わったタイプの『それ』だけど。あれやっぱり生きてたみたいだから、地下プールに入れてあるわ。こっち」
それまでの内装とはうってかわって、暗い室内に赤茶けた鉄の階段が続く。ホルマリン漬けにされた得体の知れない生物や、鼻をつく酢のような臭いが漂っている。
カナメが手すりを伝いながら呟いた。
「『それ』がたくさん出た場所にもう一回行けって聞いた時は、この人どうかしてるんじゃないかと思いましたよ。しかも同じ設備で」
ユーミは研究予算をなかなか出さない政府に対する愚痴を吐き出して下りていく。が、彼女と手を繋いだコカゲが一段一段、まるで山くだりでもしている様子なので足を止めた。
突然眠っていたウミネネが泣き出した。ナツは近づき、尋ねる。
「大丈夫? きついん?」
「きつい。やだ。帰る」
カナメは肩越しに心配そうな視線を送る。
「カナメ、みんなでちょっと先に行っとって。ウチは休憩室でこの子を見とく」
ナツはウミネネを抱き、先に階段を素早く下りていった。三人は目で追った。
「何、大変なアレだったのかしら」
ユーミが言うが、カナメは手を振って苦笑した。
「ウミネネは生まれてから病気続きで。不安なんですよ。でもアレは仮病ですね。かまってちゃんなんです」
三人は大きな地下プールに着く。強化ガラス越しに眺めた「それ」は丁度ヒトラシキとの中間のようで、今まで謎だった生態の解明が飛躍的に進んだ。
ユーミとカナメは熱の入ったように話す。
「あのニュース見た? クロマグロが減少しているから、今度はサバからマグロを産ませようとか。魚類にはそんなことさえできそうって」
饒舌になったユーミに、やはり身振り手振りを大きくして答えるカナメ。
「ああ、精原細胞をニジマスから抽出して、孵化直後のヤマメに移植すると雄のヤマメはニジマスの精子、雌は卵を作ったとかいう技術の応用ですよね」
ガラスの向こうを眺めながら、二人はいたずらを企んでいる悪ガキのような表情をしていた。
「ええ、魚類には複雑な生物に比べて互換性というか共通度の高いものが多い。たぶん『それ』みたいな存在が中間として純度の高い――」
幼いコカゲに二人の会話は全くわからない。ただツルツルに溶けかけたヒトラシキが脈動し、ヒトとしての輪郭が消えていくのを見て怖がるだけだ。従って、泣いた。
「おお、ごめんごめんコカゲ。なんか今日は二人ともダメだったなあ。連れてこない方がよかったかな」
ユーミは衿を掴み、乱れた白衣を直す。手をポケットから出し、ガラスを撫でる。反射したユーミの顔は困った笑みだ。
「すっかり父親が板についちゃって。ここでナッちゃんの裸を見て目を逸らしてたボウズ頭の少年はどこに行ったのかしら」
意地悪な顔をした。カナメは改めて館長にシワが増えたと感じる。しかし、そのシワの奥に様々な歴史を隠しているのだろうとも思った。
「いやあ。ナツはいいやつなんスよね」
二人は示し合わせたように笑った。
「ちょっと、困ります」
その頃、受付ににこやかな団体客が現れた。彼らは当然のようにチケットを買わず入ってきた。全員リュックサックを背負い、奇妙に張り付いたスマイルを振り撒いた。
おもむろに拳銃を発砲して受付の女性を撃った。それをきっかけにわらわらと更に数十人が突入して走っていき、水槽の中を確認しては破壊していく。
「私、幹部の城戸が消えて助かるよ。うるさいからさ」
「アマーニも日本語話せるようになってからうるさいよね」
数人が話しながら、関係者以外立入禁止の扉を開く。瞬時に一人が小銃を取られて後頭部を叩かれた。
「俺が銃の使い方もわからん馬鹿で良かったな。死ぬ可能性が減るぞ」
長身の無精髭男、スタッフの黒川がゆらりと立っていた。柄の部分でもう一人倒す。その場に残っているのは二人。
「さてどいつから」
黒川はすぐに逃げて扉の鍵を閉めて転がるように下りる。手榴弾だった。黒川が映画でしか見たことのない武器。背後で爆発したときには、警報を鳴らして他の者を逃がしに走っていた。
カナメとユーミは、他のスタッフ数人と階段を下りてくる黒川を見た。
「何があったの!」
「わけがわかりません、銃を持った奴らが押し入ってきてるんです。裏口から逃げましょう」
小さな雨多ノ島水族館には、ユーミらを抜くとスタッフが十人もいない。裏口から逃げるのは容易かもしれないが、水槽や研究施設を守ることは難しい。
カナメはコカゲを黒川に頼んだ。
「お父さん」
また泣き出しそうになっている顔に、深呼吸して語りかける。
「コカゲ、『それ』見たろ。怖いだろ。大丈夫、すぐ帰れる。この兄ちゃんと隠れてろ。俺はお母さんとウミネネをすぐ連れてくる。コカゲはこの兄ちゃんについて行けよ」
黒川は頷くと、コカゲを抱いて走り出した。ユーミとカナメは顔を見合わせた。
「目的はやっぱり新種の『それ』かしら」
「じゃないですかね。あからさまにおかしいですから。それ以外に突入してくる理由はないでしょう」
カナメは水族館に泊まらなくなってから長らく使っていない休憩室の位置を思い出す。
「それじゃ、カナちゃんはナッちゃんを助けに。私は『それ』を人質にして交渉してみるから」
二人が走り出したが、そのとき地下施設の一帯が爆発した。二人は吹き飛ばされ、気を失った。
ナツは警報を聞き、休憩室でぐずるウミネネを残して様子を見る。銃声の聞こえてくるドアをそっと開くと、笑顔の集団がいた。
聞き耳を立てる。
「『マハカメリア宮』は地下プールにいるようです。強化ガラスですので、爆破は影響しないかと」
「よし。『それ』に関する資料は全てプラスチック爆弾の近くに置いておけよ」
しばらくすると足音が遠ざかっていった。ウミネネは横になって母親の手を離さない。ナツはその髪を撫で、背負って休憩室を出た。
書類が散らばった中に爆弾らしきものがあったが、どうしようもなかった。ナツは走って逃げるしか選択肢が思い浮かばない。横目で見るとタイマーがセットされていた。
「あと三十秒」
一階に逃げるか、地下プールへ行くべきか。どちらにしろ三十秒では何もできなかった。そこにツナギが現れた。水槽を割られて行き場を無くしたツナギは、水を求めてさまよっていたのだ。
ナツはツナギをひっつかむと休憩室に戻って扉を閉めた。
「お母さん、お母さん!」
泣くウミネネを床に寝かせる。急いで服を脱ぎ、ツナギを着て――。そのとき爆発が起こった。
暗闇に水が滴る音が響いていた。静寂が全てを覆い尽くし、何もかもが息絶えたように黙っていた。
カナメは瓦礫の中で目を覚ます。周囲を見回すが電灯もなくよくわからない。携帯を開くと、黒川や他のスタッフからの着信が数十件あった。そこに館長とナツの着信がないことにまだ頭が回らない。
微かな光に浮かび上がった景色で、そこが地下のプールサイドだと気がついた。
「強化ガラスが爆発を抑えたのか」
何が起こるかわからないから、そこはシェルターレベルの頑丈さにしてあると館長が言っていた。
「そうだ、館長は」
瓦礫をどけると激痛が走った。カナメの右腕の骨は折れていた。左手で押さえて歩き出す。館長を呼んでいると、水面から「何か」が這い出たのを感じた。
「館長、ですか」
先が全く見えない中を、水の滴る音が近づいてくる。カナメは携帯のライトでそちらを照らす。
「うおっ眩しっ」
ボロボロになった館長がいた。爆発でプールに吹き飛ばされ、全身がズブ濡れだった。力なく笑う。
「やっぱり『それ』は持っていかれてるみたいだわ」
二人は地上を目指して階段を進む。道が塞がれてしまっているのを肩で押す。突然抵抗がなくなり二人は転んだ。上から瓦礫が持ち上げられ、夕暮れの暖かい光がさした。
「二人とも、無事ですか」
そう言って黒川が目を閉じてさがった。裏口から地上へ出ると、数人のスタッフと一緒にコカゲがいた。カナメは折れていない腕で抱きしめた。
「おかしいんです。連絡したのに全然救助がこない。警察にも一応連絡したんですが、来たのは――こいつだけで」
眼鏡をかけた警察官の岩本がいた。夕陽が眩しいのか、帽子で目元を隠した。黒川とは顔見知りだったがお互いにそれほど話し掛けていなかった。
「警察は当てにしないでくださいね。上層部に連絡がいくのを止めたから、揉み消しは遅れると思います。その間に僕が自分の立場が危うくならない範囲で工作します」
いま死にそうになった直後の者に言うには、あまりにも急すぎた。カナメとユーミは口を開けて何か言おうとしたが、状況がよく理解できないせいで言葉が出てこなかった。
「それで、ナツは。ウミネネは」
誰もカナメの顔を見なかった。黒川の案内で別ルートから休憩室へ向かった。
途中、粉々になった水槽から流れでた魚たちの死骸が落ちていた。スタッフは葬儀に参列するように暗い顔で歩いていく。コカゲが父親に一つ一つ魚の名前を聞いていった。カナメが答えるたびに一人で盛り上がる。
「ちょっと、静かにな」
カナメはコカゲの頭を撫でた。ユーミは見ないように先を行く。
「こんなのは初めて見るから、触れていませんが。おそらくナツとウミネネだと思います」
休憩室にあったのは、ゆで卵のように白く固まったツナギだった。床に厚く膜を張るように盛り上がり、中にウミネネがいる。ユーミが無言で観察する。
「これは、ツナギのタンパク質が熱で変性したんだわ。タンパク質はおよそ六十℃を越えると高次構造が壊れるから」
カナメが駆け寄って痛みを無視して膜を破る。ウミネネを取り出して傍に寝かせた。ユーミが軽く揺するとすぐに意識を取り戻し、泣き出した。
「お母さんが。お母さんが助けてくれた」
カナメが残った膜に触れるたび、それはポロポロと手からこぼれ落ちていく。何度も何度も破片をかき集めるが、それらは融合することはない。元には戻らない。
「ナツは」
カナメの瞳はじっと自分の手を見つめた。またひたすらツナギの破片を集めてはこぼす。ユーミが静かに声をかける。
「カナちゃん。多分ナッちゃんはツナギと同化したまま変性したから」
「いや、そうじゃなくてナツは」
カナメは破片を集めるのをやめようとしない。手で丸く押し固めてみるが、どうにもならない。
「これ、冗談だよな? ドラゴンボールみたいにこれ全部集めたらナツが帰ってくるんだろ」
そう言って今度はウミネネの顔に張り付いた破片に手を伸ばす。ウミネネは泣き出した。カナメは激昂する。
「もしお前が仮病を」
瞬間、ユーミが腹を蹴った。カナメは転がって壁に頭をぶつけて黙った。誰もそれまで館長がそんなことをするとは思っていなかった。
「今、何を言おうとしたの! ホラ、言ってみなさい!」
黒川が、更に殴りかかろうとするユーミを羽交い締めにして、カナメに言った。
「しっかりしろよ馬鹿!」
ウミネネとコカゲは怯えた目で父親を見ていた。カナメは目を逸らして立ち上がる。全員が怯んで後ずさる。焦点の合わない瞳でブツブツと呟く。
「変性したタンパク質を元の高次構造に戻してペプチド鎖完全に解いて再び畳み込む条件調整条件調整」
速過ぎて聞き取りにくいその言葉に、ユーミが反応する。
「タンパク質の再生をする気? でも残ってる設備だけじゃ」
カナメはしまわれていたゴミ袋を取り出し、その中にツナギの破片をかき入れた。袋を持って最も深い地下施設まで向かった。ユーミもその後を追い走っていく。
カナメは予備電源を使い、いくつか残った設備のスイッチをぱちんぱちんと入れていく。
「まだ間に合う。まだ」
袋の中身を台上にぶちまけた。
「ツナギを再生するだけじゃない。再構成のためにナツのメモリをプールしておく場所から――」
ユーミと黒川が扉を開けて部屋に入ってきた。無言で手伝う。ユーミはかつてツナギが生まれた時のことを思い出していた。双子は扉の前で父親が出てくるのを待っていた。
その他のスタッフたちは、水族館の重要な書類回収や死体の確認に向かった。
数時間後、三人は手を下ろして佇んでいた。台上には白濁した半透明の「塊」があった。ツナギの破片ではない。しかしナツとは似ても似つかない姿だった。
「なんのための研究だよ。なんのための生物学だ! なんのための遺伝子学だ」
カナメは台上の機器ごと全てを払い捨て、外へ出ていった。階段でウミネネは眠っていた。コカゲはびくんと起きたが、父親に声をかけることができなかった。
「殺そう。殺さなきゃ。ああ、ああ、あああいつら骨も残らないように」
カナメが階段を上がっていくと、逃げ遅れ爆発に巻き込まれた者がいた。それはリュックサックを背負い、突入してきた奴らの一人だった。瓦礫の下で助けを求めている。カナメは虚ろな瞳でじっとそれを眺める。
「お父さん、いかんよ」
階段を上がってきたコカゲが言った。その傍には眠ったウミネネを取り込んだ「塊」が触手を使って這うようにヌルヌルと動いている。
触手は自動で動き、瓦礫から彼を引き出した。
カナメは双子を見つめる。「塊」はガムテープを剥がすような音で鳴いた。
「オカアサン、オカアサン」
カナメは二人を抱き上げた。「塊」は糸を引いてぬるりと腕に絡み付いた。
「ごめんな。母さんは再生できなかった。悪い」
ようやくカナメに右腕の痛みが戻ってきた。
それから地下施設を残して水族館は閉鎖した。館長のユーミが政府側に働きかけたが、全て答えは「何も起こっていない」だった。
ユーミによって「塊」にあまねおという名前がつけられた。由来は雨多ノ島にある神社の女神からだった。カナメは特に何も言わずに受け入れた。
襲ってきた集団が何だったのか。助け出した者と岩本から聞き出すと、「リリジョン101」と言った。助け出した者は入院したが、一晩経つと自殺してしまった。同じ部屋に入院している者の話では、眠っては悪夢に起きるということを繰り返していたらしかった。
しかしそれよりもカナメが怖かったのは、テレビのどの局もあの大惨事を放送していないことだった。
当初はウェブでも画像つきで紹介されていたが、ガセだと触れ回る者が登場し、本当だとしていた者のブログ更新は途絶えて閉鎖し、あからさまに加工された 画像が出回り、その加工されている箇所を指して「だからガセだ」という者が出現し、事実は限りなくフィクションに近づいた。事件は誰も見向きもしなくなった。
アマネオは時々、カナメたちの家に近い砂浜にやってくる。カナメは、双子がそれと遊ぶのを眺める。
「父さーん」
父親は複雑な表情で手を振りかえした。